8・金は神よりも強し?
砂浜は、泳ぎに来た若者と家族連れでいっぱいだった。
クルールの民よりも、近隣諸国からの旅行者が多い。
そのせいか、先日の倉庫街のようにディアモンが注目されることはなかった。
足場が悪いので、フェールが日傘を持って差しかけてくれている。
ブーの箱は馬車で留守番させていた。
「これじゃ貝が拾えないな。向こうの岩場へ行こう」
彼の言葉に頷いて歩き始めたとき、ひとりの少年が人込みを縫って駆け寄ってきた。
日に焼けた肌をした、地元の少年だ。首から小さな水筒をいくつか提げている。
(あら……)
「コライユさま!」
見知った顔の少年が、コライユの名前を叫ぶ。年のころは十歳前後だ。
「こんにちは、売り上げはどう?」
「上々だよ。そろそろ補給に行こうかって思ってたところ」
「あなたも水分を補給しなくてはダメよ」
「わかって……あ……」
藍色の視線に気づき、少年の瞳が怯えたように見開かれた。
暗い面持ちでうな垂れた彼の頭に、ディアモンが逞しい腕を伸ばす。
「頑張っているのなら、なによりだ」
大きな手が、少年の短い髪をかき混ぜた。
「は、はい!」
「大丈夫だ。聖女さまは反省しているものを責めたりはしない」
そこまで言って、ディアモンは首をかしげた。
「……反省、しているんだよな?」
「もちろんです、聖騎士さま!」
「なら、いい」
ディアモンの優しい微笑みに、少年の瞳が潤んだ。
クルールで育った子どもだ。聖騎士への憧れも強いのだろう。
コライユとディアモンに礼を言って、少年は人込みへと戻っていった。
岩場へと向かいながら、コライユはディアモンに質問する。
「……ディアモンさま、彼をご存知だったんですか?」
「ああ。この前、団長と一緒に俺が捕まえた」
先日の一斉検挙で、コキヤージュの都を騒がせていた子どものスリは一掃された。貧しさにつけ込んで彼らを操っていたスリの元締めも投獄されている。
ディアモンはもう一度首をかしげた。
「どうしてこんなところにいたんだろう? 脱獄したのかな?」
「ディアモンさま?」
思わず見つめて、イタズラな藍色の瞳に見つめ返される。
「聞いてる。俺たちが捕まえたスリの子どもは、プルプル商会が保釈金を払って釈放させたって」
「ええ。そして保釈金返済のために、ダイダイ水の販売を任せているんです」
子どもたちは朝、プルプル商会でダイダイ水と水筒を受け取り、思い思いの場所で売る。
夕方になるとプルプル商会に売り上げを持ってきて、保釈金と商品の代金を引いた金額ぶんの食料を受け取るという仕組みだ。
ディアモンに事後承諾の形になったが、この前のときに製造と販売の方法については一任されている。問題はないはずだ。
「将来的には黒斑病対策として貿易船に買ってもらうつもりですが、その前にダイダイ水自体を普及させたいんです。縁起を担ぐ船乗りは、知らないものには手を出しません」
砂糖煮は聖女祭で大々的に宣伝してから、販売を開始しようと思っている。コライユはプルプル商会の伝手を使って、ディアモンのもの以外にもダイダイを仕入れていた。
(アマダイダイとダイダイを間違えて買ったっていう方、結構多いのよね)
日々募る暑さがダイダイ水販売を後押ししてくれているものの、保釈金や追加のダイダイの購入代で、今は赤字が続いている。
「ダイダイ水は黒斑病に効果があるのか?」
「じゃないか、ってだけです。だからそのことは売りにしません。効き目があれば、お客さまが宣伝してくれますもの」
「なるほど。しかし、どうして報酬が食料なんだ?」
「ディアモンさまたちはスリの元締めも捕まえてくださいましたけど、裏通りにはまだまだ悪い人間がいます。子どもにお金を渡したら奪われてしまいます。砂糖煮の製造要員として、海難事故や黒斑病で夫や息子を失った寡婦や老夫婦を雇ったので、彼らの懐が潤って貧困層全体の経済力が底上げされたら、治安も安定すると思うのですけど……むー」
コライユは唸った。
どんなことでも簡単に改善できはしない。
クルール王国全体の景気は良いものの、国庫が潤うのはまだ先だ。海神に苦しめられ続けてきたクルール王家は借金まみれで、民を救う余裕はなかった。プルプル商会においては、今の借金を返済してもらうまで、王家とは取り引きしないと決めている。
でもコライユは金の力を知っていた。
クルールに流れる金はいつか、貧しさに苦しむ民にまで流れていく。
彼らを雇うことで、その流れはさらに速まることだろう。
(どんな悪党も聖人君子も、お金と物が交換できるっていうことは信じているわ)
世界中のどの神にも、そこまでの力はない。人を救うのは神でも国でもない、金だ。
「……金は神よりも強し、だな」
コライユの心を呼んだかのように、低い声が言葉を紡ぐ。
「ディアモンさま?」
「俺はコライユ殿ほど金の使い方が上手くはないが、金の価値は知っている。貧しくて心に余裕がないものには、聖女さまや月の女神さまの言葉は届かない。あの子たちが、早く金を手にできるようになるといいな」
「はい!」
背後で、執事が小さく呟く。
「……どうせ私は、今も昔も金をそのままばら撒くことしかできない愚か者ですよ」
拗ねている。コライユは吹き出しそうになるのを堪えた。
(泥棒は良くないことだけど、あのころは景気の上がり始めで貧富の差が大きくて、今より治安も悪かったわ。キャラマールのすべてが間違ってたなんて思わないし、今のフェールの寄付で助かった人だって、たくさんいるでしょうに)
家に帰ったら、ちゃんとフェールを認めていることを伝えようと、コライユは思った。
本棚の裏に隠してある日記帳まで見せるつもりはないけれど。
崖に囲まれた薄暗い岩場には、先客がいた。
「ディアモン先輩」
「アンブル」
小柄で華奢な少年が近づいてくる。
赤毛に白い肌、琥珀色の瞳の、少女と見紛いそうな美少年。
去年、十五歳で父親から聖騎士を受け継いだジョーヌ家のアンブルだ。
武術大会で全敗して泣いていた姿の美しさが、評判になっていた。
世襲制になった聖騎士は、その家系の跡取りが役目を担い、聖騎士を引退した後で当主を受け継ぐのが一般的になっている。
ジョーヌ家はいつつの家系の中で一番羽振りが悪い。資産運用に失敗したらしく、かなりの借金がある。国が聖騎士に支払う俸給も利息の返済で消えていると聞く。
父が聖騎士を婚約者にすると言ったとき、コライユの頭に浮かんだ相手は彼だった。
「貝拾いですか?」
「ああ。お前は石拾いか」
頷いて、少年の琥珀色の瞳がコライユを見る。まつ毛が長い。
コライユは慌ててお辞儀をした。
「初めまして、コライユです」
少年は一歩下がり、引きつった笑顔を浮かべて挨拶を返してくる。
「団長に聞きました。ディアモン先輩の婚約者でいらっしゃるんですね。僕はアンブル・ジョーヌです」
「どんな石を拾われるんですか?」
アンブルは一瞬、薔薇色の唇を尖らせた。
「……柔らかい石です。ロウ状で、灰色の……プルプル商会のお嬢さまには、石拾いなんてくだらなく思えるんでしょうね」
「そんなことありませんわ。お金になることは、どこに転がってるかわかりませんもの」
コライユの言葉に、彼は眉間に皺を寄せて俯いた。バカにされたと感じたようだ。
(そういうわけではなかったのだけど……)
かつての婚約者候補たちのように、金が欲しくてたまらないからこそ、そんな自分から目を逸らして、金に関することを見下そうとしているのだろうか。
険悪な空気をものともせず、ディアモンがのん気に微笑む。
「コライユ殿、アンブルは拾った石を彫って花にしてしまうんだ。とても美しいから、今度見せてもらうといい」
「まあ素敵ですね」
「……はい、機会があれば。それじゃあ僕は失礼します」
駆けていくアンブルからは、艶やかな香りが漂ってきた。知っている香りだ。
ディアモンが貝を探し始めたので、コライユは一歩下がった。背後の執事に囁く。
「……フェール、あなたの言う通りね」
「はい、お嬢さま」
銀髪の執事からは、すでにジョーヌ家の調査報告を受け取っている。
ひとり息子の聖騎士アンブルが、あの日倉庫で会った人物だということは、どうやら間違いなさそうだ。
「コライユ殿」
「は、はい?」
今のフェールとの会話を怪しまれたのだろうか。
怯えながらディアモンを見たコライユの手に、彼が貝殻を落とす。
「早速見つけた」
「今の間にですか?……わあ」
馬車で見たものと同じ種のようだ。
少し大きさは小さいものの、淡褐色を帯びた白い殻に光沢があって美しい。
「月光が固まったみたいですね」
今夜は半月だ。コライユは輝く半円の月を思った。