7・元聖女さま、痩せてください!
コライユが神殿の裏庭にやって来たとき、ディアモンは鍛錬の途中だった。
この前会ってから、しばらくぶりの逢瀬だ。
逞しい裸の胸を流れる汗が、夏の陽光を浴びて輝く。
振っていた剣を杖にして立ち、彼がコライユに微笑む。
「お祈りの時間が長かったな。君は信心深い。服を着るから、少し待って……」
言葉の途中で、ディアモンの笑みが曇る。
彼は、先祖が聖女から託された大切な剣を地面に転がして、コライユに駆け寄ってきた。
目の前に膝をつき、下から顔を見上げてくる。
「大丈夫か? 顔が真っ赤だ。熱でもあるんじゃないか?」
「だ、大丈夫です」
日傘の陰に隠れていたのに、どうして気づかれたのだろう。
コライユの顔が赤いのは、ディアモンの広い胸が目に入るせいだ。
(港で積荷を運ぶ船乗りたちを見たときは、こんな風にはならなかったわ)
同じ上半身裸でも、コライユの動悸を速めるのは彼だけだ。
だけど、そのことをそのまま言葉にするのは恥ずかしい。
(どうしよう……っ?)
適当な理由を思いつく前に、背後の執事が口を開いた。
「あの強欲な神殿長のせいですよ。神に仕え、聖女を祀る身でありながら、お嬢さまがお疲れなのにも気づかず、いつまでも引き止めて」
吐き捨てるように言うフェールに、コライユは溜息を漏らす。
本神殿を出る直前の光景を思い出したのだ。
「……だからって、あの言い方は良くないわ」
「そうですか? 私は本当に感心したのでございますよ。神殿長さまは賢くていらっしゃる、女神さまや聖女さまに祈るより、お嬢さまに願ったほうが確実にお金が手に入りますものね、と」
実際はそれだけではなかった。
丁寧な口調と言葉で流れるように放ったフェールの侮辱で眉を吊り上げた神殿長を、控えていた神官や巫女が止めて、コライユたちは解放されたのだ。
フェールが鼻で笑う。
「あの程度で怒るとは、修行の足りない男です」
「わたしが直接断ったら角が立つからって、あなたが憎まれ役になる必要はないのよ?」
「お嬢さまを守って憎まれるのなら、本望でございます」
「そうか」
話を聞きながら、ディアモンは腕を伸ばして、地面に転がした剣を拾い上げた。
それを握って、藍色の瞳でコライユを見つめる。
「今度同じことがあったら、俺が神殿長を殴って止めよう」
糸目のフェールが、目と同じくらい細い眉を吊り上げた。
「おい、坊ちゃん……じゃねぇ、婚約者さま、それはやり過ぎでございます!」
眉間に皺を寄せていたディアモンの顔が、ふっと緩む。
「冗談だ、執事殿。だがコライユ殿、困ったときは呼んでくれ。君の助けになりたい」
「……ありがとうございます」
コライユは俯いた。
いつもならそれで藍色の瞳から逃げられるのだけれど、今日の彼は眼前に跪いているので、むしろ顔が近づいてしまう。どんどん心臓の動悸が速くなる。
ぴぴー。
小鳥の声に、コライユはホッとして振り向いた。
これでディアモンの視線から離れられる。けれど、いざ離れてみると、なんだか寂しかった。
「フェール、蓋を開けてあげて」
「かしこまりました」
銀髪の執事は、持っていた小箱の蓋を開いた。
家ではもう籠に移しているが、外出の際は小さな箱のほうが安定する。
青い空を仰いで、泥色の小鳥が嬉しそうに鳴き声を上げた。
ぴぴぴ、ぴぴ。
「小鳥?」
立ち上がったディアモンが中腰になって、コライユの肩越しに箱を覗きこむ。
熱い息が、コライユのうなじをくすぐった。
「は、はい。この前拾ったんです」
「足が悪いのか」
「ええ」
「でもほかは元気そうだな。丸々している」
「ええ……」
ブーはよく食べる。住処の籠からエサ入れを出すと、戻すまで鳴き続ける。
(本当に、エグ・マリンさまなのかしら?)
あれからコライユは、たびたび夢で勧誘されていた。
フェールにジョーヌ家を調査させたのは、夢で聞かされた話の裏づけを取るためだ。
起きているときのブーは、普通の小鳥にしか見えない。
(聖女さまの神殿に来ても平気ということは、わたしを騙そうとしている邪悪な存在ではないのかしら? でもこのブーと夢のブーが、本当に同じとは限らないし)
あの神殿長は徳が低そうだった。
邪悪な存在が近くにいても気づくとは思えない。
「……っ!」
思索に沈みかけたコライユの髪を揺らして、ディアモンの逞しい腕が伸びる。
大きな手が、箱の中から小鳥をつまみ上げた。
「触ってもいいか?」
「持ち上げてから言わないでください」
フェールに睨まれながら、彼は両手でブーを包み込む。持っていた剣は脇に挟んでいた。
目尻が下がる。生き物が好きらしい。
「ぽわぽわだ。可愛いな、名前はあるのか?」
「ブーって名前です」
答えながら、コライユはそっとディアモンから離れた。
触れそうなほど、体温を感じるほど、近くにいては心臓がおかしくなる。
「ブーか、なるほど羽の色から……痛っ」
「ディアモンさま?」
彼の手が力を失い、ブーが飛び出した。口角を上げて、フェールが呟く。
「……あのチビ、噛みやがったな」
飛び出したといっても、ブーは飛べない。飛ぶには、両足の踏ん張りが不可欠なのだ。
それは一瞬だった。
くるくる回りながらブーは落ち、ディアモンの剣に触れた。
怪物はいつつに砕かれて、聖騎士たちの剣の柄にはめ込まれた宝石の中に封印されている。
海神に生み出された怪物の色に染まった青い石に、聖女が封印の光を刻んでいた。
ブーの体が青い石に触れた刹那、十字を描いた封印の光が瞬く。
陽光の反射かもしれない。
でもコライユにはそれが、ブーが元聖女だという証なのだとわかった。
「バカね。もう片方の足まで動かせなくなったら、どうするの?」
日傘をフェールに預けてしゃがみ、コライユは両手でブーを拾い上げた。
ぴぴっ!
泥色の小鳥が、誇らしげに鳴く。
コライユがわかったと、彼女もわかったのだ。
(そういえばエグ・マリンさまって、結構食いしん坊だったって話だわ)
「でもね」
小鳥を片手に乗せ、もういっぽうの人指し指で軽くつつく。
コライユは、ディアモンにもフェールにも聞こえないよう、小声でブーに囁いた。
「今はまだあなたの身元が証明されただけよ。契約を結ぶかどうかは、これから考えるわ」
ぴー……。
小鳥は悲しげな声を響かせた。
噛まれた手のひらを舐めながら、ディアモンが眉を下げる。
「そんなに怒らないでやってくれ」
「婚約者さま、動物も人間も教育が大切でございます」
細い目をきらりと煌かせた執事は、主人の婚約者教育を企んでいるのかもしれない。
螺旋状の道を馬車が下りていく。
プルプル商会所有の馬車を御するのは、優秀な執事フェールだ。
馬車は、港も倉庫街も素通りして砂浜へ向かっている。
最初からその予定だったのだが、ブーが邪悪なものではないかを確かめたかったコライユが、神殿での待ち合わせを決めたのだ。小鳥が元聖女だということは、まだフェールにも話していない。
日傘は畳んで、壁に立てかけている。席に座ったコライユとディアモンを隔てるものはない。
もちろん彼はもう、上半身裸ではなかった。
「コライユ殿」
「は、はい?」
「体は大丈夫か?」
「ええ」
コライユは微笑み、頷いた。膝の上の箱に視線を落とす。
「足も翼も無事でした。動かないほうの足は、変わりがないけれど」
ディアモンは、少し困ったような顔をする。
「もちろんブーも心配だったが、今俺が尋ねたのは君のことだ」
「あ! は、はい。わたしも元気です。今日はあまり歩いていませんもの」
前回の失敗を踏まえて、行きも馬車にした。
「なら良かった」
ディアモンは持っていた鞄を開いて、白い貝殻を取り出す。
花びら状のとげが螺旋を描く、美しい巻き貝だ。
海に浮かぶ船から見たコキヤージュの都は、こんな風なのかもしれない。
「綺麗な貝ですね」
「ああ、昔海で拾ったんだ。コライユ殿、君の髪に触れても構わないだろうか」
コライユが答える前に、ディアモンは腕を伸ばしてきた。
長い指が薄紅の髪を梳く。
「真っ直ぐでサラサラの、絹のような髪だ。うちの家系はみんな硬いくせ毛だから羨ましいな」
「でも……」
コライユは彼の黒髪が嫌いではない。けれど言葉にできなくて、俯いた。
ディアモンは取り出した貝をコライユの髪に巻きつける。
「……月の女神のようだ」
「あ、ありがとうございます」
海神と月の女神は恋人同士だという説がある。
だからこそ海神は、月の女神に愛されたクルールを妬み、疎んだのだと。
神殿に飾られた月の女神の像は、海神に贈られたとおぼしき貝殻を巻き毛の髪に飾っている。
しばらく──ほんの一瞬が、コライユには永遠に思えた──眩しそうに見つめた後、ディアモンは視線を逸らした。浅黒い肌が、ほんのりと赤い。
「俺は鈍くて、いつも後から気づく」
「ディアモンさま?」
「十年前もそうだった。本当は、珊瑚と同じ色だと言いたかったわけじゃない」
軽く唇を噛み、彼は意を決したようにコライユに向き直った。
「君の髪は珊瑚よりも綺麗だ、と言いたかったんだ」
「十年前って……」
(聖女祭で踊ったこと、覚えてらっしゃるの?)
「この前、団長に先を越されて、すごく悔しかった。その白い肌も」
ブーの箱を支えるコライユの手に、ディアモンの手が重なった瞬間、大きく馬車が揺れた。
そういえば、行きもこの辺りで揺れた。
「……あ」
癖のないコライユの髪は、するりと貝殻を手放した。
乾いた白い貝殻が、床にぶつかって砕ける。
自分とディアモンの恋の行方を予言しているように感じられて、コライユは息を止めた。
(ダメ。今夜は用事があるのだから、泣いて体調を崩すわけにはいかないわ)
さっき、ブーが封印の光を瞬かせたときに思いついたことがある。
涙を飲み込んで、ディアモンに目を向けた。せっかくの貝殻が砕けたことを謝らなくては。
彼は、藍色の瞳を見開いて、呆然としていた。かなりの衝撃を受けている。
「デ、ディアモンさま、申し訳ありませんでした」
「いや。いや……君のせいではない。うちの家系はみんな硬いくせ毛で、嫁いできた母も巻き毛なものだから、貝を髪に絡めただけでは落ちてしまうだなんて、想像もしていなかったんだ」
ディアモンは、両手で顔を覆った。
「気取った真似をするんじゃなかった。君に贈り物をしたかったのに、これではなんの意味もない」
「そ、そんなことありませんわ」
「……」
彼はもう言葉も発しない。かなり落ち込んでいるようだ。
──コリコリコリコリ!
そのとき、いきなり車内に乾いた音が響き渡った。
ブーが箱の中で、木の実を食べ始めたのだ。
(箱に入れたときは寝ていたのに、起きるなり食べ出したのね)
注意したい気持ちもあるが、今の状況には救いになった。
「……はは」
小さく吹き出して、ディアモンは床に落ちた貝の破片を拾い集める。
「蓋を開けてくれ、コライユ殿」
砕いた貝を鳥に与えると卵が丈夫になることは、よく知られていた。
ブーが母鳥になるかどうかはまだわからないけれど、与えて悪いことはないだろう。
案の定彼女は、降ってきた貝の破片を嬉しそうに啄ばんだ。
「コライユ殿、俺は綺麗な貝を見つけるのが得意なんだ。砂浜に着いたら、最高の貝を探して君に贈ろう」
「ありがとうございます」
微笑んだコライユの耳朶を、小鳥が食を追及する音が打つ。
(……やっぱり食べすぎよねえ)
聖女さまといえども小鳥は小鳥だ。体を壊さないよう節制が必要かもしれない。