6・二十九歳と三十歳の間の深い河
「……フェール」
「なんでしょう、お嬢さま」
フェールが執事になって八年、見習い執事の頃からだと九年が経つ。
子どものころより元気になったものの、今もコライユは、寝台の上で過ごす時間が多い。
小机にダイダイ水を淹れた杯を置き、彼女の手の中にあるものを覗き込む。
「おや……」
枕を支えにして寝台に座るコライユの左右には、プルプル商会が所有する貿易船の、ここ数年ぶんの航海日誌が積まれていた。
「往路で黒斑病が発生しても、復路で回復した例が多いのですね」
コライユが広げている帳面には、航海日誌から抜き出した黒斑病の患者数がまとめられている。
「積み込んだ果実を食べながら帰ってきたからだと思わない?」
言いながら、コライユは帳面の数字の上に描いた絵を指さす。
「わかる? 酸味の強い果実を運んでいた船のほうが、回復率が高いのよ」
「お嬢さま」
「なぁに?」
「初めてお会いしてから十年近く経ちますが」
「うん?」
「絵を描く腕は成長なさいませんね」
コライユは一瞬唇を尖らせ、すぐに笑顔になった。
きっと心の中で、フェールを罵倒していたのだろう。
見習い執事になってしばらく、コライユはフェールの乱暴な言葉使いを真似ていた。
ハチミツよりも甘い両親が、なんでも可愛いと褒めそやして止めようとしないので、フェールは自分が丁寧な言葉使いを通すことで、彼女自身に改めさせた。
今もとっさのときに出てしまう自分と違い、コライユは頭の中でだけ普段と違う言葉を使って楽しんでいるようだ。
「それでね、フェール」
「はい、お嬢さま」
「貿易船にダイダイ水を売るのはどうかしら? 往路の飲料水の何割かをダイダイ水にしてもらうの」
「よろしいのではないでしょうか。しかしお嬢さま、利益が出ると、婚約者さまの借金がなくなってしまいますよ」
「それは……べつにいいの。それよりフェール、考案したのはあなたなんだから、ダイダイ水の売り上げは、あなたにも分配するわよ」
「お心遣いありがとうございます。ですが、私はお嬢さまの執事です。ダイダイ水の考案は仕事のうちでございますよ」
「ダーメ」
コライユは、ぱたんと帳面を閉じて、ダイダイ水の杯を手に取った。
「あなた、給金のほとんどを亡くなった船乗りの遺族に寄付しているでしょう?」
「プルプル商会では、雇った船員になにかあったとき見舞金を出していますが、ほかの店は違いますからね」
一攫千金を夢見て出した船が沈み、店自体が沈んでしまうことも珍しくはない。
プルプル商会くらい大きな店でなければ、雇用人に十分な保障を与えることは難しかった。
貧しい人間すべてが悪に走るわけではないが、悪は貧しさにつけ込んでくる。
裏通りには、親を亡くした貧しい子どもを集めて手先にするスリの元締めもいた。
「フェールももう三十なんだから、お金を貯めて、そろそろお嫁さんでももらいなさい」
隣家の奥方とつき合っていたというのが、フェールの見栄に過ぎないことは、とっくの昔に見抜かれている。
「……二十九です」
「え?」
「私は、まだ、二十九歳です!……誠心誠意お仕えしてきたというのに、婚約者さまができたとたん、年齢まで忘れられてしまうとは」
「誕生日まで、すぐじゃない」
「今は二十九です」
「……そんなに、こだわるようなことなの?」
「そのお言葉、お嬢さまが二十九歳になったとき、そのままお返しさせていただきましょう」
コライユはきょとんとした顔で首をかしげた。
若いうちはわからないものだ。フェールだって二十歳のときは、年さえ取れば大人になれると思っていた。
体は衰えるのに、心は変わらない。そんな自分が恥ずかしくて、年を取るのは年々怖くなる。
「年の話はいいけれど、ダイダイ水が売れたら、どんなに嫌がっても分配するからね。まずはお母さまが航海から戻ってらしたら、交渉してみるわ」
プルプル商会の真の主である奥方は女丈夫で、気心の知れた仲間たちとともに、貿易船で海を巡っている。異国の果実の流行には、彼女の力が大きい。
「お嬢さまのよろしいように」
フェールは首肯した。
すべてが仕事のうちなんて考えを当たり前にして、ほかの雇用人の利益を奪うつもりはない。
なんだかんだ言うけれど、分配された利益を船員の遺族のために使っても、コライユは怒らないだろう。
「……ところでキャラマール」
「どうした、お嬢? ブランの坊ちゃんの昔の女でも調べてこようか」
「ブラン家もだけど、調べてほしいのは、すべての聖騎士さまの家なの」
「家? 本人たちじゃなくてか?」
「ええ。今の聖騎士さまたちよりも家、家系、代々の呪い……」
「呪い? おいおい、物騒だな。聖騎士たちは、聖女さまが封印した海神の怪物を見張ってるんだぞ? その聖騎士たちが呪いを受けてたりしたら、聖女さまの力が疑われちまう」
「だから、呪いがあったとしても隠しているでしょうね」
「ん~、ジョーヌ家なんかは呪われてるのかってくらい借金まみれだが、ありゃあ代々の当主が資産の運用下手なだけだと思うがな」
「そうね……」
コライユはダイダイ水を飲み干して、空の杯を小机に置いた。
紫色の瞳が、小鳥を入れた箱を見つめている。
中から砕いた木の実をかじる、カリカリという音が絶え間なく聞こえていた。いくら飛べないからといって、ちょっと食べ過ぎではないかと、フェールは思う。
以前皮膚を噛みちぎられたことを恨んで、難癖をつけているわけでは断じてない。
「そろそろ籠に移すか?」
「ええ。フェールはブーの籠を買いに行って、キャラマールは聖騎士さまの家、まずはジョーヌ家から調査してみてくれる?」
「俺はひとりだっての」
フェールは苦笑を漏らした。
昔取ったなんとやら、三十歳は間近だが、義賊キャラマールの名前を汚さないだけの働きは、できるつもりだ。
──この調査で意外な事実を知ってしまうとは、フェールは夢にも思っていなかった。