5・半月のキャラマール
フェールがプルプル商会に忍び込んだのは、二十歳の夏だった。
その年の聖女祭が終わり、秋の気配を感じるころだ。
夜空に半分の月が輝いていた。
プルプル商会を選んだのは、当時すでに、都で一、二を争う豪商だったことがひとつ。
もうひとつは、プルプル商会は海賊まがいのやり口でのし上がったという噂があったからだった。
「ふん……」
フェールは居間を見回した。
細い目だが、視力は良い。
豪商の邸宅は、思いのほか簡素だ。これまで忍び込んだ成金のように、異国で買い込んだ派手な絨毯など敷かれていない。装飾品もほとんどなく、すっきりと整えられていた。
体が弱いと評判のひとり娘のために、ホコリを生じそうなものを排除しているのかもしれない。彼女は特に喉が弱いという。
「どこに金を隠してやがんのかな」
くるりと室内を見回して、紫色の瞳と目が合った。
廊下からこちらを覗いていた薄紅の髪の少女は、ちょこんと首をかしげて口を開く。
「あなた、だれ?」
「新しい見習い執事です、コライユさま」
事前調査は完璧だ。
服装だって、見習い執事にふさわしいものを身につけている。
もっともそうでなくたって、黒一色でまとめた泥棒なんていやしない。黒は案外目立つ。
去年、新聞で特集された、義賊キャラマールこと銀髪のフェールは、紫色の瞳でぼーっと見つめているお嬢さまに、微笑んだ。
「旦那さまと奥さまは、お出かけになられています。まだしばらくはお帰りになりませんよ」
プルプル商会の主人夫婦は、貴族の夜会に出席して人脈を作っている最中だ。
フェールの返答を聞いて、コライユは一瞬口角を上げたかと思うと、いきなり咳き込み始めた。
「けほけほけほっ!」
「お、おい。大丈夫か、お前っ! じゃねぇ、大丈夫でございますか、お嬢さま」
どんなに事前調査をして家人を誤魔化す演技を身につけていても、慌てると素が出てしまう。
コライユは、喉をひゅーひゅーと鳴らしながら、駆け寄ったフェールを見上げた。激しい咳のせいか、目が潤んでいる。
「あのね、さっき起きたら苦しくて、お薬を飲もうと思ったの」
「はい、お飲みください」
「でも昼間ね、あんまり苦いお薬だから、飲むのが嫌で捨ててしまったの。どこに捨てたか忘れてしまったから、一緒に探してくれる?」
「一緒に、ですか? しかし俺、じゃねぇ私は、来たばかりで……」
「そう、ごめんなさい。じゃあ侍女を起こして探してもらうわ」
冗談じゃない。
フェールは、素早く踵を返したコライユの肩をつかんだ。
「ちょっと待て! じゃねぇお待ちください、お嬢さま。眠っている方を起こすのはお気の毒です。私が一緒にお探しします」
「ありがとう。あなた、名前は?」
「キャラマ……フェールです、お嬢さま」
義賊としての名前よりも、本名のほうがマシだ。同名の人間は、たくさんいる。
「じゃあフェール、わたしをおぶって」
「なんで、じゃねぇ、どうしてですか、お嬢さま」
「お薬、あんまり苦いから腹が立って放り投げたことだけ覚えているの。落ちてきた記憶がないから、たぶんどこかに引っかかっているんだわ。わたしだけだと、高い棚の上は見えないの」
「……かしこまりました」
溜息を飲み込んで、フェールはしゃがみ込み、彼女に背中をさらした。
小さく柔らかい存在がくっついてくる。妙に熱く感じるのは、子どもだからだろうか。
「ねえフェール」
「なんでしょう、お嬢さま」
言いながら、フェール自身も近くの棚の上に目を走らせる。早く見つけて、この子を追い払いたい。
「あなた、ときどき船乗りみたいに乱暴な言葉を使うのね」
「……親父、父が船乗りでしたので」
「あなたは船乗りになろうと思わなかったの? わたし、体が元気なら船に乗りたかったわ。異国の珍しい食べ物や文化をクルールへ持ってくるの」
「船は危険ですよ、お嬢さま。親父の乗った船は海賊に襲われて、髪の毛一本戻ってきやしませんでした」
「そう……ねえフェール、あなた義賊のキャラマールって知っている?」
「ええ、まあ、新聞で見ました」
「あなたみたいな銀色の髪の男なんですって」
「らしいですね」
「彼が、どうして新聞に載ったかも知っている?」
「義賊だからでしょう」
「……義賊、ね。盗んだものを配ることが、本当に善行なのかしら。わずかばかりのお金を与えられた貧しい人たちは、窃盗の事後共犯になるのよ?」
「俺はそんなつもりじゃ!……あ、いや、そういう見方もあるのかもしれませんが、キャラマールが配ったほんのわずかな金がなければ、生き延びれなかった人間もいるんですよ」
「そうね。異国の果実が流行して、クルールの景気が上昇して良かったわ。今年はキャラマールの噂も聞かないものね」
「……はい」
よくしゃべる少女だ。
フェールが背後に視線を送ると、彼女はわざとらしく咳を漏らした。
「けほけほ。ねえフェール、キャラマールが新聞に載ったのは、自分で新聞社に手紙を出したからよ。目立ちたがりなのね」
「……ですね」
「ねえキャラマール」
「はい……お嬢さまっ?」
フェールは振り向けなかった。うなじに、なにか尖ったものが押し当てられている。
「去年あの、護衛船の船長の家からなにを盗んだの?」
「お嬢さまがなにをおっしゃってるのか、わかりかねます」
「じゃあひとり言を言うわ。あの護衛船の船長がキャラマールの被害に遭ったことを届け出なかったのは、なにかマズいものを一緒に盗まれたからだと思うの」
尖ったものはうなじから離れない。場所は急所だ。子どもとはいえ、強く刺されたら命が危ない。
冷や汗をかきながら、フェールは見習い執事の演技を続ける。
「マズいもの、ですか? 考え過ぎじゃないでしょうか。単に護衛船の船長の家が、泥棒に入られたことが恥ずかしかっただけでは?」
「それを恥ずかしく思う男なら、自分が護衛している貿易船が海賊に襲われたのを見捨てて逃げたりしないわ」
「……お嬢さまは、金を払ったのだから護衛は死ぬまで戦えとおっしゃいますか?」
「まさか! お金で命は買えないわ。でもね、おかしすぎるのよ。護衛船は傷ひとつなくて、貿易船はひとりも生き残らないなんて」
「……」
「海賊なんていなかった。ううん、護衛船が海賊になったのよ。護衛していた船が襲われて信用を失ったはずなのに、あの男の羽振りはいいわ。今もあの男を護衛に雇う商人までいるのよ? どうしてだと思う?」
「……組んでた、ってことか。ほかの商人が護衛船を雇って、海賊の仕業に見せかけて積み荷を奪った?」
「襲われたのは、うちの船。そして殺された船乗りの中に、あなたのお父さんもいたんじゃないの、フェール?」
その通りだった。
海賊に変じたとまでは思っていなかったが、父を守れなかった護衛船の船長のことは恨んでいた。だから、ヤツが被害届けを出していないと知って、新聞社にこれまで襲った家の名簿を送りつけたのだ。依頼主の船も自分の家も守れない護衛なんて、と嘲笑してやったつもりだった。
「……マズいもの、ってなんだ?」
「実行犯になる自分だけが罪を被らずにすむように、商人たちの直筆で署名した誓約書を持っていたはずよ」
思い出せない。
見習い執事の演技も忘れて、フェールは頭を振った。
父の敵を目前にしながら、義賊気取りに溺れていた自分が恥ずかしい。
「中になにかを隠せそうな置物はなかった?」
「いや、あそこで盗んだのは金と、女物の日傘だけだ」
「日傘? 怪しいわね。骨に張った布を二重にして、誓約書を隠していたのかもしれないわ」
フェールは、自分の愚かさに舌打ちした。
「あのころつき合ってた女にやっちまったよ」
少し見栄を張る。
本当はつき合ってなどいなかった。港にある酒場の娘だった彼女は、酔っ払いから助けたフェールに感謝はすれども、兄のようにしか思っていなかっただろう。
今考えると、盗品など贈るべきではなかった。自分以外の男に誘われて、遊びに行くときの装飾品がないと嘆いていた彼女に、無意識で嫌がらせをしてしまったのかもしれない。
「彼女はどこに?」
「羽振りのいい商人と結婚して……この家の隣に住んでる」
背中でぷっと、吹き出す声がする。うなじから尖ったものが離れた。
「だったら、その日傘はわたしが持ってるわ。彼女が引っ越してきたとき、お近づきのしるしにくれたの。……フェール、降ろして」
しゃがみ込んで、コライユを降ろす。彼女は、中腰の姿勢のフェールと目の位置を合わせて、真っ直ぐに見つめてくる。
「……プルプル商会が海賊まがいのやり口でのし上がったってのも、商売敵を貶めようとして、ヤツらがばら撒いた嘘なんだな」
「どうかしら? お母さまのことだから、クルールの法に触れない範囲でヤバいことはしてらしたと思うけど」
「……ったく商人ってのは」
「フェール、わたしの日傘、あなたに渡すわ」
「はぁ?」
「誓約書を持って自首すれば、たぶん刑が軽くなるはずよ。あなたは泥棒だけど、だれも傷つけていないし、悪党からしか盗んでいないもの」
「……この家を出た足で、あの護衛船の船長を殺しに行くかもしれないぜ?」
「そうなの?」
紫色の瞳に映る自分は、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「……わかんねぇ……」
「ゆっくり考えたらいいわ。ところでその前に、わたしを寝室に連れて行ってくれない? 日傘はそこに置いてあるの」
「ああ。……てかお前、咳き込んでたの、わざとだろ」
「うふふ、ごめんなさいね」
微笑んで、コライユはその場に崩れ落ちた。
「お嬢っ?」
「……喉のひゅーひゅーは、わざと咳して起こしてたんだけど、熱は本当に出ているの」
だから体が熱かったのか。
「大丈夫よ。喉のひゅーひゅーと違って、熱は体が重くて節々が痛くて、頭が朦朧とするだけだもの」
「大丈夫じゃねぇよ!」
「ほら、お薬もちゃんと飲んだのよ」
小さな手が握っていたのは、解毒剤を包んでいたとおぼしき紙を折って、先端を尖らせたものだった。
フェールはコライユを抱き上げて、彼女の寝室に急いだ。
何度大丈夫と言われても心配で、一晩中看病して、翌朝戻ってきたプルプル商会の主人夫婦と一緒に日傘を持って出頭した。コライユの言葉通り、誓約書の力で罪は軽減され、短い期間で牢を出たフェールは、本当の見習い執事となり、今では彼女の専任執事である。
本当の見習い執事となって、あの夜、わざと咳き込む前の少女が口角を上げたわけがわかった。
プルプル商会の主人はお飾りの婿養子で、実権は妻が握っている。この家で働くものは、奥さまより先に旦那さまと言いはしない。一番は奥さまだ。
それは習うものでも調査でわかるものでもない、勤めるものにしかわからない暗黙の了解。
もっともフェールの一番は奥さまではない。
お嬢さま、奥さま、旦那さま、がフェールの順番で、それは今後も変わる予定はなかった。
盗んだ日傘は証拠品として提出して、見習い執事の最初の給金で新しい日傘を買って、コライユに贈った。フェールのこの世でただひとりの主人は、今もその日傘を使ってくれている。
護衛船の船長と、彼を雇った商人たちは罰を受けた。──今はもう、この世にいない。