4・初恋は、夢の中
夏の風が心地良い。
コライユは振り返った。
普段は仕事で忙しい両親が、後ろで見守ってくれている。
はしゃいだ気持ちで、コライユは広場を駆けた。
青空の下、手にした楽器を奏でる人がいる。大きな声で客を呼ぶ物売りがいる。
海を見下ろす広場には、都中の人間が集まっているかのようだ。
広場の中央は空間が残されていて、いくつかの踊りの輪ができていた。
今日は聖女祭。
怪物の封印を祝う祭だ。
毎年夏の盛り、月の女神の加護の大きい満月の日におこなう。
本番は夜、クルール王国の都コキヤージュの中腹にある神殿で神に舞いを捧げる。
かつては聖女が舞い、だれもが聖女の舞いと呼ぶその踊りは、今は巫女と神官によって舞われていた。聖女エグ・マリンを最後として、聖女の役目は廃止されている。
コライユは踊りの輪のひとつに近づいた。
十歳前後の子どもたちの輪から、黒髪の少年が現れて手を差し伸べてくる。
日にやけた肌は浅黒く引き締まっていて、子どもながら逞しい。コライユより、ひとつふたつ年上だろうか。夜の海を思わせる、深い藍色の瞳の持ち主だ。
「一緒に踊ろう」
「うん!」
ふたりは聖女の舞いを踊り始めた。
聖女と聖騎士によって舞われていた、男女一組の踊りだ。クルール王国に生まれ育ったものなら、だれでも踊れる。
毎年聖女祭の昼間には、港と神殿の間にあるこの広場に集まった人々が、神殿に先駆けて舞い踊っていた。
(……あ……)
しばらく踊って、コライユは自分の異常に気づいた。
喉がひゅーひゅー鳴り始めている。
全身が熱っぽい。
心臓は、口から飛び出そうなくらい激しく脈打っている。
コライユは元気な子どもではない。一ヶ月のほとんどを寝台で過ごしている。
おまけに今日ははしゃぎすぎていた。体調を崩さないわけがない。
楽しさに目が眩んで、疲労の前兆を見逃してしまっていたのだ。
足を止めた相棒に、黒髪の少年が首をかしげる。
「どうしたの?」
「……ご、ごめんなさい。わたし、もう踊れない」
「飽きちゃった?」
「ううん。疲れちゃったの」
俯いたコライユの耳朶を、なんだ、と明るい声が打つ。
「俺、力持ちなんだ。ほら」
彼は、軽々とコライユの体を抱き上げた。
「凄い。聖騎士さまみたい」
最後の聖女エグ・マリンは足が悪く、聖女の舞いのときは、いつも聖騎士たちに抱きかかえられていたといわれている。
「うん。俺、聖騎士になるんだ。そして、武術大会で全勝する」
舞いの前日の武術大会で選ばれていた聖女一代限りの聖騎士たちは、百年前から世襲制となって、怪物の封印を護り続けている。武術大会自体は目的を変えて続いていた。
百年続く聖騎士の家系は、全部でいつつ。
黒髪でコライユと同じ年ごろだと、
(ブラン家の子かな? 九歳って聞くから、わたしよりふたつ上なのね)
商家に生まれ育ったコライユは世情に詳しく、体が弱い代わりに深く考える。
子どもに無邪気さを求める人間には、あまり好かれなかった。
少年の踊りによって生まれる優しい振動が、コライユを癒していく。
「……ありがとう。重くない?」
「全然。俺こそ、無理につき合わせちゃったかな」
「ううん、すごく楽しい。……わたし、コライユ。あなたは?」
「ディアモン」
やはりブラン家の子どもだ。体が楽になったので、降ろしてもらおうとコライユが口を開きかけたとき、ディアモンが微笑んだ。
「そっか。だから君、珊瑚みたいな薄紅の髪なんだ」
コライユには珊瑚という意味がある。
もう喉は鳴っていない。
涼しい潮風に吹かれて、体も落ち着いた。
動悸だって鎮まっていたのに、ディアモンの視線が、コライユの心臓を跳ね上げる。
紫色の瞳に映った少年が、光り輝く。
七歳の少女は九歳の少年に、生まれて初めての恋をした。
……ぴー。
コライユは、寝台の上で目を覚ました。
窓から差し込む光は眩しい。まだ昼すぎだ。
ディアモンと神殿の宿舎で砂糖煮を作った翌朝、コライユは熱を出した。
過保護な執事に朝食だけは食べさせられた後は、ずっと眠っていたのだ。
まだ微熱が残っている。体の節々が痛かった。
でも喉が鳴っていないだけマシだ。
重い体を起こすと、薄紅の髪が胸に落ちる。コライユの髪は真っ直ぐで癖がない。
(珊瑚みたいって言われたけど……)
十年前のディアモンは、昨日のジャッドのように綺麗だとは言わなかった。
そもそも彼はあの日のことを覚えているのだろうか。
覚えていないに違いない、とコライユは思った。
聖騎士である彼は多忙だ。多くの人と出会う機会も多い。
どんなに大事を取って暮らしていても、ちょっと無理をすればすぐ寝込む自分とは違う。
ふたりの思い出の重さは異なるのだ。
扉を叩く音がして、いつものように返答も待たずにフェールが入ってくる。
それ自体は気にしていないのだけれど、
「お目覚めですね、お嬢さま」
(だから、なんで起きたのがわかるの?)
体の弱いコライユは、日々の生活から資産運用に至るまで、多くの事柄を彼に任せている。寝室の前で起床の気配を探り続けられるほど、暇ではないはずだ。
「食欲はおありですか?」
彼は昼食を載せた盆をコライユの膝に置き、背中に枕を入れて支えてくれた。
(あってもなくても食べさせるくせに)
思いながら、頷く。
「少し。でもわたしより、その子のほうが空腹みたい」
「お嬢さま……」
フェールは、深刻な面持ちで事実を口にする。
「朝食は私がたっぷり与えましたし、オヤツにと砕いた木の実も入れておきました」
「えぇっ?」
コライユは、小机に載せた箱の蓋を取った。
ぴっぴぴ♪
泥色の小鳥は可愛く歌ったが、散乱した木の実の皮やかけらを見れば、箱の中でいろいろむさぼり食べていたことは明らかだった。
怒るより吹き出してしまう。
「もう……仕方がない子ね。でも食欲があるのはいいことよ」
「さようでございますね」
銀髪の執事に横目で見られた。細い目だが、不思議と視線の行方はわかる。
コライユは箱の蓋を閉じ、自分の食事に向き直った。
食事を終え、コライユは酸味の効いた水を飲み干した。ダイダイの果汁が入っている。
「昨日より美味しくなってるわ」
「婚約者さまにいただいたダイダイで、改良を重ねております」
昨日、砂糖煮の製造販売については一任されていた。
味や食べ方については、ディアモンも考えてくれるという。結構料理が好きらしい。
(十年前に出会って恋をして、巷に出回る噂を集めたりもしたけれど、わたし、ディアモンさまのこと、なにも知らないんだわ)
「熱がおありなのですから、もっと水分をお取りくださいませ」
空になった杯に新しいダイダイ水を注ぎ、フェールが渡してくる。
「砂糖煮だけじゃなくて、これも商売になりそうね」
銀髪の執事は溜息をついて、コライユを睨みつけてきた。
「そういったことは、お元気になられてからお考えください。婚約者さまが気を配ってくださっても、お嬢さまが無理をなさったのでは、なんの意味もないのですよ」
「……ええ」
「初恋の方が相手だから、緊張するのは仕方がないとは思いますが」
「……ええ。え? えぇっ?」
なんで知ってんだコイツ、ともっと女の子らしい言葉で思いながら、コライユはフェールを見つめた。
彼がコライユの執事になったのは、聖女祭でディアモンと会った後だ。
両親にさえ、聖騎士さまのお嫁さんになりたい、とボカしてしか言ってない。過保護でコライユ以外に容赦ないフェールに、すべてを明かした覚えはなかった。
「情報収集は、私の得意とするところでございます」
ディアモンと出会って一年ほど経ったころ、フェールはプルプル商会の見習い執事となった。以来、彼は体の弱い主人に代わって、商売に必要な情報を集めてくれている。
「フェール」
「はい、お嬢さま。なんでございましょう?」
お代わりも飲み干して、空になった杯を彼に渡す。
「今日はまた眠ることにするわ」
「それがよろしいと思います」
新しく注いだ杯だけを小鳥の箱の横に残して、フェールは寝室を出て行った。
コライユは眠るのが好きだ。
夢の中でなら、どんなに動き回っても苦しくならない。
ぴー……。
どこかで小鳥の声がした。
コライユが腕を上げると、指先に泥色の小鳥が降りる。
片足が動かない小鳥も、夢の中でなら飛べるのだ。
「あなたの名前を決めたわ。ブーよ。羽の色からつけたの」
ブーには泥という意味がある。
ぷっ?
いささか不満げな鳴き声を上げる小鳥に、コライユは微笑んで見せた。
「蓮という花があるわ。とても綺麗な花よ。その花が咲く地方では、聖なる存在の台座として尊ばれているの」
美しい蓮は、泥から咲く。
実には滋養強壮の作用があり、両親がコライユのために取り寄せてくれたこともあった。
「わたしの体が弱いのも、あなたが片足しか動かせないのも、それはそうだというだけのこと。それですべてが決まるわけじゃないわ」
「そうですね、コライユ」
クチバシから涼しげな女性の声が放たれたこと自体は不思議ではない。夢の中だ。
不思議なのは、その声に聞き覚えがあることだった。
「あ……」
ブーを拾った日に見た、奇妙な夢が蘇る。
「聖騎士たちと戦って、彼らが死ぬ寸前まで追い詰めてほしいのです」
「……一ヶ月の三分の一を寝台で過ごす、このわたしが?」
コライユは泥色の小鳥を見つめた。
「ブー、あなた……」
小鳥は飛び上がり、コライユと視線を合わせる。
「思い出したのですね。そうです、あの日の夢で告げたとおり、私は最後の聖女エグ・マリンです。そしてコライユ、私はあのとき聖騎士たちを叩きのめして欲しいと言ったのです。ぶちのめすというのは、綺麗な言葉ではありませんよ」
「まあ。わたし、そんな言葉使ったかしら?」
うっせぇな、ぶちのめすも叩きのめすも変わんねぇよ、ということを、もっと女の子らしい上品な言葉で思いながら、コライユは首をかしげた。
再び指先に降りてきたブーが、大きく溜息を漏らす。
「……まあ、いいですけど。あの夜よりは月が大きくなりました。この夢は起きても忘れないでいてくれるでしょう。女神さまの加護の強い満月に告げれば一番だったのでしょうが、それでは間に合わない聖騎士がいるのです」
「そんなことを言われても。この前言ったとおり、わたしは体が弱いんです。無理をすれば、すぐに寝込んでしまいます」
あの朝フェールにも言われた。日々鍛錬を重ねる聖騎士たちをぶちのめすなんて、できるわけがない。
「聖女はみんな、弱いところをもっていました。私は足、ある方は目、耳が聞こえない方もいらっしゃいました。ですから代わりに、聖女には月の女神さまの加護が与えられるのです。月が満ちるほど、ご加護は大きくなります」
「わたしが聖女だと言うの?」
「世が世なら、ですね。でも今は聖女の役目自体は廃止されました。婚約を解消する必要はないので安心してください」
聖女は結婚を禁止され、一生独身で過ごすことが義務づけられていた。
「神殿で受ける教育の代わりに、私が必要なことを教えます。どうか聖騎士たちを叩きのめして、絶望を味合わせてください。あなたにも悪い話じゃありません。月の女神さまの加護を受ければ、あなたは普通の元気な娘のように、いいえ、普通の娘よりもはるかに敏捷に動くことができるのですよ」
しばらく考えて、コライユはブーの小さな頭を撫でた。
「……ごめんなさい、辞退します。月の女神さまのご加護を得たとしても、聖騎士さまたちをぶちのめす自信がありません。薬と一緒で、強すぎる力には副作用があると思うし、そもそもあなたが本物かどうかわからないもの」
ぷぷー……。
悲しげな鳴き声に目を覚ますと、窓の外はコライユの髪と同じ、薄紅の夕暮れに染まっていた。
(元気な人のように動くことができるですって?)
そんなこと、憧れたことしかない。
この残酷な夢は、フェールには秘密にしておくことにした。
過保護な彼に話したらきっと、ブーがコライユを惑わす悪いものだと決めつけて捨ててしまうだろう。片足を動かせない小鳥が、自然で生きていけるとは思えない。
ぷっぷっぷ!
不満げな鳴き声とともに、小鳥が内側から箱をつつく音がする。
食べ物を要求しているのだ。
(まあ全部、ただの夢なんでしょうけどね)
「……フェール、小鳥に木の実をあげてちょうだい」
扉を叩くよりも早く声をかけたコライユに、寝室に入ってきた銀髪の執事は悔しそうな顔を見せた。