2・ダイダイは金儲けの香り
吹き抜ける潮風が、夏の訪れを告げていた。
気温調節のための石灰を塗られた建物の壁は、一年で一番白い。
どこまでも青い空の色を、鮮やかな白壁が際立たせる。
クルール王国の都コキヤージュは、尖った頂点に王宮が鎮座する小高い丘の傾斜に造られた町だ。月の女神と聖女を祀る中腹の神殿、あるいは頂上の王宮へ向かって、螺旋状の道が無数に延びている。
その道に建ち並んだ白い建物を遠くの船から見ると、海に立つ巻き貝のようだという。
コライユは日傘の陰に隠れて、前を行く大きな背中を見つめていた。
港に近いプルプル商会からだと、神殿へ続く道はどれも上り坂だ。
昨日できたばかりの婚約者は、コライユにも歩きやすい緩やかな傾斜の道を選んでくれているように思えた。
黒髪の婚約者が振り向く。
浅黒い肌の逞しい青年で、コライユよりふたつ年上の十九歳だ。
「コライユ殿」
「は、はい」
思わず日傘ごと俯いて、コライユの全身から血の気が引いた。
背の高い彼に、傘の先で危害を加えてしまったのではないだろうか。
「……ちっ」
背後のフェールが舌打ちを漏らしたので、婚約者は無事だったようだ。
「コライユ殿、俺は体力だけはあるが、気配りは足りない男だと周りに言われている。なにか気に障ることがあったら、なんでも言ってくれ。善処する」
「はい」
今度は傘の動きに気をつけながら頷いて、コライユは爽やかな柑橘系の香りに気づいた。
「今、いい匂いがしました。果実を積んだ貿易船が、港に着いたのかしら」
近くに果実売りの姿はない。婚約者は少し考えて、どこからともなく黄色い果実を取り出した。
彼の手の中では小さく見えるが、コライユは両手で持っても重そうだ。
お留守番中の泥色の小鳥よりも大きい。
「ダイダイ、ですね」
「喉が渇いているのなら差し上げたいところなんだが、これは酸っぱすぎる。どこかで水売りを探そうか」
「ありがとうございます。あの……ダイダイをそのままお食べになるんですか?」
「ああ。どうも俺はハズレを引いてしまったらしい。買ったのはいいが酸っぱすぎてな。もう少し熟したらいいんだろうか」
「ダイダイは、生で食べるものではありませんよ」
夜の海を思わせる、藍色の瞳が見開かれた。
「そうなのか?」
「生食に向いているのはアマダイダイという、似ているけれどべつの果実です」
「ハズレを引いたわけではなく、種類自体が違うものだということか」
「ええ。異国ではダイダイの皮を干して薬にしたり、果実を絞って橙酢という調味料にします。昔まだ異国の果実が流行っていなかったころ、母が買ってきたものの皮を刻んで砂糖漬けにして食べましたが、それは美味しかったで……す」
コライユは、日傘を降ろして自分を隠した。
正式に婚約したのは今回が初めてだけれど、国一番の豪商プルプル商会のひとり娘だ。体が弱いとはいえ、いやむしろ体が弱いからこそ、縁談は降るようにあった。
候補者との外出も、これが初めてではない。
これまでの男性たちは、こうしてコライユが語ると、眉を顰めた。
月の女神への信仰や聖女の存在に後押しされて、クルールは近隣諸国よりも女性の社会進出の盛んな国だったが、最後の聖女が没して百年が過ぎ、貿易によって経済が安定した昨今は、おとなしく家を守るような女性が歓迎される傾向にある。
女性が知識をひけらかすのは慎み深さに欠けると言う候補者たちにコライユは微笑んで、はあ? 金と聞き分けのいい女房を両方手に入れられる力量がねぇから、ここにいんだろうがよお? ということを、もっと女の子らしい上品な言葉で思ったものだった。
だけど、今日は違う。金目当ての婚約なのは、これまでと少しも変わらない。
でもコライユは、目の前の青年に嫌われたくなかった。
(あ、フェール!)
自分以外には容赦ない執事が、彼をやりこめるところも見たくはない。
低い声が、コライユの言葉にゆっくりと答える。
「……そうか。コライユ殿はよく知ってらっしゃる。薬にするのは専門の知識が必要だろうが、それなら俺にもできそうだ。庭の花なら、よく砂糖漬けにしている」
「あ……」
コライユは頭を上げた。
「あの、でしたら、わたし、たまたま砂糖をたくさん持っています。良ければ安価でお譲りしま……す」
またやってしまった。
いくら商家の娘だからって、どうしてすぐ売るという発想になる。倉庫一軒ぶんもあるのだ。少々分けたところで損はしない。家の厨房にだって、たんまりあるではないか。
気にする様子もなく、婚約者は笑顔を浮かべた。
「それはありがたい。この果実、ダイダイは倉庫一軒ぶんあるんだが、その場合砂糖はどれくらい必要かな」
「……倉庫一軒ぶん?」
保管の仕方によるけれど、昨日コライユが父から買った倉庫一軒ぶんの砂糖があれば、なんとかなるのではないだろうか。
いや、それよりも。
コライユは気になったことを口にした。彼なら聞いても気を悪くしないに違いない。
「もしかして、うちの父に借りたお金というのは」
「ああ、このダイダイを買うための金だ」
「……お好きなんですか?」
深い藍色の瞳でコライユを見つめて、ブラン家の聖騎士ディアモンは首を横に振る。
「いや、今回買って初めて食べた」
コライユは首をかしげた。
裕福だといわれるブラン家も内情は厳しくて、資産運用を模索しているのだろうか。
ディアモンの大きな手は、コライユには剥きにくいダイダイの分厚い皮を軽々と剥いていく。
剥いた皮はフェールが千切りにして、水を浸した壷に入れていった。
コライユは少し離れたところで座っている。初夏の日に家から、都の中腹にある神殿まで歩くのは、コライユのような体の弱い人間にはかなりの苦行だった。
(ディアモンさまは、抱いて運ぼうかと言ってくださったけど……)
さすがにそこまで甘えられない。
素直に馬車を出せば良かった。
「お嬢さま、どうぞ」
爽やかな柑橘系の香りだ。千切りのついでに作ったのか、フェールが杯を渡してくれる。
「砂糖水に、ダイダイの実を絞ったものです」
この砂糖は、コライユのものではない。
ここ、聖女と月の女神を祀る神殿の宿所の厨房にあったものだ。
月の女神の力がもっとも弱まる新月の夜、聖騎士たちはこの宿所で朝を待つ。一昨日の不寝番はディアモンで、彼は昨日、徹夜明けでプルプル商会に金を借りに来たらしい。
宿所は本神殿の裏庭に面していて、公的な任務がないときの聖騎士たちは、よくそこで鍛錬に励んでいるのだという。
ダイダイ入りの砂糖水を口にして、コライユは思わず感嘆を漏らした。
「……美味しい」
体に沁みる酸味が、疲れを癒す。
「ふむ……」
様子を見ていたディアモンが実をつかみ、皮を入れた壷に果汁を絞った。
フェールが顔色を変える。
「いきなりなにをするんですか?」
「いや、異国では果汁を調味料として使うんだろう? これにも入れたら美味しいかと思って」
「思いつきで行動しないでください」
「うん、よく周りに言われてる」
「言われてるなら気をつけてください!……今回は、水に浸して苦みを抜いた皮を砂糖で漬けて、カリカリとかじるお菓子にする予定なんですよ。水に酸味をつけても抜けてしまいます」
「そうか。じゃあ実の役目はなしか」
「待って」
杯の砂糖水を飲み干して、コライユは立ち上がった。
「フェール、今の杯、とっても美味しかったわ」
「ありがとうございます」
「昔お母さまの砂糖漬けを食べたとき、甘さだけでなく皮にほんのり残った苦みも美味しかったの。だから、その壷に果汁と砂糖を入れて、皮と一緒に煮たらどうかしら」
「しかし……」
ディアモンが難色を示す。
「この壷で湯を沸かしたことはないぞ。火にかけたら、割れてしまうんじゃないか?」
「……煮るときは、中身を鍋に移したらどうでしょう」
「それはいい考えだな!」
小さく、変な男、と呟いたフェールを、コライユは窘めなかった。コライユも同じことを思ったからだ。
(以前の婚約者候補の方のように嫌なところは感じないし、気配りが足りないとおっしゃりつつもお優しいのだけれど……)
この聖騎士は、なんか変、それに尽きた。
牛乳を固める果実の力は、砂糖水も固める。
ダイダイの皮と果汁と砂糖水を煮立てると、とろりとした太陽色の液体に変わった。
「お嬢さま、最初のひと口をどうぞ」
ディアモンの存在を無視して、フェールがダイダイの砂糖煮をすくった匙を差し出してくる。
ちらりと見ると、ディアモンは期待に満ちた目でコライユを見つめていた。
「……うん。美味しい」
コライユの一言に、男たちの顔がほころぶ。
「ディアモンさまがお入れになった果汁の酸味が爽やかだし、フェールが切った皮の大きさや形もちょうどいいわ」
「俺もひと口いただこう」
「え……?」
そっとコライユの腕を取り、ディアモンは匙に残った砂糖煮を口にした。
「うん。コライユ殿が言っていたように、苦みが甘さを引き立てているな。これは美味い」
「人の食べかけを奪うなんて、聖騎士さまの所行とは思えませんね!」
フェールの小言を聞き流し、ディアモンは厨房の戸棚を漁り始めた。
「これはパンにつけても美味そうだぞ」
新しい匙を出して味見をしたフェールも、この料理の活用方法を考え始める。
「砂糖煮だから保存が利きますし、肉料理にも合いそうです」
砂糖には防腐作用がある。
コライユは匙を見つめて、自分の胸を押さえる。心臓の動悸が速いのだ。
体調不良ではない。ときめいている。
(ああ、なのに……)
父から買った砂糖とディアモンのダイダイでどれだけの砂糖煮が作れて、どれくらいの値段で売れば利益が出るのか、コライユは反射的に、そんなことを計算しているのだった。