18・あなたのことは呼んでない。
もちろん、コライユが戦いでアンブルを制することなどできるわけがない。
月の女神の加護が与えてくれたのは身体能力だけで、戦闘技術は含まれなかった。
聖騎士は幼いころから訓練を重ねている。
血が昇った頭だって、すぐに冷める。
アンブルは逆手に剣を持ち直して、背後のコライユを突こうとした。
「なに?」
その手は動かない。
コライユの派手な動きで目を奪っていた隙に、陰に潜んだフェールが紐を投げて、アンブルの四肢を捕らえていたのだ。なめした細い革紐は、月光も弾かず闇に溶けている。
「これは……?」
「おいおい、俺ぁ海神さまのしもべだぜ? まさかてめぇらカスの人間どもみてぇに、汗水流して戦うと思ってたのかよ」
「は、離しなさい!」
「離せと言われて、離すバカぁいねぇよ」
アンブルの背後から腕を伸ばす。
触れはしない。触れて、女だと気づかれては困る。
フェールの助けはここまでだ。これからはコライユの演技がものを言う。
聖騎士の心をぶちのめして、一度絶望へ落とす。
(低く落ちれば落ちるほど、高みは眩しくなる)
「可哀相になあ、お坊ちゃん。てめぇのしたこたぁ全部無駄だ。復讐なんかしたって、金は戻ってこない。時間もだ。本当は自分でもわかってたんだろ? 母親になにもしてやれない苦しみから逃れるために、あの男への復讐を企んだだけだって。てめぇは、父親を支えてあの男を訴えるべきだったんだ。家名に傷がつくと思ったなら、ほかの被害者を支援すればいい」
体温を感じるくらい近く、だけどけして触れはしないギリギリの位置で、コライユはアンブルの頬を撫でた。直接触れられるよりも気持ち悪いはずだ。
「てめぇがバカな復讐に費やしていた時間で、母親の命は削られていった」
琥珀色の瞳が潤む。
罪悪感を振り切って、言葉を続ける。
「俺に勝つこともできない」
紐で縛られた手から、剣が落ちる。指の力が抜けたのだ。
はめ込まれた青い宝石の十字の光は、月下にあっても輝かない。
「母親を殺すのは……」
最後のとどめを口に出す前に、力の抜けたアンブルの体が地面に崩れ落ちた。
(……どうして?)
手足を捕らえていた革紐が緩んでいる。
「落ち着け! すべてはまやかしだ」
フェールが隠れていた建物の陰から、ディアモンが姿を現した。
地面に膝をついていたアンブルが、驚きの声を上げる。
「先輩、なぜここに?」
「あ、いや……」
ディアモンは恥ずかしそうに頭をかく。
「香りが、な? いや、関係ないとはわかっているんだが、同じ香りだから気になって、その」
「なんの話です?」
「と、とにかく! 不思議な力なんかない。海神のしもべというのも眉唾ものだ。お前は背後の男の部下が投げた紐で、縛られていただけだ。俺を倒したお前なら、倒せ……?」
振り返ったアンブルも首をかしげる。
ふたりが話している間に、コライユは屋根に飛び乗っていた。
ディアモンの接近を察して逃げたフェールも一緒だ。
近くにある二階屋の陰に隠れて、月光に照らされた聖騎士たちを見下ろす。
「逃げるぞ、お嬢。二対二じゃ分が悪い」
それが正しいことは、コライユが一番良く知っている。
体調が悪いときに無理をして、元気になったことなど一度もない。
金さえつぎ込めば儲かる商売がこの世にないように、すべては『機』だ。
どんなに良いものでも、時機が来なければ売れはしない。
体調が悪いときは、おとなしく待つしかないのだ。
「ああ、嫌だ!」
「お嬢……」
「わたし、まだ船にも乗っていないのよ? 帳尻が合わないわ。相場がおかしいのよ」
今夜中に決着をつけなければ、アンブルの母は死ぬ。
元聖女のブーだけでなく、実際に目にしたフェールもそう見ている。
「それでも契約を結んでしまったの。もう少しだけつき合って。危なくなったら、あなただけは逃げなさい?」
フェールが鼻で笑う。
「詐欺師クルヴェットは俺の弟子だ。初仕事がパッとしないからって、見捨てるわけねぇだろ? てか、夜の仕事は俺のが得意だ。命令すんじゃねぇよ」
「……わたし、あなたの弟子だったの?」
ってか詐欺師扱いかよ、ということをもっと女の子らしい言葉で思う。
「相棒のつもりだったのか? 図々しいガキだな。ま、十年前からそうだったがな」
「ええ、そうよ。わたし、図々しいの」
月光を浴びて、コライユは立ち上がった。
聖騎士たちの視線は、月光よりも眩しく感じる。
屋根を蹴る。彼らが戦闘態勢に入るより早く、コライユはディアモンの胸に飛び込んだ。
ふたりで狭い道を転がって、近くの建物にぶつかって止まる。
裏通りの建物は壁が薄い。争う声や物音は聞こえているだろうが、この辺りの住民は厄介ごとに巻き込まれるのを嫌って、窓すら開けようとしなかった。慌ててよろい戸を閉めた家もある。
「先輩!」
「おっと、あんたの相手はこの俺だ」
その隙に、フェールがアンブルの背後を取っていた。
「嬢ちゃん? いや坊ちゃんか。女の服を着てなくても変わんねぇだろうな。親分が邪魔者を片づけるまで、俺と遊んでいてもらおうか。……さあ、剣を構えな」
「……」
アンブルが剣を拾って、立ち上がる音がした。
(さて、と)
もちろん、コライユがディアモンに勝てるわけがない。
切り札はただひとつ。クルヴェットがコライユだということだけだ。
前髪を上げて顔を見せる。それで動揺を誘うしかない。
コライユは、自分にのしかかっているディアモンを見上げた。
転がっている間に、そんな体勢になってしまったのだ。彼の肩越しに満月が見えた。
「え?」
ディアモンは真っ赤になって、コライユから顔を逸らしている。
「どうしたの?」
思わず素の声で尋ねてしまう。正体を匂わすつもりだったので、いいといえばいいのだが。
「……き、き、君は女性だったのだな。すまない、転がっている間に触れてしまった。だが責任は取れない。俺には好きな女性がいるんだ。婚約者で、十年前から恋している」
(最近気づいたくせに)
コライユは懐から、睡眠薬を染み込ませた布を取り出して、ディアモンの顔に突きつけた。
灰色の琥珀と一緒に、砂漠の帝国から取り寄せた薬だ。
体調が悪いときの鎮静剤にもなる。いざというときのために持ってきて良かった。
たちまち落ちてきた大きく逞しい体の下から這い出す。普段なら無理だったかもしれない。
どうしてもほころんでしまう口元に力を込めて、コライユはアンブルたちを見た。
──まだ終わりじゃない。
フェールも戦闘の専門家ではない。
得意なのは逃げるほうだ。
アンブルの剣先を、くるくると踊るように避けている。
(言葉で追い詰めるにしても、疲れるのを待つしかないわね)
動き回ること自体に慣れていないコライユが加勢しても、フェールの邪魔にしかならない。
(だけど……)
彼は苦戦していた。
相手は小柄とはいえ聖騎士だ。今地面に倒れている先輩を、昼間倒したことで腕に自信もついている。剣先は、逃げるフェールを少しずつ捕らえ始めていた。
「あら」
足もとに温もりを感じて、コライユは目を落とした。
白猫と黒猫が、ネズミをくわえて見上げている。
「お礼のつもり?」
この前驚かせたお詫びに、コライユは酒場に行く前、彼らに魚の干物を振る舞ったのだ。
「義理がたいのねえ」
猫の口にあるのは、狩られたばかりの新鮮なネズミだ。
「ありがとう。次はエビイカ……は、猫の体に悪いからお肉でも持ってくるわ」
お詫びにお礼、お礼にまたお礼ではキリがないけれど、この二匹はこの辺りの親分猫だ。つなぎをつけておいて損はない。
「にゃー」
「にゃっふー」
ネズミを地面に落とし、猫たちは歓喜の鳴き声を上げて去っていく。
コライユはアクビを漏らした。いつもなら眠っている時間だ。
(明日も筋肉痛で寝込むのね。ディアモンさまと踊りに行けないわ)
悲しいけれど仕方ない。聖女祭は来年もあるけれど、アンブルの母は今夜しか救えない。
コライユは護身用に持たされた短刀を取り出した。




