17・満月のクルヴェット
「あんた、えらい美形だったんだな」
口髭男が目を丸くした。
「そうかい?」
コライユは口角を上げる。べつに嬉しくはなかった。
(女が男装していたら、普通の男よりは綺麗に見えるのかもしれないわね。お母さまは特別綺麗なのだけど)
今夜はフェールに髪を編んでもらって、顔を半分出していた。
酒場に充満するのは、相変わらずの饐えた匂いと喧騒だ。
配られた札を確認する振りをして、自分の手を嗅ぐ。漂う酒の匂いがついているものの、さっきまで握り締めていた魚の干物の匂いはまだ取れていない。
客たちが酒杯を掲げる。
「ご馳走さま、クルヴェットさん」
「クルヴェットさまさまだ!」
「はあ、顔も金も出したのに、モテるのは男にだけだ」
大仰に溜息をついて隣のアンブルに流し目を送る。彼は先日と同じ仮面の微笑を返してきた。
店主と用心棒と、再会した客たちに大歓迎されたクルヴェットも、女装の聖騎士には形無しだ。
客たちに奢ったのは灰色の琥珀の百分の一にも満たない額だが、痛い出費であることに変わりない。コライユは溜息を飲み込んだ。
(必要経費だものね)
ものごとが上手く進んでいるときの人間は、周囲を疑ったり調べたりはしない。
昼間の武術大会で口にした勝利の味は、今もアンブルを満たしているだろう。
だから彼はこの、感情に任せた愚かな遊戯を続けている。
丸い賭博の卓を囲むのは四人。
クルヴェットことコライユ、隣に女装した聖騎士、次に小悪党の口髭男、クルヴェットの逆隣には、初対面のでっぷりとした男が座っていた。左右に護衛を控えさせている。お忍びの貴族だ。
(最高の機会だわ)
アンブルはこの前よりも俯きがちだった。
昼間、ディアモンに気づかれたかもしれないと悟っている。どこかの宴席や園遊会で会ったかもしれない貴族の前で気を張るのは当然だ。多少は怪しんでいるに違いないけれど、コライユに意識を向ける余裕はない。
何回か勝負が終わったところで、お忍び貴族は顔を膨らませた。
負け続けているのだ。
「おい、おかしいぞ! この店はイカサマをやっているんじゃあるまいな」
四角い筋肉用心棒が、無表情で言葉を返す。
「お客さま、うちは高級な店なんです。言いがかりは困ります。お客さま同士で勝負してらっしゃるのですから、お屋敷の使用人のようにわざと負けたりしませんよ」
「うるさいうるさい! だったらなんで、ソイツだけ勝ち続けてるんだ」
椅子を倒して立ち上がり、貴族は口髭男を指差した。
勝利の女神の隣に陣取った彼は、今夜も負けを知らない。
女神本人と逆の隣に座るコライユには恩恵がなく、ひとり勝ちをしている。
「実力ってヤツですよ」
男は口髭をいじりながら、ニヤニヤと笑う。
「イカサマしてるに決まってる! お前たち、アイツを調べろ!」
「お客さん、勝手な真似は困ります!」
用心棒の制止を無視し、護衛たちが左右から男に向かって回り込む。
(このお貴族さまがご当主か跡取りだとしたら、その家近々潰れるわね)
コライユは冷え性だ。
大陸の南にあるクルール王国は一年を通して暖かいが、数年に一度は寒波に襲われる。
寝台の中に丸まって冷えたところを擦っても、なかなか温まらない。
べつの部分を擦って血液を循環させて、やっと冷えたところも温まるのだ。
(お金も同じ)
儲けているだれかのタネが、本人にあるとは限らない。
初めてそれに気づいたときは、流通の奥深さに感動したものだった。
(世界を動かしていて、だれもが信じている。正に、金は神よりも強し、よね)
以前ディアモンに言われた言葉を反芻しながら、コライユは隣を行く護衛に足をかけた。
「ガタガタうっせぇんだよ、てめぇら。楽しく遊べねぇんなら、家ぇ帰って母ちゃんのお乳でも飲んでろよ」
「そうだそうだ!」
「クルヴェットさん、かっけぇ!」
酒席の酔っ払いたちの煽りを受けながら、護衛が体勢を崩す。
アンブルはするりと避けて、護衛は口髭男と、すでに彼の胸元をつかんでいたもうひとりの護衛を巻き込んで倒れ込んだ。下敷きになった椅子が砕けた。安物だ。
イカサマをしていない自信から、胸をつかまれても余裕シャクシャクだった口髭男が、なぜ余計なことをする、とでも言いたげな視線でコライユを見上げた。
(わたしはあなたの味方じゃない。さあ聖騎士さま、この好機を逃がす手はないでしょう? 勝つ道筋の見つけ方は、とっくに覚えているはずよ。あなたは自分よりも体の大きな対戦相手をぶちのめせたんだから)
「……まあ」
アンブルは甲高い声で言って、中腰になった。
(こんな状況でなければ、男の作り声だとすぐわかるわざとらしさね。減点よ、聖騎士さま)
男たちの隙間から、賭博用の絵札を持ち上げる。自分が隠し持っていたものだ。
「これはなにかしらー?」
「貴様、やっぱり!」
「なんのことだ、私は知らない!」
「とぼけるな! この卓で勝っていたのは貴様だけじゃないか。お前たち!」
護衛たちが口髭男に馬乗りになって、殴り始める。
用心棒は肩をすくめた。
こういう店では暴かれさえしなければ、イカサマも合法だ。しかし、暴かれてしまった以上だれも庇いはしない。
口髭男の顔は見る見る腫れ上がり、血塗れになっていく。
「頼む、助けてくれ!」
「お客さま、外でお願いします。そーとーで」
「うるさいっ!」
「いいぞ、やれー!」
「クルヴェットさんと違って、儲けても一杯も奢ったことのねぇいけ好かないヤツだ、やっちまえ!」
酒席の酔っ払いたちの野次馬に紛れて、女装の聖騎士が店を出て行く。
彼の復讐は完了したのだ。
コライユは後を追った。
(わたしは、あなたの味方でもないのよ、聖騎士さま)
アンブルが、女性の服装の下に聖騎士の剣を隠していることを、コライユは知っている。
夜空には、煌々と満月が輝いていた。
今夜、神官や巫女たちが武術大会の跡を片づけている広場で、明日の昼間は人々が舞い踊る。十年前もそうだった。
「……待ちなよ、ねえちゃん」
アンブルは琥珀色の瞳を丸くした。
自分より後に店を出たクルヴェットが、前に立っていることが意外なのだろう。
まさか屋根を走って先回りしたとは思わない。
「あの絵札、あんたが持ってたものだよな? 黙っててやったんだ。今夜ひと晩つき合えよ」
「はあ? あなた、そういう趣味なんですか? 僕が男だってわかってるんでしょう?」
アンブルは頭にかぶっていた薄布を肩に落とした。
一緒にカツラを地面に落として、慌てて拾う。
(……借り物なのね)
ブラン家が臨時の使用人を雇うように、必要なときに必要なものだけ借りるのは、コキヤージュのように大きな都では珍しいことではない。当然、借り物を壊せば弁償になる。
もっとも服は彼の母親のものだろう。染みついた艶やかな香りがそれを語っている。
「どういう趣味だ? 俺はただ、ひと晩踊り明かしたいだけだぜ? あんたの剣の中に封じられた、俺の大事な同胞とな」
聖騎士の顔色が変わった。服の上から剣を押さえる。
「……お前、なにものです?」
「酒場で言ったじゃねぇか。俺はクルヴェット。海神の命により、てめぇらが封じた同胞を解放しに来たのさ」
解けかけた不完全なものといっても、聖女の封印は強いものだ。
百年の歳月で、聖騎士たちの力や思いも加算されている。
持ち主を絶望に沈めなければ、封印を解いてかけ直すことはできない。
そのためにコライユは悪を演じることに決めた。ちょうど偽名も海のものだ。
「てめぇの母親の命なんざカスみてぇなもんだからな、早く封印を解いてやらねぇと、同胞が飢え死にしちまう」
胸が痛い。乱暴な口調は楽しいけれど、他人の母親を侮辱するなんてコライユの流儀に外れている。しかし、これは必要なことだった。
「母上をバカにするな!」
アンブルは服の下に提げた剣を抜いて、切りかかってきた。
ふわりと避けて、コライユは近くの平屋の屋根に跳ぶ。
月の女神の加護を受けた身だ。
戦闘訓練をしたことがなくても、怒りで心を乱した人間の攻撃くらいは避けられる。
「へーえ。武術大会の優勝者を倒したにしちゃあヘボい剣だな。岩場で石拾いしてる暇があるんなら、もっと鍛錬しといたほうが良かったんじゃねぇ?」
「……っ」
アンブルは唇を噛んだ。
額に汗が滲んでいる。得体の知れない相手に、日常まで知られているのは気持ち悪いだろう。
「踊ろうぜ、ねえちゃん。……海神さまの怪物復活を祝う舞いを、さ」
コライユは屋根を蹴った。空中で回転して、アンブルの後ろに降り立つ。
強い武器を持った相手には後ろから挑むのが、コライユの流儀。
それは、卑怯でもなんでもない、賢いやり方だ。




