16・灰色の琥珀は金になる。
怪物を封じた聖騎士たちの剣は、聖女の祝福を受けている。
聖なる剣は打ち合わせることで力を高め、封印も強化されるといわれていた。
神聖な儀式でもある武術大会の進行は、月の女神に仕える神殿長に任されている。
激しい剣戟を響かせたいくつかの試合が終わって、予定の変更が発表された。
どうやらまた、ジャッドが好みの女性を見つけたらしい。
彼はついさっきディアモンの全勝を阻んだところだ。
コライユは特別席を出た。フェールが日傘を開く。
「姉上、兄上のところへ行かれるのですか?」
ロッシュの質問に頷く。
しばらく休憩があってから、ディアモンとアンブルの試合がおこなわれる予定だ。
「ロッシュさまもいらっしゃる?」
少し考えて、ロッシュは首を横に振る。
「今年も団長に負けて、兄上は落ち込んでると思います。姉上おひとりで行かれたほうが……」
向けられた視線をフェールが跳ね飛ばす。
実際のところ体が弱くお嬢さま育ちのコライユが、試合に興奮した観客の間を縫って、ひとりでディアモンのもとへ行くのは無理がある。聡いロッシュもわかっているのだろう。仕方ないかと呟いて、主従を送り出してくれた。
ダイダイ水の後で結局酒も飲んだ父親たちは、酔っ払って眠り始めている。
ひとり平気な顔をして、残りの酒を奥方の酌で飲んでいたリュビが、コライユに手を振った。
(どう見ても海賊とお姫さまだわ)
秋が来るころには、そんな芝居がコキヤージュの都を賑わすかもしれない。
中性的なリュビは奥方だけでなく、女性全般に人気がある。少し荒っぽいところもいいらしく、プルプル商会で働く女性の人気は常に一位だ。
コライユは待合室の扉を叩いた。
武術大会のため、即席で作られた木の小屋だ。今は次の試合の出場者しかいなかった。
黒髪の青年が扉を開ける。
「コライユ殿」
ロッシュの言った通り、ディアモンはいつになく沈んでいるようだ。
それでもコライユに微笑んで、近づいてきたところで藍色の瞳が丸くなった。
「……その香りは?」
コライユは胸に提げた灰色の花を手に取った。
小屋の隅には剣を抱いたアンブルがいる。目を閉じて精神を集中しているようだが、会話は聞こえているだろう。
耳ぃかっぽじって良く聞いとけよ、ということをもっと女の子らしい上品な言葉で思いながら、ディアモンに答える。
「灰色の琥珀、あるいは龍涎香と呼ばれる香料です。南の大陸にある砂漠の帝国で、とても人気があるんですよ。海に住む龍という怪物がこぼしたものが、ときおり浜辺に流れ着くのですって」
ディアモンは戸惑ったような顔をしている。
コライユは首をかしげて見せた。
「ディアモンさまがお好きな香りかと思ったのですけれど」
「俺が?」
「倉庫街でこの香りをつけた女性を見送っていらしたから」
「あ、いや、だからあれは……なんでもない」
そう言いながら、ちらりとアンブルに視線を送る。薄々感づいているのだろう。
ディアモンは隠しごとができない性格らしい。
アンブルも隠しごとが上手いほうではなさそうだ。精神集中していても呼吸でわずかに動いていた体が、倉庫街と聞いたとたん固まっている。酒場でもあまり上手い誤魔化しはしていなかった。
「もしかして、お好きな香りではありませんでした?」
「ほら言ったでしょう、お嬢さま。香りに心惹かれたわけではなく、やっぱり昔の恋人だから見送ってらしたのですよ」
「なにを言う、執事殿。俺には昔の恋人などいないと言っただろう? ただ知り合いと同じ香りで……いや、そうだ。好きな香りだ」
「良かった」
「ようございました。なにしろ灰色の琥珀は、バカ高い香料でございますからね。これで婚約者さまのお好みでなかったら、大損でございますよ」
「この石、高価なのか」
「……ええ、とても」
フェールの調査で知っていた。
アンブルは岩場で拾った灰色の琥珀を花の形に彫って、母親の寝室に飾っている。眠ったままの母親を香りで慰めるためだろう。
しかし最初の一個は、彼の父親が無理をして購入したものだと思われる。灰色の琥珀は、神経や心臓に効果のある薬としても売られていた。眠り続ける妻の心臓がそのまま止まったりしないよう、大枚をはたいたに違いない。
コライユは自分が持つものの大きさなら、どれくらいの値段で取り引きされるかを語った。
ちらちらと、アンブルが視線を送ってくる。
「自分用はこれで十分ですが、奥方さまやお母さまにも気に入っていただけたので、商売としても考えているんです。クルールは海に面していますもの。きっとどこかの砂浜か岩場に流れ着いたものがありますわ。貝拾いのときに見つけたら、売ってくださいませね」
「う、うん。その、コライユ殿。俺以外が見つけたものも買ってくれるか? つまり、俺が売り手を紹介したら、ということだ」
「もちろんですわ」
首肯したコライユの後ろで、フェールが大仰な溜息を漏らした。
「お嬢さまは婚約者さまに夢中でいらっしゃいますね」
「そうなのか?」
ディアモンの顔が明るく輝く。
コライユは俯いた。予定通りの会話なのに、頬が熱い。
「まあ私も、毎年武術大会で優勝なさっている婚約者さまにでしたら、安心してお嬢さまをお任せできるというものです。……全勝していただいていたなら、尚良かったのですが」
一瞬だけ表情を曇らせて、ディアモンはすぐに笑顔を見せた。
「執事殿はコライユ殿の大切なご家族だ。認めてもらえるよう善処しよう。もう全勝は無理だが、今年も絶対優勝してみせる」
「期待しておりますよ」
フェールも微笑んだ。
ディアモンの戦い方は大雑把。はっきり言って剣を振っているだけだ。
それでも勝ててしまうのは、恵まれた体躯と無心による。
本当は聖騎士としての鍛錬よりも貝拾いのほうが好きなせいか、勝利へのこだわりが薄い。
しかし彼は、団長との試合ではこだわりを見せる。そのこだわりが普段の無心、風のように水のように相手の動きを受け止めて返す空っぽな心を乱してしまうのだ。
父親以外で初めて負けた相手だったのかもしれない、とフェールは言った。
逆に、アンブルは体が小さくて腕力も弱い。
そんな自分をわかっているから、技を磨き策略を練っている。
彼が負けてしまうのは、どうしても自信が持てないから。
明らかに自分より大きくて、普段の生活で実力も知っている聖騎士仲間を前にすると、負ける道筋しか見えなくなる。考えすぎてしまうのだ。
(……今は違うけれど)
アンブルは、自分の拾っていた石が金になると知った。
頭の中はそのことでいっぱいだろう。
これまで知らなかったことは間違いない。知っていれば、少なくとも借金だけは返していたはずだ。ディアモンにダイダイを買ってもらう必要もなかった。
心臓に効果のある薬とされているものの、目覚めない母親に効いているかどうかはわからない。売れば、べつの薬を取り寄せて試すこともできる。
十年恋している婚約者の家族同然の執事に認められたいと気負いすぎた青年と、思わぬ幸運に勝敗を忘れ、これまでの鍛錬の結果を出せた少年の戦いは──観客の予想を裏切った。
コライユの隣で、ロッシュがうな垂れる。
「姉上……兄上が負けてしまいました」
「残念でしたね、ロッシュさま」
「仕方ないよ」
低い声に振り返ると、酔っ払って寝ていたブラン家の当主が目を開けていた。
「アイツは本気で戦ったことがない。団長殿との戦いは、負けるのが悔しくて駄々をこねていたようなもんだ。自分より小さなアンブル殿に負けて、やっと本気になるかな」
「あなた、そこまで求めるのは酷ですわ。あの子は聖騎士になりたかったわけではないのですよ」
奥方の言葉に、当主は微笑んだ。
「聖騎士だから本気で戦わなきゃいけないと言ってるわけじゃない。本気で戦うのは、いつか惚れた女や大事な家族を守るためだ。生まれつきの体の大きさや腕力に頼りきるんじゃなくて、知恵を使って戦えってことさ」
酔いが残っているのか、息子と同じ浅黒い肌がほんのり赤い。
眠そうな目でアクビをして、彼は言葉を続けた。
「俺もペルル殿も本気で戦って生きている。それが大人の男になるってことだ」
あどけない顔で眠る夫に肩を貸していたリュビが、口を開いた。
「大人の女だって本気で戦って生きてますよ、ご当主さま。奥方さまが命懸けで、お子さん方をお産みになられたこと、お忘れになっちゃいけません」
「あはは、そうでしたな。……奥、ありがとう。今度も頑張ってくれるな」
「ええ、もちろん。この子を産んで、私はもっと幸せになりますわ」
奥方は、大きなお腹を優しく撫でた。
ロッシュの顔が真っ青になる。
「え? 母上、俺や兄上を産むとき命懸けだったのですか?」
「そうだぞ」
「ふふふ」
コライユはリュビを見た。
彼女も命懸けで産んでくれたのだろうか。自分もいつかそうするのだろうか。
ディアモンとの子どもを想像して生じた温かい気持ちは、体の弱さに由来する不安で塗り潰された。
(それに……)
彼の敗北を仕組んだコライユの計画は、むしろこれからが本番だ。




