10・銀の刃が月光を反射して
賭博の卓では、ちょうど新しい回が始まったところだった。
目の前に配られた手札を持ち上げ、コライユはアンブルの肩に肘を乗せる。
薄布越しでも、整った美しい顔はわかった。
「ねえちゃん綺麗だな。名前教えてくれよ」
わざと下卑た口調で言っても、アンブルは冷たく肘を弾くだけだった。
相変わらず意匠の古い服を着ている。眠り続ける母親のものなのかもしれない。
彼の向こうに座った、口髭を生やした中年男が肩をすくめる。
コライユの父より年上だ。フェールの父親が生きていたら、このくらいだろうか。
「諦めるんだね、クルヴェットさん。この一ヶ月ばかり、毎晩同じ卓を囲んでる私たちにも教えてくれないんだ。……なあ、さっき言ってたことは本当かい?」
コライユは頷く。
「もちろんだぜ。あんたも好きなもんを注文しろよ」
「ありがとう。でも違う。あんた、本当にダイダイで儲けたのかい? あんな酸っぱい果実で?」
「へーえ。てこたぁ、あんたもクズに騙されて、アマダイダイと言われてダイダイを買わされた口かい?」
アンブルは微動だにせず、自分の手札を見つめていた。
男は乾いた笑い声を上げる。
「はは。私は果実の名前もわからずに押しつけられたのさ」
アンブルの片眉が動く。コライユ以外の人間は配られた札が悪かったのだと思ったに違いない。
「だったらプルプル商会へ行くといい」
「プルプル商会?」
「ああ。あそこの嬢ちゃんが高値で買ってくれる。加工して、聖女祭で売るらしい」
「へーえ……」
この男、まるで知らない顔ではなかった。
それなりに知られた仲介業者だ。プルプル商会が依頼して、船乗りを集めさせたこともある。
今は人よりも物を仲介することが多いようだ。
異国の果実が人気とはいえ、常に買い手が見つかるとは限らなかった。売り手と買い手を結びつけるのが彼の仕事だ。最終的な買い手の前に、売り手が何度も変わるのも珍しいことではない。
「ところであんた、札を交換しなくていいのか?」
コライユは言いながら、自分の札を交換した。最初の手札では役ができない。
「俺ぁ飲み食いの金は出すが、賭博の負けまで支払う気はねぇぜ」
口髭の男がニヤリと口角を上げる。
「悪いな。私はこの半月、負け知らずなんだ。特に彼女がいるときは。彼女は勝利の女神さまさ」
「ふうん? なあ、ねえちゃん。今夜は俺の勝利の女神になってくれよ」
コライユが視線を向けると、アンブルは微笑んで見せた。相手を拒む仮面の笑みだ。
(……なるほどね)
フェールの調査報告で知っている。
ジョーヌ家の借金は、眠り続ける奥方を目覚めさせるために手配した、さまざまな薬や怪しげな医師薬師術師への支払いでできたものだった。借金を返済しようと資産を運用して、さらに借金を増やし続けている。
アンブルの父である現当主は、異国の果実の流行に乗って資産を増やそうとしたものの、アマダイダイを買ったつもりがダイダイで、どこにも売れず大損をした。
ディアモンの助けがなかったら、次の俸給が入るまで食料も買えなかっただろう。
「あーくそ、無役だ。あんた、本当に負け知らずだな」
回が終わり、コライユは自分の手札を卓に放り投げた。
今回の勝利者は口髭の男、敗者はコライユだ。役の強さに応じた金を彼に渡す。
捨てた札から狙っている役はわかるし、口髭の男は勝ち続けている自信からか防御も甘い。隣にいれば手札は覗き放題だ。
他人が捨てた札も役作りに利用できる。アンブルは、彼に都合の良い札ばかり捨てていた。
(高いところから落とすほうが、勢いが強くなるものね)
ものごとが上手く進んでいるときの人間は、周囲を疑ったり調べたりはしない。
アンブルの父を騙してダイダイを売りつけたのは、口髭の男だ。彼は自分がイカサマで勝たされていることも気づかずに、勝利の美酒を煽って浮かれている。
次の回が始まって、コライユは配られた手札を手に取った。今度も役はできない。
コライユは札を交換した。
「あーあ。ツイてねぇなあ。なんだねえちゃん、帰んのか?」
コライユは全敗して、それなりの金額を支払った。
アンブルが立ち上がったのは、全勝した口髭男が酒に専念しだしたころだ。
口髭男が卓を移り、コライユがアンブルを追ったので、賭博の卓の住人が変わる。
「次は勝たせてもらうからな」
ありがちな捨て台詞を吐いて、コライユは給仕に金貨の固まりを渡した。
酒瓶を直接くわえた口髭男を指差して、苦笑する。
「さっきのじゃ足りなさそうだから追加だよ。なんたって、ここは高級な店だからな」
アンブルが店を出て行く。続けて扉を開けたコライユの背中に、給仕と店主のまたおいでください、という声が浴びせられた。金回りの良い客だと認められたのだ。もし次があったなら、扉を開けた瞬間から歓待されることだろう。
「ふわーあ。酒の匂いだけで酔っちまうぜ」
店の前で大きく伸びをして、女装の少年が路地の向こうへ消えるのを待つ。
下手に近づいて警戒されても困る。
今夜は彼が標的ではない。
コライユは歩き出した。男っぽく見えるよう、わざとゆっくり大股で歩く。
建物の陰に潜んだ人物は、ぴくりとも動かない。視線だけが背中に突き刺さる。
しばらく歩いて、コライユは屋根に飛び乗って戻ってきた。
(朝になる前に動きがありますように)
月の女神の加護は、夜間しか得られない。
コライユは酒場から少し離れた建物の屋根でうつ伏せになり、なにかが起こるのを待った。
「……あらやだ!」
酒場の扉が開く音がして、コライユは瞼を上げた。
どうやらうたた寝していたらしい。いつもなら熟睡している時間だ。
驚かされた仕返しか、コライユを寝台にしていた白猫黒猫が去っていく。
二匹が乗っていたところだけ、彼らの体温のせいで汗が凄い。
(ノミを移されていないといいんだけど)
たかが虫と侮ることはできない。体の弱いコライユが刺されたら、熱を出してしまう。
幸い痒いところはなかった。アクビを噛み殺して、屋根の上から下を覗き込む。
出てきたのは口髭の男だ。足元が覚束なかった。しこたま、きこめしたに違いない。
男が路地に入ると、建物の陰に潜んでいた人物が動き始めた。
ゆっくりとしなやかに、町並みの影に溶けて進んでいく。
(強い武器を持った相手には後ろから……でも)
攻撃したいわけではない。
酔っ払いが、コライユのいる建物の前を通り過ぎる。
彼を追いかけてきた人物の前に、コライユはひらりと降り立った。
頭の布を外し、前に垂らしていた髪を後ろへ戻す。
「お嬢……っ?」
口髭の中年男を追いかけていた人物の、細い目が大きく見開かれた。
見開いた瞳に涙が盛り上がり、銀髪の執事が地面に膝をつく。
「いつの間にそんな元気になったんだ」
潤んだ瞳で微笑んで、嬉しげに見つめてくる。
「……いや、しかし人間そんな突然元気になるもんじゃねぇ」
さっきまでのコライユと同じように頭に布を巻き、船乗り風の服装をしたフェールは首をかしげた。怪訝そうな表情で、少し不躾な視線を投げかけてくる。
「ってもお嬢だってことは間違いねぇし。……なんか不思議な力を感じるぞ?」
なんでわかるんだ、コイツ気持ち悪ぃな、ということをもっと女の子らしい言葉で思いながら、コライユは頷いた。
「ええ、そうよ。わたし、月の女神さまの加護をいただいているの」
「月の女神さまの加護? なんだ、お嬢。まるで聖女さまみてぇだな」
「そうなの。世が世ならわたし、聖女さまになってたみたいよ」
「はー、そりゃ大したもんだ。さすが俺の自慢のお嬢だぜ」
「ありがとう」
地面に膝をついたままのフェールと視線を合わせるために、コライユは中腰になる。
「あなたもわたしの自慢の執事よ」
「な、なんだよ、急に」
「……教えてくれる? どうしてあの仲介業者を殺そうとしていたの?」
フェールは、そこに握られている短刀に初めて気づいたかのように、自分の手を見下ろした。




