1・はじまりは、鳥の声
……ぴー。
コライユは、小鳥の声で目を覚ました。
寝台の上で体を起こす。
窓から吹き込む潮風が、寝台を囲む白い薄布を揺らしている。
白い布越しに部屋の青い壁が透けて見えて、海の中から外を見ているようだ。
もっとも、体の弱いコライユは海に潜ったことなどなかった。
扉を叩く音がする。
「おはようございます、お嬢さま」
返事も待たずに入ってきたのは銀髪の執事。朝食を載せた盆と新聞を持っている。
(いつもながら……なんで、わたしが起きたのがわかったのかしら)
気持ち悪ぃなコイツ、ということをもっと女の子らしい言葉で思いながら、コライユは寝台を囲む薄布を上げて微笑んだ。
コライユは十七歳で、執事は二十九歳。
幼いころから仕えてくれている彼を、コライユは年の離れた兄のように感じていた。たぶん向こうもそうだろう。お互いに遠慮があったら、扉だけ叩いて返答も待たずに開けることはない。
「おはよう、フェール。昨日はなにか事件があった?」
新聞に伸ばした手は無視されて、膝に朝食を置かれた。
カリカリに焼いた薄めのパンと溶けるまで野菜を煮込んだスープ、煮込む前に炒めたタマネギの甘い匂いが空腹をくすぐる。深めの皿に注がれた橙色のとろりとした液体に気づいて、コライユはフェールを見た。
特徴のない、のっぺりした顔の持ち主だ。
常に笑っているような目は、糸よりも細かった。
銀の髪は、この辺りでは珍しい。近隣諸国の森を越えた、はるか北方にそびえる山岳地帯を覆う氷雪を思わせる色合いだ。
十代の若者といわれても、妻子持ちの壮年といわれても納得できる雰囲気がある。
「人気のアマダイダイが手に入りましたので、すりおろして牛乳と混ぜてみました」
果実には、牛乳を固める力がある。
「……いただきます」
コライユは匙を手にした。
盆から茶壺と茶碗を持ち上げて、フェールは寝台横の小机でお茶を淹れはじめる。
「フェール、待って」
「新聞はお食事を終えられてからです」
彼は新聞を脇に挟んで、コライユが奪えないようにしていた。
「そうじゃないわ。わたしのお茶の前に、小鳥にご飯をあげてくれる?」
執事は小机に置かれた箱に視線を落とす。
そこには昨日、散策の途中で拾った小鳥が入っている。
泳ぎは禁じられているコライユだけれど、散策ならたまにしていた。
朝食の盆に載っていた小さな壺を彼に渡す。
中身は砕いた木の実。ちゃんと最初から用意してくれていたのだ。
箱の蓋を開けたフェールに、なにげなく聞いてみる。
「その子の足はどう?」
「どちらもつながっていますが、動かせるのは片足だけのようですね」
鳥は両足で踏ん張ることで、飛ぶ勢いを得る。
片足しか動かないのでは、この小鳥は飛べないかもしれない。
「……今朝わたし、その子の声で目覚めたの。大丈夫、生きる気力はあるわ」
「そうですね。小鳥とは思えない食欲です。クルール王国一の豪商プルプル商会のひとり娘であるお嬢さまに拾われて、案外野生のときより幸せかも……痛ぇな、このチビ!」
「フェール?」
「お嬢さまの前で乱暴な言葉を使ってしまい、申し訳ございませんでした」
「それはいいけど、なにがあったの?」
「そろそろ食べるのをやめさせようと拳を握って木の実を隠したら、皮膚を噛み千切られました」
目よりも細いかもしれない眉を吊り上げて、フェールは箱の蓋を閉じた。
すりおろしたアマダイダイを混ぜた牛乳は、甘酸っぱくて美味しかった。
とろりとした食感が、あまり丈夫でないコライユの喉にも優しい。
朝食を終えたコライユは、空になった皿をフェールに見せて、新聞を受け取った。
ほんのり温かい。熱したコテで印刷を落ち着かせたときの温もりが残っている。
「異国の果実の流行は、まだまだ続いているみたいね」
西と南が海に面したクルール王国の主産業は、海路による貿易だ。
西海の諸島や砂漠に覆われた南の大陸からの品物を近隣諸国に輸出して、塩分を帯びた土壌では育ちにくい穀物を輸入している。今は西海の諸島で採れる珍しい果物が近隣諸国で流行しているため、かなり景気が良い。
新聞が紹介している異国の果実は、どれもコライユのお腹に治まったことがあった。
体の弱い娘に対してハチミツよりも甘い親は、貿易で手に入れた珍しいものをいつもコライユに与えてくれる。食べ物なら毒見をして調理法を工夫し、それ以外なら加工したり飾り方を提案してくれたりするのは、厳しいようでいて親以上に過保護なフェールの役目だった。
ぴぷー、ぴぴぷー!
不満げな小鳥の声が耳朶を打つ。
「フェール、もう少しだけ木の実をあげてもいい?」
「ほどほどになさいませよ」
銀髪の執事は大仰に肩をすくめて、小鳥の箱と木の実の壺を渡してくれた。
蓋を開けると、泥色の小鳥がクチバシを開く。
道端で落ちた木の実を啄ばんでいる姿をよく見る、この辺りではありふれた鳥だ。
ぴー。
指先で摘んだ木の実を与えたとき、小さな瞳と視線が合った。
ふっと記憶が蘇る。
「ねえフェール、わたし昨夜、変な夢を見たわ」
「どのような夢ですか?」
コライユの膝から盆を片づけ、銀髪の執事はお茶を淹れ直している。
「場所や相手はよく覚えていないのだけど、だれかにね、聖騎士さまをぶちのめしてくれって頼まれたの」
ぷぴー?
言葉がわかるかのように、小鳥が怪訝そうな声を上げた。
フェールも眉間に皺を寄せる。
「やめてください、恐ろしい。日々鍛錬を重ねる聖騎士さまたちをぶちのめすだなんて、月の三分の一は寝台で過ごすお嬢さまにできるはずないでしょう?」
「寝台で過ごすのは大事を取ってのことよ? 子どものころみたいに、年中熱を出したり喉を鳴らしたりはしてないわ」
コライユの反論に、執事は溜息を漏らした。
「お嬢さまが朝食よりも新聞を先にお求めになるのは、体調が悪いときです。昨日暴れたから、微熱があるのではないですか?」
「……っ」
言葉に詰まる。
その通りだったからだ。
(なんでわかるの?)
ホント気持ち悪ぃなコイツ、ということをもっと女の子らしい言葉で思いながら、コライユは話を続けた。
「昨夜は新月だったから、月の女神さまのご加護が薄くて、海神がクルールに悪夢を流し込んできたのかもね」
海に面していながら、いや、海に面しているからこそ、クルール王国は海神に疎まれた国だった。
季節が変わるごとに暴風雨が押し寄せ、穏やかに見える海面は突然渦を巻く。
月の女神の加護がなければ、とうの昔に滅んでいただろう。
荒ぶる海は満月の夜にだけ鎮まった。
ぴぷー!
小鳥が声を上げる。
コライユは小さな頭を撫でた。
「海神がクルールに差し向けた怪物は、代々の聖女さまのお力で封印されたわ。いつつに砕かれたかけらは、聖騎士さまたちが護ってくださってる。だから心配しないで大丈夫よ」
小鳥はしょぼんとうな垂れた。
(心配性の小鳥なのかしら?)
首をかしげながら、コライユは箱の蓋を閉じた。
「蛇を投げたりするから、海神に目をつけられたんですよ」
箱と引き換えに淹れたてのお茶を差し出しながら、フェールが苦笑を浮かべる。
「投げたんじゃないわ」
「私にぶつけたじゃないですか」
昨日、小鳥はただ道に落ちていたわけではなかった。
蛇に襲われていたのだ。
強い武器を持つ相手に正面から挑んだのではバカを見る。
「後ろから尻尾をつかんだまでは良かったのだけどねえ」
尻尾をつかまれた蛇は、首を曲げてコライユに噛みつこうとしてきた。
驚いて放り投げたところに、たまたまフェールがいたのである。
「一緒に散策をしていたのですから、後ろに私がいるのは当たり前でしょう。……まあ、毒のある蛇ではありませんでしたし、お互い噛まれなくてようございました」
コライユは頷いて、彼の淹れたお茶に口をつけた。
フェールに指摘されたとおり、今朝のコライユは熱っぽい。
一日寝台で過ごすことを決めたところで、扉を叩く音がした。
「コライユ、起きてる?」
「あら、お父さま」
コライユの父、クルール王国で一番の豪商プルプル商会の主人ペルルだ。
三十代後半なのにふわふわの茶色い巻き毛、青い目は大きく童顔で、体も小柄なため、十七歳のコライユと歩いていると、ときどき兄弟に間違われる。
(恋人でなく兄弟だと思われるっていうのは、顔が似てるってことかもしれないわね)
ペルルは可愛らしいけれど、あくまでそれは大人の男としては、だ。
どうせなら美人と名高い母に似たかった。
コライユは、薄紅の髪が絹糸のようだとか紫水晶の瞳に吸い込まれそうだとかの、歯の浮くような賞賛を何度となく浴びせられてきたが、それを本気にしたことはない。
(みんな、うちのお金目当ての言葉だもの)
部屋に入ったペルルが、開口一番言う。
「倉庫一軒ぶんの砂糖、買ってくれない?」
父が申し出た金額は妥当なものだった。
「いいですけど……異国の果実が流行しているとはいえ、砂糖には防腐作用があります。大きく値が下がることはないと思いますよ。ご自分で持ってらしてもいいのでは?」
「うん。でも今は、急いで現金がほしいんだ」
「そうですか。……フェール」
「かしこまりました」
十五歳で母の財産の一部を譲られてから二年、コライユは適切な運用でそれを増やしてきた。
急いで現金がほしいと言われたので、自室に置いていたヘソクリを手付けで渡す。
「残りは後ほど」
「うん、ありがとう」
コライユは、すぐさま部屋を出ていこうとする、父の背中に呼びかけた。
「お父さま、なにをお買いになるんです?」
「お前の婚約者だよ」
「……え?」
「昔、聖騎士さまのお嫁さんになりたいって言ってたよね?」
「お父さま? ちょっと待ってください。それって、どういう……」
「楽しみにしててね」
振り返って片目を閉じて見せ、父はそのまま立ち去った。
「お嬢さま、殴り倒して引きずって参りましょうか? 歯を一、二本折れば、口を割ると思いますが」
フェールは、コライユ以外には容赦がない。
「いいえ、構わないわ。体の弱いわたしがひとりでプルプル商会を切り盛りすることはできないのだから、どうせいつかは結婚しなくてはいけないのだもの」
聖騎士を受け継ぐ家系はいつつ。最後の聖女から百年、怪物の封印を守るという名目で国が俸給を支払っているものの、羽振りの悪い家もある。
借金持ちの貧しい名家が、金目当てで商家と縁を結ぶというのはよくある話だ。
プルプル商会には、金だけはある。
名誉はない。
昔から、海賊まがいの商売で成り上がったと噂されてきた。
(……そんなことより、この子の名前はなんにしようかしら)
コライユは内側からカリカリと箱をつつく泥色の小鳥のことを考えて、頭に浮かぶ黒髪の少年の面影を打ち消した。