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飲み屋に行くのは、かなり久しぶりだ。羽振りのよかったときは、毎日居酒屋に通ったが、それも過去の話。ネカフェ難民状態の比佐男には、アルコールなんて、高嶺の花なのだ。悔しいながらも、酒にありつけるという嬉しさに、ひとまず心を許す。今日の飯の心配は、とりあえずしなくてよくなった。その代わり、明徳とのぎこちない会話を続けなければならないのだが。
路地の奥、「PRIDE」というバーに案内される。シックな赤レンガ造りの外観、ガス灯を模した外灯。中に入ると、淡いオレンジ色に彩られた室内に、長い一枚板のバーカウンター、口ひげのマスターが一人、シェーカーを振っている。
明徳はマスターに軽く挨拶をすると、友人だと比佐男を紹介し、まん前に座った。午後八時、店内に他に客は無し。アンティークとワインボトルがセンスよく配置された棚に目を奪われ、比佐男はしばし沈黙した。
「再会を祝って、最初の一杯は、どうする?」
明徳の声にはっとして、視線を戻す。
「ま、任せるよ」
比佐男は慌てて、そう答えた。本当は、カクテルなんて、よくわからないのだ。
「マスター、彼に、スクリュー・ドライバー。俺にはジン・トニック」
五十代のマスターは、渋みを効かせて柔らかく笑い、頷いて、タンブラーを二つ、手元に置いた。アブソルートウオッカが、氷の入った片方のグラスに注がれ、カチンカチンと小さな音を立てる。更にオレンジジュースがゆっくりと継ぎ足され、ぐるぐるとグラスの中で旋回する。
「どうぞ」
スクリュー・ドライバーのグラスが比佐男の目の前に現れる。
酒だ。渇いていた喉に、ぐっと唾が溜まった。甘いオレンジの香りが、限界までお腹を空かせた比佐男の鼻に潜り込み、これでもかと刺激してくる。
明徳のジン・トニックが出来上がると、ささやかな、乾杯の儀式。
「十七年振りの、再会に」
カチン、と、二つのグラスが音を立てた。
比佐男は、待ってましたとばかりに、ぐいぐいとカクテルを喉に流し込んだ。食道を通り抜ける、アルコールと柑橘の爽やかさ、うまい、うまい。ごくりごくりと、喉仏を鳴らし、ぐっと目を閉じて、一気に飲み干していく。そして、氷だけになったグラスを、テーブルに勢いよく、着地させると、ぷはーっと、大きく息を吐き出した。
明徳とマスターは、比佐男の飲みっぷりにあっけにとられ、ぽかんと口を開けていた。
比佐男は、しまったと目をそむけ、とっさに、「あ、あまりに美味かったもんだから」と苦笑いする。
「それはそうと、明徳、お前は今、何してるんだ?」
何とか自分から興味を逸らそうと、比佐男は話題を振った。
「ああ、俺は……」
明徳は両肘をバーカウンターにのせたまま、酒を一口、含むと、遠慮深そうに、
「親父のやっていた、金融会社を引き継いだのさ。若社長ってやつ。荷が、重いけどな。しかもこの不景気だろ。問題が山積みなんだよ。それでこの時間まで仕事を」
顔を曇らせ、いつに無く真剣な顔で、明徳は俯いた。
社長という言葉に、比佐男は嫉妬感を覚えた。やっぱり、明徳は自分とは違う。インテリ男なんだ。たまたま高校生の頃、あの校舎で同じクラスになっただけで、最終的には全く違う道を歩むことは、当時から目に見えていた。交差した二人の時間が、よじれ、再び今日、出会ったとしても、そのまま並行することなく、遠くに過ぎ去ってしまうのだということも、比佐男にはなんとなく、理解できた。
「そういう、比佐男は? 高校卒業してから、すぐ、いなくなっただろ。随分探したんだぜ」
明徳の台詞と前後して、二杯目のスクリュー・ドライバーが比佐男に届く。
「実家、出たんだよ。耐えられなくなって」
差し出されたチーズの盛り合わせを摘みながら、比佐男は昔のように、明徳にこれまでのことを話し始めた。
比佐男が家を飛び出したのは、酒乱の父親が原因だった。元々酒癖が悪い父親が、酒に溺れていったのは、不景気で建設会社を首になってからだ。四六時中酒が離せなくなり、仕事を探そうともせず、酒と金ばかり無心していた。
嫌気が差した母親が、年の離れた比佐男の妹を連れて出て行ったのは、高校二年の春。思春期の比佐男には、とても耐えられない現実だった。父と二人、衝突し、感情の行き場を失った比佐男は、家庭内暴力に走った。時には父を殴り、傷付け、また、殴られ、張り倒された。
明徳が現れたのはそんな時。その優しさ、心配りに触れ、一度は穏やかな心を取り戻した比佐男だったが、卒業と同時に打ち切られた絆は、彼の正常な日々を一変させた。
飲兵衛の父親は、有り金使い果たし、重度のアルコール依存症に成り果て、入院してしまったのだ。多額の医療費が、無職の比佐男に圧し掛かった。消費者金融から借金をし、繋いだが、返す当てが無い。短期アルバイト、日払いの建設作業、真面目に働いたこともあった。しかし、膨らんでいく借金の山を崩すのは、容易ではない。
「もう、時効だから、言うけどさ。俺はあの時、あまりの苦しさに、盗みを働いたんだ」
比佐男はそう言って、深く息をすると、ぐびぐびとカクテルを流し込んだ。
金持ちそうな家を狙い、数十万の現金を盗み出す。二軒、三軒、繰り返しているうちに背徳心が消え、父親のことで塞ぎ込んでいた気分も晴れた。働かなくても、簡単に金は手に入る。その感覚、興奮というものを、一度知ってしまうと、もう、元の真面目な生活には戻れない。
「俺はそのまま、父親を病院に残して家を去った。同じところで盗みを繰り返していたら足がつくし、あんな家には戻りたくなかったからな。とにかく、生きるためなら、俺は何でもやったんだよ」
比佐男の右隣で、明徳は静かに、彼の話を聞いてくれた。比佐男がずっと、誰かに聞いてもらいたいと思っていた過去を、自身が聞くのが、運命だったかのように、ただ静かに、時に相槌を打ちながら。
そして比佐男にとっても、高校の頃と変わらない、明徳のそのスタイルが心地よかった。すらすらと何の抵抗も無く、何事も口から出ていってしまうのだ。
客の増えないバーでの会話は、続いた。
店内のオレンジ色の照明が、比佐男の語りを引き立て、セピアに褪せた記憶へと繋いでいく。幻想のように流れる、柔らかいジャズの音楽が、麻薬のように感覚を狂わせ、比佐男は自分の中で完結させようとしていた事件まで口に出してしまったのだった。