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解放者たち  作者: habibinskii
第二章
9/81

4

 五日目が始まった。天気は上々、昨日の涼しさが去り、やわらかな風が吹いている。リュイと出会ったあの日みたいな気持ちのいい日だと、ティセは五日前を思い出す。朝方、自分を見ていたと感じたのは気のせいだったのか、リュイは相変わらず知らない顔を決め込んで、前を行く。ティセはあとを追う、なにも変わらない。

 麓に沿う道はほどなくして山へ入った。道は上り下りをくり返し、つづら折りに続いていく。一本道ではない、山間にもあちこちに集落があり、道は分岐する。平地を歩くときよりも、リュイとの距離を詰めなければ、曲がり道で見失う可能性があった。

 山道をしばらく行くと、もう息が苦しくなってきた。リュイが平地を歩くのとまったく同じ調子で、山道を淡々と行くからだ。急な上り坂が続いても、少しも歩調が変わらない。猿のように軽快に勾配を登っていく。見失いかねない以上、遅れを取るわけにはいかない。ティセは荒い息をぜえぜえと吐き、汗だくになりながら、どうにかこうにか力を振りしぼりリュイのあとを追った。歯を食いしばり、爆発しそうな心臓を耐えて、必死に追った。一日目の早足よりもずっときつい。背中の荷物の重さが甚だこたえた。何故あの調子で歩けるのか、リュイの頭陀袋の中身は羽毛ではないのかと、ティセは疑った。

「……ほんとどうなってんだ、あいつ、体力おばけだ……」

 どうしても遅れがちになってしまう。リュイとの距離が不安になるほど離れるたびに、ティセは限界を超える力を出さなければならなかった。足が疲労で重くなり、わずかな凹凸に蹴つまずく。ティセは派手に転んだ。

「わっ!」

 荷を背負っているため衝撃が強い、腹や胸に鈍い痛みが響いた。なおかつ、荷のために起き上がるのも困難だ。なんとか立ち直ると、だいぶ先の曲がり道でリュイの姿が見えなくなった。

「まずいっ……!」

 限界を超える力をかなぐって、ティセは坂道を駆け上がった。頭のなかで「うおーっ」と叫びながら。見えなくなった曲がり道へ到達すると、少し先の、道幅が若干広くなった辺りにリュイの姿が見えた。リュイは木々の切れ間から下方を眺めつつ、悠長に水筒の水を飲んでいる。ティセは安堵の溜め息をついた。自分も喉を潤したい。頭陀袋の左脇の衣嚢に差し込んだ水筒を取り出して、その口に手をかけた瞬間、リュイは歩き出した。

「あ、くそ! 水も飲ませない気かっ!?」

 意地悪だ、陰険だ、ティセは舌打ちをして、慌ててあとを追う。

 しばらく行くと、いちだんと急な上り坂に出くわした。歩きやすい積石の階段になってはいるものの、長い上り坂だった。リュイはすたすたと、なんの苦もないふうに登っていく。ティセは重くてしかたのない両足を持ち運ぶような気持ちで一歩ずつ、休むことなく登るのが精一杯だ。リュイはすぐに見えなくなった。

「うわあぁぁ! ちょっと待てよ!」

 ふたたび、限界を超える力を掻き集め、ほとんど放心したまま階段を駆けた。心が「ひゃあぁぁー」と絶叫していた。登りきると、次はゆるやかな下り坂になっていて、先にある分岐点の少し手前にリュイの姿が見えた。ティセは脱力した。

「……脅かしやがって……」

 そんなふうに、見失ったり見つけたりをくり返し、ティセはなんとかリュイのあとを追った。



 太陽が南中する少し前、山間の比較的大きな集落へ出た。山の斜面が切り開かれ、段々畑が連なり、木造の民家が散在している。牛や山羊の鳴き声があちこちから上がっていた。道沿いに一軒、屋根だけついた簡便な茶屋があり、リュイはそこで昼食を取っている。ティセはすぐ横の草地へ倒れ込み、手足を投げ出して休んでいた。

 一日目の夕方も同じように倒れていた。あのとき、しんどいという言葉が示す状態を思い知った、と感じたのは思い上がりだった。いまこそ真に思い知った、ティセは痛切にそう感じていた。疲労のために魂が抜けたようになった目を、ぼんやりと虚空へ漂わせていた。そうすることしかできなかった。

 腹が減っているはずなのに、ちっとも空腹を感じない。食欲も湧いてこない。無理やり食べたとして、午後もあの調子で歩かれたら、絶対に腹が痛くなる。そう考えて、ティセは昼食をあきらめた。

 午後も……と思うと、絶望的な気持ちになった。ほとほと厭になった。ちっとも疲れた様子を見せないリュイが恨めしい。けれど、挫けないと宣言した。ハマの女将の立ち合いのもと、負けないと宣言した。女将の顔とその情けを思い返し、ティセは目をつむり心を据えていく。悠々と輪を描く鳶の鳴き声を耳にしながら。



 リュイも本当は疲れているのか、と思ったのは、食後に読書を始めたからだ。ほかに客のいない茶屋で、長々と読みふけっている。あいつも人間だよな、とティセはなにやら安心した。おかげでゆっくりと休憩できた。鉛みたいに重かった両脚に力がよみがえる。昼食も含め、リュイは二時間近く茶屋へ居座り、やがて立ち上がった。出発だ。修行じみた山歩きの再開だ。ティセは草の上から一気に半身を起こす。挑むようにリュイを見た。

 ふたたび、道は上り下りをくり返し、分岐しながらつづら折りに続いていく。ティセは追う、リュイを追う。無心で追っていく。

 しかし、リュイの足は午前中ほどには速くなかった。ティセは比較的楽に追うことができた。それでも遅れがちにはなり、ずいぶん先の曲がり道で何度もリュイが見えなくなった。そのたびにティセは焦る。が、見失うことはなかった。ふたりの間隔は変わらない。

「猿みたいに歩いてたくせに、やっぱり疲れてたんじゃないか……」

 そう独りごちて、苦笑いを浮かべた、次の瞬間、別の可能性に突如気がついた。ティセは、はっと目を見開く。


 間隔が変わらない――――!


 心臓が跳ねた。もういちど、くり返す。


 間隔が、変わらない――――!


 前を行くリュイの後ろ姿を、信じられない思いで凝視する。


 ……もしかして、疲れたからじゃなくて、俺に合わせてる――――……?


 ティセは背中がざわざわするような興奮に見舞われた。足元がふわふわと浮くほど昂ぶった。山歩きのせいではない、興奮による汗が滲む。まさか、まさか、もしかして……頭のなかで、「まさか」と「もしかして」が激しく点滅する。今朝からのことを次々と思い起こす。

 下方を眺めながら悠長に水を飲んでいたのは、遅れた俺を気にかけていたからか? 分岐点の少し手前にいたのは、迷わないようにか? 食後に読書を始めたのは、ぶっ倒れて昼飯も食えないほど疲れているのを見たからか? 午前中よりゆっくり歩いているのは、俺のためなのか――――……?

 合わせているつもりなどないかもしれない。けれど、気にかけているのは間違いないのではないか。あるいは無意識にそうしてしまっていることも……ティセは瞠目し、リュイの後ろ姿を突き通すほど見つめた。五日間、どこまでも無視をし、一瞥さえくれない相手に、こんな期待を寄せるのは甘過ぎるだろうか。しかし、そう考え始めると、もう間違いないように思われてしかたなかった。胸が震えた。

「ほんとかよ……」

 試しに次のつづら折りで、ティセはわざと遅れてみた。リュイは見えなくなったが、曲がり道の先でふたりの距離を保っていた。

「ほんとかよ……!」

 さらに強く、胸は震える。念を押すように、何度も故意に遅れてみせた。リュイは決して振り向かない、にも拘わらず、つづら折りを行くふたりの間隔は少しも変わらない。


 ――――――もう、間違いない。リュイは、俺を許してる――――……


 今朝方、リュイはやはり自分を見ていたのだ。静かに、ひたすらに、見つめていたのだ。なにを思って見ていたのか、それは知る由もない。ティセは確信した。心に引いたひと筋の直線に光彩が走り抜け、きらめいた。

 ほどなくして、尾根を伝うなだらかな道へ出た。木々はまばらで、両側に広く下界が見渡せる。左手の麓に村がある、おそらくあそこへ降りるのだろう。

 西へ傾きかけた陽の光はいまだ暖かく、山頂の風はさわやかに頬を撫でる。視界は彼方まで開け、尾根の道は心に引いた直線と同じほどまっすぐだ。旅の神さまが用意してくれた最高の舞台だと、ティセは悦に入る。ハマの町で新たに薪をくべられた心の焔が、いっそう熱く燃え立った。唇をキッと引き、前を行くリュイの姿を目で射貫く。

 記念すべき日だ――――

 口のなかで唱え、ティセは賭に出る。にわかに足を止め、その場にうずくまる。

 十八歩目だった。リュイはおもむろに歩く足を止めた。期待通りの展開に、ティセはうずくまりながら眩暈を感じる。リュイは立ち止まったまま、長いこと背を向けていた。後ろ姿にためらいを色濃く滲ませて、立ちつくしていた。強めの風が二度吹いて、鳶が三回鳴き声を上げた、それほど長く逡巡していた。

 そして、ティセを振り返った。うずくまり顔を伏せているため、リュイがいまどんな顔をして自分を見ているのか、ティセには分からない。けれど、その視線を全身に感じていた。身を抱え微動だにしないティセに、リュイはゆっくりと近づいていく。その静かな足音が耳に近くなるにつれ、ティセの喜びと達成感は、沸騰する薬缶の口から噴き上がる蒸気のように勢いを増して、身体中を荒々しく突き上げた。危うく、後ろへひっくり返ってしまいそうだった。懸命に耐えていると、可笑しさが沸々と込み上げて、肩がぶるぶる震え始めた。誰のこと言ってるのか分からないなんてほざいてたくせに……と、心のなかで声高らかに笑う。

 伏せたティセの視野へ、軍靴に似たリュイの靴が映る。小刻みに肩を震わせるティセを見下ろして、腹の痛みに耐えていると、リュイは考えたのだろう。五日目にして、初めてティセに声をかけた。出会ったときと同じ、静まりかえった冷たい水のおもてを思わせる、落ち着いた声だった。

「具合が悪いのか?」

 ティセは答えない。

「少し、休んだほうがいい」

 ティセは答えない、感激のあまり、答えられない。返事をしないティセに、

「……ティセ」

 リュイはそう呼びかけた。ティセは頭のなかが真っ白になるくらい驚いた。名前を覚えているなどと思ってもみなかった。期待すらしなかった。すさまじい勝利感が、落雷のごとく頭から足元へと貫いた。鳥肌がたつほどの快感が、足元から頭の先へ突き抜けた。突き抜ける快感とともに、昇天しそうだった。


 ――――俺の勝ちだ! ……俺の、大勝ちだ――――!!


 ひと息に身を起こし、立ち上がりざま、白い袖に包まれたリュイの両腕をがしりと掴む。ティセは満面に笑みをたたえて、リュイの暗緑の瞳を見上げた。そのとき、わずかではあるが確実に、リュイの目は狼狽えていた。それは、ティセが見た初めての、リュイの感情だった。

「やっと許してくれたな。そう、俺はティセ。ティセ・ビハールだ。改めてよろしく!」

 両腕をきつく掴まれたまま、リュイは目を細めてティセを見た。若干声を低くして、

「……卑怯だ」

「なんとでも言え! どんな手を使ったって戦は勝ったほうが勝ちだ」

「それはそうだ、けれど……」

「けれど、なんだよ。男だろ、潔く負けを認めろ!」

 リュイは掴まれた腕をひと振りで振りほどくと、短く溜め息をついた。そして、なにか不思議なものに出くわしたように、

「きみのようなひとは初めてだ」

 やけにさめやかに言った。ティセは逆に憎たらしさを込めて、

「俺だっておまえみたいなやつ初めてだよ! よくもあんなに無視してくれたな」

 五日間に及ぶ、鮮やかな無視について悪態をつく。眉根を寄せるティセを、リュイは冷ややかに眺めた。のち、「好きにすればいい……」とつぶやくように告げた。途端、ティセは真摯になって、

「ありがとう」

 まっすぐに目を見て礼を述べる。それから一転、不敵に笑んだ。

「リュイ。覚えとけよ」

 右手の人差し指をびしりとリュイへ向け、誓うように告げる。

「俺は最高の相棒になる。そんで、別れるとき、おまえを泣かせてやる」

 暫し、リュイは表情もなく黙ってティセを見ていた。やがて、静かに問うた。その声は、呆れているのでも怒っているのでもない、純粋な問いごとの声だった。

「その自信は、どこから来るの?」

 もっともだ。ティセは「ん?」と考えてから、もういちど不敵に笑んだ。声に力を込めて、意味もなくふんぞり返り、

「腹の、そ・こ、だよ!!」

 リュイへ向けた人差し指で、自分の腹をびしりと指した。

「いやっほ――――っ!」

 ティセは奇声を上げながら、リュイより先に、行く道を駆け出した。




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