表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
解放者たち  作者: habibinskii
第十章
81/81

15

 イリアへの帰路は、アズハー一家とともにすることになった。もとより一家はこの休暇を終えたあとは、イリア支社へ出向く予定であったのだ。シュウを出て、タミルカンドの南にある国へ入り、その首都から汽車に乗るという。汽車は幾つかの国を超え、はるか遠いイリスへ通じている。一年ほど前にリュイが話していた敷設中の長距離汽車が、数ヶ月前から開通しているのだ。


「順調なら、来年の末頃にはシュウのバンダルバードまで通じるはずだ。便利でいいが、世界が狭くなる。それはそれで、つまらんはなしだ」

 アズハーは皮肉を言って笑う。

「き……汽車――――っ!?」

 まだ見ぬ汽車に、ティセは大興奮だ。

「汽車賃のことは心配しなくていい。きみが同行してくれれば、私も楽しい。是非そうしたまえ」

「で……でも……」

 戸惑いを表すティセに、アズハーは自嘲気味に笑んで語る。

「私はね、話し相手に飢えているんだ。日頃、私の周りでは損得しか頭にない上辺だけの連中が群れをなしてお追従ばかりだ。きみのように飾らない、率直にものを言うひとと話をするのが、私にとってはなによりも愉しみなんだ」

 小さなシューナを抱いたアズハーの妻も、にこやかに勧める。

「是非そうして。話し相手になってあげてね」

「ううう……でも……」

 リュイが小声で口を挟む。

「ティセ。そうして」

「おまえまで……」

「ひとりだと、僕は食事が喉を通らない……」

「……なんだよ、それ!」

 心外だとばかりにぼやいた。


 出発は四日後だ。懐かしいナルジャへ――――……恋しくてしかたのない母親や、大好きな仲間たち、校長のいるあの村へ。出て行きたくてたまらなかったあの村へ……。そこは還るべき、帰属すべき場所。檻などではない、愛すべきナルジャだ。



 出発までの数日を、とても長閑に楽しく過ごした。辺りを散策したり、町へ出かけたり、アズハーを交えて盤遊戯に熱中したり……。リュイとアズハーが目を瞠るような攻防戦を繰り広げるので、ティセは呆然と勝負の行方を見守るだけだったが。

 リュイは、たとえば厳冬の夜道から暖かな部屋へようやく戻ってきたときのように表情を緩め、よく微笑いよく話した。相変わらず背筋をぴんと伸ばしながらも、人心地をつけているようだった。縛り付けられていた嘘の重さから放たれたためか、ひどくしなやかに見えた。

 のんびりと心地のよい数日――――……まるで、旅の神さまが最後に用意してくれた、御褒美のようなひとときだった。



 出発前日の昼下がり、ガルナージャの神木を見納めた。そのまま別邸には戻らず、兄の眠る庭園で話し込む。

 空には真っ白な薄雲がきれぎれに浮かび、まぶしいほど輝いている。耳に優しい森の葉擦れと、清らかな小鳥のさえずりが降り注ぐかのように聞こえていた。

「ほんとにここはきれいだなあ」

 石の腰かけにかけたまま、ティセはうーんと伸びをする。

「どこにでもいる貧しい農家の子なのに、こんなにきれいな場所で眠りにつけるなんて……兄は思ってもみなかっただろう」

 リュイは墓碑に目を向ける。

「思ってもみないのは俺もだよ! 最後にこんな贅沢な毎日を過ごせるなんて、思ってもみなかった! アズハーさんの別荘、はっきり言って高級旅館並みなんじゃない? 高級旅館なんか泊まったことないから分かんないけどさ……」

「ん……そうかもしれない」

「部屋は豪華できれいだし、布団は真っ白でふかふかだし、飯だってすごく美味いし、なんたって毎日肉が出る!」

 まくしたてるティセを見て、リュイは可笑しそうに口角を上げた。

「おまえはまだしばらくは、そんな旅が続くだろう。帰りの汽車もきっと一等車だ。僕はまた安宿か野宿だ…………落差が激しい……」

「あはは。そうだね、俺はほんと、幸運の持ち主だ」

 ふふんと、自慢げに腕を組んでみせる。

「ティセ、アズハーさんと同行するの、とても楽しみだろう?」

「そう、分かる? あのひと、すごくおもしろい! 俺の知らないいろんなこといっぱい知ってるし……。なんといってもさ、あのひとの半分くらいしか生きてない俺たちなのに、あしらったりしないで気さくに付き合ってくれるとこがいいよね、しかも大富豪なのに……。おまえが命の恩人の弟だってことを考えてもさ……。なにか、ひとと違う基準を持って生きてる感じがするよね」

「確かに……そんな気もする」


 すぐそこの木の上で、灰白色の毛色をした顔の黒い猿が数匹、長い尾をしならせて枝から枝へと飛び移った。ざざざ、と鋭い葉音が上がり、ふたり同時に目を向ける。その見事な跳躍を見て、かつてひと売りに追われた際、リュイが自分を掻き抱いて闇へ跳んだことを思い出す。信じられないその事実に、瞠目して戦いたあのときを。

 からかうように横目で見て、

「おまえもあのくらいできるだろ?」

 猿と同等のように言われて、リュイは機嫌を損ねた声音で返す。

「…………なにを言うの、おまえ……」

 けけけ、とティセはせせら笑う。

 信じられないようなことが、さまざまあった。宝物さながらの一年を、リュイとともに過ごした。別れは本当に明日なのだ、黙してしまうとしんみりしそうで、ティセは少し怖いのだった。それでも、はぐらかさずに前を向いていたい。


 にわかに真面目になり、リュイへ問う。

「それで……これからどこへ向かうか、決まったの?」

 途端、リュイは瞳に憂鬱を浮かべた。最大都市バンダルバードが近いので、とりあえずはそこへ向かうと話していたが、その後については決められずにいるようだったのだ。

「…………」

 なにか返すのを、ティセはのんびりと待った。やがて、リュイはじつに頼りない言葉つきで答えた。

「……ティセ……別れる前に、僕の行き先を……決めてもらえない?」

 思わず大きく溜め息を漏らし、がっくりと項垂れた。

「……おいおい! まったくさー……行き先のひとつも決められないなんて、俺よりおまえのほうがずっと心配だよ! せっかくの美味い飯が喉を通らないよ!」

 リュイはうつむき加減になって黙った。口元が「だって……」と言いたげに見える。しかたがないので、ティセは考えた。

「じゃあさ、もっと南のほうへ行ってみたら?」

「南へ?」

「そ。ずっと前、おまえ言ってたじゃん。イブリア族の起源はもっとずっと南のイブリアってとこに住んでるひとびとだって。自分たちの先祖(ルーツ)を辿ってみたら?」

 イブリアである自覚が薄いためか、リュイは不思議なことを聞いたかのようにきょとんとしていた。

「目的地がないよりいいんじゃない。行ってもなにもないかもしれないけど、もしかしたら、そこになにかあるかもしれない」

「……なにか……」

「そうそう。おまえはこれから、ライデルの占い師が言ってた、自分を導くもうひとつのものってやつを探してみたらいいよ」

 もうひとつのもの……口のなかで唱えるようにつぶやく。ややあって、リュイはまっすぐに前を見据えた。まだ知らないもうひとつのものに、目を澄ましているように。

「……そうしてみる」

「いつかきっと、見つかるよ」

 ティセは心強い笑みを向けた。



 陽がだいぶ西へ傾いた。青空はいつのまにか色褪せて黄みを帯び始め、腰かけに座るふたりの影も、来たときより長くなっていた。庭園は木々に囲まれているため、もうすぐに日差しが届かなくなる。最後の昼がまもなく終わりを告げる。明日のいまごろは、もう目の前にリュイはいないのだ。


 打ち明けるときが、ついに来た――――――……


 ティセは目をつむり深く息を吸う。そして、静かに、とても静かに吐き出した。意を決して目を開ける。

「リュイ」

 やおら立ち上がり、正面を向ける。じっと目を見つめる。急に改まったようになったティセを見て、リュイは訝しげに眉根を寄せる。

「なに?」

「いまから言うことをよく聞いて。おまえはめちゃくちゃ驚くだろう。でも、冗談なんかじゃない、本当のことだ」

「……なに?」

 ますます不審そうに問う。

「孤児だと言ったのはすぐばれた。……でも、隠してたことはもうひとつあったんだ」

「……隠しごと? なに?」

「もういちど言う。よーく聞けよ」

 一旦切る。目を見据えたまま、はっきりと告げる。

「俺は――――……ティセ・ビハールは、女の子なんだ」

 葉擦れの音や鳥の声は決して止まないのに、シンと静まりかえったように感じた。リュイは聞こえなかったみたいに表情を変えない。少しも変えない。ただ、眉根を寄せたまま黙っている。

 沈黙が流れる。

「……聞こえたか?」

 痺れを切らして尋ねると、リュイは長い溜め息を返した。

「ねえ……それは冗談のつもり? その嘘になんの意味があるのか…………僕には少しも分からない……」

 真意を測りかねて困じているかのように、ティセの顔を見上げた。

「し、信じない……!?」

「…………」

「冗談なんかじゃないってば! 真実だ!」

「…………」

 リュイは本当に困っているようだ。

「……分かった。いま俺の身分証を見せてやる。よく見たことなかったろ?」

 ティセはリュイの背に回り、さらに背を向けて、衣服の内側に身につけている身分証を取り出した。

「ほら、見てみろよ」

 体温でほんのりと温まった身分証を、リュイは手に取った。性別は女だと明白に記載されている。それをじいっと眺め、ぱっと顔を上げる。驚きの目を瞠り、

「……記載が間違っている。これでよく国境を通れたな!」

「合ってるよ!!」

 ここまで信じてもらえないとは思っていなかった。ティセは唖然としてしまう。


 とにかく打ち明けたのだから、義務は果たした。たとえリュイが信じなくとも、果たしたことに変わりはない。けれど、それではティセは気が済まない。

 舌打ちをして、リュイの手から身分証を引ったくり、とりあえず衣嚢へ押し込んだ。墓碑を取り囲む三色の花々を小憎らしい思いで睨みつけながら、暫し思案する。

「…………しょうがねえなあ…………」

 忌々しげにつぶやいてから――――……ティセは厚手の布地で作られた胴着の釦を無言で外し始める。すべて外してしまうと、

「ちょっと手を貸せ!」

 リュイの右手首をがしりと取って、その手のひらを胴着の内側に滑り込ませた。上衣に包まれた左胸の上に手のひらを置き、さらに左手をもってぎゅうと押し当てる。

 しばらく、リュイはぼんやりとしていた。なにが起きているのか分からず、思考が途切れたかのように。が、にわかに顔色を失い、うっかり火に触れてしまったときのような速さで手を引いた。そして、顔の隅々、指の先までもを凍ったように強張らせた。わずかに開いた唇も凍りついているように硬く見え、声など出せるわけもないのを物語っていた。目の前のどこか一点を見つめているような目をして、完全に停止した。

 ふたたび、沈黙が流れる。


 衝撃と驚愕のさまを眺めているうちに、ティセは沸々と可笑しさが込み上げてきた。口角をにやりと押し上げて、故意に問う。

「ささやか過ぎて分かんなかったか?」

 ことさら堂々と立つティセの顔を、リュイは上目遣いで睨め付けた。まだ半ば凍っている唇を震わせて、息だけの声で這うように言う。

「……何故、言わない……」

「だって……」

 急に立ち上がり、

「何故、言わない!?」

 ティセをまっすぐに見下ろして、軍隊仕込みの大声を上げた。

 途端に迫力を増したリュイを前にして、ティセは一瞬怯んだ。けれど、負けない。

「言ったらおまえ、旅の仲間にしてくれなかっただろ!」

「それは……」

「村に戻れって言っただろ!」

「…………」

 睨みながらも黙した。やがて、再度這うような口ぶりで、

「……おまえこそ、大嘘つきだ……」

 ティセは語気を強める。

「ちょっと待った! 俺は自分のことを男だなんて、いちどだって言ってないぞ。よく思い出してみろよ!」

「まさか……!?」

「言わないよ! 確かに隠してた、でも男だとはひとことも言わない。言ったら本当に嘘になっちゃうからな。おまえが一方的に誤解して、それをわざと訂正してこなかっただけだ」

「…………」

 リュイは視線を落とし、ひたすら呆然とした面持ちで立ちつくす。追い打ちをかけるように、ティセは続ける。

「だいたいさー、一年もずっと一緒にいて気づかないなんて、どうかしてるよ。考えてみれば失礼なはなしだぞ?」

 はっと気づいたように顔を引きつらせた。ややあってから、

「……ごめん」

 ぽつりと謝った。リュイがそういう率直な言葉を使って謝罪したのは初めてだ。ティセは少し驚いた。

「いや……謝らないでよ、隠してたのは事実なんだから……」

 慌てて宥めるも、完全に項垂れてしまった。

「……おまえだけじゃないよ、たいていのひとは俺を男だと思うみたい。でも……セレイには見抜かれた」

「セレイが……!?」

「そ。あと、フェネも間違いなく気づいてたよ。俺がおまえに隠してることにも、たぶん気づいてたと思う」

「…………」

「見抜いたのはふたりだけだ。だから気にしなくていいよ」

 しばらく黙っていたが、リュイはふいに「あ……!」と小さく声を上げた。目元をかすかに震わせてティセを見遣り、

「……ザハラの言っていた月って……おまえのことか……」

「え? なに?」

 信じられないと言いたげに眉根を皺め、

「……なんでもない。占いの意味が少し分かっただけ……」

 まるで独りごとのように言った。


 驚きすぎて気が抜けてしまったのか、リュイはふたたび腰を下ろした。ひどく疲れたような顔をしている。すっかり消沈してしまった様子を見ていたら、さすがに気の毒になってきた。

 ティセは少しくしおらしくなって、改めて謝罪をする。

「ずっと隠してて……ごめんね」

 視線を落としたまま、なにも返さない。

「…………リュイ、ひとつ聞いていい?」

 今度は目を上げた。ティセは真剣な眼差しを向けて問う。

「俺が女なら…………相棒じゃなくなるの?」

 束の間、リュイは黙していた。が、目を見て答えた。

「なくなるわけがないだろう。おまえは、おまえなんだから……」

 ティセは心から安堵した。


 庭園と別邸をつなぐ小道は、きれいに整備された歩きやすい道だ。にも拘わらず、リュイはなかなか動揺が収まらないのか、帰りしな二度も蹴つまずいた。二度目、よろけて体勢を立て直したのち、やるせないと言わんばかりに長い溜め息をついた。そして、ひどく複雑そうな面持ちで、右の手のひらをじいっと見つめた。

 ティセはつい、

「おい!」

 その手をびしりと叩き払った。リュイは顔をはっとさせ、それから、どうしようもなく居たたまれなそうに目を伏せた。




 別れの朝は、早いうちから気温が上がって暖かだった。ふたりが初めて出会ったあの日そっくりの、やわらかな風の吹く、気持ちのいい日だ。

 朝食後、庭園に眠る兄へ別れの挨拶をした。墓碑の上には真っ白な花輪が供えられていた。早朝にアズハーが暫しの別れを告げに訪れたのだろう。

 小道を戻りながら、リュイはちらりとティセを盗み見た。

「なんだよ」

「……なにも……」

 と言いつつ、またすぐにちらりと見遣る。

「なんだよ!」

「…………」

 昨日から何度目かも分からない深い溜め息をつき、つぶやいた。

「……どうしても女に思えない……」

「…………」

「そんなに行儀の悪い女がいるの……?」

「……俺だって知らねえよ」

 ふたたび、ふうと息をつく。

「べつに無理に思わなくてもいいよ。ちっとも構わない」

「……アズハーさんたちも誤解しているんじゃないか……」

「してるよ、間違いなく!」

 迷うことなくふたりに同室を提供したのだから、確実に誤解していると分かっていた。

「あとでちゃんと言わないとな。こんなにお世話になってるのに、騙してるみたいで気分が悪いもん……」


 一家は出発の準備をすべて整えた。車寄せに二台の馬車が待機している。ふたりも荷物をまとめて部屋を出た。

 玄関先で、アズハーが待っていた。今日はシャツの裾をきちんと仕舞い、仕立てのいい背広を纏っている。

 ふたりに穏やかな笑みを向け、

「私たちは先に出よう。街道に出て、左へ曲がったところでのんびり待っているから、きみたちはゆっくり話しながら来るといい」

 それから、リュイをじっと見据えた。

「きみとはここで……」

 ティセと一家はドゥリケルの町のほうへ戻るため、道を左に行く。バンダルバードへ向かうリュイは、右へ曲がり次の町を目指すのだ。

「お世話になりました」

 アズハーは真摯な眼差しをして、リュイへ告げる。

「きみとまた会えることを強く願っているよ。この先もしも……なにか困ったことがあれば、真っ先に私を思い出してほしい。力になれるかは分からんが、きみの助けにもしもなれればと、心から思っている……」

 そして、バンダルバードの本宅のほか、すべての別邸の住所を記した紙片を手渡した。

「では、またいつか会おう! 道中、充分気をつけて」

 一家と使用人、ティセの荷物を乗せた二台の馬車は、軽やかな音を立てて門から出て行った。

 木立の合間に隠れて見えなくなるまで、なんとはなしに馬車を見送った。

「もしかして……気を遣ってくれたのかな……」

「ん……」

 ふたりが気兼ねなく、最後の語らいができるように。

 リュイは手渡された紙片を手にしたまま、なにか考えているふうに暫し黙していた。やがて、重たげな口ぶりで言った。

「……アズハーさんは……兄から僕のことを聞いているのかもしれない……」

 ティセは小さくうなずいた。リュイは目元をぴくりとさせて、

「……そう思う?」

「うん……たぶん」

 たちまち、顔を曇らせた。瞳にそっと翳を漂わせる。

 リュイが本当に解き放たれたように生きて笑うとき、翳はようやく消えるのだろう。闇に光が差すのだろう。そのときのリュイを、果たして見ることができるだろうか…………ティセはそれを、祈るように待ち望む。

「行こっか……」

 ふたりは並んで、別邸をあとにした。


 暖かなそよ風のなかを、名残惜しむようにゆっくりと歩く。

「リュイ、ほんとに楽しかった、一年間どうもありがとう」

「……僕も楽しかった」

 前を向いたまま返した。ちらりと見れば、ひどく冷静な顔つきをしていた。それが逆に寂しげに見える。ティセは早くも涙が込み上げてきた。ぐっと呑み込んで、

「たまには手紙書いてよ。教えた住所なくすなよ、おまえ!」

「なくさないよ……」

「…………」

 お互い無言になった。足音だけで会話をしているかのようだった。

 なにを話せばいいのか、言葉の出ない自分が非常にもどかしい。けれど本当は――――話したいことは――――……心から言いたいことはただひとつなのだ。

「……ねえリュイ」

 横顔をじっと見つめる。

「いつか……ナルジャに来てくれる?」

 やはり前を向いたまま、

「……ん、いつか……」

 不安になるほど曖昧に答えた。ティセはやきもきして、

「……ほんとかよっ……!?」

 目を覗き込む。

「……いつか、行く」

 ティセはついに立ち止まった。リュイを正面から見据え、熱を帯びた声で本心を語る。

「リュイ! いつか…………もういちど、おまえと歩いて行きたい……!」

 瞬間、昂ぶったように顔つきはっとさせてから、リュイは切なげに目を逸らした。いまは同じ気持ちでも、離れて時が立てばお互いどうなるか分からない…………背けた目はそう言っていた。

「……行けたらいいと……僕も思う……」

 つぶやくような小声で返した。ティセはもう、なにひとつ言葉が出てこない。


 小道の先に、別邸への目印のように立つ立派な沙羅樹が見えてきた。街道だ。ふたりの旅の分かれ目だ――――……。

 街道へ出ると左方に、一家の馬車が停車しているのが小さく見えた。ふたりは分かれ目に立ち、向かい合う。どちらからともなく、別れの握手をする。ぎゅっと繋いだ色合いの異なるふたつの手を、ティセは心に刻むように眺め、それから顔を上げ、

「じゃあね、元気でね」

 無理に笑顔を向ければ、リュイもわずかに口角を上げて笑みを作る。

「おまえも元気で……」

 が、ふたりとも足が動かない。向かい合ったまま、立ちつくす。

「…………おまえ、行けよ!」

「…………おまえが行けばいい」

「…………」

 分かった、とティセは提案する。

「じゃあ、同時に行こう」

 ふたりは背中合わせになった。荷物を負わないティセの背に、リュイの荷物がじかに触れる。

「じゃあな、行くぞ」

「ん……」

「せーの!」

 同時に歩を進める。背中に触れていた荷物の感触がなくなり、リュイの気配が少しずつ遠くなる。ティセはたまらない思いに襲われて、硬くまぶたを閉じた。


 …………リュイ…………


 倒れてしまいそうに哀しかった。大きな寂しさのかたまりのなかへ向かっている気がしていた。けれど、立ち止まらず、振り返らず、歩を進める。


 ――――……十八歩目だった。もはや遠くて聞こえないはずのリュイのつぶやきが、何故かはっきりと耳に届いた。

「……ティセ……」

 同時、リュイは立ち止まった。そして、森のほとりに響き渡るほど大きな声で、名を呼んだ。

「ティセッ…………!!」

 心臓がどきりと跳ねる。足が止まる。リュイが駆けてくる足音が、聞こえる。

「…………!」

 矢のように駆けてきて、ティセの左腕を背後から右手で取った。そのまま、有無を言わせない強引さで引き寄せ――――……ティセをきつく抱きしめた。

 首の後ろ辺りに顔をうずめて、リュイは声をわななかせる。

「……ティセ……」

 両腕に込める力はますます強く、息ができないくらいティセを締めつける。

 ……リュイ……

 呼びかけようと唇を開きかける。が、代わりに出たのは、涙交じりの叫び声だった。

「わああ――――…………リュイ……!」

 途端、涙が堰を切って溢れ出る。ぼろぼろと止めどなく零れ落ちる。両腕を背の荷物へ回し、肩に頬をすり寄せて、ティセは思いのたけ泣きまくる。襟もとに巻いた薄布が、絞れるほど涙に濡れるまで。リュイは首の後ろに顔をうずめたまま、泣きしきるティセをひたすらに抱きすくめていた。

 やがて、ティセの涙目を見つめて、掠れ声で囁いた。

「いつか……必ず、ナルジャへ行く。おまえを迎えに…………」

 ティセは少しだけ潤んだ暗緑の瞳を射るように見据え、

「じゃあ誓えよ! いつか樹に誓ったみたいに、もういちど誓ってよ!」

「――――誓う」

 口のなかでそう唱えた声は、小さくもはっきりと意志に満ちていた。


 分かれ目に立つ沙羅樹の下で、リュイは荷物を下ろし、なかから短剣を取り出した。木漏れ日の揺れる大地へ突き立てた短剣を挟み、ふたりは両膝をつき向かい合う。

 ティセは短剣の柄を左手でしっかりと握る。ともに眼差し強く見つめ合いながら、互いの右と左の手のひらをぴたりと合わせる。形の整ったリュイの右手が、誓いの対象へと静かに移動する。神聖なるその樹にそうっと触れる。辺りは粛然とした空気に包まれる。

「目を閉じて」

 ふたりは目を閉じる。心のなかで約束をくり返す。新たな旅をともに歩いて行くと、くり返す。

 リュイは粛としながらも揺るぎない声で、言辞を唱える。


 誓いの樹が倒れてさえも、誓約は破られない――――――


 頭上から、数多のさえずりが降り注ぐ。誓いを見届けた、そう高らかに唄っている。



 リュイはすっと立ち上がり、遠くに見える馬車へ向かって、深々と一礼をした。ティセを向き、万感の想いを込めたような眼差しで、ひとしきり見つめた。そして荷を背負い、なにも言わずに背を向けて、歩き始めた。もう、振り返りはしなかった。まっすぐに、道の先だけを見つめていた。

 ティセはその後ろ姿から、目を離すことができなかった。小さくなり、木立の合間に消えて見えなくなるまで、リュイを見つめていた。


 馬車へ乗り込むと、アズハーは泣きはらした赤い目を見て、とても切なそうに微笑んだ。のち、静かに告げる。

「さて、イリアへ向けて、出発だ」

 いななきがふたつ上がる。二台の馬車はガルナージャの森のほとりを走り出す。

 車窓を流れていく森の緑を、ティセは黙って眺めていた。湿り気を帯びた濃い緑は、赤く腫れた目を優しく労るように目に映る。切なさに裂かれそうな心を癒し、和らげ、安らぎへとそっと導いている。さながら、笛の()のように――――……。

 ティセは笛の音とともに、暗緑の瞳を思う。静けさの立ち込める声音と、木々のささめきに似た耳触りの喋りかたを思い出す。――――それはすべて同じ場所、心のしじまへと通じている。




 やわらかな風の吹く、気持ちのいい日には、ティセは決まって思うのだ。

 いつかこの耳に、笛の音が届く。その笛の音の先には――――――ともに見つめる道の先が、待っている。





 【第十章 了】


 【解放者たち 完】


※「解放者たち 第二部」へ続く

  二年後のふたりがお互いを解き放つ新たな旅へ出発。恋愛展開します。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ