14
「ティセ、大変! 起きて!」
急いた声で揺り起こされて、ティセは毛布から顔を出す。
「……んあ? なんだよ……」
白い天井がやけにまぶしい。不審に思い窓のほうへ目を向ける。と、薄い布を引いた窓の明るさは、もはや朝ではないのをはっきりと示していた。
ひと息に半身を起こし、
「嘘!? いま何時?」
「もうすぐ昼だ……」
「えええ!」
昨夜があまりに遅かったため、ふたりとも寝坊してしまった。理不尽にも、リュイに非難の目を向ける。
「おまえ、なんで起きないんだよ!」
「え……!? おまえこそ、いま起きたくせに……!」
室内に用意された洗面器で、慌てて顔を洗う。手洗いへ行こうと部屋を出れば、廊下を曲がったところでアズハーに出くわした。ティセはどきりとする。
「あっ……お、おはようございます……」
「おはよう」
穏やかに笑んで、寝坊についてはなにも言わない。ほっと胸を撫で下ろして手洗いへ向かうと、背中に声がかかった。
「あ、ねえ、もういちど朝食を運ばせようか」
……ばれてる!!
ティセは肩を窄ませて、
「……あの……もうすぐ昼だから……昼ご飯まで待ちます……」
アズハーはにやにやと笑っている。
昼食後、暖かな風のそよ吹く東屋で、ふたりはのんびりとくつろいで過ごした。
「ひとんちでこんな大寝坊するなんて、あああ、恥ずかしいっ!!」
喚きつつ、木製の長椅子をバンバン叩く。
リュイは隣でクスクス笑いながら、
「僕も驚いた。けれど、あのひとはきっと気にしないと思う」
「アズハーさんなら気にはしないよ、でも、にやにや笑ってたもん!」
失態が悔やまれてならないティセの様子を、リュイはどこか楽しげに眺めていた。
東屋の屋根の上で野鳥がさえずる。聞いてご覧なさいと言わんばかりの高らかな歌声が、青空へ響いていく。つられたように、リュイは日差しに溢れる空を見上げた。
ほどなくして目を戻し、
「今朝、僕の家にある沙羅の樹の夢を見た。たまに見る夢だけれど、今朝はいつもと違っていた。見上げたら、空がとても青かった……」
「空が青い……? それだけ?」
「そう。いつ見ても、いまにも雨が降り出しそうな曇り空だから……」
ティセはなかば呆れた。
「…………おまえは、ほんっとに陰気だよ……」
悪態を吐かれても、リュイはやはりなんだか楽しげに見える。目元も口元もかすかに笑んでいる。ティセはさりげなく、その暗緑の瞳を覗き込む。そして、しみじみと驚いてしまうのだ。
出会ったばかりのころとはもちろん、昨日とも違う眼差しをしている。翳も闇も消えはしない。けれど、瞳にはほのかなぬくもりが差している。それは例えば、胸の上にじかに手を当ててみれば誰もが温かいのと同じ、ささやかながらも確かなぬくもりだ。
きつく張りつめた雪融け水を思わせる表情や雰囲気は、瞳に灯ったぬくもりに温められたかのように、ほどかれている。ほどけてやわらいだ雪融け水は、ひとを痺れさせ怖れさせるような温度ではもはやない。それはただ、静けさの立ち込める冷たい水であるだけだ。
爛漫と花咲くたけなわの春が、まもなくこの森に訪れるように……――――ティセ自身の大きな足枷が外れたあのときのように……――――リュイがもっと解き放たれたように生きて笑うのを、ティセは心から願い、同時に予感する。
どこか楽しげにくつろぐリュイを眺め見る。最後に見たセレイの姿がまぶたに浮かぶ。セレイにこの微笑ましい様子を、見せてあげたい――――――
ふいに、リュイは微笑みを収めた。
「笛がひとつなのは分かったけれど、まだまだ分からないことばかりだ……」
「そうだなあ……どうしたら、おまえは次の段階に辿り着けるのかな。おまえと兄貴はどこがどう違うんだろうな」
うーん……とティセは腕を組む。
「それにライデルの占い師は、僕を導くものはふたつあると言っていた。笛がひとつなら、もうひとつのものとは一体なんだろう…………少しも分からない」
「そういやそうだね。ふたつのものに強力に導かれてるってはなしだったから、笛はふたつあるだろうって予想してたんだった」
「そもそも……何故、僕の父親はもうひとつの笛を探せと言ったのか……僕はずうっと疑問に思っているんだ。……行方不明の兄を捜して欲しかったんだろうか……」
覚束ない口調で言った。ティセは思わず、組んだ腕をばっと解く。
「は!? おまえ、そんなことも分かんないの?」
リュイは目を見開き、心底驚いたように、
「え……!? おまえには分かるの?」
「簡単なことじゃん!」
リュイに正面を向けるよう、姿勢を傾けて続ける。
「おまえの父さんは笛はふたつだと思ってたみたいだし、それほど笛のこと知らなかったみたいだけど、笛の音の効果については経験上よーく知ってたんだろう? 笛はふたつで完全になると思ってたなら、笛の音の効果もふたつ揃って初めて完全になると思ってたってことだよ。たとえ、おまえがどんな運命にあったとしても、いつでも心安らかに……――――ようするにー…………幸せになれって言ったんだよ」
呆気に取られたように、リュイはぽかんとした。
「……幸せに……」
ぼんやりと唱える。ティセは自信たっぷりに肯定の笑みを返す。
さらに解釈を続ける。
「でもさー、笛はひとつだったけど、聖笛使がいて初めて重奏を奏でるんだから、考えようによっちゃ、笛と使い手でひとつの笛だね! ほら、やっぱり一対の笛だ。おまえの父さんは間違ってないよ!」
結論を受け、リュイは呆れ返るほど感心したように、溜め息交じりにつぶやいた。
「……おまえは……本当にすごい……」
ティセは得意と照れ隠しを綯い交ぜにして、シシシと歯を見せて笑った。
「……いつか、兄が鳴らせていたような音を、僕も鳴らせるようになるだろうか……」
やはりどこか他人事のように、リュイは言う。
「どうかなぁ……俺は聴いてみたいけどね」
「……なれるような気がしない……」
どうにも消極的なのだった。
すると、いつからふたりの話し声が聞こえていたのか、
「強く望めばあるいは、だ」
振り返れば、アズハーがこちらへ歩いてくるのが見えた。昨日同様、白いシャツの裾を仕舞いもせずにそよがせている。
「シューナが語ったとおりだと、私は思うがね」
「……強く望めば……」
リュイはますます自信がなさそうに、声も顔つきも沈ませた。ティセは、やれやれ……と微笑んで、
「そこが大きな問題だなあ。なんたって、なにかがしたいって、なかなか言わないおまえだからね!」
アズハーは東屋に入り、リュイの向かいに腰を下ろした。
「いつか是非シューナのような使い手になって、私にもういちどあの素晴らしい調べを聴かせてもらえないかな。……空から静かに降りてきて、こんな深い森に微睡むような気持ちにさせるあの調べを……」
言いながら、アズハーは森のほうに目を向けた。
セザの神木の霊力に磨かれて、玲瓏と鳴り響いた笛の音を思い出す。心地よく湿った深い森のなか、一切の綻びのない心のしじまへと続く道が、その奥にほの見えた気がしたあの音色を。
リュイは困ったようにうつむいて、なるかな……と口籠もる。
その晩、リュイが眠りについたあと、ティセはそっと起き出して、庭に通じる扉から外へ出た。物音に敏感なリュイだから目が覚めていたかもしれないが、声をかけてはこなかった。
今夜もまた、満天の星が軽やかに瞬いている。わずかに欠けた月が低いところで橙色に染まっている。東屋にひとり腰を下ろし、夜風に包まれる。
ナルジャを出る前の晩を、ティセは思い出していた。校長と話をしたあの晩を……。あのときも、こんなふうに星は降り出しそうで、夜空が、夜の精霊たちが、くすくすと笑いささめくかのように瞬いていた。満月に近い月が東の空の低いところで、しっとりと橙色に染まっていた。
…………あいつと行けたら、なにがあるだろう。
心のなかでつぶやいた瞬間、火傷しそうに熱い「種」が生まれたのだ。
にわかに発芽した熱い想いの虜となって呆然と自宅へ戻った。自室の窓辺で、父の方位磁石を見つめながら心を澄ました。そして、自分のなかに揺るぎないひと筋の直線を引いた。ひたすら垂直に折れることなくティセを貫く、決意の直線を。
いま、ティセはもういちど、揺るぎないひと筋の直線を引かなければならない。ナルジャへ帰るための……――――リュイと別れるための、ひと筋の直線を……――――
衣嚢から父の方位磁石を取り、じっと見つめる。それから、真っ黒な森の上に輝く月を見る。
…………リュイ…………
ひやりとした夜気が、胸の奥にしみじみと染み渡った。涙が込み上げて瞳の奥を焦がしていく。
「う……」
小さく呻く、けれど、ティセは泣かない。うつむき、奥歯を噛みしめて堪えた。
ティセが引かなければならない新たな直線は、ナルジャを出る前の晩のものとはまるで違う。全霊を込めても引きがたい、心がむせびなくほどの切なさをともなった。胸が張り裂けるような痛みをともなった。
方位磁石を右手に握り締め、左腕で自身を抱え込むようにして、ティセは何度も試みる。線は掠れ、途切れ、ときには曲がり、うまく引くことができない。こんなにも…………こんなにも勇気と覚悟を必要としたことは、かつてない――――……。
少しずつ透き通っていく月明かりが東屋を照らしている。月影が移動しているのが分かるほど長く、ティセはつらさを堪えながら、心に線を引き続ける。
翌日は馬を借りて遠出をし、シュウでは有名な鍾乳洞を訪ねた。いちどは観るべき観光地だと、アズハーが勧めてくれたのだ。
言うとおりの奇観であった。以前、タミルカンドで見物した鍾乳洞とは比較にならない規模の巨大な洞穴だ。迷路さながらに入りくんだ深い洞穴は、夥しい数の鍾乳石と石筍に覆われ、ランプの灯りを受けて乳白色に輝いていた。魔界の生きものの棲まう地下帝国のようだった。
「すっげ――――っ!! この世にこんな不思議なとこがあるなんて、まるで別の世界にでも来たみたい!」
大興奮するティセの隣で、リュイは落ち着きながらも興味深げに辺りを見回す。
「すごいな……どのくらいの時をかけてできたんだろう」
すごいと言い合い、顔を見て笑い合う。
帰路、ガルナージャの森を遠く見渡せる丘に立ち寄った。馬から降りて、ふたりは丘の天辺に並んで座る。太陽が森の向こうへ沈もうとしている。これ以上ないほどの素晴らしい夕映えだ。西の空も、丘の上も、夕陽に染まっている。
黄金色の空に幾つも棚引く雲は、燃えるような紅から淡い紅、薄紫まで段階的に色調を変える。空はまさに錦だ。神木を隠した森が、燃え尽きそうに赤く膨張した太陽の下に広がっている。黒々とした森の上、影絵となった鳥の群れが、ゆっくりと過ぎていく。陽は目に見えて落ちていくにも拘わらず、どこかに永遠を孕ませている、そんな夕暮れのひとときだ。
ふたりはなにも話さず、たた夕映えを眺めている。同じ夕風に吹かれ、同じ色の夕陽に肌と衣服を染めている。ふたりの瞳は、違わぬ夕映えを映している。けれど、ティセの放つ鮮やかな色彩に誘われて、リュイの視界が色を取り戻したことを、ティセは知らない。
リュイはぽつりと囁いた。
「……とてもきれい」
そして、同意を求めるように、ゆっくりとティセを見向く。瞳に微笑みを湛えている。
エトラのいたマドラプールの夕映えを思い出す。あの美しい夕映えを、ともにいながらリュイは見ていなかった。同行者と感動を分かち合いたいと思うのは自分だけ――――……リュイとの距離は依然として遠いまま――――……心の底からそう思い知らされて打ちひしがれた。なによりも手痛い衝撃だった。ふたたび夕映えに目を向けても、もう同じ色には見えなかった。
あんなにも遠くにいたリュイは、いま疑いなく間近にいる。ともに景色を眺めて、感動を分かち合っている…………合いたいと、お互いが思っている。
どうしようもないほど嬉しくて、喉が詰まったようになる。溢れる想いを呑み込んで、ティセもまた囁くように返す。
「うん、きれい」
旅の仲間として――――友人として――――ふたりは至近距離まで歩み寄った。至近距離までやって来て――――……すぐさま、別れが訪れた。
真っ赤に燃える夕陽が、ガルナージャの森の向こうへ落ち、最後の光を放って消えた。永遠を孕ませた夕暮れのひとときが終わり、世界はにわかに夜へと急ぎ始める。冷ややかな一陣の夕風が吹き抜ける。ティセはすくと立ち上がり、夕陽の落ちた場所をまっすぐに見据える。
ひとしきり見据え、前を向いたまま、リュイへ告げる。
「リュイ。……俺の旅が、終わるよ」
そのまま、じっと前を向いていた。
ふたたび夕風が吹き抜ける。わずかに冷たさを増していた。だいぶ間を置いたのち、ティセは凛としてリュイを見遣る。
リュイは軽く顔を上げて、ティセを見ている。口元に静かな微笑みを浮かべていた。ただ黙って、微笑んでいた。
やがて、その微笑みを保てなくなったのか、ふいに苦しげに目を細め、視線を逸らす。
「…………おまえの不在に……僕は耐えられるだろうか……」
ひどく切ないことを、もの静かに自問した。
「…………女々しいこと言うなよ……」
すげなく悪態を吐きつつ、本当は痛いほど胸を締めつけられていた。リュイは視線を逸らしたまま、黙ってしまう。
そんなリュイの姿を見つめながら、ティセはつくづくと申し訳なさを感じていた。勝手に後を付いてきて、無理やり孤独から引き離しておきながら、今度はもういちどリュイを独りにするのだ。母を独り置いて出てきたときと同じように、ティセは自分の残酷さが怖ろしいとすら思う。
もしも自分と出会わなければ――――ともに旅をしていなければ――――この先リュイが耐えねばならない寂しさや喪失感は、ありはしなかった。笛がなければ、苦しみもなかったように。
それでも、ともに旅をしていなければと…………リュイは決して言わないだろう。
「ねえ、リュイ」
努めて明るい口調で呼んだ。リュイはおもむろにティセを見上げる。
「どう? 俺、なかなか悪くない相棒だったろ?」
にやりと笑む。
リュイは苦しげな沈黙をふっと解き、紛れもなく疑う隙のない、芯のある微笑みをもって答えた。
「そう、宣言どおり……――――おまえは、最高の相棒だ」
ふたりは慕わしさの籠もった眼差しを向けて、微笑い合う。
お互いが、お互いの――――――このうえない、相棒だ。




