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翌朝、下働きの若者が厨房へ入る物音で、ティセは目が覚めた。とてもよく寝られた。ここ数日の睡眠不足と疲労が、どこかへ吹っ飛んだほどの爽快感に包まれていた。半分だけ開いている戸口から朝日が差し込み、食堂を薄明るく照らしている。ティセは長椅子を降り、往来へ出た。
戸口の前に立ち、朝のハマを眺める。町はすでにひとが出ている。開店準備をするひと、足早にどこかへ出勤するひと、銀色の大きな壺を台車で引いていく牛乳売り、平パンを山盛りにした篭を頭上に載せる流しのパン屋。屋台も出ていて、牛乳と生姜の入った茶のかぐわしい香りが通りを流れている。屋台の前にはくたびれた服を身につけた労働者が幾人も集まって、揚げたてのパンや馬鈴薯の包み揚げをほおばっていた。乗合の小さなロバ車が、その前を過ぎていく。家畜の鳴き声がやかましいナルジャの朝とはまるで異なる都会の朝だ、ティセは感激した。ひんやりとした早朝の空気を肌に感じ、新鮮な朝日を浴びながら、思い切り伸びをする。
「うぅぅ……ん! 絶好調!」
女将のおかげで、ティセは心のなかに新しい薪をくべられたように燃えていた。気力が奥底から湧いてくる、気力というよりはもはや闘志に近い。
昨夜、ティセは自分の気持ちが少し変化していることに気がついた。旅に出てみたい一心であとを追っていた。けれど、衝撃の昼飯や、氷塊のような言葉を受けて、むくむくと芽を出し始めた想いがある。
相棒だと、いつかあいつに言わせてみたい――――
まだなにも知らない相手なのにおかしいだろうか、そう思いながらも、それは旅の目当てのひとつとして、ティセのなかに確実に刻まれ始めていた。
女将の食堂で揚げたてのパンを買った。階段がよく見える左手の長椅子に腰かけて食べていると、リュイが荷を背負って二階から降りてきた。変わらず、ティセとは目を合わせない。新たな薪をくべられたティセはもう動じない。闘志は燃え立つばかりだ。静かに階段を降りてくるリュイへ向かって、にやりと笑んだ。そのとき、ほんのかすかにリュイが眉を寄せたように思えたのは、ティセの期待がもたらせたただの錯覚かもしれない。
朝食を取るリュイを待っていると、女将の娘が牛乳入りの甘い茶を運んできてくれた。
「母さんからよ」
「わお、ありがとう!」
厨房に目を遣れば、女将が片目をつむってにっこりと笑んでいた。ティセは親指を立てて、ニッと笑い返す。
リュイは女将に礼を述べて、戸口を出て行った。出発だ、今日が始まった。
「おばさん、本当にありがとう! すごい元気出たよ。今度来たらちゃんと泊まるからね!」
厨房の女将に手を振って、ティセはリュイのあとを追う。
昨日までと違い、風がひんやりとしていた。ティセは寒さよりは暑さに強い。が、歩くのならば涼しすぎるくらいがちょうどいい。どうせ今日もとんでもない速さで歩くのだろう、歩けばいいさ、いくらだって歩いてやる、ティセはそう思っていた。
ところが、ハマの町の喧噪を抜け、人出がまばらになり、田舎道へ入っても、リュイは歩く速度を上げなかった。ティセは感無量たる面持ちで、後ろ姿を呆然と見つめていた。
声は確実に届いている。振り返りはしなくても、見えていないかのように振る舞い続けても、あの暗緑の瞳に自分は映っている、自分は確実に存在している。ティセは心から安堵していた。それだけで、いまは満足に思えた。
リュイは座るときと同じように背筋を伸ばし、かかとから頭の先までをまっすぐにして歩いていく。歩いていても、両肩が無駄にぶれたり、頭が大きく上下することがない。まるで、直線がすーっと遠ざかっていくような歩きかたをする。姿勢がいいのも無駄がないのも昨日までと変わらない。けれど、後ろから見ていても、リュイの突進には圧倒されるほどの迫力があった。そこはかとなく纏った野性味が増すような剽悍さがあった。いま、その後ろ姿は静けさすら漂っている。昨日までとは印象がずいぶん違い、ティセは不思議な心持ちになった。
それにしても、早足は無駄だと悟ったリュイも、やはり疲れていたのだろう。落ち着き払った表情の裏で、じつはほとほと疲れていたのだと思うと、ティセは可笑しくなった。リュイはいま、どうしたものかと思案しているはずだ。次の作戦はなんだろうか、それを考えると、今度は戦々恐々とした。
村を出てから初めて、ようやく景色を眺める余裕を持った。とはいえ、ナルジャの近辺とほぼ変わらない。ゆるやかな起伏のある大地に田畑が広がり、林が続き、丘が現れる。小川は豊かに水をたたえ、あぜ道に可憐な花が咲く。土壁の民家、木造の作業小屋、道端には土着の神を祀る祠があり、村と呼べる集落にはシータ教の寺院の尖塔がそびえている。牛やロバが代掻きをし、草をはむ。山羊の群れと、枝を片手にそれを追う子供たち。山のような荷物を運搬する人夫やロバと、時折すれ違う。放し飼いの鶏はしきりに地をついばみ、雄叫びを上げる。家畜の匂いが漂い、空はどこまでも青い。北方には万年雪を頂く神々の山の連なりが厳かに輝いている。
ハマに辿り着いたことで、ここがイリアのどのあたりなのか、ティセにも分かった。リュイは西へ向かっている。西方にある山の連なりがもう間近に迫っていた。
いつかもっと遠くへ行けば、本に出てくるような、父が聞かせてくれたような、見たことのない不思議な景色に出会えるのだろうか。古代のひとびとが作ったという、信じられない遺跡の数々や、風変わりな祭りの風景などを、この目で見られるのだろうか。ティセはそのときを想像し、胸を高鳴らせる。
たとえば、海。内陸のイリアには海がない。ティセは海を見たことがなかった。この世界の半分以上が水に覆われているなど、ティセにはとても信じがたい。その巨大な水たまりを、この目で見る日が来るのだろうか。リュイは海を見たことがあるのだろうか……。
まだ見ぬ海へ思いを馳せるうちに、初等部で習った海の唄を歌いたくなった。記憶を辿りながら、唄を口ずさむ。習ったときは、海の唄はいまいちピンと来なかった。が、こうしてその日を待ちわびながら歌うのは悪くない。
そのうち調子に乗ってきた。ティセの歌声はどんどん大きくなっていく。海の唄では飽きたらず、知っている唄を次々と口にした。恋ばかりの流行り唄、俗で卑猥な田植え唄、子供の遊び唄、子守唄、数え唄……。じつのところ歌はあまり上手くない。そのうえ、歩きながら歌うので、しょっちゅう音程が外れた。少しも構わず、気の向くままに歌い続けた。リュイは決して振り返らない。調子外れな歌をがなるティセと、沈黙を守るリュイを、田畑の農夫たちが、薪を背負う女たちが、山羊を追う子供たちが、皆、不思議そうに眺めていた。あいつは内心恥ずかしいに違いない、頭でつぶやくと、ティセはもう可笑しくてたまらない。
その晩は、西に見えていた山の麓の集落の野に過ごした。道は山へ続いている。明日は山を越えるのだろう。半日歌い続けたティセは喉がひりひりと疼いていた。やりすぎた、けれど楽しかった。少し肌寒い夜でもあったので、首に手ぬぐいを巻きつけて、毛布で蓑虫になって寝た。明日の朝もリュイがそこにいてくれますように、と祈りながら。
翌朝、うつらうつらとした眠りから目覚めて毛布から首を出すと、薄明かりに朝靄が濃く立ち込めて、周りの木立を幻想的に包んでいた。靄にまぎれて精霊の影が見え隠れするような霊妙な朝だ。リュイを確かめて、ティセはどきりとした。
リュイは横たえた頭陀袋へ覆い被さるように寝そべったまま、薄く目を開けてティセを見ていたのだ。正確にいえば、ティセを見ているのか定かではない。自分に焦点を当てているのか、微睡みの余韻に浸っているだけなのか、距離や薄暗さのために判然としなかった。しかし、見つめられているとティセは感じた。ティセの身動きには、変わらず反応はしない。俯せたままぴたりと静止し、こちらへ顔を向けている。なにを考えているのだろう、そう思いながらリュイを見つめた。長いこと見つめているうちに、何故か笛の音を思い出した。しじまへ誘う、あの音色を。
ほの明るくなるにつれ、立ち込めていた朝靄がきれぎれに棚引き、野を流れていく。横たわり静止する、彫刻のようなリュイをうっすらと掠めていく。静けさとゆるやかな動が融け合い美しく調和し、リュイを包んでいた。笛の音が、記憶の底から鳴り響く。静寂へ導かんと鳴り響く。まるで、靄にまぎれた精霊の、ひそやかな歌声に聞こえた。ティセはそのとき、朝露ほど儚く、湿り気を帯びた、しめやかな幻を見ている気がしていた。そして、リュイをつくづくきれいだと思った。