13
すっかりと夜が深まり、いつまにか庭園の上には月が昇っていた。白く冴え渡る満月だ。澄み切った光に照らされて、花壇も墓碑も、庭園を囲む蔓日々草も、はっきりと陰影をつけている。泉は月影を映し、さながらそこにもうひとつの月が浮かんでいるかに見えた。腰かけに座るふたりの足元にも影が落ちていた。
リュイが長い告白を終えたあと、ふたりはしばらく無言で月明かりを浴びていた。話し疲れたのか、それともついに打ち明けて呆然としているのか、リュイは伏し目になって足元の先を見つめている。ティセは月を見上げて、リュイの話を、その重さをしみじみと考えていた。
セレイから概ね聞いていたとはいえ、やはり本人の告白はティセの心を強く揺り動かした。聞いていたよりも、想像していたよりも、ずっとつらいものだった。幾度も胸が締めつけられた。
望んでハジャプートになったわけではない、ある意味リュイは被害者といえる。が、故郷の村びとにとってみれば、間違いなく加害者なのだ。もしもナルジャで同じことが起こったら……ティセは考える。ただひとりの行動が原因で、自分や家族、親しいひとびとに大きな苦しみが訪れたら…………果たして簡単に赦せると言えるだろうか。リュイの背負った罪は、どうしても罪なのだ。
けれど、リュイの味方であるという信念は微塵も揺らがない。揺らぎようがない。だからこそ、どんな話を聞いても受け入れられる。身構えることなく、リュイに正面を向けてまっすぐ立てる。
重たげに黙り込むリュイに、ティセはあえて冗談めかした突っ慳貪な口ぶりで問う。
「……ほんっとにおまえは大嘘つきだ。麦畑を手伝ってた初等部時代って嘘かよ」
あまりに軽い口ぶりが意想外だったのだろう、リュイは戸惑ったように幾度か瞬きをした。そして、ティセのさっぱりとした顔つきを眺め見て、安堵したふうにゆっくりと口を開いた。
「……畑仕事なんて、生まれてからいちどもしたことがないよ……」
「泉に沈んだ強欲じじいの死体を友達と見つけたって思い出話は?」
リュイは決まりが悪そうにわずかに笑んで、
「それは、以前読んだ小説の話だ」
「はあ!? 小説ーっ……!!」
やれやれ……ティセはボリボリと頭を掻いた。のち、にわかに真面目になり、
「村はもうないって言ったのも嘘だろう」
リュイも真顔になって答える。
「……そう、嘘。けれど……二度と帰れないのだから、僕にとってはないのと同じだ」
足元の少し先にもういちど目を向けて、リュイは語り続ける。
「おまえにたくさん……数えきれないほど嘘をついた。本当のことを知れば……おまえは僕から離れていくと思っていた。セレイに聞いたかもしれないと気づいたあと、それなら何故離れていかないのか…………何故、平気な顔で僕といられるのか…………本当に分からなかった……。聞いたかもしれないと思うのは、ただの考えすぎなのか…………何度も考えてしまった……」
ティセはああ、と腑に落ちた。この森に辿り着く少し前、朝目覚めてみれば、リュイがこちらをじっと見据えていて、どきりとしたことがあった。いくら考えても分からないことを…………どこか苦しげにそう言っていたのを思い出す。
「たくさんの嘘をついた…………けれど、悪かったとは少しも思っていない……だから、僕は謝れない」
はっきりと告げた。
もちろん謝罪などいらない、欲しくもない。ティセはそう答える代わりに、こう返す。
「本当のことを知らなかったから、俺はなにも知らずにおまえを傷つけるようなことや、気に障るようなことをたくさん言った。だろう?」
「…………」
無言の肯定をした。
「ま、俺はおまえと違って少しは悪かったと思ってるけど、知らなかったんだからしかたがない。それについては謝れない。だから、お互いさまだ」
にやりと笑う。見事に帳消しにしてみせたティセの遣り口がむしろ心に染みたのか、リュイは切なげに目を細め、静かにうなずいた。
ティセは唇を尖らせてぶすっとし、
「知ったら俺が離れてくなんて……俺の友情もずいぶん見くびられたもんだな! 心外だよ、おまえ!」
不満を露わに睨めば、また困ったように伏し目になった。それから、ふたたび語り始める。
「何故、自分だけがあそこに馴染めなかったのか、旅に出てから飽きるほど考えた。どうしても原因が分からなかった…………けれど、アズハーさんの話を聞いて、ようやく分かった……」
「……笛だね」
そっと答えを返す。リュイは瞳に怯えを滲ませ、襟もとの薄布の上から、怖々という手つきで笛に触れた。
「ライデルの占い師は、この笛をとても怖ろしいものだと言っていた。いつの日か、その怖ろしさに気づいて震えるだろうと…………彼女の言うとおりだった……」
ひどく取り乱して居間を出ていった先ほどのリュイの様子と、兄は笛を譲ったことを激しく悔いていたと言ったアズハーの言を思い出す。
リュイは目をきつく閉じて眉根を寄せる。掠れた声でつぶやいた。
「……笛がなければ……僕はハジャプートでいられたはずだ…………これが、僕の払う犠牲なのか…………」
生家に笛が存在しなければ――――……そして、その手に受けていなければ…………庶民とは異なる生活であったとしても、高級軍人として誇りを持って生涯を送ることができただろう。いま抱えている苦しみなど、あるはずもなかっただろう。
ティセはやるせない思いで、うつむくリュイの横顔をひとしきり眺めた。続いて、自分の想いを率直に語る。
「おまえはそのほうが幸せだったのかもしれないけど…………それじゃあ、俺が困るな」
おもむろに顔を上げ、不可解そうにティセを見遣る。その目をまっすぐに見て、
「それじゃあ、俺はおまえと旅ができなかった。大事な親友のひとりと、一生出会えなかったってことだもん」
胸を突かれたように、リュイは少しく目を瞠る。
「……ティセ……」
息だけの声で囁いた。
春の夜風が吹き抜ける。木々は心地よくざわめき、蔓日々草の白い小花が慎ましやかに揺れる。穢れない雪のひとひらさながらに。泉のおもてに細波が立ち、月影が砕けて硝子の破片のようにきらめいた。夜気はますます澄み、まどかな月の光はいよいよ清冽に庭園へ降りそそぐ。ふたりをさやかに照らしている。
静けさが戻る。ティセは声を落として、囁きかけるようにリュイへ問う。
「リュイ……。俺はおまえを傷つけるようなことをたくさん言った。俺が言うたびに…………おまえは俺を憎んだだろう?」
じっと、リュイの瞳を見つめていた。リュイは真顔で黙っていたが、やがてぽつりと、
「……そんなこと……」
「いいや! ……それも嘘だ」
もういちど目を瞠り、ティセを見る。
「おまえは俺を憎んでた。同時に…………おまえは自分を憎んだだろう、俺を憎むよりも、もっとずっと強く……」
途端、リュイは顔を強張らせた。瞳が、唇が、にわかに凍てついたかに見えた。指の先まで動きが止まり、纏った空気すら静止した。まるで、自身さえ知らずにいた心の内を言い当てられて、驚きのあまり声を失ったかのように黙り込む。
暫し、張りつめたように黙り込んでいた。ティセは慕わしげな眼差しで、うつむき加減に黙するリュイを見つめていた。
ティセは告げる。いまふたりを包んでいる春の夜風ほどやわらかく……けれど、強く揺るぎなく、ひたむきに――――
「ねえリュイ…………前に言ってたよね。…………世のなかには、殺されて当然のひともいる……って。誰のこと言ってたのか知らないけど、俺にも確実に言えることがある。おまえがいちばん親しくしてる俺が言うんだから、間違いない、絶対だ。――――……おまえは、そんな人間じゃない――――……」
黒い瞳はいま、このうえもなく自信に満ちている。
リュイはただ、張りつめたまま黙っていた。言葉を忘れてしまったか、目を開けながら意識を失ってしまったかのように、黙り続けている。とても長い、立ち込めるような沈黙だ。
その沈黙を、かつては無視だと受け取り憤慨していた。リュイが言葉を見つけられるまで、ティセは微笑みを湛えながら、いまはいくらでも待つことができる。
唇をかすかに震わせた、のち、リュイはつぶやくように口を開いた。
「……おまえと歩き始めてから…………僕はずっと、おまえが怖かった」
「え……!?」
ティセの瞳を静かに見遣る。
「おまえはとても目がいいから……怖くてたまらなかった……」
「…………」
「僕を見て、兵隊みたいにまっすぐに立つと言っただろう」
「……あ! 言った!」
「……心臓が止まったかと思った……」
言って、もの怖ろしげに目を細める。掠れ気味の声で先を続ける。
「とても目がいいから…………おまえはいつか、僕の罪も、嘘も……すべて見抜く気がしていた……。きっと見抜いて…………決して忘れるなと、僕の目の前に突きつけると……思っていた……」
ティセは目を見開き、呆然とリュイを見る。
「けれど――――……違った……」
ようやく出したような、荒い息交じりの声で否定した。そして、ひと呼吸置いて、声も、瞳も、肩をもわななかせ、
「僕を赦すひとがいるなんて…………考えたことがなかった……――――!」
リュイはまぶたを震わせて、大きくいちど瞬いた。はずみ、左の頬にひと筋の涙を見せた。
「……!」
ティセははっと息を呑む。
「……まるで違った…………おまえは……僕を赦すだけじゃなくて…………」
ふたたび瞬けば、右の頬にも涙を見せた。
「……リュイ……」
両膝に置いた手を握り締めて顔を伏せ、その先はもう言わなかった。――――否、もう言葉にならないのだと分かった。かすかに肩を震わせながら、ただ嗚咽を堪えている。
けれど、言わない言葉の先を、ティセは耳ではなく、心で聞いていた。両頬を伝い、顎の先から膝に落ちる幾つもの雫が、リュイの言葉を伝えていた。まっすぐに落ちていく雫と、同じほどまっすぐに、リュイの心をティセに伝えていた。
――――赦すだけでなく、受け入れてくれる…………そのうえ、分かろうとさえしてくれる…………――――
リュイのなかにかろうじて形を保っていた、触れるほうが怯え戸惑ってしまう薄い氷が、粉々に割れている。赤裸に内側を晒している。初めて知るリュイが、いる。
胸の奥底から、熱いものが込み上げる。一瞬にしてティセをいっぱいにし、さらに留まることなくほとばしり溢れ出す。ティセは全身の隅々から、その熱いものが蒸発していった気さえした。それは、叫び声を上げたいほど激しい、愛おしさだ。
「リュイッ……!!」
両腕で首に抱きついて、ともに泣く。
ティセの二の腕に額を押し当てて、リュイはいつまでも静かに泣いていた。かすかな肩の震えと、鼻をすする小さな音、ときおり漏れる涙交じりの息を、ティセはその後頭部に頬を寄せながら、ひたすら愛おしく感じていた。
南中した満月は尚いっそう白く、霊妙なほど冴え渡る光を降り注ぐ。庭園は夜更けとは思えない明るさに包まれた。ティセはリュイの首の後ろで目を閉じたまま、月の光の降り注ぐ音を聞いていた。鈴の音にも似た、琳と響き渡る光の音色。
ティセには分かる、リュイもいま月光の音に耳を澄ませている。その音はいま自分が感じている音と、まるで同じ音色だろう……――――
ほの白く発光して見える石の腰かけの上で、影はいつまでも寄り添っていた。
**
明け方、リュイは大樹の夢を見た。生家の脇に立つ沙羅樹の下に佇み、静かに見上げるいつもの夢だ。けれど、葉の合間から見える空は故郷の空と同じく、突き抜けるまでに青い。曇天の重々しさから解き放たれた沙羅の葉が、清々しげにそよぎささめいている。光沢のある濃緑の葉が、やわらかな木漏れ日を落としている。見上げるリュイの肌と耳を、気が遠くなるほど心地よく愛撫する。
リュイはまぶたを閉じて、深く、深く息をつく――――……。
それは、数知れない足枷の、そのただひとつからの解放に過ぎないのだとしても――――……紛れもなく、リュイの心を解き放つ。




