12
八日目の早朝に懲罰房から放免された。身体が少し鈍っていた。が、容赦なく鍛錬に加えられ、すぐに勢いを取り戻した。
その晩、就寝時刻を迎えて相部屋の皆が眠りに落ちたあと、リュイはそっと宿舎から裏庭へ出た。幾ばくかの現金と身分証、帰省時に身につける護身用の短剣、そして父の笛を携えて。なんの迷いもない、満天の星が瞬く夜空と同じほど心は澄んでいた。ひんやりとした夜気が、ますます心を冴え渡らせた。
脱走すれば故郷の村がどうなるか、妹の養家がどれほど迷惑を被るか、すべて分かっていた。けれどそれは、抑止力をまったく持たなかった。気配を消して塀へと歩を進めるリュイの頭のなかに、そんな理性はほんの片隅に塵のごとく存在するだけだった。
塀はさほど高くはない。ハジャプートであるのを誇りにしている少年たちが脱走するとは、想定していないからだ。塀に向かって走り、跳んだ。両手はたやすく塀の上に届いた。そうして、リュイは外の世界へ出て行った。
手近な馬車屋の畜舎に忍び込み、馬を盗んだ。月明かりを頼りに、真っ先に妹のもとへと駆けていった。
まだ暗いうちに養家のある村へ辿り着いた。犬が数匹吠え立てて、真夜中の不審者を咎め立てた。射るような眼光を向けて見下ろすと、犬は怯えたように引き下がった。それほどにリュイは張りつめていた。
シンと静まりかえった集落を行き、暫し養家を見つめる。休暇中に数泊していたため、妹がいつもどの部屋で寝ているか知っていた。小さな窓から暗い部屋を覗くと、妹と、その隣りに養母が眠っているのが見えた。
……セレイ……
リュイは諦めかけたが、祈るような気持ちでコツリと小さく窓を叩いた。すると、やや間を置いて、願いが通じたかのように妹は寝返りを打ち、窓のほうへと顔を向けた。そして、むくりと半身を起こした。
リュイは人差し指を唇に当てて、静かに……と命じた。妹はそうっと立ち上がり、裸足のまま戸口から出てきた。毛布の内側のぬくもりをほのかに纏っていた。目を丸くする妹を促して、誰にも声の届かない麦畑の縁まで少しだけ歩いた。
忍び声で話をする。
「こんな夜中に……どうして?」
「僕は施設を出る。どこか……旅に出る」
妹はさらに目を見開いた。顔を強張らせ、
「ど……どうして……!?」
声を震わせた。リュイは伏し目になってつぶやくように答えた。
「僕のいる場所じゃない……」
「……どういう意味……?」
「…………」
「……旅って……どこへ?」
リュイはその答えをまったく用意していなかった。束の間口籠もり、のち咄嗟に返したのは自分でも思いがけない答えだった。
「笛を探しに……」
このとき初めて、旅の建て前を持った。
「笛? ……父さんが話してたもうひとつの笛?」
リュイはうなずいた。妹の瞳をじっと見つめて、
「時間がない。もう行く。……元気で……」
一歩踏み出すと、妹はすがるような声で、
「待って! ……また会えるの……?」
目を背けたまま返事をしないリュイに、涙交じりに乞うた。
「また会えると誓って! 兄さん……」
「……分かった」
けれど、そこには樹がひとつも立っていない。道と麦畑の境に雑草が寂しく生えているばかりだ。一秒でも早く、可能なかぎり遠くへ行きたかった。誓いを立てるにふさわしい樹を探す余裕などなかった。
リュイはその場に両膝を突き、地面に短剣を突き立てた。
「手を……」
妹は目を戸惑わせつつ膝を突き、左手を短剣の柄にかけた。兄妹は向かい合い、互いの左手と右手をそっと合わせた。温かく小さな妹の手のひらは、小刻みに震えていた。目を閉じて、再会を願う。
――――誓いの樹が倒れてさえも、誓約は破られない――――
本来なら神聖な誓いの樹に触れているはずのリュイの右手は、腕が下げられたまま、深夜の冷気に触れていた。誓う対象のない切ない誓い…………誓いの言辞は闇に紛れ虚しく消えて行った。まぶたを開けた妹の瞳には、涙が溢れていた。
できるかぎり遠くへ――――締めつけられるような想いを断ち切って、リュイは南へと駆けていった。
施設のある首都からだいぶ離れた町で、馬を売り払い当面の旅費を得た。そして、徒歩でさらに南へと向かった。ほどなくして、蒼い豺虎に襲われて大怪我を負い、旅は一時中断したが、リュイは捜索の手から逃げ切り、自由を手に入れた。
しかし、外の世界でリュイを待っていたのは、戸惑いと苦痛だけだった。
すべてが決められている環境に生きていたリュイは、自ら考えて行動する必要がなく、したこともないのだ。個は無用、個は害である――――自分自身について深く考えないように誘導されていたため、行動の規範、原理となるべく欲求や感情を自分のなかに明確に見つけることが苦手であった。外の世界に出て、つねに自分と向き合わなければならない状態になってみて、自分の気持ちが分からないことに初めて気がついた。すべてを放棄して大きな自由を手に入れたというよりは、確かに思えるものが内側になにもない空白だらけの自分と向き合い、背負っていく苦痛を手に入れたというほうが正しかった。皮肉にも、縛られた不自由な状態こそが、リュイにとっては安らかなのだった。
そんなリュイが唯一確かに思えるもの、心の拠りどころになりうるものは、扱いに習熟した刀剣や銃器であった。気がつけば、短剣を抱いて眠るようになっていた。
ここではない、どこかへ――――……。けれど、どこへ行けばいいのか、なにをすればいいのか…………胸の内に耳を傾けても、そこにはなにもない。ただ冷たい水が張っていて、その水底からなにかが湧いてくることはないのだった。歩けば歩くほど、空白を感じていく、虚ろで満たされていく。途方もなく広い世界を、悄然と彷徨うしかリュイにはできなかった。
そのうえ、リュイは一般的な常識や倫理観に大きく欠けていた。日常を円満に送るために必要なさまざまなこと…………例えば、挨拶や礼、思いやり、目上の者に対する態度などを始め、常識的な躾が身についていなかった。ひどく世間知らずだった。
冷ややかな目つきをした、少年とは思えない物腰のどこか威圧的な少年、極めて近寄りがたい少年…………ひとびとの目にはそう映った。市井のひととうまく触れあえない、どこへ行っても疎まれ、敬遠されているようだった。リュイはまず、態度や言葉遣いを矯正し、普通の生きかたを学ばなければならなかったのだ。
戸惑いながら少しずつ努力を重ねた。重ねつつも、誰とも関わらず口を閉ざしているほうが、ずっと楽だと感じていた。もとより静けさのなかにいるが、言葉を見つけられずに沈黙へ逃げるようになっていった。
同時に、自分の持っていた常識や知識が、一般のそれとはかけ離れていること、あるいはまるで違うか偏っていることを知った。
そのひとつには、愛国心と忠誠心を規範とした修身の授業で教え込まれた内容も含まれた。シュウ国こそが正義で、総統は善の父のように教えられていた。けれど、外へ出てみれば、ひとびとの認識や思想はさまざまに異なっていた。ハジャプートは盲目の人間だと気がついた。リュイは自分のなかのほぼすべてを覆さなければならなかった。
戸惑いと苦痛にまみれた旅路、宿命から解き放たれたはずであるのに、安らぎや愉しさなど少しも感じない。そんなある日、重い足取りで歩くリュイを、決して出られない深い闇に追いつめるできごとが起こった。
簡素な食堂で、ひとり夕食を取っていた。ほかに数人の客がいて、食事や酒を楽しんでいた。店内は和やかな空気に包まれていた。
にわかに大声が上がった。目を上げると、戸口に立つ男が怒りに顔を歪ませてリュイを睨めつけていた。はらわたから絞り出したように言う。
「おまえ……こんなところでなにしてやがる……」
やせ細った背の低い出稼ぎの農夫だ。見覚えはないが、服装から北部のひとだと分かった。店内は静まりかえり、誰もが食事を中断して農夫とリュイを見つめた。農夫は激昂に目を血走らせ、震え声でリュイに迫った。
「全部おまえのせいだ……村がどうなるか……知っていたんだろう!!」
胸が大きく鼓を打った。故郷の村びとのひとりだ、リュイははっと目を見開く。
「おまえのせいで……子供や年寄りが何人死んだと思う……?」
咄嗟に席を立ちかける。と、農夫は腰に提げた剣を抜き、リュイへ襲いかかった。
「うちの子を返せ!! できないなら死ね!!」
古びた剣が振り回されて、つぎつぎと悲鳴が上がる。客は大慌てで逃げ回り、食卓や椅子が倒れて転がった。リュイは放心したまま、農夫の拙い剣さばきをすべて除けた。そして、代金も払わずに店を飛び出して、夕闇へ向かって全速力で駆けた。
どれほど長く駆けていたか、分からないくらいに駆けた。恐怖と衝撃がそうさせた。すっかりと暮れた林のなかの一本道、ジャガランダの木の下に崩れ落ちた。
荷物にもたれかかり、荒い息を吐いていた。恐怖と衝撃が身体のなかで渦を巻いていた。農夫の振り回した刃が、リュイの心を滅多切りにしていた。
ハジャプートである自分に剣を向けたとて、勝てる可能性などないに等しい。そんなことは農夫も重々承知しているはずだ。にも拘わらず、農夫は死をも忘れるほどの憎しみをもって、自分に剣を向けたのだ。農夫の向けた剣は、いままで見たなかでいちばん怖ろしかった。味わったことのない猛烈な恐怖として目に映った。たとえ自分が剣を抜いていたとしても、農夫の憎しみの刃には敵わなかったのではないか…………リュイはいまでもそう思う。
呼吸が落ちついたあとも、荷物の上に身体を預けてぼんやりとしていた。農夫の血走った目と憎しみの刃、震える怒声が幾度も再生された。
――――うちの子を返せ、できないなら死ね!!
故郷の村がどうなるか分かっていながら出てきた事実を、リュイは初めて深く、重く認識した。途方もない罪を背負っていることに鳥肌が立った。取り返しのつかない、謝罪も償いもできない、手に負えない罪だ。
けれど、もっとも強くリュイを苛む事実は、罪そのものではなかった。村の犠牲を知りつつ出てきておきながら、旅は結局、苦痛と戸惑いでしかない、安堵も愉しみももたらさない、露ほども自分を解き放たないという事実だった。
犠牲を強いてまでした行為、しかし自分に安らぎはない。ならば、その犠牲には意味がない、必要などどこにもない。
…………意味も必要もない犠牲を強いた…………!
もしも、旅が解放であったなら、まだ罪と向き合えたかもしれない――――……。
真っ暗な地面に目を漂わせて、力なくつぶやいた。
「…………僕を赦すひとは……いない……」
自身を忌み嫌う気持ちが猛烈に湧き上がる。見るまに全身を満たしていく。さながら、夜の闇が身体のなかにくまなく流れ込んだかのように黒く。受け止めきれない罪と嫌悪感に囚われて、リュイは深い闇に閉ざされた。
隣りに眠る同志のいない夜を重ねていった。毎夜、胸に疑問が浮かび上がる。いくら考えてもどうしても解けないその疑問について、悶々と考えた。
同じように生きてきたはずであるのに、何故自分だけが異物となったのか、何故周囲とは違ってしまったのか…………。不可解は胸の奥に硬く凝結し、わだかまりとなった。考えるたびに、それは少しずつ膨らんでリュイを息苦しくさせていった。
ほどなくして、シュウを出国した。闇に閉ざされたリュイの視界は、すっかりと色褪せて墨色に沈んでいた。まれに大樹の夢を見る。見上げ尽くした、生家の脇に立つ沙羅の大樹だ。夢のなかで仰げば、濃緑の葉の合間から見える空は、いつでも重々しげに曇っている。故郷の空は青々と晴れ渡る日が多いのに、いつからか、リュイは青空の夢を見ない。夢のなかでさえ墨色に染まっている。
闇と空白を抱え、静けさを纏い歩いていた。そうして、ナルジャの村でティセと出会った。鮮やかな色彩を放つ、ティセ・ビハールと……――――――




