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光の帯さながらの天の河、さやかな星明かりの下、庭園は夜の水底に沈んでいるように静まりかえっていた。泉の縁を円く彩る灰白色の石と、同じ石材を用いた腰かけだけがぼんやりとほの白く浮かび上がる。
リュイは腰かけに座り、やや前屈みになって兄の眠るほうを見つめていた。兄の墓に語りかけていたかに見える。ティセの足音とランプの灯りに気づかないはずはないが、振り向きはしなかった。振り向く気力さえ失われているのか、ほぼ背中しか見えないその姿は、見ているのが苦しくなるほど寂寥としていた。
庭園の縁に佇んだまま、後ろ姿を眺めていた。キョキョキョと鳴く夜鷹の声が、まるで物の怪のそれのようにどこからか響いた。鳴き声が止めば、いっそう深い静けさに包まれた気がした。ひどく声をかけづらかったが、ティセは胸元で左手を握り締めて意を決した。そっと近寄った。
「リュイ……」
やや間を置いて、リュイはとてもゆっくりとティセに顔を向けた。動揺を露わにした先ほどの様子とはまったく違う、落ち着き払った顔つきだった。怖いほど……不自然なまでに冷静な眼差しだ。出会ったばかりのころにしていたような、心の内をなにも語らない目つきだった。
けれど、その眼差しの奥にある、リュイが心の中心に持っている弱さ、脆さを、ティセの目はいまはっきりと捉えていた。心の奥に、触れるほうが怯え戸惑ってしまう薄い氷が、かろうじて形を保っている。指の先を少し触れてしまえば、かすかな音を立てて砕け、たやすく失われてしまいそうな冷静さに思えた。
ティセは囁くふうに尋ねる。
「……具合悪そうだったけど…………平気?」
「ん……」
いつもどおり鼻音で返した。
「あの……邪魔しちゃった……?」
束の間黙っていたが、リュイは目に穏やかさを戻して、
「座れば……」
ティセが隣りに腰かけると、また兄の眠るほうへ目を戻した。足元に置いたランプの灯りを受けて、光沢のある灰白色の腰かけはほのかに輝いた。ふたりで発光体に腰かけているような妙な気分になる。
独りごとのように、リュイは言う。
「……あのひと……もういないんだ……」
「…………残念だよね。俺も会ってみたかったな」
「思い出はあまりないけれど……尋ねてみたいことはたくさんあったように思う……」
笛を譲ったことを激しく悔いていたという、アズハーの漏らした言葉が頭を過ぎる。
「……そっか……」
それきり会話が途切れた。
深い沈黙が訪れれば、また言い出しづらくなりそうで、ティセは自分を急き立てる気持ちで口を開いた。
「リュイ……あの……」
リュイはまた、ゆっくりと目を向けた。顔を背けたままのほうが気が楽ではあったが、あえてその瞳を見て告げる。
「ずっと……言い出せないでいたんだけど……」
すると、リュイはすでに覚悟ができていたかのように、とても穏やかに言った。
「……どこから話そうか――――……」
「え……」
思いがけない言葉に、一瞬呆然とする。目を見開くティセを、リュイはただ静かに見ている。
「……セレイから、僕のことを聞いただろう」
その声音には、聞いてしまったことに対する憤りや不満、諦めさえ、微塵も含まれていなかった。ティセはますます気抜けした。
「……気づいてたの……?」
「ん……」
「……いつ気づいた?」
リュイは前を向き直し、目線を落とした。
「食堂で、ハジャプートの話になったことがあったろう……おまえにも聞こえていたはずなのに、それはなにかと、おまえは尋ねてこなかった……ひどく不自然に思った」
未知のものに興味を示してやまないティセがやり過ごしたことに、強い違和感を覚えていたのだった。
「けれど、確信したのは昨日のことだ」
「昨日!?」
「…………昨日、僕のついた嘘がひとつ破綻した……。おまえなら気づかなかったはずはないのに、それも聞き流した……だから確信した」
ティセは昨日のことを思い返した。
「それは……おまえの兄貴の名前が本当はめずらしい名前だっていう嘘のこと?」
「そう」
ラグラダ滞在中、リュイは兄の名も父の名もひどくありふれた名であるため、氏名を聞いても本人だと確信できないと話していた。
「イブリアのひとは伝統的に名前の創作をしない、近親の誰かにあやかって同じ名をつけるのがほとんどだ…………父の趣味だったのか、僕もセレイもめずらしい名前なんだ。本当は……名前と歳を聞いて、間違いなく兄だとすぐに分かった」
そう告白して、いちどまぶたを伏せた。
「……やっぱりな。ラグラダにいたとき、おまえの様子は少しおかしかったし、たぶんそうだと思ってたよ。だから、昨日のアズハーさんの話を聞いても、そこはあんまり引っかからなかったんだ」
「そう……もう気づいていたんだ……」
昨夜、真剣な眼差しを向けて呼びかけた、あのときリュイが本当に口にしようとしていたのは、この確信についてだったのだろう。ティセも前を向き、同じように目線を落とす。
「おまえがなにか大きな隠しごとをしてるのは、もうだいぶ前から気づいてた。スリダワルで離れ離れになってたときからね。あのときいろいろ考えて……」
「…………」
「そのうち、本当はもうひとつの笛を探してないことにも気づいた」
リュイは負けたときに思わず出るような長い溜め息をついた。
「……笛を知りたい気持ちはもちろんある…………けれど、笛が見つかってしまったら、僕はもうどうしていいのか分からない……ずっとそう思っていた……」
「うん、だと思ってた」
さも遣り切れないように目を細めて、リュイは黙り込んだ。ティセは心持ちを真摯にさせて、その横顔に向かう。
「リュイ。……勝手に聞いちゃって、ごめんなさい」
暫し黙ったままでいたが、おもむろに目を上げた。
「……セレイのほうが話したがったんだろう」
「……なんで分かるの?」
「なんとなく……。僕の厭がることを、おまえはしない……」
ティセははっと胸を突かれた。
「どうして……セレイに口止めしなかったの?」
「……口止めするには、それを口にしなければならない……だから……」
思い詰めているときにするような表情で答えた。
自ら過去に触れることも憚られる、リュイ自身が見つめたくない、永遠に封じ込めてしまいたい事実――――ティセの想像していたとおりだった。改めて、その苦しみの深さに寒気を覚えた気がした。
顔つきを少しだけやわらかくして、リュイは続ける。
「けれど、セレイが話してくれてよかったと、いまは思う。自分から打ち明けるなんて、僕には絶対にできなかったから……」
そして、ほぼ息だけの掠れ声でつぶやいた。
「――――……もう……嘘をつかなくて済む…………」
そのひと言は、打ち寄せる波のようにティセの胸に広がって、深く、くまなく染みていった。目頭が熱くなり、涙が零れそうになるのを耐えた。
本当にいいのかと、念を押すようにリュイへ問う。
「それでも…………話してくれるつもりなの……?」
いちど大きくまぶたを伏せた。ことのほか落ち着いた言葉つきで、リュイは言う。
「聞きたいのなら……」
ティセはその目をじっと見据える。
「……どこから話そうか」
「――――じゃあ……最初から……――――」
夜風がざあっと吹き抜けて、森がざわめいた。どこかで夜鷹が激しく鳴いた。ひととき、庭園は不穏な空気が立ち込める。音が止めば、なお深い静けさに包まれた。満天の星は磨かれたように光りさんざめき、夜気は澄み渡る。ほの白く発光してみえる腰かけに並んだまま、ふたりは束の間静けさに耳を傾けた。
やがて、リュイは重たげに口を開いた。




