8
リュイは昼を過ぎても戻らずに、陽が傾きかけたころになってようやく帰ってきた。とても穏やかな顔つきをして、庭に姿を見せた。
庭にある正方形をした東屋で待っていたティセはすくと立ち上がり、腕を組み意味もなくふんぞり返る。
「……おまえ……まさかいままで祈ってたんじゃないだろうな……」
「いや……いつのまにか眠ってしまって……」
「寝てたぁ!? 昼飯も食わずにいままでか!」
すっかり忘れていたように、「そういえば昼を食べていなかった」と口の端をわずかに上げた。
「寄りかかって葉音を聞いていたら、つい……微睡みながらずっと葉音が聞こえていた。とても気持ちがよかった……」
ふふ、とやわらかく微笑うリュイを見れば、ティセもまた満たされた気分になった。
「呆れちゃうぜ……」
故意に意地悪を言ってみせる。
「アズハーさんがね、謎が解けたお祝いに今晩はご馳走を食わせてくれるって言ってたから、昼の分も食べたらいいよ。さっき下男の兄ちゃんが町へ買い出しに行ったよ。楽しみだなあ」
そう、とリュイは東屋の長椅子に腰を下ろした。ティセも隣りに腰を下ろす。満たされた気分のままリュイを見向き、
「でも……ガルナージャに祈るのが見られて、俺は嬉しかったんだ……」
へへへ、と照れ笑いをするティセを見て、リュイはさも不思議そうに首を傾げた。
「何故……?」
「だって、セザさんちのご本尊にも、イブリア街の祈りの樹にも、おまえは祈らなかっただろ…………なんか残念に思ってたんだ」
心の底から驚いたように、リュイははっと目元を強張らせた。
「…………そんなことを気にしていたの!? …………本当に、よく見ているな……」
怖いものを見るように、ティセを見た。ティセは意味深げにニヤリと笑みを返す。
「おまえが祈ってるとこ眺めてんの、きらいじゃないぜ」
リュイは少しだけ気恥ずかしそうに、かすかに口を尖らせた。
木目の美しい重厚な食卓にいくつもの料理が順に運ばれてきた。前菜に野菜の肉詰めや乾酪をたっぷり用いた天火焼きなどを数種類、素材の旨味を極限まで引き出した滋味に富む汁物が続き、中心にはやわらかで香り高い仔羊の蒸し焼きを。のち、手の込んだ調味料を添えた色鮮やかな生野菜料理が、脂にまみれた口内を見事にさっぱりとさせる。異国風の正餐だ。どれも、庶民が日常用いる真鍮やアルミの食器ではなく、白磁の食器に盛られていた。深みのある食卓の色合いに、まぶしいほど白い食器が美しく引き立って、盛られた料理をさらに豪華に美味しく見せていた。
「何度も言うが遠慮は無用だ。今日はすばらしいものを見せてもらった。きみたちのおかげで私は非常に楽しんでいる」
やはり気むずかしそうな顔つきで、アズハーは気さくに述べた。
昨日ともにした夕食はシュウ式だった。今晩は料理に合わせ、ナイフと肉叉、匙が用意されていた。匙はともかく、ナイフと肉叉の扱いに慣れないティセは悪戦苦闘、誰の目から見ても不器用に、辿々しく手を動かしていた。見かねたアズハーの妻がにこやかに、
「普段通りにしていいのよ。ここにいるひとは誰も気にしないからね」
「……すいません……」
顔から火が出そうに恥ずかしかった。ちらりとリュイを見れば、何の苦もなさそうに滑らかな手つきで食していた。こんなことまで習っているのかと、感心しつつ半ば呆れた。
晩餐は和やかな雰囲気で進んだ。アズハーの自分語りが、ティセには大変おもしろかった。
一家の本宅は最大都市バンダルバードにあるが、イリアも含め支社をもつ複数の国に別邸を持っていた。それらの国や地域についてをよく知っていた。そのうえ、大陸のはるか西にある国への留学経験や、海の向こうにある国への渡航経験まであった。ティセは声を震わせる。
「う……海の向こう……!」
いまだかつて海の向こうの世界を知る者には出会ったことがない。アズハーの話は、ティセの興味をこれでもかと掻き立てた。
妻によれば、アズハーは上流階級のひとびとの間では、有名な奇人・変人で通っているという。その階層のたしなみである乗馬や狩猟などの競技は一切せず、社交場にも極力顔を出さない。代わりに、中流階級が集うような酒場へ身分を隠してこっそり紛れ込み、若い学者や意気盛んな学生、ならずもの紙一重の前衛芸術家などとばかり親しんでいるそうだ。呆れ顔で話す妻に「道楽者は自分の好きなこと以外はしないものだ」と、さも正当であるかのように返した。
家業は祖父の創業で、国を股にかける企業にまで発展させたのは父親、アズハーは三代目だ。社長を引き継いだのは、つい昨年のことだという。
「私は正直、家業には興味がない。ほかの者に継がせればいいと、人権などという言葉まで使って再三進言したのだが、無駄だった」
苦笑いを浮かべて言った。
「昔からどうにも父とは折り合いが悪くてね……。軍の急襲を受けて命からがら自宅へ戻った。自宅へは滅多に寄りつかないので、久しぶりに父に会った。どこから聞いたのか、私が中立部隊に参加していることを知っていて、いまにも卒倒しそうなほど怒りに燃えていた……」
どこから聞いたのか……と口にしながら、アズハーは部屋の隅に控える執事を一瞥した。執事は目を逸らし、ウォッホンと小さく咳払いをする。執事というよりは、不良息子のお目付役なのかもしれない。
「父は政府の高官とも繋がりを持つひとだから、息子の私が参加していたことを許せるはずがなかったんだ。それから父はもう私の話を一切聞かなくなった。勝手に準備を進めて社長の椅子に無理に座らせ、自分は会長に収まった。……ひどいはなしだ」
最後のひと言を苦々しげに言い放った。のち、自嘲気味に口角を上げ、
「といっても、私はまだお飾りに過ぎない。すべての権限を父が握っている。言うなれば、私は指示通り書類に署名をするだけの機械のようなものだ。……こんなに莫迦げたことがあるか、つまらん」
妻は食後の茶をひとくち口にして、にやにや顔で窘める。
「アズハー、完全に愚痴になってるわ」
「おっと、失礼した」
自分を皮肉るように微笑う。
こんな大富豪にも、自分と母親とのような不和があるのだった。そのうえ、アズハーは大人になったいまでも終わらない反抗期にあるのだと、ティセはなにやら可笑しく思った。そして、ますます興味を惹かれ、親しみを深くした。
小さなシューナの就寝時刻になったため、妻は退席した。就寝時には必ず肉親が側にいることを決まりにしているのだという。おやすみなさい、と居間の扉がゆっくり開閉された折り、窓から涼やかな夜風が吹き込んだ。室内の空気が一新されて、束の間静けさが立ち込める。
給仕が来て新しい茶を注いでいった。湯気の立つ茶を静かに口にするリュイの様子を、アズハーはなにか考え込んでいるような重々しげな眼差しで見ている。
「きみはいつごろ、笛の音を出せるようになったのかい」
リュイは幾何学模様の施された茶碗を手にしたまま、目を上げた。
「一年と少し前に、ようやく……」
「そう、最近のことなのか……」
やや意外そうに返した。ティセはそれを知ったときの驚きを思い出し、
「八歳のころから手元に持ってるっていうのに、ずいぶん厳しい笛ですよね」
「シューナは物心がついたころにはもう音を出せたと話していた。逆に出せなかったころの記憶のほうがおぼろげだと……」
ティセは小さく「へえ……」とうなった。
「……ねえ、リュイの父さんは曲を奏でてはいたけど、アズハーさんやコイララが言うような重奏じゃなかったんだろ? ってことは、父さんは最期まで聖笛使にはならなかったってことだよね。……かなり個人差が激しいな」
リュイは食卓の上に目を落とし、
「ん……」
暫し、そのまま黙していた。おもむろに目を上げて、アズハーへ問う。
「兄がどうやって笛の使い手になったのか、聞いていますか……」
「……いや、旅をしているうちに……とは聞いたが、なにか方法やきっかけがあったのかどうかは聞いていない。ただ……――」
ひと呼吸置いて、アズハーは続ける。
「もしも笛がいま手元にあったとして、イブリアでない自分にも音を出せるものだろうかと尋ねたことがあった。シューナは少し考えてから、こう答えた。強く望めば、もしかしたら…………と」
「……強く望めば……」
ふたりとも、同じようにつぶやいた。
アズハーは茶を口にしたのち、妙にゆっくりとした手つきで茶碗を受け皿へ戻した。なにか深刻なことを念頭に浮かべているときにするような仕草だ。コトリ、と小さな音がいやに鋭く耳を突いた。
――――そのときティセは、辺りの空気が急に色を変えたような違和感に包まれた。
堅苦しさのある普段の低声を、いっそう厳粛にさせてアズハーは語り始める。その目はまっすぐにリュイを向いていた。
「シューナは言っていた。笛は音を聴く者にだけ作用するのではない……。むしろそれよりも、笛を持つ者、笛を鳴らす者に強く作用して、大きな影響を与えるのだと。笛を支配するのは使い手ではなく、笛がひとを使い手にふさわしい者へと作りかえていくのであり、笛が使い手を支配するのだと…………。シューナは、笛が自分を使い手に育て上げてくれたと語っていた」
リュイは耳を疑うことを聞いたときのように、愕然とした顔つきでアズハーを見つめた。
「…………笛が……作りかえる……」
口のなかでくり返す声は、かすかに震えていた。
「そう……。持ち主の意思や状況とは無関係に…………。癒しの笛は、とても怖ろしいものでもあると話していた……」
途端、リュイは右手の茶碗をひどく乱暴に置いた。それが割れやすいものであることなど、少しも頭に上っていない置きかただ。鋭い音が上がり、茶が零れて食卓に飛び散った。つねにもの静かであるリュイの振る舞いとは思えない所作だ。
リュイは固まった。右手も白い袖口にも茶がかかっていたが、熱さも不快さも感じていないようだ。表情ひとつなく、どこを見ているのかも分からない、ただ宙の一点に囚われたようになって、沈黙する。纏った空気までもが、凍てついたように固まっていた。
完全に――――……我を失って見えた。
束の間、居間は不自然に静まりかえる。
「……リュイ……?」
尋ねたティセの声も、耳には届かなかったようだ。アズハーは厳粛にさせた声音と同じほど真剣な眼差しで、食卓をじっと見つめ続けていた。
突然、リュイはガタリと音を立てて席を立った。弱々しく握った拳を口元に当て、まるで吐き気を堪えているふうな仕草と表情で、
「失礼します……」
ようやく出したような小声で言い残し、足早に居間を出ていった。バァンと大きな音を上げて閉まった、その無作法な扉の閉めかたが、動揺の激しさと余裕のなさをありありと物語っていた。
思わずティセも椅子から立ち上がり、
「リュイ!?」
出て行った扉を見向く。
こんなにもあからさまに取り乱したリュイを初めて見た。呆然と扉を見つめて立ちつくす。苦しげに眉をしかめていたその顔が頭に焼きつき、鼓膜が破れるほど大きかった扉の音が耳の奥にこだまする。
…………リュイ…………
ふいに、独りごとのようにひそやかに、アズハーが口にする。
「……シューナは……笛を譲ったことを激しく悔いていた……」
……え……?
見れば、アズハーはリュイが出て行った扉を同じように見つめていた。ひどく切なげに眉を寄せ、目にやるせなさを滲ませている。
……それは、どういう……
ティセが口を開くまえに、アズハーは目線を戻した。そして、いや、なんでもない……と言いたげに、静かに首を横へ振った。
「なにか……思うことがあるんだろう。そっとしておこう……」
ふたたび伏し目になり口をつぐんだ。はっとするほど、沈鬱な表情だった。
心苦しげに皺めたその眉間を見ているうちに、ティセは思い及ぶ。
……アズハーさんは、もしかして……
立ち込める静けさを乱さぬよう、そろそろと腰を下ろした。目の前の、まだうっすらと湯気の上がる茶碗をじいっと見据える。
アズハーは、リュイがハジャプートであるのを、シューナから聞いて知っているのかもしれない――――……。ティセは間違いないように思った。
しばらくしてから、与えられた部屋へ戻った。なんとなく予想していたとおり、リュイは部屋には戻っていない。室内は真っ暗だった。寝台脇のランプを小さく灯す。
室内履きを軽く蹴飛ばすふうに脱ぎ、美しく整えられた寝台に仰向けになった。日中に寝具を替えてくれたのだろう、清潔な匂いに包まれる。ぼんやりと照らされた白い天井を仰ぎながら、リュイが受けた衝撃を想像していた。夜の空気が徐々に冷たくなっていくのを感じるほど長く、考え続けていた。
セレイの話が細かく思い返されて、頭のなかを幾度も過ぎる。
自分のいる場所じゃないと、別れを告げに来た晩にひと言だけ話していたこと。向いていないのではないかと、セレイの養父母が懸念していたこと…………もしかしたらリュイ自身が向いていないと感じていたのかもしれない、セレイはそんな憶測をしていた。
笛を持ちながらも、イブリアの自覚が希薄であるからか、リュイは笛に愛着を示さない。笛を語るリュイの目はいつでも醒めている、そして怯えている。薄気味が悪いとさえ語るのだ。
さまざまな断片が、次々と脳裏に去来する。ティセはそのひとつひとつを凝視して、まるで嵌め絵のように当てはめていく。全体像を描いていく。
――――笛を支配するのは使い手ではない――――
笛が使い手を支配するのだとすれば、犠牲を強いるのを知りつつも脱走したのは、本当にリュイの自然な意志だったのか……。
笛が作りかえる……リュイは声を震わせてくり返した。アズハーの返した言葉を――――……ティセは一句違わずに頭でくり返す。
――――持ち主の意思や状況とは無関係に……――――
混沌と浮かび続けた複数の断片が、瞬間、一分の隙もなくぴたりと合わさった。ティセは目をかっと見開いた。仰向いたまま、暫し、瞬きもせずに身動きを止めた。
言い知れない想いが、胸の奥から噴き上がる。想いは見るまに胸を満たし、喉元を突き上げる。想いに押し出されて、わななくふうにつぶやいた。
「…………リュイ……おまえが、分かった…………」
ひと息に半身を起こす。前方の壁の一点をひとしきり見つめる。そして、心を据える。ありったけの勇気を腹の底からかなぐり、両の拳を硬く握り締める。
――――いまなら……いまなら話せる……!
寝台から飛び降りて、庭に面したほうの扉を開ける。客用の外履きをつっかけて庭へ出た。途端、ひんやりとした夜気が肌を撫でる。まずは庭の隅にある東屋を窺った。が、人影はない。
東屋でないのなら、あそこ――――……兄の眠る小さな楽園だ。一旦部屋へ戻り、寝台脇のランプを手にして庭の木戸を出た。ティセは夜の森の冷気に包まれた。
いまなら話せる、セレイからすべて聞いていることを。むしろ、いましか話せない、ティセはそう感じていた。話して、それからなにを言えばいいのか、なんの手立ても考えもありはしない。リュイはさらに衝撃を受けるだろう。
けれど、リュイの内側が明瞭に見えたいまなら――――……それはただひとつの側面に過ぎなくとも、手のひらに包んで見つめているみたいに目交に見えたいまなら――――……自分の持っている以上の言葉を見つけられる予感がする。あたかも奇跡のように――――……。
震えるように蕾を開く奇跡の花を、ティセはいま心の奥に抱いている。




