7
青々と澄んだ空に、真綿のように白く輝く薄い雲がきれぎれに浮かんでいる。穏やかな風は森の香りを孕み、落ち着いた佇まいの別邸を包み込む。すがすがしい午前の庭で、ふたりはアズハーと落ち合った。
アズハーは上着を身につけず、白いシャツの裾さえ仕舞わず自由にそよがせて、堂々と庭へ降りてきた。くつろいだ……というよりは砕け過ぎた格好であるが、まるで気にするふうもない。その装いとは少々落差を覚えずにいられない気むずかしさの漂う声で、
「待たせて申し訳ない。妻がこれを拵えていて、遅くなってしまった」
ヒナギクを編み込んだ白い花輪を左腕に掛けていた。それをリュイへ差し出し、
「これはきみに」
リュイは戸惑い気味に花輪を受け取った。
「さあ行こう。すぐそこだ」
三人は庭の隅にある木戸から、木立のなかへ続く小道を行った。途端、空気がいっそう清涼になる。土の匂いと青葉の若々しい香りが鼻腔にどっと流れ込む。
森の空気は清涼なだけではない。雪崩のように襲い来る匂いに、ティセはどこか残忍なものを感じた。森が侵入者を威圧しているかのようで、おのずと身が引き締まる。木戸から先は、さながら異界だ。
少し行くと、小さな庭園に辿り着いた。
「ここだ」
両腕を広げた程度の大きさの泉を中心にした円形の庭、そのぐるりを、紫がかった白い小花をつけた蔓日々草が生い茂る。泉の縁は磨かれた灰白色の石で彩られ、日差しにきらめいて見える。水面は静まりかえり、広がる枝葉に円く切り取られた青空と葉陰を鏡のように映し込む。泉の手前には手入れの行き届いた花壇があり、三色の花々が植えられていた。泉の縁と同じ石材で造られた簡素な腰かけが、庭の隅に置かれている。森のほとりにひっそりと隠された緑陰の庭は、まるでささやかな楽園のようだった。
「……きれいだなぁ」
森への畏怖を忘れて、ティセは思わず息を漏らした。
「ちょうどきれいな泉が湧いていたので、ここに墓を立てたんだ。家も含めてこの辺りまではだいぶ整備した。別邸の管理人には一日置きに手入れをするように言ってある。いつ来ても美しい、感心な管理人だ」
アズハーはゆっくりと花壇の前へ進んだ。ふたりもその後に続く。
花々が咲き乱れる花壇の手前側に、淡青色をした平たい石碑が置かれている。ひとの肩幅より少しだけ大きな横長の石碑だ。
――――笛の使い手 ここに眠る――――
ただひとこと刻まれた慎ましやかな墓標は、けれど、浮き彫りの華美な装飾なぞ寄せつけないまでに、優美に、孤高に感じられた。
「もっと豪華な碑を立ててもよかったんだが、シューナの控えめな性格にはとてもそぐわない気がしてね。さりげなく、けれど美しい…………そう、樹に祈りを捧げているときのシューナのように、あるがままの美しさを感じさせる素朴な碑を選んだんだ」
さあ、とアズハーは背後に立つリュイを促した。そして、亡き友に語りかける口調で、
「まさか弟が会いに来るなんて、思っていなかっただろう。…………いや、あるいは予想していたのかもしれないな…………本当に、シューナは不思議な男だった……」
リュイはためらうように幾度か瞬きをしたのち、身を屈め、花輪をそっと石碑の上に置いた。立て膝をして黙祷を捧げ始めたアズハーに倣い、同じように膝を折り、亡き兄に祈りを捧げる。ティセはふたりの後ろに控えて、同じく黙祷をした。
木漏れ日が揺らめく。木々のそよめきと小鳥のさえずりだけに、楽園は包まれた。長い、長い祈りだった。やがて、アズハーは目を開けた。墓碑を見つめたまま、静かに語る。
「軍の急襲を受けたとき、妻は出産を控えていて自宅へ戻っていた。だからシューナは私を庇った……父親になるひとが死んだら駄目だろう……そう言っていた」
リュイはその横顔を見ながら、どう返せばいいのか分からないのだろう、黙って聞いていた。困惑を察したのか、アズハーは穏やかな目を向ける。
「息子の名はもちろんシューナから頂いた。本人の許可はもらっていないが、妻も賛成してくれた。シューナのように愛されるひとになるように…………シューナの分も生を全うするように……」
ややあってから、リュイはつぶやくように返した。
「……それなら、兄の名がすぐにイブリアと分かる名でなくて、よかったかもしれません……」
アズハーは曖昧な笑みを浮かべた。
ふいに強めの風が吹き抜けて、木々が大きくざわめいた。森の声に促されるように、リュイはすっと立ち上がる。そして、なにかに向かいまっすぐに立ち、そちらへじっと目を据えた。
「なにか感じるの?」
リュイは眼差しを若干険しくさせて、腕を伸ばして指し示す。
「昨日の夜の……あの力」
指し示すほうへ、生い茂る緑の奥へ、ティセもまっすぐに目を向けた。にわかに胸が高まり、鳥肌が立つほど張りつめる。射貫くように、ひとしきり森の奥を見据える。
「行こう、リュイ」
ふたりは目を合わせてうなずき合った。
すると、同じように目を向けていたアズハーは、
「その大きな沙羅樹の立つ場所が分かるのかい……。差し支えなければ、同行させてくれないか。シューナが聴かせてくれた笛の音についてを、私ももっとよく知りたい」
真摯な顔つきで申し出た。拒否する理由はどこにもない、リュイは簡潔に返す。
「もちろん、どうぞ」
左腰の長剣を抜き、庭園の奥へ踏み出した。咲き乱れる蔓日々草のなかを突き進む。その後ろにティセとアズハーが続く。ガルナージャの森の懐へと、導かれる。
頭上高くに枝葉が広がり、完全に日陰となった。肌寒さを感じるほど冷ややかな空気は、かすかに青みを帯びている。前を行くリュイの白衣がうっすらと青に染まる。
下草を剣で薙ぐように掻き分けながら、リュイは無言で進む。その葉音で侵入者を知った栗鼠たちが、木の上を走り回る。鳥のさえずりに交じり、警戒を促す猿の鳴き声が遠くから聞こえる。静謐な森の秩序を乱して進んでいく。
しばらく行くうちに雲が多くなってきて、まもなく完全に曇り空となった。ただでさえ日陰の森のなかは、いっそう薄暗くなった。
「なんか暗くなっちゃったね、リュイ、まだかな、ほんとにこっち?」
「……方向は合っている……けれど……」
あとどれだけ歩けば辿り着くのか見当がつかないと、覚束ない口調で答えた。
「雨でも降り出したらやっかい――――……」
「あ……!」
リュイは小さく声を上げて足を止めた。前方をじっと見ている。
「なにかある……」
「なになに!?」
ティセは身を乗り出して、前方に目を凝らす。木立の奥に、納屋ほどの大きさのなにかがあった。巨大な岩のようにも人工物のようにも見えたが、一面緑に覆われていて判然としない。
後ろでアズハーが私見を述べる。
「……岩にしては不自然だな、ひとの手によるものに見えるが」
「行ってみようよ」
リュイはふたたび歩き始めた。
見事な透かし編みに似た蜘蛛の巣を剣で払い落として、そこへ出た。
蔓で覆われているものの、全体の形が不自然に整っている。アズハーの言うとおりひとの手によるもののようだった。木々に埋もれて忘れ去れた、古い祠のような印象だ。
「まるで遺跡だ。昨日きみが話していたイブリアの村の痕跡かな」
各々近寄り、絡みつく蔓の隙間を丹念に眺め見る。薄暗さも手伝ってよく見えない。ティセはぐるりと裏のほうへ回りつつ、蔓の少ない部分を探した。
と、蔓の下に彫り物がちらりと見えた。
「リュイ! なにか彫ってある!」
ともに顔を近づけて、まじまじと彫り物を見る。文字だ。
「……蔓を払ってみようか」
「よっしゃ!」
絡みつく蔓を力任せに引きはがし始めると、
「手伝おう」
アズハーも手を付けた。
はびこる蔓の力強さにだいぶ手間取ったが、やがて、彫り物の大部分が露わになった。それは石を積み上げてできた建造物だった。黒く変色した壁面に、長々と碑文が刻まれている。穿たれた文字のくぼみに土が溜まり込んでいる。摩耗した石にはわずかな隙間が生じ、そこから雑草がみっちりと生えている。とても古いものであることは、刻まれた文字からも判断できた。
ティセは目で文字を追いながら、
「……これって……古い言葉だよね……」
「ん……」
「綴りも文法もだいぶ違ってて、よく分かんないな……おまえ分かる?」
「いや、分からない……」
すると、ふたりの一歩後ろで、アズハーはおもむろに腕を組み、
「――――誓約の乙女……」
低くつぶやくように述べた。
ふたりは目を瞠り、アズハーを振り返る。
「読めるんですかっ……!?」
ティセが声を上げる。アズハーは壁面に目を向けたまま、
「古語は大学時代に履修した。しかし…………待ちなさい、いま思い出す」
じっと黙り込み、刻まれた碑文を目で辿る。来てもらってよかったと、ふたりは目で言い合いアズハーを待った。
ほどなくして、アズハーは納得したように「ふん……」とひとりうなずいた。
「おおむね分かった。訳は拙いが、多目に見てくれたまえ」
ふたりは長々と続く文字に刮目する。緊張感を孕んだアズハーの低声が、木立のなかに響き始める。
「……止まぬ争いに傷つき、やすらかなる永き眠りを望んだ美しき乙女が、ガルナージャに見初められた……」
「あの民話だ!」
はからずも声を合わせた。
「……ガルナージャとはなんだ?」
「目当てにしていた沙羅の大木のことです」
「ほう……」
アズハーは静かに先を続ける。
――――乙女は導かれ、千日の祈りを捧げた。雨や風、闇さえも怖れない全霊の祈り。千と一日目、ガルナージャは乙女に霊験を示し賜う。ガルナージャはひとの姿に己を変えて、乙女の前に立つ。
乙女は平安を請い願い、代償として身を捧げ、誓約を受けたガルナージャは乙女の願いを成就した。
ガルナージャの妻となった乙女は、麗しき子を成した。聖なる子は生後七日目に、ひとつの笛に姿を変えた。心のしじまへ導く笛を携えた乙女は、静謐なるガルナージャの森に抱かれたまま、その生涯を閉じた。生も死も、やすらかなれ……――――
長い沈黙が流れた。鳥のさえずりと木々のささめきだけに包まれた。
リュイは表情もなく碑文を見つめたまま、微動だにしない。耳際に垂れる長い髪だけが風に揺れている。ティセは掛ける言葉を見つけられずに、すぐ横に立ちつくすリュイをただひたすらに意識していた。
アズハーが静かに言った。
「つまり、これはその乙女の霊廟なんだろう」
ティセはつぶやくように返す。
「……初めの聖笛使……」
リュイはうつむいて、やるせないかのようにゆっくりと瞬きをした。のち、ティセを振り向いて、溜め息交じりに言う。
「……ティセ……笛はひとつだ……」
「……うん……おまえの笛が唯一の笛だ……」
アズハーも溜め息をつき、
「時を経るうちに、いつまにか言い伝えが違ってしまったのか……」
言って、廟をしみじみと眺め見る。
「シューナもここへ来たのかもしれない……あるいは、笛を自在に鳴らせるようになったとき、笛はひとつだと自然に理解したのか……」
なにか考え込んでいるのか、リュイはうつむき加減に黙していたが、ふいに顔を上げ、
「笛が……」
襟もとから笛を取り出した。またもや光を放っている。アズハーが目を見開く。
「ほう……!」
木陰とはいえ日中であるにも拘わらず、光は昨夜よりも明るく見える。母である乙女の霊廟の前で、存在を示すように、喜びを表すように、沁みるような緑光の珠となり輝いている。手のひらにそっと包まれる笛に、視線が集まった。
「……美しい……」
「ほんとに、生きて心があるみたい……」
にわかに、笛は緑がかった光をひと筋に束ねた。リュイの手のひらのなかから、その胸を貫くかのように光を放つ。
「……っ!」
瞬間、ティセは強い不安に襲われた。昨日、鋭い笛の音がその胸を突いていったのと同様に、今度は光に射貫かれたと思ったからだ。
リュイは胸元に当たる光を、白衣を刺した緑の一点を、不可解げに凝視した。暫し、目を瞠り胸元を見据えていた――――――が、急に解したように、身体ごと振り返る。
光は長い線となり、木々の間をまっすぐに貫いた。同時に生み出されたひと筋の突風が、光の貫いた同じ道筋を、ざっと鋭く吹き抜けた。光の線は瞬く間もなく掠れ消えてしまったが、鋭い風は下草を一瞬にしてなぎ倒し、森の奥へと続く小道を作り出していた。まるで、笛に宿っていたものが光となって抜け出して、駆けていったかに見えた。
皆、呆然と小道の先へ目を向けた。千切れた草や木の葉がひらひらと舞っている。
やにわに、リュイは無言でその道を駆け出した。
「……リュイ!」
ティセとアズハーは足早にそのあとを追う。
青草の匂いが立ち込める細道は、鬱蒼たる木立を抜けて、広々とした草原に続いていた。森のなかに穴がぽっかり空いたような、円形の草原だ。立ち木ひとつなく、足首が覆われる程度の下草だけが生えている。不自然なその空間の中央に、ただ一樹の沙羅の巨木が聳えている。
――――ガルナージャ……――――
折しも、空を覆っていた雲が切れ、雲間から光の梯子が降りていた。まさしく巨木の後方、生い茂る枝葉を支える太い幹と垂直に、光は降りている。選ばれし一樹が、天と地を結ぶかのように。一条の澄んだ日差しのなかに立つ、民話の神木そのままに。
数人が手を繋がねば囲めない太い幹は、厳めしいまでに節くれ立ち、見るものに畏れを強いている。永きに及ぶ風雨と日差しをあるがままに受け止めたその証しを、木膚に威厳として刻んでいる。竦みあがるほどの威容、けれど、重なり合う光沢のある濃緑の葉は、微風にそよぎ、心のしじまへと導く音楽を高みから注いでいる。恩寵、冷酷さ、赦しと戒め、慈悲も無慈悲も併せ持つ精霊の宿る大樹、ガルナージャ……――――――
樹齢がどれほどかは、まるで分からない。けれどここには、日常とは異なる時が流れているのを、肌にはっきりと感じる。十年はいちじつ瞬きのごとく、微睡みのなかに百年が過ぎ、千年を数えてようやく時のたつのを知る…………そんな時の流れだ。
その大きさ、その神々しさ…………見上げれば、己の身体が掻き消えそうなほど圧倒された。神木を崇めるために、あるいは畏怖するために、この木立のない不自然な野は生まれたのだろう。
「ほう……見事な沙羅樹だ……」
アズハーが感嘆の溜め息を漏らす。
「……すごい……」
ティセは口のなかでそう唱えるのが精一杯だ。
リュイは心持ち顎を上げて、ひたむきに大樹を見つめている。ティセは斜め前に立つリュイの横顔をそっと覗いた。
その樹を見たいと、息だけの声で吐露したリュイを思い出す。突き上げる欲求を持てあまし、困り果てたような眼差しを向けていた。いま、その暗緑の瞳は陶然として、瞬きもせず見開かれている。立ち姿は変わることなく美しくも、どこか力が抜けているようにやわらかく見えた。普段纏っている雪融け水のように張りつめた雰囲気を、リュイはいま跡形もなく消していた。幼子さながらに、無防備で…………無心だった。
ガルナージャの前に立つリュイは、どこの誰でもなく、希有な生い立ちなど微塵もかかわらず、ただ、目には見えないものの加護がある、ひとりの少年であるだけなのだ。
――――だからリュイは、この大樹に祈りを捧げることができる……――――
ティセはほとんど直観した。すると、とてつもなく嬉しくなった。何故だろうか、満ち溢れるほど嬉しくなった。
ガルナージャのもとへ、リュイはひとり歩んでいった。静かに、まっすぐに、ためらいのない足取りで。それが必然であるように――――――
少しずつ小さくなっていく後ろ姿は、見えない結界を越えて、大樹の立つ清浄な地へと吸い込まれていくように見える。やがて根元に辿り着き、ひとしきり頭上を仰ぐ。のち、立て膝になってまぶたを閉じ、掌を合わせた。長い、長い祈り……――――そして、神聖な地に両手を着いて、幹に額をそっと押し当て…………ガルナージャとひとつづきになる……――――――
時は止まった。
わずかな綻びすら一切ない完全な静止、静寂の光景。もう幾度となく眺めてきた祈りの姿だが、いままで目にしたなかで一等慎み深さに満ちて、このうえなくきれいだった。祈りの儀式を眺めていれば必ず聴こえる幻の笛の音に代わり、神木が織りなす安らかな重奏が、ティセを心のしじまへといざなった。大樹と、身を預けるリュイを見つめながら、微睡みのような心地よさと嬉しさに包まれる。無意識に微笑みを湛えていた。
聖なる大樹にこれ以上近寄る気には、とてもなれない。アズハーがその場に腰を下ろしたので、同じ気持ちでいるのだと分かった。アズハーも心地よさそうに目を細め、かすかに笑んでいる。
「……シューナとまったく同じ姿だ。もういちど見られるとはな……」
ティセも腰を下ろした。
「祈るのを見てるだけで、笛の音を聴いてるみたいに落ち着きます」
「分かるよ。…………なんて不思議な兄弟だ……」
絶え間なく降り注ぐ安らかな葉音に身を任せ、ふたりは飽きるほど長いこと静寂の光景を眺めていた。
いつまにか雲が流れ、空は青さを取り戻した。ふいに、ティセはふっと笑い、
「アズハーさん、先に帰りましょっか」
「……なにも言わずに置いて帰って平気かい?」
「大丈夫ですよ、リュイにいま声をかけても絶対聞こえませんよ。それに……この樹の立つこの森で、あいつが迷うことなんかないでしょう」
ニヤリ笑ってみせると、アズハーは妙に納得したように眉を上下させた。
「それはそうだな」
心に焼き付けるように改めて見つめたのち、来た道をそっと戻った。誰にも憚らず、思いのたけ神木と触れあえばいい――――……胸の奥でリュイに囁いた。




