6
その後、夕食の席にかけて、アズハーの話は続いた。
リュイの兄と知り合ったのは、三年ほど前、シュウ北部で反政府運動が激化し、衝突が頻発していたころだという。
「当時、反政府派やイブリアの過激派と政府軍の間に立っていた、有志の中立部隊があったんだ。暴力ではなく無血の闘争に変えること、事件を最小限に食い止めること、あるいは事件後のさまざまな世話をするのを目的としていた。むろん、争いに巻き込まれることも少なくなかったがね。大学時代の友人が中心人物のひとりだったことから、私は医師として部隊に加わった。まもなく、シューナがやってきた。シューナは戦士として加わったのだが、シューナの本当の参加理由と目的は、負傷者や犠牲者の遺族の慰安だった」
「慰安……?」
リュイが首を傾けると、アズハーはひと呼吸分リュイを見つめたあと、
「きみは笛を鳴らせるのか?」
「……!」
「シューナから譲られた笛を持っているだろう?」
「……はい」
驚きを隠せないふたりの様子を見て、アズハーは静かにうなずいた。
「笛についてはよく聞いている。シューナは自分を聖笛使だと言っていた。ひとの心を癒す作用のある笛を鳴らす使徒だとね」
リュイは息だけの声でくり返す。
「……聖笛使……」
「あの混乱を知ったとき、聖笛使としてひとの役に立ちたいと、初めて強く思ったそうだ。それで婚約者を置いてシュウへ戻り、部隊に参加したと話していた」
「……コイララさん……?」
ティセが小さく尋ねると、アズハーは少し驚いたように眉をぴくりとさせた。
「確かそういう名前だった。知っている?」
「旅の途中、ラグラダという村で会ったんです」
「……そう、シュウへ戻る前はスリダワルのラグラダという村にいたと言っていたよ。紛争の地へ行くとどうしても言い出せずに家を出てしまったと、つらそうに悔いていた。許してはもらえないと言っていたが、事態が収束したら戻りたい気持ちもあったのではないかな……」
微風に似た切なさが居間に流れた。ひとときの沈黙、子守女の介助で食事を取るシューナの無邪気さが、沈黙のなかに浮かび上がるようだった。
アズハーは声音を改め、ふたたび語り出す。
「私の家はわりあい大きな商社を営んでいてね、父親の跡を継ぐ宿命だったが、本当は医師になりたかった。思想のために部隊へ参加したわけではなく、医師として活躍したいと思ったからだ。聖笛使として活躍したかったというシューナと似ているだろう? だからかもしれない、シューナとは部隊の誰よりも気が合ってね。親友と言っても過言ではない、ともに過ごしたのは数ヶ月に過ぎないが、じつに様々なことを語り合ったよ。…………シューナが故郷を離れたのは、きみがまだ幼いころだろう、兄をどのくらい覚えている?」
「……おぼろげに顔や笛を吹く姿が浮かぶくらいで、思い出といえるほどの記憶はありません」
もっともだというふうに、アズハーは首肯した。そして、当時を懐かしむように眼差しを遠くする。
「部隊は北部の各地を巡っていた。シューナは戦士としては三流だったが、人付き合いに関しては達人だった。場を和ませたり、ひとをくつろいだ気分にさせる能力はずば抜けていた。部隊のなかはもちろん、行く先々でひとびとに愛されていた。負傷者や犠牲者の遺族だけでなく、同志たちもずいぶんシューナに癒されたものだ。疲れ切って声も出ないような夜に、シューナはなにも言わずに笛の音を聴かせてくれた」
笛の音を……リュイは小さくつぶやいた。ティセはコイララの話を思い出し、
「それは、笛の音とはとても思えないような音ですか」
「そうだ。シューナは笛の音だと言っていたが、笛の音にはとても思えない…………空の彼方から静かに降りてくるような音楽だ」
アズハーの妻が、しみじみとした調子で言葉を挟む。
「とても美しい調べだったわ……微睡むみたいに心が落ち着いたわね……」
その音色を思い浮かべているのだろう、うっとりと瞬きをした。アズハーはわずかに口角を上げて、
「妻は元看護婦でね、妊娠が分かるまでは看護婦として部隊に参加していたんだ。気丈な女だろう? シューナのこともよく知っている」
改めてリュイを向き、
「きみもあの音を鳴らせるのかい」
「僕が出せるのは単音だけです。僕の記憶のなかでは、兄も父も旋律を奏でてはいましたが、それは重奏ではありませんでした。その音を、まだ聴いたことがありません」
その調べを知らないことが残念だというふうに、アズハーは「そうか」とつぶやいた。
「でも、リュイが鳴らす単音だけでも、充分心が落ち着きます。だから笛の音の効果は分かるし、なんとなくだけど想像はできますよ」
リュイはやや重たげに口を開いた。
「兄は……笛を持っていましたか。笛はもうひとつあると聞いていて、僕はそれを探して旅をしています」
アズハーは即答する。
「いや、シューナは笛を持たずに笛の音を鳴らせていた」
コイララの話していたとおりだと、ふたりは目を見合わせた。アズハーは現象のすべてをとうに受け入れているといった、落ち着いた態度でいる。
「初めはとても信じられなかった。しかし、シューナは自在にその音を奏でたし、笛の音の効果は間違いがなかった。……なにより、シューナの人柄がそれを信じさせたんだ」
妻はゆっくりとうなずいた。
「実際、笛の音の効果は、麻薬や幻覚剤に似て一時的なものに過ぎないが、心の傷からひととき解放されたひとびとの顔つきを、私は生涯忘れはしないだろう。私の打つ痛み止めの注射は、心の痛みには決して効かないのだと思い知らされた。…………シューナこそが、本当の医師だったようにさえ思う……」
茶をひとくち口にして、アズハーは続ける。
「中立部隊が結成されたのは、人道的な理由からというばかりではなかった。反政府運動を扇動している指導者の一部が、ファルギスタンと通じているという確かな情報を掴んだからだ」
シュウの隣国であり敵国だ。リュイは眉をぴくりとさせた。
「ファルギスタンと……」
「そう。ファルギスタンは指導者の一部を買収していた。現政府が倒れたあと、彼らを使ってシュウを内部から掌握しようと考えていたのだろう。ファルギスタンは秘密裏に、イリス経由で最新の銃器を大量に彼らに送り込んでいた」
「イリス経由……!?」
ティセははっとして小さく声を上げた。かつてイリスとイリア王に関し、リュイに厳然と追及された日のことが、ふっと頭を過ぎる。
「中立部隊の目指すところは、ファルギスタンから送られてくる武器を断ち、ファルギスタンと通じている指導者を駆逐して、民衆による非暴力の闘争に変えることだった。…………しかし、部隊の存在を知った政府は、ひどくうとましく思ったようだ。解体させる理由やきっかけを、どうにかして作りたがっていた。結局、政府は部隊を革命組織だと見なした。それはあながち言いがかりではない、反政府…………とくにイブリアの過激派に、無血革命を説いて回っていたからね」
ひといきに語ったのち、アズハーはにわかに眼差しを真摯にさせて、リュイをまっすぐに見た。緊張感が、ふと漂う。
「ある日……軍に急襲された。それで同志の多くを失った。そのときに……私を狙った銃弾を受けて……シューナは逝ってしまった。申し訳ない――――……」
苦しげに述べ、項垂れるように深く、リュイへ頭を下げた。
ふたたび、居間は時を止めたようにしんと静まった。頭を垂れたままでいるアズハーに、リュイは困惑気味に目を向けていた。やがて、伏し目になって目を背け、
「……顔を上げてください」
ためらうように間を置いてから、アズハーは静かに顔を上げた。堂々たる物腰の紳士に似つかわしくない、遺憾の念にまみれた哀れな瞳をしていた。
が、すぐに落ち着きを取り戻す。
「シューナは息を引き取る間際に、もしも可能ならこの森に自分を還してもらえないかと言った。出身は北部だと話していたのに…………よく分からなかったが、確かにそう言った。だから私はすぐにこの辺りの土地を買った。この別邸を建てて、森のなかに墓を立てた。まとまった休暇が取れればここへ来て、家族と静かに過ごしながらシューナを弔っているんだ……」
妻はそっとうなずいた。食事を終えた幼いシューナが、母のもとへ行きたいと小さな手足をパタパタさせる。子守女の手から、母の胸へと抱かれた。愛くるしい笑い声が上がる。
ティセはリュイに、疑問を囁いた。
「還してほしい……って、どういうことかな」
「……さあ」
リュイはアズハーに問う。
「兄が家を出た理由を聞いていますか」
「聞いている。父親の笛をきみに譲ったから、もうひとつの笛を探すために旅へ出たと言っていた」
「……やはりそうでしたか……」
「もしもいま、その笛を持っているなら、見せてくれないか」
リュイは襟もとから笛を取り出して、アズハーに手渡した。労働者のものとは異なる華奢な白い手のなかに、笛はそっと黙り込むように収まった。内部に噛み合う硝子に似た小片が、ランプの灯りを反射してあえかに瞬いている。
「ほう……ずいぶんと小振りだな。しかし、とても美しい」
ひとしきり眺めてから、妻にもよく見えるよう差し出した。妻は切れ上がった目尻をやわらかくするように微笑んで、
「きれいね……。飾り気のないかんじが、どこかシューナに似てる気がするわ」
アズハーは笛を手にしたまま、
「シューナはきみに笛を譲って家を出た。しかし道中、ひどく不思議なことに、家にあるはずの笛の音が、ときおりはっきりと聴こえたと話していた。そのうちに、笛の音を自在に奏でられるようになった、そのとき笛のすべてを自然に理解したそうだ。聖笛使として認められれば、どんなに笛と離れていても、いつでも笛と共鳴できることも……」
「……共鳴……」
「結局、シューナは笛を持ってはいなかった。当時、まだ笛を探しているとも話していなかった。見つからなかったのか、ないと分かったのか…………あるいは、いつでも笛を奏でられる自分にはもう必要がないと思ったのか…………その辺りのことは私には分からない」
大切なものを取り扱うように静かに腕を伸ばして笛をリュイへ返し、
「明日、シューナの墓へ案内しよう」
兄と同じ色の瞳をまっすぐに見た。それから窓の外、森のほうへ目を向ける。つられて、ふたりも窓の向こうを見遣った。外はもう闇に沈んでいる。
しばらく沈黙が続いた。シューナの死を思っているのだろう、夫妻は哀しげな目を森のほうへ向けていた。リュイがなにを思っているのか、その冷静な眼差しからはよく分からなかった。
しめやかな居間の空気を壊さぬよう、ティセはそっとアズハーへ尋ねる。
「ところで…………森のなかにとても大きな沙羅の樹があるって聞いて来たんですけど、知っていますか」
アズハーは首を捻り、
「大きな沙羅の樹……? さあ……どうかな……私は森のなかのことはよく知らないんだ、墓を立てた場所より奥には足を踏み入れたことがない。きみたちは、それを見るためにわざわざここへ来たのかい?」
意外そうに目を見開いた。リュイが答える。
「ずいぶん昔、この辺りにイブリアが村を造っていて、その大木を信仰していたと聞きました。この笛はイブリアの大木信仰と関わりがあるようなので……」
すると、アズハーは深く納得したようにうなずいた。
「なるほど……。そういえば、シューナはよく大木に祈りを捧げていた。こう……額を幹に当てて、大木とひとつづきになって長々と時を止めていたよ。とても神聖で、美しい光景だった……」
ひどく懐かしげに、ゆっくりと目を伏せた。
兄もまた、大樹に正式な祈りを捧げるひとだった。
長い話を終えて部屋へ戻っていた。ふたりに与えられた部屋は居間と同じく、簡素でありつつ品のある客室で、やはりかぐわしい木の香りに満ちている。開け放たれた大きめの窓からは黒々とした森の影が見える。そのすぐ上にまもなく満月を迎える月が昇っていた。春の夜風がときおり吹き込んで、鼻腔をほんのりと甘くくすぐった。とても静かだ。
リュイはいつにもまして無口だ。部屋へ戻るなり窓辺に椅子を寄せ、物思いに耽っているように、森のほうへ長いこと目を向けている。
兄の行方とその死を、思いも寄らないかたちで知らされて、記憶はおぼろげといえど、さすがに衝撃を受けたのかもしれない…………ティセは胸中を推し量り、できるだけ邪魔にならぬよう、寝台の上、脇の小机に置いたランプの灯りを小さくして本を眺めていた。清潔な匂いのする上等な布団に寝そべっているのが、なんだかもったいないように思いながら。リュイがいま持っているなかで、いちばん平易な冒険小説だ。けれど文字を追うだけで、物語の内容はほとんど頭に入らなかった。
心を癒す笛、聖笛使、空の彼方から降りてくる重奏……中立部隊、無血革命…………シューナの死…………アズハーの話は、ティセにとっても衝撃だった。その死を知るはずのないコイララの寂しげな顔が浮かび、頭から離れない。最後に聞いたシューナへの伝言――――そっちはそっちで勝手に幸せにね……――――を、ひどく切なく思い出す。そして、シューナが安易な気持ちでコイララと別れたわけではないこと、なにも言わずに家を出たのを悔いていたことに、ほっと安堵していた。
……コイララとウズバさん、きっともう式を挙げただろうな……
姿勢を変えようと身じろいだ、そのはずみに、窓辺のリュイがいつからかこちらを見ていることに気がついた。ティセをはっとさせるほど真剣な…………言うべきなにかを胸に秘めているような、そんな眼差しだ。
戸惑いを少しく覚えつつ視線を受け止める。リュイはぽつりつぶやくように、
「ティセ……」
「……なに?」
声をかけておきながら、なにかためらっているのか暫し口を閉ざしていた。ティセは戸惑いを募らせる。やがて静かに口を開いた。
「……昼間、ガルナージャの夢を見た。夢に出てくる大木は、いつでも家の脇にある沙羅の樹なのに……。僕はまた、もう少し分かったように思う」
けれど、それは本当に口に出したかったこととは違うように聞こえた。眼差しの重さと発言の内容が、どこか食い違って聞こえたからだ。
「…………」
すっきりしないものを胸に覚えるも、ティセは寝台から降りた。椅子を抱えて窓辺へ寄り、リュイの向かいに腰かける。まっすぐに顔を見て、
「なにが分かった?」
リュイは左腕を水平に伸ばし、真っ暗な森を指し示す。
「とても大きな力のようなものを感じる……向こうのほうから……」
指し示す先に目を向けて耳を澄ます。が、ティセには夜の森が放つ独特の威圧感以外、なにも感じない。暗闇の彼方から、キョキョキョと鳴く夜鷹の声が聞こえるだけだ。
「そう……俺にはよく分からないけど」
「セザさんの庭の神木から感じた力よりも、もっとずっと強い…………少し怖い」
怯えるように、目元をかすかに震わせた。森へ向けた目を戻したとき、ティセは小さな異変に気づく。
「リュイ……笛が……」
襟もとに巻いた薄布の下から、緑色の光がうっすらと滲んでいた。
「ん……さっきからずうっと光っているのを感じている……」
「体調は?」
「大丈夫。おそらくもう…………昼間のあれが最後だと思う」
確かであるような声音で言った。リュイはもういちど、森に目を向ける。
「あの森のなかに、なにかしらの答えがある……――――」
そして、襟もとから笛を取り出した。手品さながら、ほのかに灯る光の珠を取り出したかに見えた。手のひらにすっぽりと収まる笛は、ぼんやり発光し続ける。
「……答えが……」
ふたりとも無言になった。
向かい合ったふたりの間で、笛は淡く、息を潜めてでもいるかのように慎ましく光を放つ。ティセはその繊細な光を、なかば陶然としながら見つめ続けた。月に照らされた雪の光ほど汚れなく奥床しい――――惹きつけられ、吸い込まれる、イブリアの小さな笛。儚げに見えるにも拘わらず、ときとして夥しい光を放ち、持ち主の胸を貫く音を発する、リュイを怯えさせるもの怖ろしい笛を。
なにかしらの答えが…………言い尽くしようのない思いを胸に溜め、リュイの手のひらの笛をひとしきり見据え続けた。
きれいだね……言いかけながら、ティセはそっと目を上げて――――――……息を呑むほど激しく、胸を突かれた。
リュイは感傷にまみれた瞳をティセに向けていた。おそらくは笛を見つめていた間、ずっと――――……。いままでティセに対しては向けたことのない眼差し――――それは、セレイに向けるような…………セレイと別れた朝に見せた、いたわしいまでに切なさにまみれた眼差しだ。
――――リュイはもう…………俺との別れを予感してる…………――――
顔が強張り、胸の奥が震えた。心のいちばんやわらかいところが、その眼差しに音もなく裂かれた気がした。
ティセはとても目を上げていられずに、笛の光に心を奪われているふりをして、リュイの手のひらに視線を戻す。眼差しを痛いほど感じながら、溢れくる思いを心のなかだけで語る。
…………俺はまだ……まだ帰らない……セレイと自分の願いを果たしていない…………だから、そんな瞳を向けないで…………
それを告げてリュイを安心させたい。が、真実を聞いたと言えずにいるティセには、かける言葉がなにひとつ見つからない。やるせなさが込み上げて、ぐっと奥歯を噛んだ。
同時に、リュイの眼差しは胸の奥にちらつく帰還の念を浮かび上がらせた。心のなかの異物のようにティセを苦しめるその思い…………葛藤はいま頂点を迎えていた。
見るに堪えない眼差しを思いつつ、胸のなかで呻くように、
…………こんな気持ちになるなんて…………
かつて尾根の道で切った啖呵――――――別れるとき、おまえを泣かせてやる――――……その言葉の浅はかさ、莫迦莫迦しさを、ティセはいましみじみと噛みしめていた。
互いに別れを意識しながら、無言で向かい合う夜の窓辺は、森よりも深く静けさに満ちていた。




