5
頭のなかを真っ白にさせて、ひたすらに集落を目指した。疲労も呼吸の乱れも感じないほど一心に。やがて、ゆるやかな曲がり道を折れたとき、前方に馬車の姿が小さく見えた。
「ひとがいる!」
心から安堵した。
乗合馬車ではない、手入れの行き届いた黒塗りの二頭立て馬車が二台連なって、こちらへやってくる。ティセは走りながら、御者に向かって声を張り上げた。
「すみません! 助けてくださいっ……! お願いします!」
幾度かくり返した。御者は太い眉をしかめ、遠くから駆けてくるティセを訝しそうに見る。客車から低く落ち着いた声が上がる。
「止まって」
御者は馬車を停めた。次いで、二台目の馬車も停車する。
ティセはさらに安堵した。馬車の手前で立ち止まり、呼吸の乱れに大きく喘ぎながら、もういちど、
「助けてくださいっ……お願いします!」
客車から声の主が顔を出す。理知的な面持ちをした三十歳前後と思しき青年だ。まだ若いのに何事にも動じないと思わせるような威厳を身につけている。
「どうした?」
「友達が……急に倒れて……意識がないんです! 病院に……病院に運んでください……いますぐ……!」
青年は沈着さを保ったまま、簡潔に返す。
「どこにいる?」
「こ……この、すぐ先の……と、とにかく早く……」
いまにも泣き出さんばかりのティセに、青年は冷ややかにも聞こえる口調で告げる。
「落ち着きなさい。私は医者だ」
「え……!?」
「乗りなさい」
青年は客車の扉を開け放った。
客車に上がる。青年は黒の洋装に身を包んだ紳士然たる男だ。ひと目で上流階級だと分かる。庶民とは違う、一種近づきがたい雰囲気を纏っている。
「少し急いで」
ティセを乗せて、馬車はふたたび走り出した。
狭い車内には青年の向かいの席に、たくましい体つきをした壮年の男がひとり乗っていた。上衣の丈が足首近くまであるシュウ人の衣装を身につけ、肩にライフル銃を担いで座している。ティセが乗り込んでもちらりと一瞥しただけで、我関せずというふうにすぐ前を向いた。青年の護衛だ。
「あの……ありがとうございます」
「……きみは、イリアのひとかい?」
出身をぴたりと当てた。ティセは少々面食らった。
「そ、そうです。ティセといいます。……どうして分かるんですか」
「そういう顔つきをしている、見れば分かるよ」
医師だと言ったが、町や村にある庶民のための小さな診療所の医師しか知らないティセには、とてもそんなふうには見えなかった。医師であるなら開業医ではなく、研究を専門にしている学医か、どちらかといえば医療とは関係のない、文学や哲学の徒に見えた。
また、階層はひと目で分かるものの、いままで見聞きした上流階級のひとびととは少し様子が違っていた。その階層の男たちがするように、整髪料で頭髪を美しく整えることをせず、外出時には欠かさないはずの帽子も被ってはいない。無精で伸びたような毛先の揃わない直毛の黒髪を、リュイのように無造作に束ねているきりだ。庶民とは違う雰囲気を纏いながらも、上流の流儀からどこか外れているような印象をティセに与えた。ティセのような庶民の若者を同乗させてよしとする行為が、それを裏付けている。
ほどなくして元の場所へ着き、馬車は停まった。リュイは倒れたままだ。
「あそこです!」
青年は無駄のない身のこなしで馬車を降り、リュイの前に膝をつき顔を覗き込む。色の白い指先でその耳の下辺りに触れ、ついで呼吸を確かめた。
「この少年はなにか持病が?」
「ないはずです。聞いたことない…………ただ……」
言うべきなのか、少し迷う。
「ただ?」
「……最近、たまに具合が悪そうでした」
「ふん……」
青年は簡単にリュイを診たのち、
「脈拍も呼吸も問題ない」
不安に眉尻を下げて見守るティセを向き、
「こんなところではなんだ。私のところへ来るといい。すぐそこだ」
リュイとその荷物を馬車へ運び入れると、客車は窮屈になった。ティセは二台目の馬車に同乗させてもらい、青年の家へと向かった。二台目の馬車には執事とみえる初老の男と、下男の若者が乗っていた。
少しばかり行くと、辺りの木立が密になった。緑の匂いがにわかに濃くなり、空気が湿度を増した。
……ガルナージャの森のほとりだ……
ティセは窓の外をじっと見据えながら、その深い緑と湿度と匂いを身体中で感じていた。しっとりと湿り気を帯びた大きな静けさのなかに、そろそろと忍び込んでいくようだった。
馬車は大きな木の前を右折した。道標のように立つ、立派な沙羅樹だ。まだ出来て新しいと思われる小道がその先に続いている。その辺り一帯だけがきれいに整地されているようだった。まもなく門が目に入り、それをくぐると目の前に木造の家屋が建っていた。上流のひとびとの住むような豪奢な館とは趣の異なった、質素だが熟練の大工が建てたと分かるしっかりした建物だ。森の近くには誰もいないと宿の老夫は言っていたが、知らぬ間にこんな家屋が建てられていたのだった。
馬車は玄関先に設けられている車寄せに停車した。リュイは担架代わりの敷布でもって、屋内へ運ばれていった。
伝統的な床の上の暮らしではない、足の長い机や椅子を用いる生活のための造りをした家屋。寝台に寝かされたリュイを、ティセは部屋の隅に置かれた椅子へ腰かけ見守っていた。聴診器を装着した青年が、胸元をはだけようと前身頃の合わせ目に手を掛けたとき、リュイはようやく目を開けた。
青年はティセを向き、
「意識が戻った」
「……っ!」
寝台に駆け寄った。
「おまえ……大丈夫なのか……もうなんともない……?」
リュイは状況が把握できないようで、不思議そうにティセを見ている。
「聞こえてんのかよっ……!」
「…………聞こえている。大丈夫……けれど……」
声を聞き、一気に脱力する。
「お……脅かすなよ、おまえ……」
「……すまなかった……ティセ、ここは……?」
「このひとに助けてもらったの。お医者さんだよ、早くお礼を言え」
言いながら青年に目を向ける。と、青年は顔つきをはっとさせて、リュイをまじまじと見つめていた。
リュイはゆっくりと半身を起こし、
「ありがとうございます」
青年はますます深く、暗緑の瞳を見つめる。神経質そうな目元と白いこめかみが、張りつめたように強張って見えた。
「…………いや、礼には及ばない……」
暫し、なにか考え込んでいるように黙っていたが、
「きみは……旅のひと? 入隊は?」
「これからです」
「どこへ向かっている?」
「…………」
答え兼ねたように黙したので、ティセが代わりに答える。
「ここの森を見に来たんです」
「森を?」
さも訝しげにくり返したが、それ以上は尋ねてこない。
「ふん…………とにかく、きみはしばらくゆっくり寝ていたほうがいい。おそらく貧血だろう、少し疲れているんじゃないか。昼食になにか精のつくものを作らせよう。なにもない家だが部屋は余っている。寝ていなさい」
早くガルナージャを見たいのだろう、リュイは困ったようにティセを見遣った。
「そうしてよ! ……俺、死ぬほど驚いたんだからな。お医者さんの言うことを聞け!」
ティセの剣幕を見て、青年は可笑しそうに口角をわずかに上げた。
「医師の資格を持ってはいるが、いまはお医者さんではないんだ。貿易商だ」
青年はアズハーと名乗った。
「きみの名は?」
「リュイといいます」
「ほう……イブリアの名としては一風変わっている」
セザが言ったのと同じことを言った。
「私はイブリアの友人知人をとても多く持っているんだ。イブリアの人名はそれほど数が多くないだろう。初めて聞く名前だ」
あとで食事を運ばせると言い残し、アズハーは部屋を出て行った。
改めて、ティセは安堵の息をつく。
「はあ……ほんとに驚いた……」
「……僕も驚いた。ティセ、笛が……」
「うん、聞いた。ずいぶん鋭い音だった……」
「身体中に衝撃を受けた。意識がさらわれていったように感じた」
リュイは薄布の上から笛に触れ、怖ろしげに目を細めた。
「リュイ、ここはもうガルナージャの森だよ。この家は森のほとりに建ってる」
ふたりは窓の外へ目を向ける。庭の向こうは、深い緑が湧き上がる雲のごとく生い茂っている。青空が緑に圧迫されて見えるほどに。イブリアの民話の森を、リュイは笛を見るのと同じ、少し怯えたような目をして見つめていた。
不服そうにしていたものの、昼食を挟んで、リュイは長々と眠っていた。アズハーに指摘されたとおり、本当に疲れているのだろう。笛にかかる得体の知れない力に、身体が圧倒されているのかもしれない。静かな寝息をたてるリュイを、ティセは少し不憫に思った。
陽が西へ傾きかけたころになって、リュイは起き上がった。
「やっと起きたな。具合はどう?」
寝台から脚を降ろし、客用の室内履きを履きながら、「ん……すっきりした」と返した。
「さっきまで、ここの下男の兄ちゃんと話をしてたんだけど、ここはアズハーさんの別荘で、あとで奥さんと子供が来る予定なんだって」
「そう」
「でね、アズハーさんはエチカ商事って商社の若社長なんだってさ。医者にも見えないけど、社長って感じでもないよな」
あはは、と軽く笑うティセに、リュイは驚きの目をして聞き返す。
「エチカ商事!?」
「そ。知ってんの?」
「……シュウでは知らないひとはいないと思う。本物の大富豪だ……」
「そうなのっ!?」
ティセも目を丸くする。
「イリアでもそれなりに有名だろう。イリスに立派な支社があるのを見たよ。ほかにもいろんな国に支社を持っているはずだ」
「…………」
ティセの描く大富豪の像と、学究の徒のような印象のアズハーがどうにも結びつかず、つい言葉を失った。
「この辺りの土地を買ったという噂の人物は、きっとあのひとのことだ」
「アズハーさんが……この森を……」
ふたりははからずも声を合わせて、
「なんのために?」
そのとき、外でいななきが上がり、ついで人声がした。ティセが窓辺に寄って外を確かめると、さきほど乗ってきた馬車とは違う馬車が車寄せに停まっていた。アズハーと執事、その数歩後ろに下男が控え、客車から降りる女性を出迎えていた。続いて子守の女と、その腕に抱かれた幼児が降りてくる。
「あ、奥さんと子供が到着したみたい」
アズハーはシュウの女の衣装に身を包んだ同年代の妻へ、まるで親しい友人にするように気さくに声をかける。
「久しぶり。変わりはないか」
「ええ、ふたりとも元気よ」
やわらかな笑顔で返した妻は、窓から顔を出すティセに気づき、「あら?」と小首を傾げた。
「ああ、いま若い客がふたり来ているんだ」
アズハーはティセに向かって、
「彼はもう起きてるかい」
「は、はいっ。おかげさまで、もうすっかりいいみたいです」
「そう。それなら居間においで。茶でも飲もう。旅の話を聞かせてくれ」
ティセは慌てて、寝台に腰かけているリュイに駆け寄った。
「おい! 大富豪が一緒にお茶飲もうって言ってるぞ……!」
「……聞こえた」
「大富豪が旅の話聞きたいって……!」
「…………あのひと、少し変わったひとなのかもしれないな……」
少ししてから居間へ出向いた。若干緊張しつつ入室すると、家族はすでに席へ着いていた。茶の芳香が部屋中に漂っている。部屋は無駄な装飾のないあっさりとした内装で、それが逆に、梁や食卓などに用いた木材の木目の美しさを際立たせている。簡素であり品の良い居間だ。建てられてまだ新しいのだろう、居間はもちろん、家屋全体がかぐわしい木の香りに満ちていた。
アズハーは静かに笑み、ふたりを手招いた。
「遠慮は無用だ。私は堅苦しいのが苦手でね、好きにくつろぐといい」
どこか気むずかしげに見える面持ちと、抑揚に欠ける言葉つき、緊張感を孕んだような低い声音が、その言とはどうにもちぐはぐで、ティセはますます変わったひとという印象を深めてしまった。
右手を軽く挙げ、妻を指す。
「紹介しよう、私の妻だ」
妻は先刻のアズハーと同じように、顔をはっとさせてリュイを見つめていた。が、すぐにすっと席を立ち、しとやかな仕草で会釈をした。落ち着きのある薄紫の衣装が似合う、清楚な顔立ちの女性だ。すっと切れ上がった目尻に気の強さを漂わせているが、上流婦人にありがちな虚栄や傲慢さを少しも感じさせず、その雰囲気はアズハーよりもずっと庶民に近かった。
「初めまして。ようこそ。いま主人から話を聞きました。主人は名医だから、身体のことならなんでも相談するといいわ」
「名医は余計だ」
妻はふふふと笑う。堅苦しいのが苦手というとおり、その階層によくある厳格な主従関係にはない夫婦なのだと分かる。
それからアズハーは、妻の隣、幼児用の椅子にちょこんと座る男児を指して、
「息子のシューナだ。もうすぐ二歳になる」
自分を紹介したのが分かったのか、男児は可愛らしい声を上げた。ティセはふと思い出す。
「リュイ、おまえの兄貴と同じ名前だね」
途端、アズハーは目を見開いた。右手に持ちかけていた陶器の茶碗を、まるで取り落としたように受け皿へ戻す。ガチャリ、と無作法な音が響く。にわかに、室内は違和感に包まれる。
なにかいけないことを口にした気になって、ティセは当惑顔で夫妻を窺った。アズハーはもちろん、その妻もまた、瞠目してリュイを見つめている。
やがて、アズハーは声を一段低めて、囁くように問うた。
「……きみの兄は、シューナ・スレシュ・ハーンか?」
次はリュイが瞠目する。
「……!!」
静かな室内が、極めたように尚いっそう静まりかえる。
「きみの名と同じように、シューナという名もイブリアとしてはめずらしい名前だ。しかも、きみはシューナにとてもよく似ている。……そうだろう?」
リュイは混乱しているかのように、大きな瞬きを二度くり返した。ひどく小さな声で逆に問う。
「……兄を……ご存知ですか……」
アズハーはひと呼吸置いたのち、やや強張った表情と声で答えた。
「……とてもよく。シューナは同志であり…………私の命の恩人だ」
言葉を失うほど驚いたのか、リュイは暫し黙していたが、
「……兄がいまどこにいるか……ご存知ですか」
すると、アズハーは苦しげに目を伏せた。リュイ同様、暫し口をつぐんでいたが、そのうちゆっくりと右手を上げて、窓の外を指し示した。
「……シューナはいま……あの森のなかで眠っているよ」
指先に悲しみの籠もった、力のない指し示しかただった。眉根に寄せた皺の深さが、その無念の大きさを切ないほど物語っていた。
思いも寄らない事実を受けて、ふたりは呆然と立ちつくす。時が止まったかのように、誰もが黙していた。小さなシューナだけが無垢な瞳を宙へ向け、あどけない声を上げていた。
「まさか……こんな偶然が……それとも必然か……」
アズハーは溜め息交じりに独りごち、
「掛けてくれ。きみの兄とのことをすべて話そう」
促されても、リュイは固まったように身じろぎひとつせず、立ちつくしたままでいた。
「リュイ?」
ちらりと顔を覗く。と、リュイはおもむろに目を向けた。心の震えを如実に表したような深い眼差しで、ティセをじっと見た。




