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解放者たち  作者: habibinskii
第十章
68/81

2

 ある日、野で目覚めれば、早朝の冷え込みが冴えを解いていた。冷たくもどこかやわらかな空気を頬に感じる。今日春が来た……ティセは寝たまま、まだ青白い空を見上げて頭でつぶやいた。リュイはもう起きていて、焚き火を熾している。

 腹筋だけで威勢よく起き上がり、毛布をバタバタとはたいて手早く丸めてしまう。そして、勢いよく燃えてきた火に薪をくべるリュイに正面を向けた。きりっと笑んで、ティセは告げる。

「リュイ。誕生日おめでとう!」

 ぴたりと手を止めて、ティセを見上げたその顔は、きょとんとしていた。

「え……あれ? ……今日だよね、誕生日……」

 記憶違いかと焦ったが、リュイは不思議そうに瞬きをしてから、ぼんやりと、

「そう……」

「よかった……おめでとう! …………って、なんだよ!? そんな初めて言われたような顔してさ! 驚くことか?」

「いや…………すっかり忘れていたから……ありがとう」

 頬に感じた春の空気のように、やわらかに微笑んだ。ティセははっと思い及ぶ。リュイは本当に、記憶のあるかぎり初めて、誕生日に祝いの言葉を贈られたのかもしれない。


 リュイは十六歳になった。もうまもなく、ティセも十五歳を迎える。

 立ち上がったリュイに、ティセはにやりと笑い、

「おまえの見た目とほんとの年齢……来年には一致するかな?」

「…………来年の誕生日には、僕はもう少し大人になっているはずだけれど……」

 顔を見上げてみれば、少し前から気づいていたことを改めて実感する。

「リュイ、一年前より背が高くなったね」

「そうかもしれない…………夏の終わりに買った靴、少し大きめに作ったのに、もうちょうどいい」

 ティセを見下ろして、リュイも改めて思ったように言う。

「おまえは少しも変わらない」

「……残念だけど、俺の成長はもう止まったみたいだよ……これ以上背は伸びないかもしれないなぁ……」

 当然ながら、ティセの背丈の成長はほぼ止まっている。これから変わることがあるとすれば、身体つきだけだろう。

 背は伸びないと残念そうにぼやいたティセを、リュイは暫し眺めていた。やがて、わずかに口角を上げて、

「ティセ……女に間違えられること、あるだろう?」

「…………」

 鼻のつけ根を皺めて、ぶっきらぼうに返す。

「ねえよ!」

 リュイはクッと小さく吹き出す。と、春の匂いを乗せた風が野を吹き抜けた。すぐそばに立つ桃の木の、咲き始めたばかりの小さな花が可憐に打ち震える。リュイはにわかに笑みを収め、風の行方を追うかのように遠くの空へ目を遣った。

「……どうかした?」

「なにか……聞こえたように思って……」

「そ? 風の音?」

「……風の音……」

 目を遠くしたまま、ぼんやりとくり返した。



 平らかな地を貫く街道へ出た。遠くまで広く見渡せる。はるか北西には山の連なりが蜃気楼のように霞んで見える。シュウ南部随一の山岳地帯だ。リザイヤに襲われたのはあの山のどこかだと、リュイは言った。

 昨日よりも少しだけ暖かな風が、ふうと吹き抜ける。ここしばらく雨が降らない。未舗装の道はすっかり湿り気を失い、こんなやわらかな風にさえわずかな土埃を上げた。革靴を黄色くくすませて、ふたりはのんびりと街道を行く。


 ある集落に差しかかる。道沿いにある比較的大きな食堂に、大勢のひとが集まっているのが見えてきた。四台の馬車がその脇に停車している。

 屋根と柱しかない東屋ふうの店内で、二十歳前後の男たちが山盛りの白米を忙しなく掻き込んでいる。店の外では食後の一服を楽しむ者たちが、口や鼻から白い煙を盛大に吐いていた。移動中の若い兵士たちが、昼食と休憩を取っているのだ。ティセは心持ち足を遅めて、兵役中の彼らをしみじみと眺めた。

 皆同じ、平時勤務時の濃緑の制服を身につけて、一様に頭を刈り上げている。背丈や体格が違うだけの、実のところ同じ人間が集まっているかのように、ティセの目には映った。

 入隊したナルジャの兄貴分から聞いた話を思い出す。軍隊にいると、知らないうちにどんどん単純になり、自分というものが希薄になっていることに、ある日ふと気づくものなんだ…………変わり者で通っていた兄貴分が、そう笑って話すのを、ティセは信じられない思いで聞いていた。こうして個を失ったような彼らをよくよく眺めてみて、兄貴分の話がいまになってようやく分かった気がした。


 ほとんどがシュウ人の若者だが、なかに数人、イブリアの青年も交じっている。そのうちのひとり、すっきりと角のある肩の線がリュイとよく似ている青年に目が行くと、無意識に歩く足が止まった。ティセは青年の姿にリュイを重ねて見る。

 本来なら一・二年後には、リュイも彼らと同じ制服を着て、あのなかにいるはずだったのだ。特別徴兵令状が届いたその日、シュウの男であれば誰もが辿る道を失い、いまではあったはずの未来をも失ってしまった。自ら手放したその理由、そのきっかけは、いったいなんだったのだろう。そして、彷徨いの果て、リュイはどこへ辿り着くのだろう。


 足を止めたティセを、リュイはおもむろに振り返る。少しだけ冷ややかな目をして、なに……と言いたげに首を傾げた。

「ううん、なにも……。トルクをしてないイブリアの男、初めて見たように思ってさ」

「ああ……兵士は休暇中以外はトルクを禁止されているんだ。イブリアである前に、シュウの国民であるように」

「そっか! なるほどねぇ……」

 改めてイブリアの兵士へ目を遣ると、あちらでもティセの視線に気づき、仲間と一緒に若者らしい快活な笑顔で手を振ってきた。ティセも振り返し、ふたたび歩き出す。

 イブリアである前に、シュウの国民であれ……――――頭のなかで反唱する。と、ある疑問がすとんと胸に落ちた。


 ……そうか……


 トルクをしないのかと以前尋ねたとき、リュイは頑なに聞こえるまでにはっきり、しないと答えた。セザに勧められたときも、古老に何故かと問われたときも、困惑の色を瞳に浮かべ口を閉ざしていた。

 ハジャプートとして生きてきたリュイは、当然シュウの一兵士という意識でいたはずだ。もしかしたら、イブリアの民のひとりだという意識があまりないのかもしれない。だからこそ、トルクを拒むのだろう。帰属意識のない民族の衣装を強要されているのに近いのだ。そう思い至れば、つぎつぎと疑問が解けていく。


 セザ一家に招かれて、戸惑いと気後れを表した。彼らの親しみの籠もった眼差しに、リュイは困惑の滲む冷ややかな眼差しを返していた。イブリアを強調するような話題に、共感や同調を示さなかった。当然だった、リュイにはできないのだ。

 トルクに誇りを持つセレイの養父が、リュイにそれを勧めなかったのもうなずけた。養父はリュイのそんな意識を見抜いていたのだ。

 家にいたころはイブリアの服を着ていたと、セザの息子へ弁明のように話していたが、おそらくあれも嘘なのだろう。親元にいたころはともかくとして、その後は休暇中であってもシュウ人の服装をしていたのではないか、いまでもそうであるように。

 ならば、形見の笛を「イブリアの笛」と兄が呼んでいた事実を知ったとき、リュイは愛着を深めるどころか、かえって自分から遠いものに思えたかもしれない。


 イブリアの自覚が希薄なリュイがイブリアの笛を持ち、その衣装を纏わずトルクもせずに、大樹に正式な祈りを捧げている。ライデルの占い師が言うとおり、大樹の精霊の加護が本当にあるからだろうか。樹とひとつづきになり時を止める静けさに満ちた姿が、ティセの脳裏に浮かぶ。

 セザの庭に立つ神木に、そしてイブリア街の祈りの樹に、あきらかに強く惹かれていたにも拘わらず、リュイはついに祈りを捧げなかった。それはもしかすると、それがイブリアの大樹だからかもしれない――――……気後れとためらいの表れなのかもしれない。リュイの後ろ姿を、ティセはじっと見つめる。

 なにかをしたいと言わないリュイが、初めて見たいと願ったガルナージャの樹――――いまでもそれがあるのなら、その大樹の前に立ったとき、リュイは果たして祈りを捧げるのだろうか……。



 陽が西へ傾いたころ、リュイはふいに足を止めた。集落はまだ先で、人気もない、黄みがかった地が広がるだけのなにもない道の途中だ。ややうつむき加減で、黙って立っている。

「……どうかした?」

 顔を覗き込むと、なにかを耐えているような深刻な表情をしていた。

「リュイ?」

 リュイはゆっくりと振り向き、小さく言った。

「ティセ……少し休んでいい……?」

「なに……具合悪いの?」

「ん……少し……」

 リュイは道の脇へ出ると降ろした荷物を横たえ、その上に覆い被さるようになって寝てしまった。

 ティセはとても驚いていた。疲れた顔を見せることはあっても、具合が悪いと言うのは初めてのことだった。ティセの身代わりとなって蛇に咬まれたあの日以来、リュイが体調を崩したことはいちどもない。

 傍らに座り込み、ちらちらと様子を窺いつつ回復を待つ。耳際の髪が左頬に垂れ掛かっている、その顔を見れば、眉間に皺がうっすらと苦しげに寄っていた。息遣いは静かなものの、きつく閉じたまぶたと唇には、つらさが滲み出ていた。ひどく心配になった。


 しばらくして、リュイは静かに目を開けた。眉間の皺は消え、穏やかな顔つきに戻っていた。ティセは目を覗き、できるだけやわらかな声で、

「どう? もう平気?」

「……治った」

 ゆっくりと半身を起こした。

「具合が悪いって、どう悪いのさ。頭が痛いの? 吐き気がするの?」

 リュイは胸元に右手を置いて、

「いや……この辺りが苦しくなるんだ」

「胸が……!?」

 フェネの母親の最期が頭を過ぎり、ティセはどきりとした。同時に、いまの言いようが大きく引っかかった。

「……苦しくなるんだって……それ初めてじゃないの?」

「ん……」

 いつもの鼻音でこともなげに返した。

「いつからだよ!?」

「…………セレイの家を出てまもないころから、幾度か」

「は!? そんな前から!? もう二週間くらい立つよ!」

「そう」

 沈着な返事が、激しく癇に触れた。かっと血が上り、思わず大きな声を上げる。

「そう、じゃないだろ! なんで言わないんだよ、二週間も!」

 リュイは驚いたように顔をはっとさせ、口をつぐんでティセを見た。

「歩けないほど悪くなるまで、ずっとひとりで我慢してたってことだろ。そりゃあ、俺に言ったところで治るもんでもないけどさ、でも、そういう問題じゃないっ!」

 鋭い口調と眼差しで非難するティセを、リュイは表情を硬くしてただ見ている。その顔をひとしきり睨みつけ、ティセは溜め息をついた。荒らげてしまった声音を落ち着かせ、冷ややかに続ける。

「俺はそんなに頼りにならない……? 蛇に咬まれたときも、おまえはそうだった……」

 あの日の痛みを思い出す。頼りもせず、責めもせず、先に行けばいいと氷の温度で告げた。誠実な気持ちで手助けを申し出たティセに、静かにしていてくれないかと、とどめを刺した。ひとつぶの涙も零さぬよう堪えながら、悲しみや寂しさ、情けなさ、自責の念をひしひしと感じていたあの晩を。すると、鼻の奥がつんとして、ティセはつい目尻に涙を溜めた。

 それを見て、リュイはますます顔つきを強張らせた。困惑の色を帯び始めた瞳を見据え、低くつぶやくように言う。

「……おまえはいまだに……ひとりで歩いているのかよ」

 なじるような目をまっすぐに向けられて、リュイは顔を背けた。明るい日差しに満ちた路傍は、しんと静まりかえった。ひととき、なにもかもが時を止めたようだった。リュイは口を硬く閉ざしまま、胡座を組むティセの膝頭の辺りを見つめている。


 その様子を束の間眺めたのち、ティセはにわかに怒りを撤収した。ふうっと、わざとらしく声に出して息をつき、リュイへやんわり笑いかける。普段の口調で、

「で、どんな症状なのか、もっと詳しく教えてみろよ」

 急に態度を変えたティセを訝しんだのか、リュイはわずかにまぶたを震わせた。そして、おもむろにティセを見た。

 思わず感情的になってしまったが、本当はすでに気づいていた。頼りにならないと思われているわけではない。リュイはきっと、ひとに甘えることを知らないだけなのだ。自身のことについては、少なくともひとりで対処できるうちは誰かに告げたりはしない、そも、そんな考えが頭に上りもしないのだろう。

 もうひとつ、ティセはもう見抜いていた。

 リュイはひととまともに向き合うことが苦手…………というよりは、経験が乏しいためほぼできず、その対人関係の許容範囲はひどく狭いのだろう。相手の様子が変われば、すぐに理解や想像の範囲を超えてしまい、対処の仕方が分からず、その準備もむろんなく、ただひたすら口を閉ざして沈黙へ逃げることしかできないのだ。湯呑みを投げつけた後など、いままでにも何度かあった。沈黙へ至れば、もうなにも反応してはくれない。だから、完全に黙してしまう前に怒りを撤収し、自分の前に戻る道を作ってやらなければならない。ともすれば面倒なひとなのだと、リュイを見据えるうちに気づいたのだ。


 ためらい気味に瞬きをしてから、リュイはゆっくりと答えた。

「……こう、締めつけられるような感じで、胸が重苦しくなるんだ」

「もう何回くらいあるの?」

「……セレイの家を出てからすぐ……翌日だったかもしれない。それからは毎日、日に幾度か……」

「毎日、何度も!? ……おまえはぁぁぁ……」

 呆れ返ったティセは、ふたたびリュイを睨む。

「いや……初めはたいしたことではなくて、気にもしていなかったんだけれど……」

「けれどなんだよ、まさかだんだん悪くなってるとか言うんじゃないだろうな」

「……そう、悪くなっているようだ…………いまのは少しつらかった」

 腹の底から憂慮が込み上げて、ティセはわなわなと目元を震わせる。

「リュイ! 次の村に着いたら速攻医者に行こう!」

「……医者……」

「すぐだすぐ! もう歩けそう?」

「ん……もうなんともない」

 ふたりは立ち上がった。荷を背負ったとき、暖かな風が街道を吹き抜けた。その風に乗って、かすかになにか聞こえたように思った。リュイがふっと空を仰ぐ。ティセも同じように顔を上げた。

「……なにいまの……なんか聞こえたよね?」

「ん……聞こえたように思った」

「鳥の声?」

 雲ひとつない空を見渡してみたが、鳥の影は見えない。

「……風が鳴ったのかも」

 風音にも、澄みきった鳥の声にも、一瞬だけ弓を引いた擦弦楽器の音にも聞こえた。ふたりはひととき空を見上げていたが、

「ま、いいか。行こう、早いとこ村へ着いて医者を探そうぜ」

 リュイの背の荷物をぺしぺし叩いて歩き出す。リュイは歩きながら、ティセの目元をじっと見た。

「……なんだよ?」

 呆れと当惑を綯い交ぜにしたような目つきで、リュイは言う。

「……おまえは、すぐに泣く」

「……!」

 急に恥ずかしくなったティセは、

「うるさいっ!」

 力を込めて返した。決してひとに涙を見せないと、知らぬまに誓っていたティセ・ビハールが…………胸でつぶやけば、そんな過去の自分はもうどこにもいないのだと、ティセはつくづく思った。



 村へ到着し、診療所を訪ねたものの、リュイを診た四十がらみの医師は、白髪交じりの頭を混ぜるように掻きながら言った。

「私がこう言うのもなんだがね、こんな田舎の診療所じゃ設備もないし、たいした診察はできないよ。きみたちドゥリケルへ行くんだろう、あの町には大きな病院があるから、そこを訪ねて詳しく調べてもらったほうがいい」

 改めてリュイをまじまじと見て、

「とくに悪いところはなさそうだがな。まだ十六のくせにそんな立派な身体して、健康そのものに見えるがの。丈夫だけが取り柄のうちの莫迦息子のほうが、よほど病人に見えるくらいだ」

 その左肩を叩きつつ、遠慮のない笑い声を上げた。



 食堂兼簡易宿の食卓につくと、ティセは油と調味料が染み込んで黒光りする卓上を思い切りひと叩きして、

「やぶ医者だっ!」

 向かいで、リュイはクッと吹き出した。

「妥当じゃないか。町の病院へ行けと言われるだろうと、僕は思っていたけれど」

「なにぃ!? ……じゃあなんで行ったんだよ」

 ますます可笑しそうにリュイは微笑う。

「行かないと言っても、おまえは連れて行くだろう」

 それこそ妥当だ、ティセはぐうの音も出ない。


 定食の盆が運ばれてきた。牛脂で味付けをした米と、馬鈴薯と大角豆の炒め煮。シュウに入国して以来、主食は米であることが多くなっていた。北部では稲作をしておらず主食は平パンが圧倒的だというはなしだが、南へ行くほどに米が主流になっていく。白米に親しんできたティセにとっては、シュウ南部の食事はイリアのものと風味が違っていても、腹も心も落ち着くような安心感を覚えるものだった。

 もうまもなくナルジャでは、田圃に水を張る時季を迎える…………ふと思いついてから、食事に手をつけた。

「じゃあドゥリケルへ着いたら、ガルナージャのある森へ行く前に、もういちど病院に行こうね」

「前に……」

「そうだよ! 着いたら速攻だ」

「……分かった」

 まだ可笑しそうに、わずかに笑んだまま返した。ティセは口の端に米粒を付けた顔を向け、リュイの目を真剣に覗き込む。

「……具合が悪くなったら……ちゃんと教えてね」

「……分かった」

 とても素直に答えた。



 前を行くリュイの足が、ふと止まる。

「……ティセ」

「なに、具合悪い?」

 言葉少なにリュイは答える。

「少し……」

 荷物に覆い被さるように横たわり、リュイはまぶたをきつく閉じる。ティセはちらちらと様子を窺いつつ、回復を待つ。


 それからも日に二・三度、その胸苦しさはリュイを襲っていた。そのたびに休憩を取る。暫し安静にしていれば、なにごともなかったように治まるのだった。そのほかに体調の不具合や変化は少しもないとリュイは言う。発熱や倦怠感などはもちろんのこと、食欲は傍から見ても変わらず旺盛だった。

 少し……と必ず答えるが、本当はかなりつらいのだろう。苦しげに皺めた眉間を見つめながら、ティセはそう考える。少しくらいなら、きっと言い出さないはずだ。もしも自分なら、小さな呻き声でも上げてしまうくらいつらいに違いない。

 早くドゥリケルへ辿り着き、病院へ連れて行きたかった。が、一昨日話し合い、旅程を少々変更した。一日に歩く距離を若干減らしたのだ。できるだけ身体の負担にならないように、且つ、こんなふうに休憩を取る時間も必要であるのを考慮した。


 ところどころに薄い雲が浮かぶ青空を見上げて、リュイを待つ。鷹が一羽、雲を裂くように飛翔している。なんとはなしに鳥影を眺めていたが、すぐに遠く見えなくなった。その代わりであるかのように、どこか遠くから風音に似た音が聞こえてきた。

 かすかに、けれどある程度の長さをもって、空の高みから舞い降りるように、耳に心地よく鳴っている。白く輝く雲を見つめたまま、ティセはしまいまで耳を傾けた。


 …………似てる…………


 そう思ったとき、傍らに横たわるリュイが消え入るような声でつぶやいた。

「……笛の()に似ている……」

 苦しげな顔つきをしながらも、わずかにまぶたを開けていた。





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