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解放者たち  作者: habibinskii
第九章
66/81

8

 翌日の昼過ぎ、いつもより早く出勤するように言われているからと、セレイは嘘をつき自宅を出た。それを見送ったのち、ティセは散歩に行くと言って出た。ひとりで散策に出かけるのは取り分けめずらしいことではないので、リュイは少しも不審に思っていないようだった。


 運河のほとりでセレイと落ち合う。一昨日と同じ曇り空、同じ場所に座り込む。数羽の鴨が水辺に戯れているだけで、人の気配はまったくない。

 セレイは静かに笑んで、

「ティセ、お願いを聞いてくれて本当にありがとう」

「ん……」

 つい、沈んだ声と表情を返してしまう。なにを聞いてもいいように、心の準備をしていたものの、ティセはやはり気が重かった。その様子を見て、セレイは顔つきを若干曇らせる。束の間、ふたりの間にぎこちなさが漂った。

 やがて、ティセは意を決し、セレイの目をまっすぐに見た。気の重さを追い払い、挑むような明瞭な声で告げる。

「リュイは自分について、俺にこう言った。北部にある小さな村の、小作農家の次男で、八歳のころに両親が亡くなった。それからは隣の家の世話になって、麦畑を手伝いながら、初等部だけはなんとか修めた。修めたあとに笛を探す旅に出た。村は少し前に廃村になっている……」

 セレイは聞きながら、切なげに目を細めていった。

「……そう……」

「……どこかが違う?」

 問い質すような口調で尋ねた。セレイはさも言いにくそうに、唇を噛むような仕草を一瞬した。が、すぐに同じような厳しさのある口調で返答する。

「小作農家の次男は本当。八歳のころ両親が流行病で亡くなったのも本当よ。…………でも、隣の家の世話になったというのも、麦畑を手伝ってたというのも、違う…………兄さんは初等部には行っていないわ……」

「え……」

「それに……あの村はいまもある」

「……あるの……!?」

「養父さんの知り合いがいまでも住んでるもの……。ついこの前にも手紙が来てたわ」

 愕然とした。顔を強張らせ、呆然とセレイを見つめた。ティセの受けた衝撃が、辺りの空気を凍ったように張りつめさせた。暫し、重い沈黙が流れる。

 目を瞠り続けるティセを、セレイは遣り切れないとばかりに眉を寄せて見ていた。のち、深く溜め息をつく。


 そして、懸命に冷静を装っているかのような不自然に落ち着いた様子で、真実を語り始めた。そうでもしなければ、とても話せないというように――――

「兄さんはね、ハジャプートと呼ばれるひとのひとりなの」

「……ハジャプート……?」

「シュウ国軍の精鋭部隊、あるいは総統の親衛隊になるために教育される……ハジャプートと呼ばれる子供たちのひとりだったの……」

「――――――……!」

 セレイの言葉は、果てしなく遠いどこかのできごとのように聞こえた。ティセの世界にはない、まるで考えられないもののように。ティセはますます放心する。

「いまではもう、そういうことはないんだけど……昔、ハジャプートの特別徴兵令状が出されることが数年に一度あったの。兄さんは最後のハジャプートのひとり」

 セレイは運河の向こうへ目を遣った。ティセの衝撃を思いやっているのか、しばらく口をつぐんでいた。石炭を載せた船が一艘、音もなく流れていった。

 ふたたび、沈着に語り出す。

「生まれて数ヶ月後に令状が届いたそうよ……。ハジャプートは三歳までは親元で育てられるんだけど、そのあとは軍が管理している養成所へ入れられるの。だから…………私は兄さんと一緒に暮らした記憶はほとんどないのよ。……ティセ、よそよそしい兄妹だって思ったでしょ、だからなの……」

 ちらりとティセを見て、また前を向く。

「年に一度か二度、十日間くらいの休暇があって、そのとき兄さんは必ず家に帰ってきた。養女に行ってからは、村にも戻ってたようだけど、私のところにも必ず来てた。そのときだけが兄さんとの思い出なの。…………でも、兄さんは来てもほとんどなにも喋らなかった。ただ黙って、私を静かに眺めてるだけ…………いまでもそうでしょ? そこだけは変わらない……」

 真っ白になった頭の片隅に、家事をするセレイをじっと見つめていたリュイの姿が浮かぶ。

「兄さんが家に帰ってくるのは、父さんや母さんに会いたいからじゃなくて、私に会いたいからなんだってずっと思ってた。だから嬉しかったし、また会えるのをいつも楽しみにしてた。いまでも普通の兄妹みたいには話せないけど、私は兄さんがとても好き……」

 運河の向こうの街並みへ、セレイは慕わしさを滲ませた瞳を向ける。ひとしきり向けて、冷静に戻る。

「養成所でどんなことを教わるのか、詳しくは知らないけど…………初等部には行ってなくても、きっと兄さんはそれ以上の……相当高い教育を受けてるはずよ。養成所にいた十三歳までに、高等部くらいの教育を受けてるんじゃないかしら。もちろん勉強だけじゃなくて、戦う訓練も相当してるはず……」

 ティセはようやく声を出す。出した声は小さく震えていた。

「……とんでもなく強い理由が、よく分かった……」

 セレイは小首を傾けて、

「そう……。兄さんが銃や剣を扱うのを、私は見たことがないわ」

 声を出したら、放心していた頭のなかが落ち着き始めた。ティセはセレイとはす向かいになるよう座り直した。

「それで……ハジャプートだったはずのリュイが、どうして旅をしてるの?」

 ふたたび言いにくそうに、唇を噛む。

「……兄さん、養成所を脱走したの……」

「脱走!?」

「……どうしてそうしようと思ったのか、私にも分からない……。あのときはまだ休戦する少し前で、兄さんや同期のハジャプートたちが初めて試験的に戦地へ送られたって聞いてる……それからまもなくだった、兄さんが脱走したのは……」

「……戦地へ……」

 その日のことを浮かべているように、セレイは目を遠くする。

「夜中に突然来て、私の寝ている部屋の窓を叩いたの。唇に人差し指を当てて、深刻な顔してて……。私、こっそり外に出た。兄さん……施設を出ることにした、笛を探す旅に出る……って。どうしてって尋ねたら、自分のいる場所じゃない……ただそう答えたわ。とても急いでたし、私もすごく驚いてて、ろくに理由を聞けなかった……」

 言いながら少しずつ声を震わせていった。一旦間を置くと、震えた声は元に戻った。

「たいへんなことになるって思ったから……兄さんが来たことは誰にも話さなかった…………それからすぐ、行方を調べるために軍人が家に何人もやってきたの。故郷の村ではなにも分からなかったから、実の妹のところへ来たんでしょうね。休暇中に私のところへ必ず来てたことを把握してたみたい。……まるで知らない、初めて聞いた振りをしとおしたわ。養父さんや養母さんも厳しく問い質されてた……。震え上がるほど大きな声で…………家の周りには人だかりができてて…………養父さんはみんなが見てる前で、何度も軍人に殴られてた…………私、怖くて怖くて……」

 ティセははっとした。養父母と再会したあのとき、リュイがあれほど深々と――――まるで咎人のように頭を下げ続けていたことが腹に落ちる。

「この町に越してきてからようやく、夜中に来たことを養父さんたちに話したの。養父さんはあんなに誇りを傷つけられたんだもの……当然怒ると思ってたけどそんなことなかった……兄さんの行動についても一応の理解を示してくれて…………ふたりとも、兄さんにはもともと同情的でいたから……」

 ふいにティセを見向き、怖々というふうに尋ねる。

「ねえ、ティセ……兄さんはどうやって国境を越えてきたの?」

「え……?」

「……この国にいるかぎり、兄さんは逮捕される可能性があるのよ」

「逮捕!?」

「だって脱走兵なんだもの」

 衝撃が胸を貫く。いまこうしている間にも、運が悪ければ見つかってしまう可能性が――――零ではないのだ。ティセはふたたび放心する。そして、シュウの国境を越えた日をまざまざと思い起こす。

「兄さんは偽物の身分証でも持ってるのかしら……」

「…………思い当たることがある…………!」

 あのとき、リュイはめずらしく忘れものをしたと言って、先に行くようティセを促した。あれは偽の身分証を提示する必要があったから……そしておそらく、甚だしい緊張に襲われることを予期していたからに違いない。忘れものをしたというのは嘘だ。フェネを守ってやれる? ……そう言ったのは故意だ。

 セレイは不安そうに眉尻を下げて続ける。

「夜中に来たとき、私、とても慌ててしまって……よく考えもしないで、また会えると約束してって言ってしまったの。樹の下じゃなかったけど、兄さんは誓いを立ててくれた……。でも、あとになってものすごく後悔したわ。シュウにいるかぎり逮捕されるかもしれない…………兄さんに会えるのはとても嬉しいけど、本当は私、シュウにいてほしくない……どこか遠くにいてほしい……」

 複雑な思いを吐露すると、セレイは膝の上に顔をうずめた。涙を我慢しているのか、細い肩が小刻みに震えている。ティセは混乱する頭のなかをどうにもできず、震える肩と、後れ毛が風にそよぐ儚げな様子を、漫然と見つめていた。



 やがて、肩の震えを止め、運河の向こうの一点をじっと見た。据わりきったような厳粛な眼差しを見て、ティセははっと胸を突かれる。これから話すことが最もつらいことなのだと、一瞬で悟ったからだ。

「ハジャプートの令状が届くとね、そのあとは村の連帯責任になるの」

「……連帯責任?」

「そう、選ばれた子を確実に兵士にするために、村全体が責任を負わされるの。その代わり、選ばれた子の養育費のほかにも、村当てに援助金や一時金が出たり、税の負担を軽くしてもらえたりする。だから、その家族以外の村びとは令状が来れば喜ぶわ、貧しい村ほど尚更ね」

「…………貧しいところだって、言ってたな……」

 セレイは静かにうなずいた。

「たとえば家族が拒否して、その子の小指を切り落としてしまったり、どこかへ逃げてしまったり……そういうことがないよう、みんなが見張ってる。みんなの期待があるから家族は裏切れない。……なかには、口減らしになったって家族自身が喜ぶ場合もあるでしょうけど…………うちはそうじゃなかった。令状が来たとき、父さんとふたりでたくさん泣いたって、母さんいちどだけ話してた……」

「……ようは、国がやってる人身売買みたいなものかな……」

「そうとも言えるかもしれない……」

「…………じゃあ、脱走したあとは当然…………」

 束の間置いて、セレイは苦しげに目を細め、

「……賠償させられて、村はたいへんなことになったそうよ……」

 ティセは声を失った。

「ちょうど不作が続いてたこともあったし、それからすぐに反政府派が暴れるようになって、農地が荒れたり生活に支障が出たり……そんなことも重なって……ひどく貧しい状態になったみたい…………小さな子供やお年寄りが……何人か命を落としたって…………。いまでも村はあるけど、賠償の影響はまだ残ってるみたい。さっき話した養父さんの知り合い……養女の世話をしてくれたひとなんだけど、そのひとが村の様子をよく手紙に書いてるの。村のひとたち…………兄さんをとても恨んでるって……」

 睫毛を震わすセレイの目にはうっすらと涙が滲んでいた。


 頭のなかにぽつり、疑問が浮かぶ。ティセは声を低め、その素朴で深刻な疑問を口にし……――――核心をつく。

「リュイは…………どうなるか知ってたの……?」

「……知らないはずがない、どうなるかすべて分かっていたうえでの行動だって……うちに来た軍人が怒鳴ってた……。信じたくはないけど……きっと、そのとおりなんだと思う」

 冷たいものが胸のなかを過ぎり、背中にざわりと寒気が走る。

「分かっていても、それでも出て行きたいなにかがあったのかもしれない。村のひとたちに対してどう感じてるのか、私には分からない……けれど、もしも少しでも罪悪感があるのなら…………兄さん、とてもつらいんじゃないかな……」

 リュイの瞳の奥に潜む冷たく濡れた闇は――――それだ。少なくとも、そのひとつであるはずだ――――――……ティセは暗緑の瞳を思い、まぶたをきつく閉じる。

「……それじゃあリュイは……もう二度と村には帰れないから、村はもうないって嘘を言ったんだ……」

 おまえの村へ行こう――――……そう提案したあのときの様子がまぶたに浮かぶ。リュイは身動きも、息も、思考さえも停止したように硬直していた。

「北部は危険よ。治安があまりよくないからあちこちに検問所があるの、軍の施設もたくさんあるし……兄さんはもう二度と北部へは戻れない」

 帰るところがどこにもない――――帰るべきナルジャがいつでも心の奥に存在するティセには、まるで想像ができなかった。

「……どうしようセレイ……もう全然分からない……」

 ティセは正直に困惑を告げた。セレイは申し訳なさそうにうつむいた。

「このまえも言ったけど、理解できなくていいし、できるはずないとも思うの……妹の私にだって、兄さんの気持ちはよく分からないんだもの……」

 伏せた目をティセへ戻し、やわらかな口調で語り続ける。

「小さなころはハジャプートについてよく知らなかったから、兄さんはほかの家の兄さんとは全然違うひとなんだって、ぼんやり考えてただけだった。本当の父さんと母さんは、兄さんの話をしていても、ハジャプートについてはあまり触れないようにしてた気がする。ハジャプートのことをたくさん教えてくれたのは、いまの養父さんなの。女や子供にだって知りたいことを知る権利があるって言ってね。それから兄さんのことをよく考えるようになった。……でも、考えれば考えるほど、普通に育った私にはやっぱりよく分からないんだって思った」

 一旦間を置いて、改めて口を開く。

「昔ね、兄さんが休暇で家に来て帰ったあとに、養父さんたちが夜中にこっそり話していたことが聞こえてしまったことがあるの。ハジャプートの教育を受けてるわりに、兄さんはあまりにもの静かで気性がおとなしすぎる……向いてないんじゃないかって……。兄さんが脱走したあと、それを思い出したわ。もしかして自分でもそう感じていたのかな……もちろん、兄さんはひとこともそんなこと言ったことないけれど……」

 セレイの友人との集まりで耳にした言葉が、ふと過ぎる。軍隊から逃げるのは腰抜けのすることだ――――リュイは自身を、そんなふうに思っているのだろうか……。

「養父さんたちにはハジャプートのことは一切言わないでって、初めに頼んだの。あなたが知ってるのか分からなかったし……兄さん、つらいかもしれないから……」

「……なんだかおかしな雰囲気だなって、思ったよ……」

「そう……。養父さんたちもね、兄さんの変わりように驚いてる。うちへ来た日、養父さんたちに頭を下げてたでしょ……本当にびっくりしてた……。昔の兄さんは相手が大人であっても、一般のひとに頭を下げるようなひとじゃなかったもの」

 意外な言に驚いて、セレイの顔をはっと見遣る。本当よ、と言いたげにセレイは眉を寄せる。

「お礼を言ったり会釈をしたり……一般のひとには決してしなかった。そういう普通の躾や教育を受けてなかったんでしょう。なんていうか、もっと無口で横柄な感じのする子供だった……。たぶん兄さん……脱走して世間に出てみて、かなり戸惑ったんじゃないかしら……」

 ティセの脳裏に閃光が走る。瞬間、思い及ぶ。普通に過ごしてきた子供がごく当たりまえに、息をするように自然に身につける、経験するあらゆるものごとを知らない――――……沈黙の奥に口を開ける真っ白な欠落の正体はそれだ。

 リュイの抱える闇と空白が――――――見えた。口のなかで唱えると、つぶやきは心の底へ染みていった。



 セレイの話は予想していた以上の……その何倍もの衝撃をティセにもたらせた。とても想像が及ばない、手に負える問題とは思えない。ティセはもう押し黙るしかなかった。

 セレイもまた黙り込む。しんと静まりかえった運河のほとりに、ひやりとした風が吹く。重苦しい空気がふたりをひととき包んでいた。

 毛織物をきつく羽織り直してから、セレイは沈んだ声音で言う。

「重たい話をしてごめんなさい……」

「…………」

 恐る恐るというふうに問う。

「聞かないほうがよかったと……思ってる?」

「……そんなことはない」

 さらに怯えたように、辿々しく、

「……兄さんを……見る目が、変わる……?」

 ティセは正直にはっきりと答える。

「――――変わる。……確実に、変わる」

 悪いほうへ捉えたのだろう、セレイはひどく困ったような、ほとんど泣き出しそうな顔になる。息を詰めたように唇を引き――――それから、消え入りそうな小声で、

「……とても……受け入れられない……?」

 ティセは口をつぐむ。固く目を閉じる。自分のなかに耳を澄ます。そこに、聞くまえにはなかったものが生まれてはいないかと、目を凝らす。ひとしきり、心を澄まして自分の内側を眺め渡す。


 ――――なにも……なにひとつとして…………変わらない……――――


 変わらない、変わるわけがない。過去のなにを知ろうとも、リュイとともに歩いたこの約一年は、なにひとつ変わらない。なにひとつ揺らがない――――ほんのわずかなひびさえも、入る余地などどこにもない。

 数々の思い出が、ティセのなかにほとばしる。

 がむしゃらに後ろ姿を追った初めの五日間、完全な敗北を喫し足枷が外れたあの瞬間、自らも撃ち抜かれたと感じた銃声とどしゃぶりのなかにうずくまるリュイ……。内側に掛けられた頑丈な鍵が外されているのをはっきりと見た沙羅樹の下の誓い、ふたりでフェネを守った日々、涙が止まらない自分に海を見つめたまま寄り添ってくれた夕べ……。そして昨日耳にした、笑みが漏れてしまうほどぬくもりのあった、リュイらしからぬ言葉。

 ときには笑みを向けあい、ときには反発しあい、協同し――――……お互いに隠しごとをしつつも全力でぶつかった、奇跡のような日々――――

 たとえ過去になにがあろうとも、リュイと過ごしたこの一年が、ティセにとっては一等確かな、かけがえのない、なにものにも侵されない真実そのものだ。

 ティセは目を開ける。まっすぐに前を見据え、揺るぎない声で告げる。

「セレイ、言っただろ。なにを知っても……俺はリュイの味方だ――――……!」

 暗緑の瞳が輝く、涙が零れるかのように喜びが溢れ出る。

「……ティセ……!」

 途端、腹の底から滾るほど熱いものが込み上げて、ティセを突き上げる。両の手のひらをじっと見つめながら、唸るようにティセは言う。

「俺はいま……むっっしょうに…………リュイに会いたい――――!!」

 ばっと立ち上がる。

「戻る」

「ティセ!?」

 目を丸くして見上げるセレイへ、

「ありがとうセレイ! 仕事がんばって」

 勢いよく駆け出した。



 戻ると言ったものの、足は自然にイブリア街を目指していた。祈りの樹を仰ぐリュイがきっとそこにいる、そう予感していた。

 広場と商店街を過ぎ、西の市場の丸屋根の下を抜け、生活臭漂う赤煉瓦の町を小走りに行く。屋根の向こうに突き出る大樹を目指す。視界が開け、祈りの樹の全景が現れる。


 果たして、そこにリュイはいた。遠目に見てもひと目で分かる、垂直に落ちてくるひと筋の水に似た立ち姿。ティセは広場の縁に佇んで、しばらくの間その姿を眺めていた。

 真実を知り、闇と空白の正体を知り、数え切れないほどのリュイの嘘を知り、なにひとつとして揺らがない自分を知った。先ほどから滾っている熱いものが、いっそう熱く、芯を焼き尽くすほど熱く、ティセのなかで燃えている。黒い瞳を熱くして、万感の想いを込めて、リュイを見つめる。


 ――――リュイ……――――


 それから、ゆっくりと歩み寄る。大樹を見上げていたリュイが、静かに振り向いた。とても穏やかな顔をしている。

 ティセはにやりと笑んで、

「迎えに来た」

 リュイは訝しげにティセを見る。

「迎えに……? ここにいると思うのは何故?」

「毎日のように来てるじゃんか」

「……今日は来ていないかもしれないだろう」

「考えもしなかった」

 こともなげに返すと、リュイはクッと吹き出した。

「まだ見ていたいなら待ってるよ」

「いや……もういい、戻ろうか」


 ふたりは並んで、帰り道をゆっくりと歩き始める。

 ティセは手にしていた紙の包みを開けた。商店街を抜ける際に屋台で買った、子供の拳ほど大きな揚げ菓子だ。ひとつつまんでリュイへ差し出す。

「ほら、甘いよ」

「ありがとう」

 素直に受け取り、歩きながらゆっくりと口にする。先ほどのセレイの話が頭へ浮かんで、なんとも言いがたい不思議な気持ちが込み上げた。ナルジャを出たあの朝、初めて揚げ菓子を手渡した。揚げ菓子をありがとう……リュイはきちんと礼を返した。セレイの知っていたリュイはどんなひとだったのだろう。どれほどの戸惑いがそれまでにあったのだろう。

 そして、冷ややかな目をして揚げ菓子を食べていたリュイは、ティセの前にはもういない。甘さに安堵しているようなやわらかな眼差しで、ひとくちずつ口にする。見ているほうが安まってしまいそうに、瞳に情緒が滲んでいる。そうなるまでの一年を、ティセは誰よりも知っている。


 自分でも揚げ菓子を囓りつつ、ちらちらと見ていたら目が合った。

「……なに?」

「ううん、なんにも」

 やがて、リュイは囁くように言った。

「ティセ、明後日…………出発しようか」

「明後日?」

「そう」

「……妹を眺めつくしたか?」

 にやにや顔を向けると、リュイはわずかに口角を上げて、はにかんだ。

「ほんとにいいのか、次にいつ会えるか分かんないぞ?」

 自問しているかのように、リュイは少しだけ間を置いた。

「ん……大丈夫」

「……そっか。それなら……行こっか!」

 ティセはことさら明るい口ぶりで返した。その胸に溢れる名残惜しさが、悲しいほど見えた気がしたから…………。

 日暮れが迫り、空に広がる雲の縁が赤みを帯びてきた。そこここから竈の煙と煮炊きの匂いが流れ始める。家事を手伝う子供のはしゃぎ声と、石で香辛料を砕く音、この日最後の商いに精を出す流しの商人の売り声が、赤煉瓦の街に響いている。



 出発の朝は雲ひとつない晴天になった。冷え込みはしたものの、きららかな日差しが寒さを相殺していた。凛とするような、旅立ちにふさわしい朝だ。出勤前の養父母が、玄関先で見送ってくれた。

 今日も美しくトルクを巻いた養父が、目尻に慈愛を刻んでふたりを……リュイを見る。

「セレイのことはなにも心配いらないよ、必ず幸せになるからね」

「はい」

 養母が優しく微笑む。

「ティセ、あなたも元気でね」

「はい、お世話になりました」

 養父は改めてリュイを見遣り、重みのある声で告げる。

「リュイ。きみさえ良ければ、またおいで。私たちはいつでもきみを歓迎するよ」

 リュイは一瞬目元を震わせた。のち、言葉は返さずに、深く一礼をした。


 セレイは銅像の建つ広場まで送ってくれた。朝起きたときから口数が少ない。切なげな瞳を兄へ向けていた。

 朝日の満ちる広場の縁で、兄妹は同じ色の瞳を向け合った。

「セレイ……」

 つぶやくように呼びかける。セレイは問いかける、とても小さく、迷うように。

「……また……会えるかしら……」

 暫し黙っていたが、リュイは妹の目を見て言った。

「誓いを立てようか」

 セレイははっと目を見張り、

「立てないわ……! 誓いなんか……」

 いちどうつむき、顔をそっと上げ、

「でも……また会えるって、信じてる……」

 リュイは苦しげに目を細める。いまにも泣き出しそうな妹の頭を、尊いものに触れるようなためらいのある手つきで、そうっと撫でた。

 最後に見たセレイの瞳は、あまりにも真摯にティセへ語りかけていた。


 ――――兄さんを……お願いします……――――


 ふたりは新たな目的地を目指し、歩いて行く。

 南西へ、ドゥリケルの町へ。リュイが初めて請い願ったその場所へ……――――

 この朝だけは、ふたりの立ち位置が変わっていた。ティセはリュイの前を歩いている。

 ひしひしと感じるリュイの切なさを、前方に見ているのがつらかった。苦しげに目を細めたリュイが、ためらいのある手つきで妹に触れたリュイが、ことのほか弱々しく果敢なく目に映り、ティセにはとても見ていられなかった。

 けれど、それだけではない。

 いまリュイは、自分が前を行くことを望んでいる。道標が前にあるのを望んでいる――――……ティセはそう感じていた。何故そう感じるのか、自身よく分からない。

 すでに、ティセは無意識のうちに考え始めていた。まだ見ていない、まだ知らないリュイの内側を。闇と空白の真相に……真実に照らし出されるリュイというひとを、ティセは深く見据え始めていた。





            【第九章 了】






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