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「俺、今日は一日、のんびり散歩してくるよ。昼も外で食べてくる」
朝の家事を手伝ったのち、ティセはひとり町へ出た。兄妹の姿を目に入れず、ひとりきりになって考えたかったからだ。
昨日とは違う、春めいたぽかぽか陽気、足の向くままに通りを歩く。大通りから裏道へ入り込み、迷路のような住宅街を行く。ずんずん歩けば、また知らぬ通りへ出る。商店街を抜け、市場を通り、裏町を歩く。歩いて、歩いて、歩き倒して、まずは心を空にする。思う存分考えるために。
知らない道から、いつのまにかイブリア街へ入っていた。道行くひとの多くがイブリアになったのですぐ分かった。ひとがようやくすれ違えるほどの、赤煉瓦家屋の隙間の小道を抜けてみれば、
「あ……」
祈りの樹の立つ、あの広場へ抜けた。視界が急に広くなる。
樹の下にリュイがいないかと、その姿をつい探す。来てはいないようだった。陽の位置を見れば、まだ昼には少し早かった。が、心とともに腹も空になっていた。屋台で揚げパンと胡麻パンを買い求め、大樹に一等近い腰かけに腰を下ろす。
パンを頬張りつつ、祈りの樹を眺める。どんな嵐に襲われようとびくともしないほど立派な幹、その幹に飾られた神々しいまでに白く美しいトルクに似た白布、光沢のある濃緑の葉が暖かな日差しにきらめき、さわさわと囁いている。
大樹の下には年配のイブリアが数人、手を合わせて祈りを捧げていた。立て膝でする正式な祈りではない、簡略式の祈りだ。正式な祈りを捧げる者は本当に少ないのだと、ティセはつくづく思った。大樹に身を預けるリュイの姿を思い浮かべる。正式な祈りの儀式は、それしか見たことがないと今更のように気づく。
イブリアの服を纏わず、トルクを拒否するリュイだけが、正式な祈りを捧げている――――考えてみれば、とても奇妙なはなしだった。
流しの茶売りから買った甘い茶を飲み干して、素焼きの湯呑みを傍らに投げ捨てる。湯呑みは砕け散り、いつか土へ還るまでの旅に出た。
そして――――セレイとの会話の一部始終を細かく思い出す。
セレイの言うことをどこまで信用したらいいのだろう、ティセはまずそう考えた。兄は自分のことをそれほど知らないはずだと言った、もしもそうならば、セレイもまた、リュイをそれほど知らないのではないか。
友達と呼べるひとはいまも昔もあなただけ――――――本当にそうだろうか。道中、級友との思い出話をリュイから幾度か聞いている。確かに、親友の話をしていたことはいちどもない。が、初等部ではごく普通に級友と過ごしていたようだった。
セレイの言うことは、考え過ぎや思い込みでしかない可能性もある。すべてを知っても受け入れるひとが必要だというのも、それで少しは救われるというのも、ただの思い違い――――リュイの望まないことかもしれない。
…………もしも聞いてしまって、あいつが傷つくだけだったら…………
そう思うと、ティセは怖かった。
本当はとてもつらいんじゃないかと思う――――セレイの瞳は切なげに揺れていた。何故、つらいと思うのだろうか、話を聞いてみなければ理由は分からない。
けれど――――……けれど、リュイは耐えがたいものを抱えている、それだけは確かだと、間違いではないと、ティセには断言できた。
原因など知らなくても、見ていれば分かる。目を閉じて、道の先をまっすぐ見つめて歩くリュイを、まぶたに浮かべる。
静けさに閉じ籠もり、暗さを引き摺りながら、どこか苦しげに黙している。決して手の届かないなにかを遠くに見ているような、切なさを孕んだあの眼差し。そこここに漂わせるあらゆる翳、瞳の奥に感じる冷たく濡れた闇、沈黙の向こうにほの見える欠落――――――そのすべてが、つらさの証明だ。
リュイが微笑うのを生まれて初めて見たと、セレイは涙交じりに語った。信じられない思いがした。が、セレイのあの様子なら、それは真実なのだろう。
そして、もっと変われる、幸せになれる――――心から願っていた。
ティセはいちど考えるのを断って、祈りの樹を見つめた。葉擦れに耳を傾けた。大木への信仰はなくとも、この立派な神木を目にすれば、揺るぎないものに抱かれ守られているかのように、気持ちが静まっていくのを感じる。まるで笛の音のように。リュイが祈るのを初めて目にしたときは、あれほど意外な行為に思ったのに、いまではその気持ちが少しは理解できるのだった。
ひとしきり神木を見つめ、また初めから考える。ティセはそうして、長いこと考え込んでいた。
陽が西のほうへ移りかけたころ、遠くにリュイの姿が見えた。
「げ、来ちゃったよ……」
リュイはすぐ気づいたようで、こちらへゆっくりと歩いてきた。意外そうに首を傾けて、
「こんな処にいた」
「……おかしいか?」
「おまえのことだから、市場や商店街をうろついていると思っていた」
にやりと笑って答えた。祈りの樹のもとへは行かず、そのまま隣りに腰を下ろした。
「セレイはどうした?」
「仕事に出かけた」
リュイは横目でティセを見遣り、
「……なにか、迷っているの?」
どきりとした。
「な……なんで!?」
「迷いのあるものは樹の下に向かうと、ライデルの占い師が言っていたから」
確かに迷っている。そう言われてみれば、大樹に導かれてここへ辿り着いたような気になった。
「なんか分かる気もするな……。じゃあ、おまえなんか迷いっぱなしだな」
せせら笑うと、リュイは少し厭そうな顔になり、なにか言いたいけれど、なにも言い返せないというふうに口をつぐんだ。
出会ったばかりのころなら、こんなふうにリュイが黙れば、ティセは無視されたと思い込んだ。返す言葉をうまく口にできないだけなのだということに気づかず、無視されたと憤慨していたのだ。いまならこんなに分かるのに……ティセは感慨を深くする。
……ふたりとも大きな隠しごとをし合ってるのに、そんなに仲良しなの……
セレイのつぶやきを思い出す。
黙ったリュイをちらりと見て、
「……俺たち……仲良しかな?」
驚いたように、リュイは大きく瞬きをした。
「……突然、なに……?」
「いや……なんとなく」
やや間を置いたのち、硬さのある小声で、
「…………少なくとも……悪くはないと思うけれど……」
リュイは表情も強張っていた。
「ま……そうだよな」
素っ気ない口ぶりで返す。顔つきを強張らせたまま、リュイはいよいよ黙り込んでしまった。
だいぶたってから、めずらしく感傷を滲ませた瞳でティセを見た。そして、らしくないことを言う。
「…………僕がいちばん親しいのはおまえなのに…………仲が良くはないと言われたら…………困る……」
声が困っていた、ひどく寂しげな口調だった、しかも可愛げがあった。ティセは目を丸くして、その顔を凝視した。次の瞬間、
「ぎゃはははははっ……」
辺りに響き渡るほどの声で笑った。
「おまえは普段ちっとも冗談を言わないけど…………下手に冗談言うより、よっっっぽどおもしろいな……!」
突き上げる可笑しさに息をはひはひさせて言う。リュイはむっとしたように、ふたたび黙り込む。そのうち、ふっと短く溜め息をついて、祈りの樹のほうへ歩いて行った。
樹から少し離れたところへまっすぐに立つ。その立ち姿を、ティセは口元に笑みを湛えながら見つめていた。
生きている感じのしないひとだったリュイが、こんなにも変わった。こんなにも体温を感じさせるようになった。出会ったころとは別のひとだと心から思う。
とはいえ、ティセ以外の他者から見れば、いまだリュイは活き活きしさのないひとに映るだろう。その温度のない眼差しと言葉つき、表情や雰囲気に、少なからぬ近寄りがたさを覚えるだろう。
けれど、ティセは思う。セレイが願うように、もっと変わることができるはず…………全身に纏った雪融け水のように張りつめた雰囲気が、ティセに対して徐々にほどかれ、ぬくもっていったように――――いつか、他者に対してもほどかれていけるはず。
リュイは、自分を変えるきっかけを与えてくれた。抑圧から解き放たれる機会をもたらせてくれた。もしもセレイが言うように、自分が力になれるのならば……――――そこここに漂わせる翳から解き放つ、きっかけになれるのならば……――――
そんな力に、なれるかは分からない。が、もしもなれるのであれば――――
――――なりたい――――……!
もっと、解き放たれたように生きて笑う、リュイを見たい――――……
大樹を見上げるその後ろ姿を、ティセはますます熱く見つめる。
きっかけになるために、信念を曲げる勇気を持とう。勇気を持って、賭けに出よう。
ティセは右手をそっと衣嚢へ忍ばせ、父の方位磁石に触れる。
…………信念を曲げる勇気を、ください…………
リュイの背へ向けたティセの瞳は、ナルジャを出た朝とまるで同じ。まっすぐに目標を捉え、強く凛々しい光を放つ。
近隣の子供たちが寝静まり、裏町を満たしていた生活音が止むころ、折り戸の外からセレイの声がした。
「いつもありがとう、おやすみなさい」
「お疲れ、おやすみ」
送ってきた同僚の男の声、続いて折り戸が開かれる。
毛布にくるまり地図を眺めていたティセは、よっと立ち上がり、
「あ、帰ってきた。俺、ちょっと便所」
寝る体勢のまま読書するリュイへ告げるともなく告げ、部屋の外へ出た。
暗い玄関で、セレイは折り戸に内鍵を掛けている。
「おかえり」
「ティセ、まだ起きてたの」
「うん、もう寝るよ」
振り返ったセレイの間近に立ち、その耳に顔を寄せる。誰にも聞こえない息だけの声で、
「セレイ……聞くよ」
薄闇に浮かぶ暗緑の瞳を見つめる。セレイは目を大きく見開き、それからゆっくりと、胸の奥から滲み出す感激に耐えるかのように目を細めていった。
「……ティセ……ありがとう」
同じく息だけの声を震わせた。




