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解放者たち  作者: habibinskii
第九章
64/81

6

 セレイはひとことも口をきかずに、町の中心から外れていく。ティセは胸いっぱいに戸惑いを溜めて、数歩前を行く杏色の後ろ姿をじっと見つめていた。

 やがて、運河のほとりへ辿り着いた。辺りに民家はなく、無機質な倉庫がぽつぽつと建つばかりの寂しげな場所だ。石炭を積んだ船が、ときおり川へ向かって流れていくだけで、人気はまったくない。

「ここなら、誰も来ない……」

 色褪せた草の上に、セレイは静かに腰を下ろす。杏色の裾が円く広がった。ティセは黙ったまま立ちつくしていたが、

「座って」

 促されて腰を下ろす。セレイと少し間を空けた。やや不自然なその間合いは、戸惑いの表れだ。

 暫し、セレイは運河のほうをただ見つめていた。が、ティセを見向き、意を決したように口を開く。

「ティセ……兄さんは、自分のことをどんなふうに、あなたに話しているの?」

 胸に飽和した戸惑いが、ティセの声を詰まらせていた。セレイの顔が見られず、うつむき加減に黙していた。

「……あなたがどのくらい兄さんを知ってるのか、初めはまったく分からなかったけど…………もう分かった」

「…………」

「兄さんは、本当のことをほとんど話してないのね……」

 心臓が大きく鼓を打って、腹の底から衝撃のうねりが突き上げる。セレイは冷たく感じるほど真剣な眼差しで、うつむくティセの顔を覗き込むように見た。

「ガルナージャが見たいって、兄さんの気持ちを言い当てたとき、このひとならと思ったの。昨日友達の集まりに誘ったのは、あなたがどんなひとなのか、もっとよく知りたかったから……」

 セレイの意図を知り、驚きの目を瞠る。

「ティセ、あなたなら兄さんの力になれる。そう信じているから…………だから――――……私が話す」

 反射的に、ティセは顔を上げた。一途なまでに据わったセレイの瞳を、まっすぐに見る。

「セレイ! ちょっと待って!!」

 声を荒らげた。

「……待って……」

 セレイは目で何故と問う。どうにか気を落ち着けようと、ティセは大きく息をつく。

「……リュイがなにかを隠してるのは、俺、もうずいぶん前から気づいてる……」

 驚いたように、セレイは瞬いた。

「それが、ひとには言いたくない…………たぶん、あまりよくないことだろうってことにも気づいてる……」

「そこまで気づいているなら……」

「でも駄目だ! 聞けない! 聞かないよ!!」

 きっぱりと拒否した。セレイはいちど口をつぐんだあと、小刻みに震える声で、

「どうして……」

 思いをまとめるために、ティセは少し間を置いた。そして、荒らげた声から一転、そっと語りかけるふうに答える。

「リュイは知られたくないから隠してるんだろう。それが分かってるのに聞いてしまうなんて……できないよ」

「……知りたくはないの?」

 ティセはふたたび声を強くする。

「知りたいよ! めちゃくちゃ知りたいよ! どんなことを知っても、それでリュイを好きじゃなくなることは絶対にないし、たとえみんながどう思おうと、俺だけはリュイの味方になれる……ずっとそう思ってる」

「それならなおさら……」

 懇願するように囁くセレイの目を見つめ、もういちど声を落ち着かせ、

「……でも駄目なんだ。リュイが厭がることを、俺はしたくないんだ……」

 セレイは遣り切れなさを堪えるように目を細めた。そのまま、運河の向こうに広がる赤煉瓦の街並みを、なにも言わずに眺めていた。ティセもまた、なんともいえない気分で遠くを見遣り、黙していた。

 石炭を積んだ船が西のほうから現れて、ゆっくりと東へ流れていく。鼠色に汚れた船の上、くたびれた作業着を着た船員が、曇り空を見上げて煙草の煙を吐いている。ふたりは船を漫然と見送った。


 ほどなくして、セレイは静かに語り始めた。

「ティセの気持ちは分かったわ。それじゃあ、今度は私の気持ちを聞いてくれる?」

 無言でうなずいた。

「兄さんはなにも言わないかもしれないけど……たぶん、とてもつらいんじゃないかと思う。兄さんには理解者が…………ううん、理解はできなくてもいいし、できるはずないとも思うけど……全部知っても受け入れてくれるひとが……そんな相手が必要なんじゃないかと、私は思うの。そしたらきっと、少しは救われる……」

「救われる……?」

 リュイの漂わせる暗い翳が、心を過ぎる。

「そう。それは身内じゃなくて他人じゃないと……。ティセ、あなたならなれるでしょう」

「…………」

「確かに、知られたくないから隠してるんでしょうけど……でもねティセ、本当に知られて困るなら、私に言うなって口止めするはずじゃない? ここへ来てから、兄さんはいちどもそれを言わないの……何故かしら?」

「…………セレイは言わないって、信じてるからじゃないの?」

 そうとしか考えられない。けれど、セレイは首をゆっくりと横へ振った。

「そうじゃないと思う。兄さんは……私をそれほど知らないはずだもの。一緒に過ごした時間、多くはないんだから……。初めは隠していても、心のどこかで、もう知られても構わないと思ってるのかも…………。自分に都合の良い考えかたかもしれないけど、それなら口止めしないのが納得できるのよ」

 セレイはふたたび熱の籠もった眼差しを向ける。

「ティセならそんな相手になれる! なれるって、いま自分でも言ったじゃない。あなたしかいないの…………兄さん、春までずっと独りきりだったって言ってたでしょ。たぶんね…………友達と呼べるひとは、いまも昔も世界中にただひとり、あなただけだと思う」

 熱くなった暗緑の瞳が潤み、揺らめいた。涙交じりの声で、セレイは告げる。

「……兄さんが微笑うのを、私、生まれて初めて見たの……」

「え……――――!!」

 ティセは絶句した。

「あんなにやわらかな顔つきをしてるのが、信じられない……! 兄さんは、きっともっと変われる……幸せになれる…………なって欲しいの! ふたりがいつまで一緒に旅をするのか分からないけど…………旅が終わる前に…………ティセ、兄さんを救って……!」

「そ、そんな……俺にそんなこと……」

「できるわよ! 樹に誓いを立てたほどの相手だもの! とにかく、ひと晩でもふた晩でも、よく考えてみて! お願いよ……心からお願いするわ」

 形の整った細い指で、目尻に溜まった涙をそっと拭う。

 セレイの願いを正面から受け止めた。よそよそしさを漂わせるこの兄妹は、にも拘わらずお互いが、普通の兄妹とはどこか違った肉親への情を持っているのだった。セレイの願いと、自分の思いが、胸のなかでぐしゃぐしゃに入り混じる。

 ティセは長い溜め息をついた。

「…………セレイの気持ちは分かった。ちょっと時間をちょうだい…………俺、よく考えてみるよ……」

「ありがとう……!」

 拭いきれない涙の欠片を目尻に輝かせて、セレイは微笑んだ。

「話ができて本当によかった。ティセ……話をする前よりも、いまのほうがもっともっと、私、あなたを信用してる。あなたの気持ちを聞いてよかった……」


 セレイは脇へ置いた買いもの篭に手を伸ばし、先ほど買った蜜柑を取り出して剥き始める。身につけた杏色の衣装よりも瑞々しい橙色の実を半分に割り、ティセへ差し出した。

 軽く礼を言って受け取り、半分の実をさらに半分にして、ぽいっと口へ放り込む。セレイはひと房を丁寧に剥がして、そっと口へ運ぶ。大きく口をもごつかせるティセを見遣り、セレイはにやにやと笑う。そして、

「あのね、話はもうひとつあるの」

「あに……リュイのこと?」

「あなたのこと」

「俺?」

 笑いをふいに収め、セレイは首をやや傾げながら、

「……もし違っていたらごめんなさい……ティセ、本当は女の子よね……?」

 ティセは顔を強張らせ、次瞬、喉を詰まらせた。

「げほっ……げほっ……げほおっ……」

 噛みかけの蜜柑が口から飛んだ。セレイはふたたび笑いつつ、ティセの背中をさする。

「やっぱり」

「……な、な、な…………なんで分かった……!?」

 咳き入って涙ぐんだ目で、セレイの顔を凝視する。

「初めは男の子だと思ったんだけど……やっぱりなんとなく違うもの。ティセ、女の子にしては背が高いほうだけど、なんていうか……男の子にしては線が細いし。それに、私がご飯の支度を始めると、ティセは当たりまえのように手伝ってくれるじゃない。男の子だったら、言われないかぎりしないでしょ」

「……よく見てるなぁ……」

 深く感心して目を丸くする。セレイは可笑しそうにふふふと笑い、

「ティセ、朝起きるとすぐに台所に来て、兄さんに白湯を淹れるでしょ。あれがね、まるで養父さんにお茶を淹れる養母さんみたいで、可笑しくって……女の子に間違いないと思った」

「……か、かあさん……?」

 思わず脱力、セレイは笑みを収め、

「兄さん、知らないんでしょ?」

「うん、たぶんね」

「一年近く一緒にいて気づかないの……信じられない……」

 呆れ声でつぶやいた。

「とにかく、リュイには言わないで。……そのうち話すから」

「もちろん言わないわ。……でも、どうして男の子のふりをしてるの?」

 ティセは頭をボリボリと掻いた。

「いや……そもそもはあいつが一方的に誤解したんだけど……そのほうが都合がよかったの。女だって分かったら旅の仲間にしてくれなかっただろうし、ばれたら村に帰れって言われるんじゃないかと思ってさ。いまはもう、さすがに帰れとは言わないと思うけど……でも、いまさら話すきっかけがないというか……それに本当のこと知ったら、きっとすごく驚くんじゃないかな……」

 声音を弱らせて語るのを、セレイは興味深げに聞いていた。

「そうねえ……知ったら驚くでしょうねぇ」

「怒るかな……あいつ怒るとめちゃくちゃ怖いんだ……」

 孤児だという嘘が露見した際の、あの冴え渡る怒りを思い出す。つい、身が縮こまる。情けないティセを見て、セレイはまた、ふふふと笑う。

「それにしても……ふたりとも大きな隠しごとをし合ってるのに、そんなに仲良しなの…………変なの」

 冷たさの増した風が運河を渡る。ティセは縮こまった身をさらに縮ませて、

「変かな……」

 つぶやくように返した。



 おやすみ、と声をかけランプを消した。ふたりに与えられた不在の義兄の部屋が薄闇に包まれる。隣家の灯りが窓からぼんやり差していた。

 布団のなかで、ティセは胸元にそっと手を当てた。少し前からなんとなく気づいていた。家出したころよりも、ほんのわずかながら胸のふくらみが増していることに。自分が思っていた以上の速さで、少年に見えなくなりつつあるのかもしれない。いつか本当のことを話さなければいけない、気づかれてしまう前にだ。その日はそう遠くないのだと、しみじみ思う。

 それから、静かな寝息を立てているリュイのほうへ、そっと首を回した。その横顔を、ティセは長いこと眺めていた。いままでリュイに対して抱いてきたさまざまな疑念と、セレイのひたむきな願い、そして、リュイの厭がることはしたくないという信念が、混じり合い、身体のなかで渦を巻く。渦に呑み込まれ息苦しいまでに、葛藤していた。





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