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解放者たち  作者: habibinskii
第九章
62/81

4

 古老の住む北の一画を目指す。セレイは芥子色の腰巻きを纏い、臙脂色の毛織物を羽織る。少女にしては地味な色合いであるけれど、その慎ましやかな装いはセレイの生まれ持つ美しさをより際立たせる。大切なものを抱えるように抱いた籐篭には、手土産の椪柑(ぽんかん)。昼下がりの日差しを受けて、橙色がつやつやと光っている。

 シュウの女の衣装を身につけているときよりも、イブリアの服を纏ったセレイのほうがきれいだ、ティセは半歩前を歩くセレイを見ながら心底思う。リュイもイブリアの服を身につけてトルクをしてみればいいのに…………頭でつぶやけば、セザの家で聞いたイブリアの民話を思い出す。ラナの語りに導かれて遭遇した大樹の精霊が目に浮かぶ。

「セレイは古老に会ったことあるの?」

「もちろん。何度もあるわ。私、お爺さんにはけっこう気に入られてるみたい」

 ふふっと、可笑しそうに笑う。



 古老の家は中庭を囲むかたちで建てられた、二階建ての立派な屋敷だった。通りに面した窓には、板をくり抜いた美しい透かし彫りの飾りが窓を覆うように施され、富と名誉を誇示しつつ、同時に街並みに彩りを与えている。周りの家々を従えているように見えた。

 玄関は中庭にある。中二階の下をくぐり中庭へ抜けると、ムシロの上に山積みされた乾燥トウモロコシの黄色が目に入る。そのそばで、数人の女が実をむしる作業をしていた。

「こんにちは」

 主婦と思しき中年女性が作業の手を止めて、にこやかに微笑みを返す。

「あらセレイ、いらっしゃい」

 セレイは腰を屈め、ムシロの前に座り込む主婦へ籐篭を手渡した。

「みなさんでどうぞ……ちょっと味見したけど、とても甘い椪柑でしたよ」

「まあ、ありがとね」

 主婦はちらりとリュイを見上げて、口笛でも吹くように唇をすぼめた。

「このまえ話してた本当の兄さんね。そっくりじゃない!」

 リュイは軽く会釈をして、小さく「こんにちは」と返した。

「お爺さん、お待ちかねよ。いつもの部屋にいるわ」

 案内など必要ないふうに、セレイは開け放たれた戸口からなかへ入っていく。ティセは「おじゃましまーす」と小声で言って、そのあとに続いた。


 薄暗い廊下を突き進み、通りに面した部屋へ辿り着く。セレイは部屋を覗き込んで、

「こんにちは、お爺さん、セレイです」

 弱々しくしわがれた、けれど重みも残した老人の声がする。

「おお、おお、セレイ。お入り」

 各々、靴を脱いで室内へ上がった。

 毛足の長い深緑色の敷物を敷いた広い部屋、廊下側の壁が木彫りの施された洒落た書棚になっているだけで、ほかにはなにもない応接間だ。窓からは、木彫り細工の隙間を通って和らげられた日差しが差し込み、室内をほのぼのと照らしていた。舞い上がりゆらゆらと漂う埃が、やわらかな日差しを受けてあえかに瞬いている。目に心地よい明るさと、幻のように揺らめく空気…………室内はひとの気配を感じないほど静まりかえっている。

 框を上がった途端、ティセは現実とは別の処へ迷い込んでしまったような気分になった。たとえば、静けさに満ちた森の奥――――……その森の奥に老人がひとり、片膝を立て、角柱形の大きな(クッション)にもたれかかるようにして坐していた。こちらをじっと見据えている。――――――否、リュイを射貫くように見つめている。

 白髪交じりの長い眉毛を寄せ、古老は意味深げに呻く。

「……ほほう……これは、これは…………」

 そして、やはり意味深げに口の片端を上げた。

「お爺さん、このまえお話しした私の兄さんです」

 リュイは主婦にしたより丁寧に礼をした。

「リュイ・スレシュ・ハーンといいます」

「うむ……ま、座んなされ」

 古老は歳が分からないほど老いている。時の流れのなかに、死に必要のない無駄なものをすべて捨ててきたかのように痩せていた。が、その小柄な身体と老いた顔には、風雨を耐え抜いた古木に通じる貫禄があった。

 古木――――古老はまるで木に見えた。そこに根が生えたように坐し、もうどこへも動かない。ひどく緩慢な所作は、ゆっくりとしなる枝に似ている。ゆるゆるとした喋りかたは木々のざわめきと同じく、耳に優しい。ひとと、そうでなくなったもののあわいに生きている、そんな印象を与える老人だ。白髪のほとんど抜け落ちた頭に、神木と同じ真っ白なトルクを巻いている。

 けれど笑顔になれば、にわかにひとへ近づいた。セレイに愛しげな目を向けて、

「相変わらず、めんこいのう」

 にこりと笑う。と、見るひとを和ませる好々爺になるのだった。

「で、わしに尋ねたいこととはなんじゃろか」

 リュイは笛についてを説明した。


 運ばれてきた茶に口をつけつつ、古老はふむふむとうなずきながら話を聞いた。見ているものを眠りに誘うようなゆったりとしたその仕草は、やはり微風に揺れる枝葉のようで、ティセにはどうしても古老が木に見える。腰巻きの裾から覗く細すぎる脚も枯れかけた枝のようだ。

 聞き終えて、古老は眼差しを遠くした。やや間を置いたのち、

「笛の話は、悪いが聞いた記憶がないのう……」

「……そうですか」

 リュイは沈着に返す。セレイが残念そうに眉尻を下げた。

「役に立たなくて申し訳ないのう」

 言って、古老は少しく身を乗り出す。

「ときに、その笛とやらをいま持っているなら、見せてはもらえんじゃろか」

 襟もとの薄布のなかから笛を取り出して、これです、と差し出した。震えのきている骨張った手で受け取ると、途端、古老は顔つきを変えた。眉根に皺を寄せて、吸い込まれたように笛を見つめる。

「……ほほう……」

 ふたたび呻き、リュイと笛を交互にまじまじと眺める。ひとしきり眺めたのち、穏やかな顔つきに戻った。真っ白な顎髭を撫でながら、

「歳を取りすぎて、いよいよおかしくなってきたのか……お天道さまが出ていて、目もぱっちりしとるというのに、夢を見るようになってなあ…………と言っても、もう何十年も前からじゃがな。なんせわしは、おまえさんがたが生まれる前から充分に年寄りなのじゃから……」

 そして、リュイの顔をまっすぐに見据え、

(ぼん)、おまえさんの後ろには大きな樹がぼんやりと見えるようじゃ」

「え……」

「この笛にも似たものを感じるのう……」

 リュイは顔を強張らせる。ティセは心から驚いて、

「ライデルの占い師が言ってたのと同じじゃん!」

 思わず声を上げた。

 古老はいっそう深々とリュイを見つめる。白目の濁った目に眼光が走る。

「おまえさんが部屋に入ってきおったとき、わしゃ、ガルナージャの()りびとが入ってきたのかと錯覚したぞ」

「お爺さん、それはなあに?」

 古老はセレイを見遣り、

「知ってるじゃろう、ガルナージャの護りびと……千日の祈りを捧げた女の話じゃぞ」

「ああ! あの民話のことね」

 ティセは思い至る。

「それ、大樹の精霊と結婚した少女の民話のこと?」

「ティセ、よく知ってるわねぇ! でも、あの民話はそういう題名なの? ちっとも知らなかった……」

 古老は首をゆっくりと横に振った。

「いやいや、題名というんじゃないが……あの話に出てくる大樹の精霊を、ガルナージャの護りびとと呼ぶんじゃ」

「そうなの、初めて聞いたわ」

 ふう、と古老は溜め息をつく。

「そうかい。いまの者は知らんかもしれんなあ……民話自体が語り継がれなくなっとる時代じゃ……無理もない……寂しいことじゃ」

 ぐいと飲み干した湯呑みを、セレイは当然のように受け取った。鉄瓶の茶を注ぎ、古老の前へそっと差し出す。

 玄孫に昔話を語るような穏やかな語り口で、古老は説き始める。

「あのなぁ、ガルナージャというのはあの話に出てくる沙羅の大木のことを言うんじゃ。大木の立つあの森をガルナージャの森というんじゃ。どれほど昔かわしもよう知らんが、ガルナージャの森のそばにイブリアが村を造っていたそうな。あの話はそのときに語り始められたものじゃろうよ」

 ふと、リュイが口を挟む。

「それなら、民話の森は実在するんですか」

 静かな水面(みなも)に、突如かすかな細波(さなみ)が立ったかのように、声が逸っていた。

「そうじゃ。ほれ、ドゥリケルという町があるじゃろ。あの町のはずれにある森がそれじゃ。もちろんイブリアの村などもうないがのう。あの辺りを、古くは大木にちなんでガルナージャと呼んでいたようじゃ。その後シュウ人がいまの地名で呼ぶようになったから、すっかり忘れられてしまったがのう」

 リュイは目を見開いて古老を見る。

「若いころ、そこへ行ってみたことがある。民話の沙羅樹が本当にあるなら、この目で見てみたいと思ってなあ」

 続きを急くように、リュイはいっそう深く古老の顔を凝視する。

「ガルナージャはあった。いまは知らんが当時はあった。たいそう立派な古い樹じゃった。森自体は民話で言われるほどには大きくはなかったがのう。土地を拓くために伐採したのか、自然に枯死して小さくなってしもうたのか……それとも話を大きくしてあるだけかもしらんがなあ……」

 リュイは瞠目したまま、時を止めた。心を奪われて、いまここにはいない――――大木を目にして(いざな)われるよりもさらに激しく深く、想像のなかの沙羅樹に惹かれている――――……ティセはひと目で気がついた。その硬直した横顔、はるか遠くを見つめる瞳、気配までも消すほどに、リュイの心はどこかへ旅立っていた。


 ……リュイ……


 セレイが驚嘆の声を上げる。

「民話の樹が本当にあるなんて、なんだかすごいわ! 私、初めて知った。お爺さん、みんなにその話をしてもいいかしら?」

「もちろんじゃよ、ぜひ広めておくれ。みなが民話を忘れないよう、語り継いでいけるよう、どうかみなに話しておくれ」

 古老はそれが自身の幸せであるかのように、慈愛に溢れる笑顔を見せた。


 その後しばらく、古老とセレイを中心に歓談をしていた。古老はセレイをたいそう可愛がっており、セレイもまた古老を敬愛しているのだと分かる。ふたりを眺めていたら、ティセは校長を思い出した。ナルジャに帰っても、まだ自分を可愛がってくれるだろうか……。

 リュイは長いこと放心したままだった。会話にもほとんど上の空だ。さすがに失礼に思えたので、セレイと古老が話しに夢中になっている()を見計らって、その背中を軽く叩いてみた。三回叩かれて、ようやく落ち着きを取り戻す。

「しっかりしろよ……」

 夢から覚めたばかりのように、瞬きをくり返した。


 帰り際、部屋の入り口で靴を履き立ち上がったリュイに、古老は低く声をかけた。

「坊」

 部屋の奥に坐したまま、振り向いたリュイを深々と見つめる。

「…………何故、トルクをしない?」

 息を呑んだように、リュイは表情を硬くした。

「おまえさんはもう、トルクをしなければならんじゃろう…………いいや、おまえさんこそがトルクをすべき男じゃろうて……」

 神木と同じ真っ白な古老のトルクが、ひときわ白く目に映る。リュイは困惑を瞳に浮かべ、間を置いてから、丁重に一礼をした。

 帰り道、リュイは始終無言だった。なにか思い詰めているような眼差しをして、ふたりの後ろを歩いていた。



 日が暮れるころに養父母が戻る、そのまえに夕飯の支度をととのえる。煤けた鍋を台所の土間に置き、セレイはしゃがみ込んで馬鈴薯の皮を剥く。ティセは火吹きで竈に風を送りつつ火を熾す。リュイは勝手口の近くに置いた低い腰かけにかけて、物思いに耽けるみたいに黙している。ときおり目を上げては、妹を静かに眺めていた。

 古老が木に見えてしかたがなかった、正直に言うと、セレイはふふふ……と可笑しそうに笑う。

「分かるわティセ、私もいつもそう思う。お爺さん、木みたいに動かないし、緑色の敷物がまるで草原みたいだし……」

「そうそう、森のなかにいるみたいな気がした」

 竈の火が勢いよく燃えだして、パチパチと音が上がる。

「でも……笛のことは知らなかったわね、とても残念……」

 皮を剥く手元を見たまま言った。ティセはリュイをちらりと見遣る。とくに表情を変えることなく、役に立てなかったと嘆く妹を静かに見つめていた。

 古老の応接間で、長々と放心していたリュイの顔つきを思い浮かべる。目の前にはない、想像のなかの大樹に心を奪われていたリュイを。あのとき、ある考えがティセのなかに自然と生まれていた。

「笛のことは分からなかったけど、おかげで大きな収穫があったよ、セレイ」

「……なあに?」

 火吹きをひと吹きしてから、ティセはおもむろにリュイを向く。そして、はっきりとした口調で告げる。

「リュイ。――――つぎの行き先が決まったな」

「え……」

 リュイは、そしてセレイも、はっとしたようにティセを見る。束の間黙っていたが、リュイは怪訝そうに返した。

「……どこへ……?」

「ドゥリケルに決まってるだろ、ドゥリケルに行こう」

 思いも寄らないことを言われたように、リュイはぎこちなさのある声で、

「…………何故?」

「ガルナージャが見たいんだろ、リュイ」

 リュイは少しく目を見開いた。何故そう思うのかよく分からないというふうに。口をつぐんだまま、こちらを見ている。

 ふう……ティセは溜め息をついた。

「おまえはほんっとに鈍いな。自分の気持ちが分からないって言ってたとおりだ!」

 いっそうはっきりと、揺るぎのない声で断言する。

「ガルナージャが見たいんだろ。見たいって顔に書いてある。顔だけじゃなくて、胸にも背中にも書いてある! おまえの全身が見たいって言ってるよ!」

 暗緑の瞳をさらに見開いた。その言葉に射貫かれたようになって、瞬きもせず、指の先まで身動きを止めていた。

 やがて、突き上げていた思いに初めて気づいたように、その思いの激しさに耐えるかのように、リュイはゆっくりとどこか苦しげに目を細めた。ほとんど息だけの小さな声で、

「……見たい……とても見たい……」

 吐露した。

「だろう?」

 にやりと笑みを返す。リュイは湧き上がる欲求を持て余して困り果てているかのような目を、ティセに向けた。

 そのとき、セレイもまた身動きを止めていた。馬鈴薯に包丁を当てたまま、目元を震わせてふたりの様子を見つめていた。





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