5
フェネと地図を眺めながら、あと三日――――ティセはわずかに笑みを浮かべて、そう伝えた。簡素な食堂のやわらかな灯りの下、フェネははっと目を上げてティセを見る。見ているティセが苦しくなるような悲しげな瞳だ。まぶたも蓮華草の花びらに似た唇も、かすかに震えている。涙を我慢しているのは、小さな鼻の頭がうっすらと赤く染まっていることで、よく分かった。
悲しみに溢れた顔つきを見つめていると、ティセも身体の奥から込み上げるものをひしひしと感じ、喉が詰まっていくように思う。けれど、その感情をかなぐって、微笑みを向ける。隣の食卓の椅子に座るリュイが本から目を上げて、ふたりが無言で見つめあう様子を静かに眺めていた。
いろいろなことがあった。怖いこと、つらいこと、楽しいこと、嬉しいこと……。さまざまなものをともに見て、感動を分かち合った。音のない世界に住む、この小さな妹と。三日後に祖父母のいるクマラニの自宅へ辿り着く。ティセは大きな達成感を覚えていた――――が、その何十倍……何百倍もの悲しさと切なさに満たされていた。
それでも、フェネには微笑みを向ける。涙は見せられない。フェネはとても敏感で繊細な子だ。ティセの悲しみを、自分の悲しみとして感じ取ってしまうような気がしていた。だから明るい顔をしていたい。
イシュダルの財宝の話をいまさらリュイにしてみたのも、そんな気持ちからだった。もちろん、もしも本当にあるのなら見てみたい。けれど、フェネとともにいるいま、この時間に比べれば、時価数百億の財宝の価値など零に等しい――――ティセは心からそう思う。
そして、ひとつの別れを前にして、ある想像が頭を過ぎる。いつかこの先、ナルジャへ帰ろうと思えたとき――――自分の旅が終わるとき――――そのとき必ず訪れるリュイとの別れが、ティセの心の片隅を晩秋の夕風のように流れていくのだった。
空はすみずみまで晴れ渡り、日差しも風も暖かな昼下がり。葉の落ちた灌木を従えた、波のようにゆるやかに起伏する一本道を行く。ティセは深い切なさを感じながらも、同じほど大きな高揚感を胸に抱き歩いていた。坂の上へ出るたび、
「まだかっ!?」
つい口に出る。すると、リュイが可笑しそうに口角を上げる。
フェネの村は海に面している。ティセは生まれて初めて海を見るのだ。どうしようもない昂ぶりが腹の底から突き上げていた。初等部で習った海の唄を無意識に歌い出す。リュイはクッと吹き出して、
「思い出した……」
出会ったばかりのころ、リュイのあとを追いながら、調子外れな歌を半日もがなり続けたことがあった。ティセも思わず吹き出した。
「あのとき、本当は恥ずかしかっただろ?」
「とてもね」
笑いを堪えた声で返した。
初めて見る日を待ちわびながら海の唄を歌うのも悪くない、あのときそう思った。ついにその日がやってきたと、ティセは感慨を深くする。
「俺の村で海を見たことあるひとなんて、ほとんどいないんだ。知ってる限りじゃ、父さんと校長くらいだよ」
「イリアは内陸だからね」
「おまえは見たことあるって言ってたよね」
「ん……ある」
「どんな?」
「……もう、すぐに見える。潮の香りがしてきた」
「潮っ!?」
ティセは辺りをきょろきょろ見回しつつ、深く息を吸った。
「…………言われてみれば、なんか変な匂いがするような、しないような……」
フェネを見ると、懐かしそうにわずかに目を細めていた。
道は幾度か上下をくり返し、やがて、突然そのときが訪れた。
「あ……」
いままで歩いてきたのとどこも変わらない坂道の上で、ティセの足が止まる。続いてフェネが、リュイも足を止める。皆、坂の下にのっぺりと広がる大地と、視野の限りその縁を取る青い海を、声もなく見晴るかす。
一陣の風が見渡す彼方から吹いてくる。途端、春日を思わせる暖かな風に乗って、なんともいえない香りと湿気が押し寄せて、ティセをふわりと包み込んだ。はっきりと掴みどころがないように仄かでいて、色が見えるほど濃い香り…………これが海の匂い、潮の香りというものだろうか。生命の根源を潜ませているような生臭さをかすかに孕む香りが、ティセの鼻腔を流れていく。と、急激に胸のなかが溢れそうになる。
ティセの目はひたすら、細長く横たわる海へ注がれている。イリアの国境で見た大きな川よりも、道中寄った有名な湖よりも、もっともっと大きな、圧倒的な水のあつまり――――海は想像をはるかに超した青さだった。大空よりも深い青…………。水を張られたナルジャの田圃は、空の青さを映す鏡だと思っていた。けれどあるいは、空は海の青さを映す鏡なのかもしれない。ティセはその青さに吸い込まれていた。
そして、海と空の境目に引かれた、一切の歪みも狂いもない線――――水平線。ティセは水平線の妥協のないひたむきさに、心を奪われていた。美しいまでに、怖ろしいまでに、心が澄み渡っていくほどにまっすぐだ。抗いがたい魅力をティセに突きつける地平線と同じだけの力を、水平線もまた持っているのだった。
あの完璧な線のはるか向こうには、いったいなにが隠されているのだろう――――
リュイの襟もとに巻かれた布の裾が、潮風にゆらり揺れている。海へ目を向けたまま、静かに問うた。
「どう?」
胸がいっぱいで、ティセはとても答えられない。ともかく圧倒的すぎて、「すごい」のひとことさえ出てこない。なにも返せず、ただただ立ちつくす。そうしているうちに何故だろう、初めて見るにも拘わらず、理由のない懐かしさを覚えているのに気がついた。
「…………なんでだろう……なんだか懐かしい……」
ようやく出たのは、そんなひとことだった。水平線を眺め入るティセの眼差しを、リュイは惹かれてやまないように見つめていた。
なだらかな坂を下り平地へ出れば、海はいったん見えなくなった。しばらく行くと、フェネは歩きながら辺りを見回すようになった。村が間近だ。見覚えのある景色が次々と現れるのだろう。頭の上で束ねた豊かな黒髪をぶんぶん揺らしては、そのつど、泣きそうに眉尻を下げていた。
潮の香りに包まれたクマラニ村へ、いよいよ入る。ティセはフェネの肩にぽんと手を置いて、目を覗き込む。
「おうちは?」
フェネはティセの左手を取って、リュイの前を歩き始める。
冬枯れの立ち木がまばらに並ぶ道を、フェネはずんずん進んでいく。民家がぽつぽつ見え始めると、漂う香りが濃厚になった。庭先や軒下に、漁れた魚を干しているからだ。海の魚の匂いをティセは初めて嗅いだ。その強烈な未知の匂いに驚いてしまう。
畑のなかや民家の庭先にいるひとびとが、「あら?」というふうにフェネに目を向ける。三人が過ぎていくのをポカンとして見送っていた。道の先から漁師の女房然とした女がやってきた。フェネを見て慌てたように担いでいた天秤棒を地面に降ろす。籐篭のなかの魚が数匹、はずみで飛び出した。瀕死の魚が土の上でぴくぴくと動いている。女は目を見開いて、
「……ちょ、ちょいと……たいへんだ……」
驚きのあまりつい出てしまったように独りごちた。フェネは脇目も振らず歩いて行く。
小川にかかる小さな木の橋を渡り、ある民家を過ぎて右に折れたところで、老婦と出くわした。歳相応の美しさと気品を持つ女だ。暖かそうな毛織物を肩へ掛け、絹布にくるまれた小荷物を胸に抱えている。老婦は目の前に現れた若い旅人たちを見て、はっと足を止めた。フェネもはたと足を止める。
束の間置いて、力が抜けたように荷を取り落とした。絹布がふわりとほどけ、くるまれていた織物の艶やかな色彩が、潮の香りの染み込んだ地面に舞う。
老婦は震える声で、
「…………フェネ? ……フェネなのかい……!?」
くっきりとしたほうれい線が小刻みに動いたのと同時、フェネは女へ向かって駆け出した。勢いをそのままに、胸にすがる。
「……ああ……なんてこと……」
老婦はフェネをひしと抱きしめ、呻くようにくり返した。老婦の額のまるみ、眉の形はフェネと、そして亡くなったその母親とそっくりだった。ティセはなんとも言いつくせない心持ちで、抱き合い涙を流しあう祖母と孫を見つめていた。
ひとしきり泣いたのち、祖母はフェネの顔を覗き込み、
「フェネ……母さんはどうしたの? ……母さんと父さんはどうしたの……!?」
それから顔を上げ、十数歩ほど離れたところに立つふたりへ目を遣った。さも要領を得ないかのように、曖昧に会釈した。
フェネの自宅は古びてはいるが、大きな民家だった。立派な門構えを見て、もしや村の名士の家ではないかとティセは思った。広い客間へ通されて、毛足の長い敷物の上に腰を下ろす。下働きを幾人か雇っているらしく、慎ましやかな顔つきをした若い下女が真鍮の盆を運んできた。茶の芳香が品の良い調度品をしつらえた室内に漂う。敷地内はもとより、屋内も、ひどく静まりかえっていた。
到着した直後、祖父が息を切らして玄関に駆け込んできた。フェネと思しき少女を見かけて驚いた村びとが、漁業協同組合の事務所にいる祖父へ急いで知らせてくれたのだった。
フェネは祖母にしたのと同じように、祖父の胸でもまた泣いた。祖父は堂々たる体躯と厳めしい顔つきをした風格のある男であったが、突き上げる思いを堪えきれないかのように偉躯を震わせて、孫の名を涙声で呼び続けた。
ふたりはいままでの経緯を祖父母へ伝えた。フェネの母親が書き遺した手紙も見せた。その死を知ると、祖父の顔は沈み込み、祖母ははらはらと悲痛の涙を流した。
「……そうですか……知らない土地で逝ってしまうなんて……なんて愚かな旅へ出たものか……」
祖父は威厳漂う白い顎髭をかすかに震わせて、
「長いこと帰らないので、どうしてしまったか、もう会えないのかと気に病んでおりました。無事に送ってくださって本当に感謝します。あなたがたのようなひとに出会えたのは奇跡としか思えない、フェネは幸運でした」
祖父母の深い悲しみが静かな室内に沈積していく。暫し、重たい沈黙が流れた。やがて、落ち着きを取り戻した祖父が、遠慮なさらずにと盆の上の菓子を勧めた。芸術品さながらに細工の施された菓子は、口へ入れれば、見た目と違わず贅を尽くした高級なものだとすぐに分かった。
祖母は涙を拭いて、隣りに座るフェネを覗き込み、ゆっくりとした口調で問う。
「フェネ、父さんは? とうさん」
もとは父親も一緒だったことを、ティセは先ほど初めて知ったのだ。フェネは悲しそうに眉を下げ、天を指すのではなく、右手を左右へ振った。さようなら……というふうに。祖母は深く溜め息をついた。
「……そうかい……そうだったのかい……」
祖父が沈着に語る。
「フェネの父親は、もともと旅に出るのを反対していました。それを娘が無理に押し切ったのです。お恥ずかしながら仲の良い夫婦とは言えず、おそらく旅の途中で取り返しのつかない言い争いをして、別れてしまったのでしょう……」
「あの……どうして旅に出たのか、聞いてもいいですか……」
ティセがためらい気味に尋ねると、祖父は「もちろんです」と答え、事情をすべて語ってくれた。
フェネの母親は、この村の有力家系のひとつであるヴィシュカ家の当代が、五年も待ってようやく授かったひとり娘だった。不幸なことに、生まれつき心臓に欠陥を抱えていた。そのため、過剰に世話を焼き、ひどく甘やかして我が儘放題に育ててしまった。結果、フェネの母親はひと一倍の自尊心や虚栄心を持った、高慢ちきな女性に成長した。気づけばすでに時遅し、両親にも手の付けられない娘になっていたという。
そんな母親は、病を押して命がけで産んだ子フェネが聴覚を失ってしまったという事実に、とても耐えられなかった。そこには、我が子への愛しさをしのぐ、自己への愛があったのではないか、この私の子が障害を持つなど許せない――――そんないびつな思いがあったようだと、祖父は自分の娘を冷静に分析していた。
近隣のあらゆる医者や呪術師を呼びつけ、治せないのかと喚き散らす日々を数ヶ月送った。そんなある日、隣りの村に住むある女がこう言った。それは、かつて激しく争ったことのある、あつれきのある女だった。
――――スリダワルにどんな耳の病気でも必ず治す、神がかった医者がいるそうよ……
フェネの母親はたいへん敵の多いひとだった。
「もちろんフェネの父親も含め、周りは皆、反対しました。そんな医者などいるわけがない、からかわれただけだ、だまされているだけだ、と」
けれど、母親は藁にもすがる思いで旅へ出た。フェネの父親も同行せずにはいられなかった。気の弱いところのあった父親は入り婿ということもあり頭が上がらず、完全に振り回されていたのだ。
祖母はあまりに情けないと言わんばかりに、やるせなさげな声で言う。
「やっぱりそんな医者なんかいやしなかったのよ。あんな話を信じるなんて、我が子ながら本当に愚かですよ……」
そして、皺の寄る手でフェネの頭を愛しげに撫で、
「フェネ、おまえも疲れたろう。ひどいめにあったね」
フェネは顔をきょとんさせていた。ティセはその無邪気な瞳を見て、悲しいことも怖いこともたくさんあったけれど、フェネは案外楽しかったのではないかと思った。
母親の書き遺した手紙を、祖父はいまいちど黙読した。それから、溜め息をついて床へ置き、困じたように白髪の交ざる眉をしかめた。
「あなたがたには謝らなければなりません。この手紙に書かれているイシュダルの財宝のことですが……」
リュイが静かに返す。
「僕たちは初めから信じていませんから、謝る必要はどこにもありません」
「フェネが可愛くてしかたなくって、だから無事に送ろうと思っただけですから……」
ふたりの拘りない顔つきを見て、祖父も祖母同様に、さも情けなさそうに語り始める。
「本当にお恥ずかしい。イシュダル王国というのは、この辺りに伝わる伝説の国なのです」
「伝説?」
「そう、大昔この辺りにイシュダルという小さくも豊かな国があり、神に選ばれた王が治めていたという伝説です。王が世継ぎを指命しないまま死んでしまったことから、王家に醜い争いが起きてしまいます。あまりに醜いため神に見放され、ある日大地震に見舞われて、王国は壊滅します。この村の西の海にあった島に、立派な城が建っていたという話なのですが、そのとき神によって島ごと海深く沈められてしまいます。継承権を争っていた四人の王族とともにです。そのとき遺された四人の血を引く者たちが、その後、血の滲むような苦労を重ねて、この村を造ったという結末です。いまもこの村の土地の多くを所有しているよっつの家が、その王族の末裔たちだという言い伝えです」
祖母がそのあとを継ぎ、
「ヴィシュカ家もそのひとつです。私たちは娘が幼いころから、世が世ならおまえは姫君だなどともてはやして育ててしまいました。よもやそんな伝説を信じていたとは…………手紙に書いてある財宝というのは、きっと、海に沈んだ城のことを言ってるんだと思います。言い伝えでは、城の壁面には金や宝石がたくさん埋め込まれていて、光り輝いて見えたという話です……」
「…………おそらく娘は旅に疲れ果てて、そんな伝説にすがることでどうにか自分の心を……見栄や名誉を保っていたのではないかと思います……」
だまされたことに気づき、夫にも見捨てられ、娘の耳は治らずに…………遠い異国の地で、悔しさと不安に押し潰されそうになったフェネの母親を支えたのは、高貴な生まれだという自尊心や虚栄心だったのかもしれない。すさんだ心を癒すために、フェネの母親はイシュダルの伝説と財宝の話を、誰かれ構わず吹聴していたのかもしれない、祖父はそう憶測した。
誰もが信じなかっただろう、頭がおかしいと思われていただろう。しかし、信じてしまったひとびとがいた。母子を執拗に追っていた、あの男たちだ。
真相を知って、ティセはやるせない思いでいっぱいになる。薄化粧を施された母親の死に顔を、清楚に見えたあの死に顔を、不思議な気持ちで思い出していた。
祖母はフェネの肩を優しく抱き寄せて、
「本当に大きく、娘らしくなった…………これからは私たちが父と母になって、たとえ耳が聞こえなくとも、この子をヴィシュカ家の立派な跡取りに育てます」
ふと気づけば、窓から覗く空は夕暮れの色に染まっていた。
明日いっぱいはここへ滞在して海を存分に眺めて過ごし、明後日の朝にはもう出発すると告げた。長居はしないと決めていた。別れがつらくなるだけだからだ。フェネはいまにも涙を零しそうに目を潤ませながらも、こくん、とうなずいた。ティセの気持ちを感じ取ったフェネの、精一杯の気遣いなのだろう。
その晩は、たいそうなご馳走にあずかった。敷物の上にどんと差し出された、普段使いのものではない大きめの銘銘盆に、たくさんの料理が所狭しと並べられていた。そのどれもが日々口にするようなもの――――たとえば、豆や野菜の炒め煮、煮込みなどの定番料理、焼いて簡単に味付けしただけの肉、そういった馴染みある料理ではなかった。格式ある料理屋に入らなければ目にできないような、調理にも盛りつけにも手間暇がかかりそうな見事な料理が、盆の上にひしめいている。先ほど供された菓子と同じく芸術品だ、ティセは目を瞠った。
それだけではない。鶏や羊肉の料理のみならず、魚を使用したものがいくつか交じっていた。ふたりはどちらからともなく目を合わせた。
「……すごいのが出てきちゃったな……」
「僕も驚いた……」
「ね……これ、海の魚だよね……」
「……そうだと思う」
「おまえ、食べたことある?」
「……たぶんない」
この村いちばんの料理屋に勤める料理人を急遽呼び寄せた、祖父は権力者らしく平然とそう言った。
「さあさあ、どうか遠慮なさらずに。どんなおもてなしをしても足りないくらいです」
海の魚は初めてだと言うと、祖父は厳かな面持ちをにわかに和らげた。
「そうですか、イリアご出身なら無理もない。苦手でなければいいのですが、残されても構いませんよ」
ティセは昼間のうち村を歩いていて嗅いだ、あの強烈な匂いを思い出した。鼻につきまとうと言おうか、胸に溜まり込むと言おうか、鼻腔に迫りくる生々しい匂いだ。磯臭いという言葉を、ティセはまだ知らないのだった。
生まれて初めての料理を前にして、ティセはもちろん興奮していた。食べずぎらいという行為ほど莫迦莫迦しいものはない。まず、中指くらいの長さの魚を用いた料理に手を伸ばす。
「――――……っ! ……うまいっ!!」
油と酢と唐辛子が、魚の臭みを消していた。のみならず、かすかに残された臭みと絶妙に調和していた。舌と鼻腔と、そして胸の奥が打ち震える。海の魚に愛があるのだろう、祖父は相好を崩した。
つぎに煮た魚を、それから焼いた魚に挑戦する。どれも臭みなど気にならず、肉にも劣らない美味しさだった。
「川魚はイリアでも食べるけど、俺はあんまり好きじゃない。海の魚ってこんなにおいしいものなんだ……知らなかった……」
大感激のティセの隣りで、リュイはいつもと同じように淡々と食している。興を醒まされた気になって、じろりとリュイを睨んだ。
「……おいしいよ」
言いたいことは分かっているというふうに、そっとつぶやいた。
向かいのフェネを見ると、やはり魚料理にばかり手を付けていた。長い旅の間、ずっとこれが恋しかったのだろうと気づく。ナルジャでしか食べられないものはなにもないけれど、ときおり母の作る豆の煮込みを思い出し、どうにも恋しくなるのと似たように。
下女が居間へやってきて、たったいま出来上がった料理を配膳する。
「これは海辺でしか食べられないものです。お試しになりませんか」
祖父に促されて新しい皿を覗く。透き通った白い肌の切り身が、香味野菜や唐辛子と和えてあった。しっとりと瑞々しい白い肌は、あきらかに生だった。
「生で食べられるんですかっ!」
祖父は「いかにも」と言いたげに笑んだ。
「新鮮なうちは臭みが少ないですから。苦手なひとも多いけれど、慣れれば火を通さないもののほうがおいしいものですよ」
ティセは目を見開いて銀色に光る小皿のなかを見つめた。生で食べるのはキュウリや玉葱などの野菜か果物だけだと思っていた。一瞬ためらった。が、食わずぎらいという言葉は、ティセの辞書にはやはりないのだった。
ひとくち口にして、目をしばたたかせた。たおやかな女性を思わせる上品な魚肉の白さからは想像できない旨味が濃く滲み出て、酢と檸檬草、胡荽の香味と一体になり、口のなか、鼻の奥へ広がった。素直においしい――――が、ぐにゃりとした食感だけがやや苦手に感じた。
ティセは正直に感想を述べる。
「……思ったよりもずっとおいしいです! この食感に慣れたら、もっと好きになれるかも……」
つい隣を確かめると、リュイは睨まれる前に「おいしいよ」とつぶやいた。
祖父は目を細め、しみじみとした声音で、
「どうか存分に……。本当に、いくら感謝しても足りない……気が収まりませんよ」
口をもぐもぐさせている孫を、慈しむように眺め見た。




