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窓を開ければ、肌を刺す早朝の冷気が簡素な客室へなだれ込む。吐く息が白い。三階にあるこの窓辺から、国境にほど近い小さな町の南東部が見渡せた。畑とまばらに立ち並ぶ民家、その向こうに広がる林。家々の竈にはすでに火が入り、白く細長い煙が冬の空へ幾筋も立ち上る。黒々と見える林の上には、昇ったばかりの太陽が燃えている。まばゆいその赤色が、リュイの瞳と、胸の奥を鋭く突いていた。鮮烈な赤が、リュイに覚悟を強いていた。
息苦しさを感じながら、朝日の矢に貫かれる。吐き気を覚えるほど緊張しながら、林の向こうを見つめる。
見つめるその先に、約三年ぶりの故国が横たわっている――――
一階の食堂で朝食を取り、出発の準備をする。数日間滞在して部屋中に散乱させた荷物を、ティセはきょろきょろしながら拾い集める。フェネは向かいの民家の庭先で繰り広げられている鶏の喧嘩を、窓から身を乗り出すようにして眺めている。
「フェネッ! なにぼけっとしてんだよ、早く支度して!」
頭の上で束ねた髪をぐいと引っ張られ、フェネはえへへと誤魔化すように笑う。まったく……小さくぼやいてから、ティセは読書をするリュイへ向き、
「おまえはもう準備終わった?」
「とうに終わった。僕は荷物を散らかさないから……」
「……厭味ったらしいな……」
ティセは目覚めてから、はしゃぎ気味でいる。国境を越える特別の日だからだ。それだけでなく、越えた先がふたりの仲間の故郷であることが大きいようだった。
「おまえの国に行けるなんて感激だよ!」
昨夜、ティセはそう言って瞳を輝かせた。
……僕の国……
そっとくり返せば、正反対に胸が塞いでいった。
外套を着込み、小振りの頭陀袋を背負ったフェネに、ティセは念を押す。
「忘れものない?」
フェネはにこにこして、今度は逆に「はやく行こうよ」と言いたげに、ティセの腕を引っ張った。
目抜き通りはそのまま国境へと続く街道となる。林のなかを小一時間ほど歩けば、やがて出入国管理所が見えてくるはずだ。道の先から、国境を越えてきたひとびとや貨物がひっきりなしにやって来ては、過ぎていく、故国の懐かしい匂いを纏って…………。
リュイはふいに足を止める。
「あ……」
ティセも足を止め、怪訝そうにリュイを見る。
「なんだよ」
「……忘れものをした」
「忘れもの? おまえが!? なにを忘れたんだよ」
「読んでいた本。出るとき、そのまま部屋に置き忘れてきてしまった」
短く溜め息をついて、
「取りに戻るから、フェネと先に行ってくれないか」
「ええ! 本なんかどうでもいいじゃん」
「よくない。とてもおもしろい本だったんだ。また手に入るか分からないし……」
呆れ顔を向けるティセに、リュイは思いついたように言う。
「そう、シュウ側の管理所のそばにある茶屋で、国境名物の菓子を売っていると宿の主人に聞いたじゃないか。それを頼んで待っていればいい」
「菓子はいいけどさぁ……」
いかにも不服げなティセを、微笑みでなだめた。のち、リュイは真面目な顔つきになり、
「管理所には知らない大人がたくさんいる。フェネを……守ってやれる?」
言われればこう返すだろう、思ったとおり、ティセは不服そうな顔を改めた。信頼に応えたいとばかりに瞳を強くして、
「まかせとけ」
凛とした笑みを過ぎらせた。それから一転、からかうようにニヤリとする。
「おまえが忘れものなんてめずらしいな。そんな冷静な顔してるけど、久しぶりに国へ帰るんで、ほんとは興奮してるんだろう」
リュイは薄く笑って、
「そうかもしれない。すぐに追いつく」
ひとり踵を返す。ティセは「わすれもの」と、口の動きと呆れた表情でフェネに伝え、先へと歩いて行った。
ほどなくして、リュイは振り返った。ふたりの姿がもう見えないのを確かめてから、近くの木陰に座り込む。そして、荷物の口に手を入れて、忘れたと言った本を取り出した。ちらりと陽を見上げたのち、そのまま読書の続きを始めた。
幾人ものひとが街道を過ぎていった。やがて、リュイは本から目を上げた。陽の位置を確認する。
そろそろ……
意を決して立ち上がり、国境へと歩き始めた。普段より足が重いと感じながら。
林を抜ける街道は少しずつ道幅が広くなり、そのうち出入国管理所のある広小路となる。そこに、国境を行き来する多くのひとびとと貨物、家畜が待機している。その賑わいの奥に管理所が見えていた。リュイは立ち止まり、風情のないコンクリートの箱に似た建物の全景をじっと見つめた。
かつて、この管理所をシュウ側から通ったことがある。いまでもよく覚えている。なにか途方もないところへ足を踏み入れていくような気がして、呆然としながら管理所の外へ出たのだ。こうして戻ろうとしているいまも、とても言い表せないさまざまな思いが混じり合い、やはりリュイは呆然としているのだった。
暫し立ちすくみ、迷いを振り切って管理所へ入る。人混みのなかにティセたちの姿はない、言ったとおりシュウ側で待っているようだった。手続きを待ち、滞りなくタミルカンドを出国した。
管理所を抜ける。緩衝地帯を挟んで、やや離れたところへ建つシュウ側の管理所の前に立つ。同じようなコンクリートの建物はタミルカンドのものより古く、時代を帯びている。その灰色の塊が、リュイの目にはひどく物々しく映る。足が凍てつくほど威圧され、激しく緊張していた。
平静を装わなければ――――……
そっと息を吸い、静かに吐き出した。意識して武装するときのような心持ちとなって、リュイは故国の管理所へ向かった。
手続きの列に並ぶ。順番が回ってくる。審査台に座る官吏へ向かう。その濃紺の制服は、シュウに暮らしていたときと少しも変わっていない。リュイは時間が巻き戻ったような感覚に陥った。
軽く一礼をして、用意していた身分証を提示する。官吏は鋭い目つきでリュイと身分証を交互に眺めてから、口髭を大儀そうに押し上げて、記載された氏名を読み上げる。
「……ラジェス・ディル・ノイン」
まっすぐに見つめてくる官吏の目を見ながら、
「はい」
リュイは返答した。
いくつかの質問に答え、審査はすぐに終わった。審査所を抜けると、出口の真上、漆喰の壁に掲げられた大きな肖像画が目に入る。国家主席そのひとだ。久しぶりに肖像を見て、胸が大きく鼓を打った。
過去に一度だけ、そのひとを遠目にしたことがある。壇上へ立ち、簡潔な演説をしていた。決して大柄とはいえない体格であるにも拘わらず、ひとを圧倒するような威風を放っていた。その声は、耳障りにも思える濁りを含むのに、何故か人心を惹きつけてやまない力を持っていた。リュイはその声をありありと思い出す。すると、声につられて、そのときの光景が脳裏によみがえる。
辺りは物音ひとつなく静まりかえっていたが、むせかえるような熱気に包まれていた。同志が放つ常軌を逸した高揚感が、その場に漲っていた。リュイは周囲との非常な温度差を、実感として肌に覚えていた。長いことどこかに感じていた気がする違和感を、初めてはっきりと認識したのだと、いまは思う。そのときは、自分が異物のように思えたことに、ただただ戸惑っていた。割れるような万歳唱和の声がひどく遠くに聞こえるほど、胸の奥が狼狽えていた。
リュイは頭を軽く振った。
――――早く出よう……
追憶に沈まぬうちに心を持ち直し、足早に外へ出た。
昼前の明るすぎる陽光が、シュウの空に満ちていた。久しぶりに故郷の空を仰ぐ。リュイは倒れ込みたいほどに疲れ切っていた。
シュウの空が……青い――――
宙に向かって、深い溜め息をつく。
遠くに一軒の茶屋が見える。屋外に設けられた長椅子に、ふたりの姿を見つけた。
近寄ると、ティセは手を大きく振った。ひと呼吸遅れてフェネも手を振る。
「おっそい! 待ちくたびれた!」
文句とは裏腹に、機嫌の良さそうな顔でリュイを迎える。
「本、あった?」
「あった」
ティセの横へ腰を下ろす。
「ひと休みしてもいい? 喉が渇いた」
「もちろん。おじさーん、お茶もう一杯くださーい」
店内に向かって声を張り上げると、ティセは数枚の木の葉を貼り合わせた使い捨ての小皿をリュイへ差し出した。国境名物だという蜂蜜をふんだんに用いた菓子がひとつ載っている。リュイの分も頼んで待っていたのだ。
「これ、絶対好きに違いないよ!」
自信満々に言う。
「何故?」
「めちゃくちゃ甘い! おまえ、甘いもの好きだろ?」
リュイは自分のことなのに、
「……そう?」
小首を傾げた。
「何故……そう思う?」
「甘いもの食べるときだけ、ゆっくり食べるから」
即答するので、思わず瞬きをくり返してしまう。
「……そう……だった?」
「おまえの食事の仕方は気に入らないけど、甘いもの食べてるときだけは別だ」
ティセはニヤニヤ笑っている。茶が運ばれてきた。蜂蜜の塊のような琥珀色の菓子を、そっと摘んで口へ運ぶ。
「どう?」
「ん……おいしい」
だろ、とティセはほくそ笑んだ。
「……よく見ているな……」
舌が痺れるほどの甘さを覚えながら、緊張のために強張っていた身体中の筋が、一気にほぐれていくのを感じた。そして、胸の奥がほのかに温かくなった気がしていた。滞りなく手続きが済んだことでも、甘いものがもたらす安堵感でもない、なにか別のほのぼのとしたものが、リュイの内側を小さく温めていた。
国境からいちばん近い地方都市へ辿り着き、換金を済ませる。馴染みある通貨を手にして眺め、本当に帰ってきてしまったのだと、リュイはしみじみ思う。それから、目抜き通りの書肆へ行き、各々シュウの地図を入手した。
冷たいすきま風の入る客室、ティセは吊りランプの下に広げた地図を食い入るように眺めている。まるで、頭のなかで地図の上を歩いているかのように、熱心に。
「ねえリュイ、フェネの村ってここだよね?」
リュイは読んでいた本を床に伏せ、ティセの向かいへ移動した。
「そう。クマラニ。わりあい大きな漁村だ」
「…………どのくらいで着くかなあ」
寂しげな声で問う。
「……ゆっくり歩いても、半月で辿り着く」
「……そっか……」
その場所を見つめながら、溜め息交じりに言った。そして、壁際で寝ているフェネへ目を遣ってから、ふたたび地図に目を落とす。
フェネとの別れがそう遠くないことは、重々分かっていたはずだ。けれど、実際に地図を見て確認し、別れがはっきりと胸に迫ったのだろう、ティセは長いこと下を向いて黙り込んでいた。伏し目の睫毛がひどく哀しげに見える。
別れは確実に訪れるのだから、慰めの言葉はない。もとより、そんな言葉をリュイはひとつも持たないのだった。ただ、寂しそうにうつむくティセを静かに眺めていた。
やがて、気を取り直したように顔を上げた。
「おまえの村はどの辺なの?」
ランプの黄色い灯りに染まる地図へ、指を差す。
「この辺り」
「なんて村? この地図、四年前の版だから載ってるかも」
指した辺りを、ティセは覗き込む。
「……載っていないよ。まだ村があったとしても、この縮尺の地図に名が載るほど大きな村じゃない」
「そうか……廃村になったくらいだもんね……」
そう、と答えて、リュイは読みかけの本を閉じ、毛布を広げた。フェネと逆の壁際に敷いていた布団へ横たわり、就寝の態勢に入る。
「おまえの村って、どんなとこだったの?」
リュイは天井を見つめ、暫し無言で考えていた。
記憶にある村は、いつでも静けさに包まれていて、どことなく空気が緊張していたように覚えている。しかし、それは自分が村にいる間だけのことだったのかもしれないと、いまは思う。自分は村びとに警戒されていた可能性があると、旅に出てから気づいたのだった。地域的に考えれば、あの村には反政府派が多かったのではないだろうか……イブリアは無論のこと、シュウ人であってもだ。
「……ナルジャと比べたら、もっとずっと寂しい処だよ……」
それだけ答えて、リュイは壁を向いた。
ティセはひとり地図の前に座り込み、リュイが指差した辺りをじっと見つめていた。すきま風がひやりと吹き込んで、ランプの小さな焔がかすかに揺らめく。シンとした部屋にジジジ……という音がやけに大きく響く。
ふいに、ティセはリュイを向いた。普段とは異なる真面目な声で尋ねる。
「リュイ、もういちどだけ聞くよ。本当に、北部へ行かなくていいの?」
刹那、短剣を抱いた胸の奥がどろりと蠢いた。背筋に冷たいものが走る。
何故それを――――……ティセは知りながら故意にそれを口にするのではないだろうか…………僕を怯えさせ、追いつめるために――――……
リュイにはまるでそう思えた。墨色の感情が静かに渦を巻く。忌ま忌ましさに耐えるため、毛布のなかで短剣を握り締める。
このとき、リュイは偽りを言葉にできなかった。唇を固く閉ざして、意識的に無視をした。
ティセはしばらくして、
「……もう寝ちゃったか……」
起こさないようにとの気遣いが分かる小さな独りごとを、リュイは目を開けて聞いていた。
小さな砥石を刃へ滑らせる。かすかな摩擦音と指先を伝わる微細な振動、触感に浸る。硬く、鋭く、けれど危ういほど繊細で、残酷なまでに美しい白銀の刃を見つめていると、リュイはそこに意識が吸い込まれていくように感じる。いっそ、この刃と同化してしまえれば、どれほど楽だろう――――剣の手入れは大樹への祈りの次に、リュイに安らぎをもたらせた。
ティセが気配を消すふうにことのほか静かにやってきて、白湯の入った湯呑みを横へ置いた。リュイは刃を見つめたまま、
「ありがとう」
手入れを終え、湯気の上がる白湯を口にする。朝の冷え込みに芯まで冷えた身体が、徐々に温まる。
「フェネもお湯飲んで。寒いから風邪引いちゃう」
顔前に湯呑みを押しつけられて、フェネは厭そうにティセを見上げる。おいしくないのに、と目で訴えている。それでも無理に白湯を飲めば、卵に似た白くて丸い頬がうっすらと赤みを帯びてくるのだった。
宿へ宿泊すれば、ティセは翌朝、調理場から必ず白湯を運んでくる。そうするのが当たりまえのように。初めて白湯の入った湯呑みを手渡されたのは、ティセの身代わりとなって蛇に咬まれ、寝込んだ翌日の朝だった。申し訳ない気持ちからするのかと考えた、けれど、その後も続いた。
初めのうちは、その行動が不可解だった。いまはその当たりまえさが、なんだか心地よい気さえする。こんな些細なことすら、ティセと歩いている愉しみのひとつになっている。
口元に湯呑みを当てたまま、湯気の向こうに見えるティセを眺める。湯呑みを手に窓辺へ佇み、朝の町をなんとはなしに見渡しているティセを。
ティセといることが、歩いて行くほど愉しくなっていた。
一日がやけに早い。しかも、どんどん加速しているかに思える。それまでの約二年間の途方もない長さが、リュイにはもはや信じがたい。
しかし、ティセとともにいることが苦痛であるのも、間違いのない事実であり続けている。ザハラの庭に立つ、あの大木の下で覚悟したとおり、苦痛に耐え続けていた。
四六時中ともにいて、問われるまま、すでにたくさんの話をした。それはつまり、数え切れないほどの嘘をついた…………もっと言えば、虚構の話を語ったに等しい。リュイはもう、自分がどんな嘘をついたのか把握しきれなくなりつつあった。嘘に縛られていた、嘘の重さに息が苦しくなっていた。愉しさの裏側に、つねに疲労が隠れていた。
にも拘わらず、沙羅樹に誓いを立てたことを悔やむ気持ちは少しも起こらない。
そのうちに破綻してしまうのではないだろうか――――そんな懸念が頭をもたげるようになっていた。ティセと歩いているこの現在が、綻び、ひび割れ、崩れてしまう――――――初めての、そして唯一の他者……友を失う。想像が過ぎれば、胸のなかに木枯らしが吹き抜けた、虚しい風音を立てて……。
思いも寄らなかった感情が、いつのまにか芽吹いている。知らないことが自分のなかに起こっていると、魔女の館で気がついた。未知はいまも起こり続けているのだった。
愕然としてしまうほど、ティセと自分は違う。まるで違うひとを少しずつ知っていく。それは相手を知っていくのみならず、ティセを通して自分を知っていくということだ。媒介として、あるいは比較の対象として、自分自身を見つめることにほかならない、リュイは初めてそれを知った。
相手に向かいながら、自分と向き合う。向き合うたびに、自分を意識するほどに、リュイはどこかへ逃げ出したくなった。他者を持つことがこんなことをもたらすという事実を、初めて知ったのだ。
誰かを受け入れるような心の余裕はない――――長らく、リュイは思ってきた。けれど、その事実を知ってしまえば、他者を通して自分を見つめ受け入れる余裕がないといったほうが、むしろ近い気がした。
「今日は雲が多い、寒い日になりそうだなあ」
どんよりとした朝の空へ独りごちてから、ティセは振り向いた。
「ねえリュイ、シュウでも雪は降る?」
「北部のほうでは風に雪が混じることがある。すぐに消えてしまうけれど。南部では降らないよ」
「そっか。ナルジャでもたまーにだけど雪が降るよ。ほとんど積もりはしないけど」
望郷の念にかられたのか、ティセは眼差しを遠くして、ふたたび窓の外を向いた。
白い上着の下に肌着を二枚重ねて、南へと歩いて行く。冬とはいえ、北部に比べれば緑が濃い。地は草木に覆われている。農閑期を迎え農地は寂しげではあるが、カブやほうれん草などの冬作物が豊かに生長している。
ひとびとは表情が明るく、目が合えば会釈をする。北部のひとびとのように、そこはかとない警戒心を感じることがほとんどない。歩きながら、三年前に感じたのと同じ印象を受けていた。
なだらかな坂道を上がっていると、道の先から馬車が降りてきた。荷台には数人の兵士が乗り込み、煙管を片手に、無駄話に笑い声を上げている。煙草の匂いが鼻腔を突く。ちらりと見上げれば、肩に担いだ銃の口が陽を受けて、鋭い光を放っていた。リュイはそのまま、視線を空へ向ける。
鳶が鳴く。寒空にゆうゆうと輪を描く。宿舎の庭でひとり、鳶を見上げていたのを思い出す。北部の空はもっと、突き抜けるように、張りつめたように青かった。
ごくまれに雲が出れば、冷たくきつい風に雪が混じった。肌を刺す雪風はその厳しさと同じほど何故か清涼で、嬲られていると、肌の上はもちろん、胸の奥に溜まっていた曖昧模糊とした塵さえ吹き払ってくれるようで心地よかった。雪風はただでさえ貧弱な農地を荒らす厄介者ではあるが、リュイは決して嫌いではなかった。
あの雪風にもういちど吹かれてみたい……
南へと歩を進めながら、リュイの心は北へ向かっていくのだった。
こうして久しぶりにシュウへ戻っても、南北の空気はやはりどこか違っていると感じる。そしてたとえ違っていても、いま自分を包んでいる空気は、ほかの国々のものよりも肌に馴染むように思える。
たとえば、ティセの故郷イリア。滴るような緑と豊富な水が作り上げる生気に満ちた楽園は、小説に描かれる理想郷さながらで、確かに美しかった。が、しっとりと肌にまとわりつくわずかな湿気や、生命あるものが放つ匂いや騒がしさは、リュイには少し鬱陶しく感じられたのだった。
こんなにも自分の国を知らない人間が、そんなふうに思う。リュイはそれが奇妙だった。紛れもなくシュウのいち国民である事実が、後ろめたいような不思議な気持ちになる。けれど、イブリアの民のひとりだというもうひとつの事実よりは、まだ自分にはしっくりとくるように感じるのだった。
小さな村に差しかかる。ねえねえ、というふうに、フェネがティセの腕を引っ張った。
「なあに?」
フェネは腕を高く上げ、右方を指し示す。見ると、道沿いの平屋の一軒奥、二階建て家屋の屋根の上に数人の子供が上がっていた。泥だらけの腰巻きをつけたイブリアの子供たちだ。三人へ向かって大きく手を振っている。
「こんにちはー!」
ティセとフェネは大きく手を振り返す。子供たちは歓声を上げ、屋根から落ちんばかりにはしゃぐ。
屋根の上から道の先へ視線を戻すとき、リュイは道端に佇むイブリアの老夫と目が合った。軽く会釈をすると老夫も微笑みを返したが、目つきに怪訝さを滲ませていた。
南へ行けば行くほどイブリアのひとびとに出会う。もはやめずらしくなどない、リュイが注目を浴びることは格段に少なくなった。
しかし、イブリアの衣装を身につけていないことに、怪訝な顔をするひとびととまれに出会った。この老夫や、タミルカンドで出会ったセザの長男アミタブのように。それは、三年前も同様だった。北部ではシュウ人と同じ服装をするイブリアは、少数派とはいえ決してめずらしくはないのだが、南部では違うようだ。
北部のイブリアのほうが貧しく、過激な思想をもつ者が多い反面、逆にシュウ人に近づこうとする者も少なくないからだろうとリュイは考える。南部のイブリアは比較的裕福であることから、かえって民族意識や誇りを強く持てるのかもしれない。過激派とは異なる、革新派と呼ばれる開明的な思想を持つイブリアは南部に多いのだった。どちらにしても、その思想はリュイにはまったく分からない。
そして、三年前とは違った意味あいで、怪訝な眼差しを向けられた。当然しているべきトルクを身につけていないからだ。
当時のリュイはいまよりずっと感情のない冷え切った瞳をしていたものの、顔つきにはまだあどけなさを残していた。子供だったとリュイは思う。仕留めた蒼い豺虎を売ろうと闇市へ行き、誰にも相手にされなかったほどなのだから。
トルクなど頭の隅にも上っていなかった。が、セザやアミタブに忠告されたのは当然だったのだ。実年齢よりも上に見えるというのだから、さぞかし不自然に映るのだろう。ひとびとから怪訝顔を向けられるたびに、つくづくそれを思った。
――――けれど、僕がトルクを身につけるのか………
自問してみれば、これほど不自然に感じることはないのだった。
きみはもう、立派なイブリアの青年だ――――セザは別れ際そう告げた。そうだろうか、リュイは甚だ疑問に思う。
イブリアの民である自覚はもとより希薄だが、セザ一家に招かれてみて、こんなにも距離を感じるものかと内心驚いていた。彼らが自分に向けた、あの親しみの籠もった眼差しに心の底から困惑していた。迷惑にすら感じた。同じ眼差しを返せない自分を意識して、胸のなかを悄然とさせていた。
セザの庭に立つ、白布を美しく纏ったあの神木を思い出す。惹きつけられてならなかった。白布に寄せられた整ったひだを目でなぞれば、白銀の刃に吸い込まれるのと同じように、意識を奪われていく気がした。陶然と仰ぎながら、リュイは否応なく生家を思い出していた。生家と、それを守るように立つ沙羅の大樹を。
生家の沙羅樹はセザの庭のものより、さらに大きな老樹だった。そして生家は、セザの住まいよりもっと粗末なものだった。それでも、イブリアの住まいと大樹の情景は当然のごとく生家を彷彿させた。原風景を――――ザハラに促されて無意識に浮かんだのも、生家と沙羅の老樹だった。あれが原風景なのだろうか。夢に出てくる大樹は、いつでもあの沙羅樹なのだ。
雪風に吹き飛ばされてしまいそうなみすぼらしい家屋。懐かしさはあれど愛おしくは思わない、生家の前に立てば、いつでもどこかによそよそしさを感じていた。
セザの家に招かれて、大樹の立つ庭に佇んで、リュイはぼんやりと考えていた。
本来なら、僕はこんな暮らしをしていたはずだった…………
家族とともに小さな家に寝起きして、農作業を手伝い、大木に祈りを捧げる、質素で静けさに満ちた日常を――――。考えたところでどうにもならない。自分にあったはずのものがいま目の前にあり、目の前にありながら、果てしもなく遠いと感じる。そのどうしようもなさに、リュイは立ちつくすしかできなかった。
あの神木に身を預けてみたい、胸の奥底から思いが込み上げていた。けれど、イブリアである自覚の希薄な自分が、セザの庭に立つ神木へ祈りを捧げるのか…………そんな疑問がリュイを引き留めてしまった。してはいけないと、心の声が聞こえていた。
セザの弟に乞われて笛を鳴らした。あのときの笛の音はあきらかにいつもと違っていた。祈りを捧げてもいない神木の霊力が、笛に作用したかのように音色が磨かれていた。庭のほうから、得体の知れない強い圧力が身体にかかるのを感じていた。大きな力に押し潰されていくような感覚を覚えていた。暴力的にさえ感じた。
笛を鳴らすとき、その音を耳にするとき、大木に祈るのと似た心持ちになる。心が静かになっていくと、ティセが言うとおりに。が、あのときはまるで違った。外の闇から押し迫る怖ろしい力に身をすくませていた。歌口に唇を当てながら、胸の苦しさに耐えていた。まるで、心臓を患っているひとのようにだ。
……あれはなんだったんだろう……
リュイは道の先を見つめたまま、襟もとの薄布の上から笛に手を触れた。小さくてもの怖ろしい、自分の道標に。頭のなかで、ザハラが低く冷たくくり返す――――
精霊も神仏も鬼も、源は同じ。慈悲だけの存在ではない、とてつもなく残酷なもの。
言うとおりなら、自分を加護するものが、また、自分を苦しめるということだ。民話のなかの少女も代償を払っていた。リュイはひどく憂鬱になった。
僕にもうひとつの笛を探すように言い遺したのは、何故……
ときおり疑問に思ってきた。最期の言葉はひとづてに聞いたものであり、正確な一言一句も脈絡も、知りはしないのだ。探せと言ったその真意が分からなかった。言葉どおりの意味なのか、それとも真意は別にあったのか、いまとなっては確かめようもない。
……何故、僕に……あのひとたちが僕に言いたいことがなにかあるだろうか……
いくら考えても分からない、父と母の顔が朧気に思い出されるだけだった。
一歩後ろからティセが身を乗り出して、覗き込むようにリュイを見た。屈託のない口ぶりで明け透けに言う。
「なんだよ、暗い顔して。陰気さが増すぞ」
「…………」
リュイはにわかに現実へ戻った。口の悪いティセへなにか言いたげな目を向けるが、とても反論はできない。陰気…………ティセは対照的に、初夏の空にきらめくひとひらの雲のような自由さを滲ませて笑っている。本当にまぶしいひとだと、リュイは心で溜め息をついた。
きらきら輝くその白い雲と同じほど明るい声で、
「もうすぐ、時価数百億のお宝を拝めるかもしれないんだよ? おまえ、そんな暗い顔してる場合じゃないよ」
リュイは耳を疑い、はたと足を止めた。
「ティセ…………おまえ……まだそんなことを言っているの……」
そんな話はすっかり忘れていた。呆然とするリュイに、ティセは揚々と、
「そう思ってたほうが楽しいだろ。それにさ、もしかしたら奇跡のように本当かもしれないぜ。なんたって、俺たち奇跡的なんだから」
「……それは……なに?」
「セザさんが言ってたじゃないか。奇跡的な出会いだって……。俺も本当にそう思う」
見惚れてしまいそうな凛々しい笑みを浮かべて、そう答えた。
「謎の王国イシュダル……――――賭けるか?」
「……賭けないよ、くだらない」
呆れ顔をティセに向け、ふうと短く息をつく。それから、リュイは左手を軽く胸元へ当てた。いましがた胸のなかを満たしていた深い霧に似た憂鬱が、若葉風に蹴散らされたように掻き消えていた。




