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その晩はそのまま居間を与えられた。皆が自分の寝場所へつき、賑やかだった居間は静かな夜更けを迎えた。初めてのひとびとに囲まれて疲れたのだろう、フェネはぱたりと眠ってしまった。
リュイは短剣を抱いて横になってはいるが、なにか考え込んでいるようで、目を開けて黙っている。吊りランプを消す前に、ティセは尋ねた。
「ねえ。さっき話してた、シュウ北部で衝突が続いてたってこと、前から知ってたの?」
寝たまま、リュイは目を向ける。
「もちろん」
「それは、おまえが旅に出る前のこと?」
「出てまもなくのことだ。僕は当時南部を歩いていて、北部で事件が続いているという話をあちこちで聞いたり新聞で読んだりした。けれど、そのあとすぐに出国してしまったから、詳しいことは知らない」
「おまえの兄貴がコイララに出ていく理由を言わなかったのって…………もしかしてそれについて考えてたの?」
言えない、言わないほうがいい理由などあるだろうかと、あのときティセは疑問を口にした。たとえば、争いのある場所へ行かなければならないとき――――リュイはそう返していた。
「そう。時期が重なるから、あるいはそうかもしれないと思った。憶測に過ぎないけれどね」
「……そっか。故郷が心配になったのかな……」
「分からない。父が気になったのかもしれない……兄は父が亡くなったのを知らないはずだから。…………それとも、過激派と一緒に戦いたくなったか……」
まさか、とティセはリュイの目を見つめた。
「たとえばだよ。けれど、可能性がないわけじゃない。もしもそうだとすれば、ますます出ていく理由を言えなかっただろうな」
「…………」
思わず深刻な顔になってしまったティセを見て、リュイは薄く笑い、
「勝手な推測に過ぎないよ。本当のところは分からない。僕は兄をほとんど知らないんだから……」
ランプを消すと、月明かりが庭を皓皓と照らしているのがよく分かった。神木がざわざわとささめき、薄闇に沈んだ居間を葉音に包んでいる。
ふたりのかすかな寝息を耳にしながら、ティセは神木を仰ぎ見ていたリュイの姿を思い出していた。見ていると、胸のなかに寂しさが沈積していくように感じるほど、リュイははっきりと切なさを滲ませていた。妹が口の端にのぼるとき以上に、感傷的な瞳をしていた。あれは、なんだったんだろう…………ティセは真っ暗な天井に向かい瞬きをする。こうしてイブリアのいち農家に招かれて故郷を思い出し、家族と暮らしていたころへ思いを馳せていたのだろうか。
どこか違う気がする。郷愁に似ているようで、けれど、まるで違う雰囲気を漂わせていた。なにかを懐かしむとき、たとえそこに幾ばくかの哀しみを含んでいたとしても、ひとはもっと慕わしさに溢れた表情をするものではないだろうか。リュイが漂わせていたのは、たとえば、どうにもならないことを深く意識して立ちつくすしか術がない――――……そんなときに溢れてくる、やるせなさに似ていた。
――――何故……――――
ここへ招かれてから、ティセはそこはかとない違和感をリュイに覚えていた。
セザたちは皆、親しみを込めた眼差しでリュイを眺めている。国籍は違えど、同じ始祖を持つ者として、絆のようなものを感じているのだと分かる。しかし、その親愛に返すリュイの眼差しはどうだろう。そこには親しみなど微塵も浮かばない、ばかりか、戸惑っているふうにさえティセには見える。イブリアを強調するような話の内容にも、リュイは同調しきれずに困惑し、気後れしているように見えた。
――――何故……――――
ティセは不思議でならない。もしもいま、イリアから遠く離れたこの地で、偶然にもイリアのひとと出会ったら…………。そのひとがナルジャや隣町ジャールを知らないひとであったとしても、懐かしさや親近感を覚えて、心がはしゃぐのではないだろうか。自分に置き換えてみれば、どうしてもそう思える。リュイと家族の温度差が、奇妙に感じられてならなかった。
結局、家族は笛についてなにも知らなかった。終始、リュイは笛を語るときにする醒めた眼差しをしていた。そして、義務を果たしたとでもいうように、笛を襟もとへ仕舞った。
意外なほど笛に愛着を示さず、道中誰かに尋ねてみもしない。先ほども、自分が目で促さなければ、笛の話をしなかったのではないだろうか。
隣に横たわるリュイへ、そっと顔を向けた。背を向けて寝ている。右の耳だけが薄闇に浮かんで見えた。それを見つめながら、ティセは結論する。
――――リュイは、笛を探していない――――
言い過ぎかもしれない、けれど少なくとも、積極的に探そうという気持ちはない…………ティセは確信した。笛が導いてくれる――――言うものの、旅は両親の遺言を果たすためのものではない。
それならば、何故こんなに長い旅をしているのだろう。リュイの旅の本当の目的は……その理由は、いったいなんなのだろうか。
……知りたい……
もどかしいまでにそう思う。ティセは毛布のなかで両手を握り締めた。そして、リュイを知りたいと猛烈に感じたラグラダの夜更けを思い出す。未知を求めて村を飛び出したティセの、その胸にある――――いまだ最大の未知。
もっと、リュイを知りたい…………
旅はなんのため……? それは、リュイが隠しているなにか――――見え隠れする闇と空白に繋がるものだろうか――――……。
強めの夜風が吹き、神木が大きくざわめいた。頭のなかに、神木の前で時を止めていたリュイの姿がふたたび浮かぶ。
大樹に出会えば、いざなわれるように祈りを捧げるリュイ。惹きつけられ、囚われていたに違いない。にも拘わらず、何故、あの神木には祈りを捧げなかったのだろう。
まぶたを深く閉じ、眠りに落ちるその前に、ティセは心でつぶやいた。
――――なにがあっても、なにを知っても……俺は、おまえの味方だよ…………
翌朝、子供たちからフェネへ思いがけない贈りものがあった。新鮮な朝日に満ちた庭で、フェネと軽く体操をしていると、ちょうどフェネと同い歳の少女が後ろ手になってやってきた。恥ずかしげな目をして含み笑いを堪えつつ、もじもじしていたかと思えば、にわかに両手を高く上げ、
「またいつか、会えますように!」
赤い花をたくさん編み込んだ花冠を、フェネの頭へさくっと掛けた。フェネは目を丸くしながら両手で花冠に触れ、花と同じくらい満開の笑みを見せた。子供たちが歓声を上げる。長女が手鏡を手にやってくる。埃まみれの鏡面を腰巻きでゴシゴシ拭いて、ほおら、とフェネへ差し向ける。鏡のなかの自分を食い入るように見つめ、フェネはさらに顔をほころばせる。女の子だなあ……ティセはついニヤニヤした。
「可愛い! やっぱ、お姫さまだ!」
フェネははちきれんばかりの笑顔を子供たちへ振りまいた。ティセは手鏡を持つ同い歳くらいの長女へ、
「ありがとう、ここに呼んでもらってすごく楽しかったよ。一生忘れない」
「こちらこそとっても楽しかった。本当に、また会えたらいいね」
ティセと同じ黒い瞳に優しさを滲ませて微笑んだ。会話のできないフェネを慮って、花冠を贈ろうと思いついたのはきっとこの子だと、その微笑みを見て直感した。温かな気遣いが胸に染みる。
フェネが軽い手招きをしきりにするので、
「なあに?」
身を屈めてその顔を覗き込む。フェネは頭の花冠をすばやく取って、ティセの頭へぽんと載せた。
「!?」
途端、子供たちが可笑しそうに笑い出す。皆、ティセを少年だと思っているのだから当然だ。フェネだけが「おかしくないもん、似合うもん」とニコニコ顔で伝えている。
思わぬ行動で笑いものにされた、ティセはつい凄味を利かせて、
「……おい……」
急に大きな笑い声が上がったからだろう、朝の日差しを浴びる神木を静かに眺めていたリュイが、気づけばこちらを向いていた。暫し、リュイは表情もなくティセを見ていたが、やがてクスッと吹き出し、
「そうしていると、女に見えなくもないな……」
どきりとした。が、ティセはむっとした表情を作ってみせた。花冠を外してフェネの頭に掛けなおし、
「俺の頭にはちょっと小さすぎるよ、フェネ」
リュイはなにごともなかったように、ふたたび神木へ目を向けた。ティセはほっと胸を撫で下ろす。
……いつまで隠しておけるだろう……
昨夜の、心のつぶやきを思い出す。本当のことを知ったとしても、リュイは自分を受け入れてくれるだろうか――――
朝食後、家族全員に挨拶をして三人は出発した。セザとアミタブが村はずれまで送ってくれた。
「道中、充分気をつけて。もしもまたこの近くに来ることがあれば、是非立ち寄ってくれよ」
セザは名残惜しそうに言う。リュイはわずかに笑みを作り、
「是非、また」
言葉少なに返した。
歩き始めた背中に、ふたたび声がかかる。セザはそのとき、リュイを正式名で呼んだ。
「リュイ・スレシュ・ハーン」
振り返れば、セザはまっすぐにリュイを見つめていた。堂々たる態度でこう告げた。
「きみはもう、立派なイブリアの青年だ――――是非ともトルクをするべきだ」
その横で、アミタブが静かにうなずいた。
束の間、足を止めていたリュイは、なにも言葉を返さない代わりに、ふたりへ向かって丁重に一礼をした。
さえずりだけが響く、林のなかの長閑な道を行く。フェネがときおり、頭の花冠に手をやっては、そのつど口元をほころばせている。前方を見つめるリュイの横顔に、ティセは小さく尋ねてみる。
「トルク……しないの?」
「…………」
頭のなかに、リュイがトルクをしている姿を描いてみる。すると、昨夜、ラナの語りに導かれて遭遇した、沙羅樹の精霊の姿とぴたり重なった。樹の下がひどく似合うリュイ…………とりわけ祈りを捧げているときの、大樹とともにはるかな時を過ごす精霊かと紛うほど現実感を失うリュイは、民話のなかの精霊そのままに思える。
「……すごく似合うと思うけど……」
道の先を見据えたまま、
「……しない」
ぽつり、独りごとのように――――それでいて、頑なに聞こえるまでにはっきりと、リュイは答えた。




