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解放者たち  作者: habibinskii
第七章
52/81

10

 二日後、避難壕を出てふたたび歩き始めた。日差しはますますやわらぎ、朝晩の空気はそこはかとなく冬を感じさせ始めている。秋の空は高く青く、吹き抜ける風は旅人の肌に心地よい。歩くにはもっとも快適な時季だ。

 ティセはさわやかな風を身体中に受けながら、深く、深く息を吸う。全身の血液を一新させるような心持ちで、息を吐く。とても気持ちがいい――――けれど、心地よさに浸るティセの二の腕が、じわりと痛んで警告をする。決して忘れるな――――と。

 我に返って、傷の痛みを噛みしめる。すると、心が黙り込むような思いがした。

 リュイの言うとおり、あれは正当防衛なのだろう。が、回避できることだった。不信に晒されていた自分を救ってくれた、聡明な少年のあの親切な忠告を、完全に無にしてしまったことが許せない。泣き叫びたいほど悔やまれた。相手の男に対して申し訳なさはなくとも、怪我の程度は当然気になった。まさか、が頭を過ぎり続ける。怖ろしさに足が震えた。

 それでもティセは前を向く。怖ろしい想像を振り切って、足の震えを全力で止める。フェネを守れる自分になるために。フェネを悲しませたくない、そして――――……リュイを困らせたくはない。

 重く疼く銃創の痛みを、自分を裏切った戒めなのだと、ティセは受け止めた。



 避難壕での潜伏が功を奏し、いまのところ行く道に男たちの姿はない。が、どこかで待ち伏せをしているかもしれない。ある町の宿、夕食後の食卓で、リュイは言う。

「実際、彼らはシュウまで追ってこられないと思う」

「どうして?」

「身なりを見ても、あの古い銃器を見ても、それほど遠くまで追えるような財力は、彼らにはないと思うけれど……」

「銃……!? ……そんなとこまで見てたのか!?」

 リュイは不思議そうにティセを見遣り、

「おまえも見ただろう、何度も」

「見たけど……そんなとこまで覚えてないし、見てもよく分かんないよ」

 ティセは感心してしまった。

「……にしてもさ、早くあきらめてくれないかなぁ。気が気じゃないよ」

「たしかに……」

 根本的に解決しなければならなかった。



 個室へ戻り、リュイに包帯を替えてもらう。肩口まで袖をまくった二の腕の傷に、リュイは消毒薬を含ませた綿を押しつける。途端、鋭い痛みが走り、

「痛っっっ……! くううう……」

 ティセは下を向き、身悶える。フェネが遠くから心配そうに眺めていた。

「もっと優しくしてよ! 鬼!」

 リュイは淡々と手当を続けながら、

「この程度の怪我で声を上げるなよ、男だろう」

「…………」

 包帯を巻きつつ、リュイはしみじみとつぶやいた。

「……細い……」

 少年のように見えても、筋の付きかたはやはり違う。女の子の腕のようだと、言外に言っていた。ティセは少しどきりとした。

 先日は、フェネが助けてくれなければおしまいだった。想像するとぞっとした。フェネはあのとき母親の件を想起して、ひどく動揺したのではないだろうか。ティセは申し訳ない気持ちになる。

 リュイはさぞかし腑に落ちない思いだったろう。が、疑念を抱くまではいかないようだ。ティセはほっとしていた。こうして旅の仲間だと認められたあとでも、本当のことを知れば「村に戻れ」と言うのではないか…………そんな懸念がティセにはまだあった。少なくとも、ナルジャに帰ろうと思える日まで、どうしても隠しておきたかった。

 包帯の端に始末をつけたリュイへ礼を言い、顔つきを沈ませているフェネに向かう。思い詰めたような瞳でティセを見るフェネの頬を、ピタピタと軽く打つように触れ、

「こら、暗い顔しない! いつまでもそんな顔してたら、俺怒っちゃうよ」

 フェネは笑みを返したが、どこか失敗しているふうにぎこちなく見えた。



 翌朝、陽が昇り始めたばかりの時刻、ティセはリュイに揺り起こされて目が覚めた。

「ティセ、起きて、早く」

「んあ……なんだよ……」

 すっぽり被っていた毛布から、顔だけを出した。寝惚け顔を見下ろすリュイはいつも以上に真顔だ。冷静ではあるが、緊迫感を漂わせた声で言う。

「フェネがいない」

「……ええっ!!」

 ティセは一気に半身を起こす。

「荷物もない。いま宿のひとに尋ねてきたけれど、見かけていないという」

 頭のなかを真っ白にさせて、ティセは部屋をぐるり見回した。リュイの言うとおり、そこにはフェネの気配の名残さえ、もはやないかのようだった。

 ふたつの想像がものすごい速さで頭を過ぎる。速すぎて、その想像を検証してみることもできない。暫し、言葉を失っていた。やがて、掠れ気味に、

「……まさか……夜中にあいつらが忍び込んで……」

 目を見開いたティセに、リュイは静かに返す。

「違うと思う。戸締まりはきちんとしているはずだし、部屋の鍵も掛けていた。彼らにそんな芸当ができるとは、僕には思えない」

 ――――それなら、答えはひとつしかない。

 ティセはさらに大きく目を開き、両手で毛布をきつく握り締めた。ふたたび真っ白になった頭のなかで、それを口にする。


 ――――フェネは……自分から出て行ったんだ……――――


 信じられない、信じたくない――――! 昨夜のフェネがしていた、思い詰めたような瞳を思い出す、ぎこちない微笑みを思い出す。ティセが怪我を負って以来、フェネは小さな胸をいっぱいにして悩み考えていたのだろう。握った両手が細かく震えていた。

 どうしてそんなことを…………胸のなか、その言葉が竜巻のように渦を巻き、口元まで上りかける。しかし、頭の片隅では理解していた。ティセにはフェネの気持ちが手に取るばかりに分かってしまう。リュイと離れていた間、自分さえいなければと、くり返し自身を責めた…………もしも少しでも迷惑ならナルジャへ帰ると、ついに覚悟を決めた自分なのだから――――

 守られるということへの後ろめたさ、とでも言うべき思いを、フェネも抱いたのだ。

 リュイも同じ見解でいるようだ。なかば感心したような口ぶりで、

「僕が気づかないほど静かに出て行くなんて……信じられない」

 ばっ、と勢いよく毛布をはいで、ティセは大急ぎで出発の準備を始める。

「冗談じゃないっ! 出て行くなんて絶対に許さない! あいつらが待ち伏せしてるかもしれないのに……」

 気持ちは分かる。けれど、そんな勝手は許さない、許せない。毛布を丸めながらリュイを見上げて、

「捜しに行く! 止めても無駄だ!」

 断言する。瞳と声音を火のように熱くしたティセに、リュイは感慨を滲ませた眼差しを向ける。静かに息を吐いたのち、

「止めやしないよ。いつ出て行ったのか分からないけれど、フェネの足ならそれほど遠くには行けないだろう。捜しに行こう」

 まだ冷ややかな空気の流れる早朝の往来を、ふたりは足早に歩いて行った。



 目抜き通りを抜け、民家が散在する農地へ出る。

「来た道を戻った可能性はあるかなぁ」

「……それはないと思う。道はほぼひとつなんだから、迷わず先へ行っただろう」

 畑のなか、朝食前のひと仕事に精を出す農夫へ声をかける。

「すいませーん、八歳くらいの女の子がひとりで歩いてるのを見かけませんでしたか」

 地に屈んでいた農夫は腰を大きく伸ばし、のんびりと、

「いやぁ……空が白み出したころから畑におるけど、見た覚えないなぁ」

「……ありがとう」

 フェネは真っ暗な未明の道を歩いて行ったのだろうか。ひとり闇に怯えながら…………そうさせるまでに心苦しく思っていたなんて…………真っ暗な道を怖々と歩くフェネの姿を想像すると、ティセは胸が軋むほど締めつけられた。

 ふたりは無言のまま、早足で田舎道を歩いた。途中の集落で、幾人かに目撃を尋ねた。ある農婦が教えてくれた。

「ああ、あの子かしら? 杏色の脚衣(シャルワール)履いた女の子がひとりで歩いて行くのを、土間から見たわ。まだ陽が昇ってまもないころよ」

 間違いなくフェネだ、ふたりは目を見合わせた。


 目撃情報を得て、足取りがいちだんと速くなる。普段はリュイの後ろを歩くティセだが、はやる心に突き上げられて、追い抜かんばかりに並んで歩いていた。南東の空に、陽はもう高くなり始めている。

 リュイは感じ入ったように言う。

「本当に真夜中に宿を出たようだな。無鉄砲ではあるけれど、たいした勇気だ」

「勇気じゃないよ! そんなのは!」

 ティセは語気を荒くした。先を歩いているはずのフェネを睨みつけるように、道の先を見据えたまま、

「結局、いやなことから逃げたんじゃないか」

「…………逃げる……」

 低めた声でリュイはくり返した。

「そうだよ。俺に申し訳なく思う気持ちがどうにもできなくて、つらいから逃げたんだ。俺を気遣ってくれるのは嬉しいけど、出て行ったってよけい心配するだけなのに、フェネはちっとも分かってない!」

 そうだ、フェネは分かってない――――ティセはくり返す。

「義務や義理があって家まで送り届けようってんじゃないんだよ。好きだからそうしたいだけなのに……!」

 リュイははっとしたような目でティセを見た。道の先を一心に睨み続けるティセは、その視線には気づかない。

 頭のなかでフェネを諭す。後ろめたさなど感じなくていい……――――むしろ、本当に自分を気遣ってくれるのならば、その重すぎる後ろめたさを受け入れて、耐えてくれるほうがいい――――……。

 それもまた自分勝手であるのだとしても、ティセは心からそう思う。

「フェネを見つけたら、お仕置きしてやる!」

 憎々しげに独りごちるティセを、リュイはしみじみと見つめていた。



 そのうち、道はなだらかな長い上り坂になった。辺りは灌木が多く繁る林が続いている。坂の上に差しかかる。上ってきたのとは反対に、先は比較的急な下り坂になっていた。眼下が広く見渡せた。ふたりは同時に足を止める。

「……あ!」

 坂の下遠くに、一台の小さなロバ車と、それを護送するように歩く数人の男がいるのが目に入った。ロバ車の粗末な荷台には、男と子供がひとりずつ乗っているのが遠目にも見えた。

「いた……」

 ふたりは顔を見合わせる。

「来た道のどこかで捕まったようだな」

 ロバ車の前方に四人、ロバの真横にひとり、後方にふたり。すると、フェネとともに荷台に乗っているのは、ティセが撃った男に違いない。ティセは安堵に目を細め、胸のなかで大きく息をつく。リュイはわずかに口角を上げ、

「死んだりしないと言っただろう」

 そして、さて、と腕を組む。

 視界の半分を占める大きな空の下は、灌木の林がはるか遠くまで広がっている。道はまっすぐに下ったあと、ほどなくして曲線を描き右方へ続いている。

 眼下を見つめるリュイの横顔へ問う。

「どうする?」

「林を抜けて、先回りをしよう」

「よっしゃ!」

 ふたりは適当なところから道を外れ、林のなかを駆けていった。

 首尾よく先回りをし、ナンテンの木の裏に隠れて一行を待つ。リュイが小声で言う。

「ティセ、ロバ車を奪えるか?」

「やる」

 断乎として即答した。意気込みを漲らせた黒い瞳を、リュイは頼もしげに眺め、

「任せた。ロバ車を奪って、フェネと一緒にジャクサまで走れ」

「……おまえは?」

「僕は彼らと話しをつける。ジャクサで落ち合おう」

 ティセの胸に若干の不安が過ぎる。少しだけ顔つきを曇らせたのを見て、リュイは静かに笑んだ。めずらしくも、自信に満ちた瞳をしている。

「僕が彼らに負けると思う? すぐに済む」

 穏やかさのなかにくっきり芯を持つ、凛とした微笑みだった。初めて見るその表情は、ティセの不安を一瞬にして蹴散らせた。なかば見惚れながら、ティセもまた凛々しく笑みを返す。

「分かった。頼んだよ。ジャクサでフェネと待ってる」


 ――――ふたりはいまや、互いを信じている……――――


 まもなく、ナンテンの木の向こうを一行が過ぎていった。ロバ車の前を歩く、頭目の男を含む四人が中心人物となっているのだろう。あるかも分からない財宝をすでに手に入れたかのように、浮かれまくった様子で無駄話に興じていた。

 最後尾を歩く、ひときわみすぼらしい男が過ぎたあと、ふたりはナンテンの木の裏からそっと出た。シータ教寺院でしたのと同じく、リュイは空気となり気配を消して、少しも音を立てずに男の背後へ近づいていく。ティセはその真後ろを、忍び足で付いていく。ふたりは真昼の幽霊と化した。

 最後尾の男のすぐ後ろに来て、ひっそりとした空気の塊であったリュイは、突如旋風となる。男の首に右腕を回し、わずかな声も上げさせずに締め落とす。崩れ落ちる男の左脇を抱えて、音を立てずに地面へ置き捨てる。

 誰も気づかない。直近の男ふたりはぼんやりと歩を進め、前方の四人は相変わらず馬鹿笑いを上げている。小さな荷台に座る男は、こちらに背を向けたまま。その奥には、フェネが膝に顔を埋めるようにして座っている。

 再度ひそやかなものとなったリュイは、次の男の背後へ近づく。そして、辺りの空気を一糸も乱さず、あっさり締めた。まるで、音も重さもない世界のできごとを見ているようだった。

 ふたりめが落ちた瞬間、


 ……いまだ!


 ティセは身を屈め、可能なかぎり静かに荷台へ駆け寄った。歩く速度で動く荷台の下方に足がかりがある。右足をそこへ掛ける。屈めた身体を一気に伸ばし、座っている男の背中へ飛びかかる。男の両脇を取り、ありったけの力をかなぐって、男を荷台の外へ引き落とす。不意を突かれた男は、小さな叫び声を上げる。

「う、うわっ!?」

 ティセが飛びかかったのと同時、リュイはロバの真横にいる男へ駆け寄った。上がった叫び声と時を同じくして、男を締め落とす。

 フェネがはっと顔を上げる。その大きな瞳には、リュイの横顔が映っている。

 前方の四人がようやく異変に気づき、振り返った。

「――――……! お、おまえら!」

 にわかに場が色めき立つ。

 背中から地面に落ちた男は、頼りない呻き声を上げながらも、なんとか起き上がろうとする。が、受けた衝撃と足の怪我のためすばやい動作ができず、もたついている。ティセは構わず、荷台へ飛び乗った。フェネが瞠目して見上げている。

 ほんの刹那フェネを睨みつけ、荷物を足元に投げ降ろす。荷台の前部にあるささやかな御者台に、尻から飛び込む勢いで腰かける。ロバの真横にいた男は手綱と鞭代わりの棒っ切れを手にしていた、それをリュイから受け取り、

「フェネッ! 掴まれ!」

 右腕を振り下ろし、ロバの尻を思い切り引っぱたく。ロバは憐れな悲鳴を上げて、一目散に駆け出した。ぐん、と強烈な重力に襲われる。ロバが走り出す直前に、リュイは荷物を荷台へ投げて身軽になった。

 急に走り出したロバ車に慌てて、前方の四人は除けることしかできない。

「う、うわあ……!」

 のろまがひとり、荷台の角に腰をぶつけて地面へ転がった。骨に及んだような鈍い音がしていた。

 ティセとフェネを乗せたロバ車は見るまに小さくなり、道の先へ消えた。


 三人は怒りを露わにして立ちつくす。頭目の男はこめかみを震わせながら、射殺すようにリュイを睨んでいる。リュイはまっすぐに立ち、冷ややかな眼差しを向ける。

 沈着に告げる。

「財宝などないと言ったでしょう」

 頭目の怒声が響く。

「それなら何故あの娘に構うんだ! おまえたちも財宝を狙っているからだろう!」

 やや間を置いて答える。

「あの子はもう、僕たちの仲間だから……」

 にわかに冷気を漂わせ、リュイは高圧的になる。

「もう、僕たちを追うな」

 頭目の隣の男が口髭を押し上げて、憎々しげに歯を向き出す。

「なんだと、この……小僧が……」

 言いながら、リュイに詰め寄った。リュイは微動だにせず、右拳を振り上げて迫り来る男を静かに眺め――――そして、ふっと左手上げる。左頬を狙う男の、その右手首を軽々と掴んで止めた。まるで、動いていないものを掴み取るような、さりげない仕草だ。

 表情を微塵も変えずにいる少年を目の前に、右腕を完全に掌握された男は狼狽えたように目元をヒクつかせる。男へ向けた、蔑みさえ滲むリュイの冷静な眼差しは、あなたの動作は静止と同じだ、と言っていた。

 なんの予感も与えない速さで、リュイは男のみぞおちを突いた。張り詰めたような静けさのなか、かすかに空気が振動し、まぶたを震わせた次瞬にはもう静けさのなかに戻っている、そんな動作だ。男はあえなく崩れ落ちた。その速さ、無駄のなさ、ひるみのなさに、男たちは瞠目し身を竦ませる。


 リュイはゆっくりと頭目の男に向かう。ときおりティセを怖がらせる、痺れそうに冷えた気迫を放つ。威風を放つ。男は痩け落ちた頬を引きつらせ、やや後ずさりながら、右腰の拳銃に触れる。その覚束ない手つきが、相当の動揺をはっきりと表していた。

 男をまっすぐに見据えたまま、リュイはふいに膝を折る。足元の小石を掴み、立ち上がりざま鋭く投擲。よどみのない動きかたは、冷たい水が音も細波(さなみ)もなく流れるさまと同じだ。小石は骨を突く硬い音を立てて手の甲を撃つ、男は抜きかけた拳銃を取り落とした。骨ばった甲に鮮血が滲む。

 取り落としたのと同時、リュイは突風のように駆けた。男はさらに後ずさりつつ、惑うように目をたじろがせ、左腰の長剣に手をやった。血の滲む手が柄に掛かるより速く、

「…………!」

 リュイの左手が、その手首を取った。握りつぶさんばかりの握力で。そして、男が重心を掛けていた右の足を右足で払い、仰向けに突き倒す。

 倒れざま、リュイは短剣を抜く。振り上げた白銀が日差しにきらめく。倒れた男の下腹に右膝を立て、その顔面にまっすぐ振り下ろす。

「――――――――っ!!」

 鼻のつけ根、指の関節ひとつぶん手前で、切っ先をぴたりと止めた。

 静止した切っ先は、辺りの時をも止めた。意識のある者の誰もが、息を呑んでいた。ほんの一瞬のできごと、あまりに呆気なく決した勝敗が、男たちの身動きを完全に止めていた。皆、瞬きさえも許されないかのように、目を見開いている。

 頭目の男は、顔色を失っていた。表情も、血の気も、体中の筋力もことごとく失ったように、ただ仰向いているのみだ。まぶただけを押し広げ、恐怖に飛び出そうな眼球を醜く晒している。

 リュイはその目をもの静かな眼差しで見下ろして、囁くように告げる。

「次にあなたに会えば、必ず斬ります。僕を…………甘く見るな」

 おもむろに立ち上がる。男は、失禁していた。

 凍りついた男たちを一瞥して背を向けると、リュイは何事もなかったふうに道の先へと歩き始めた。振り返ることなく、ティセたちが待っているジャクサを目指して――――



 高い秋空の下、ガタガタと音を立ててロバ車は走る。その慌ただしい音と、ときおり上がる尻を叩く音、ロバの悲鳴が田舎道の静寂を掻き乱す。

 疾走するロバ車は、道のわずかな凹凸に激しく上下する。ティセはそのたびに尻を浮かせ、荷台の縁にしっかと掴まるフェネは、束ねた豊かな黒髪を子馬の尻尾のごとく踊らせる。涼しい風が、ロバ車を、ふたりを吹き抜けていく。

 フェネはティセの背中を見つめている。大きな黒い瞳を涙に潤ませて。ティセはただ、前方を見つめるのみ。けれど、ティセはありありと感じていた。背中に投げかけられるフェネの視線を、その熱さを、そこに込められた胸いっぱいの思いを、眼前に見るような明瞭さで感じていた。


 …………フェネ、遠慮も後ろめたさも全部捨てちまえ………大好きな妹を守るの、当然だろう………?


 心で語りかける。にも拘わらず、一字一句違わずに伝わった、そんな気がティセはする。何故なら、フェネの視線はますます熱く背中を焦がすから。その小さな身体を満たしていたはずの怖れと不安が、いま安堵と喜びに変わってほとばしり、ふたつの瞳を戸惑わせている様子が、ティセには見える。フェネの不思議な力を、感じずにはいられない。

 道の先をひたすら見つめながら、ティセは胸のなかでつぶやいた。

 ジャクサの町に到着したら、怖い顔を作って、ほっぺたを叩いてやる。それから…………それから思いっきり、抱きしめるんだ……――――――





               【第七章 了】






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