7
情報収集が済み、余裕を含ませた旅程が立った。直接シュウ南部へ入る道筋を行く。その道中にはティセの好奇心を刺激してやまない、神殿の遺跡や神秘の鍾乳洞、奇岩そそり立つ絶景の村などが含まれている。明朝、マダレーを出発する。
ここのところよくしているように、リュイは本を閉じ、三階の窓辺から日暮れ間近な町をぼんやりと眺めている。瞳をしみじみとさせて、長いこと窓辺に佇んでいた。
「また、おかしな気分になってるのかよ」
冷やかせば、外に目を向けたまま、素直に「そう」と返す。
「へんなやつだな」
ティセはフェネに笑いかける。と、リュイは突然小さく声を上げた。
「あ! ティセ、あれ」
下の通りを指差した。ティセとフェネは窓辺へ駆け寄る。下を覗くと、宿の前に男が四人いるのが見えた。着古しの伝統衣装を身につけた、農民ふうの男たちだ。そのうちのひとりは間違いなく、先日、「フェネの叔父だ」と言った怪しい男だった。フェネの顔が一瞬にして強張り、青ざめた。ティセはフェネの肩を抱き寄せ、
「フェネ。あいつらだろ?」
フェネは助けを求めるかのように、ティセにしがみつく。
「ほんとに追ってきたな……」
「ティセ、彼らの顔をよく覚えて」
「了解」
ふたりは窓の陰に隠れるようになって、なにか話し合っている男たちの姿を目に焼きつける。
「いま、この宿の玄関から出てきたところだ」
「えっ!? ここに泊まってんのか!?」
「……いや、おそらく、僕たちがいつ出発するのか、尋ねにきたんだろう」
「明日の朝出るって、さっき主人に言っちゃったよ! ……教えたかなぁ……」
リュイは「さあ」と首を傾げる。客の予定を軽々しく教えるはずはないのだが、買収に応じた可能性もある。
ほどなくして男たちは歩き出し、少し先の四つ角を右へ曲がって見えなくなった。
「彼らは何人いるんだろう……」
しがみついたままのフェネを押し返し、怯えた目を見据えて尋ねる。ひとり、ふたり、と数を数える仕草をしながら、
「あいつらは――――なんにん?」
ティセの指と唇の動きを読むと、フェネはか細い指をひとつずつ折って数え始める。七人、八人……九人辺りで指の動きが曖昧になる。それから、首を大きく傾げた。
「確かなことは覚えてないみたいだね、八人前後ってところかな」
「たいした人数じゃないな。連れ立って尋ねに来るくらいだから、組織立った集団でもないようだ」
「……どうしようか」
リュイは男たちが姿を消した四つ角を暫し見つめたのち、
「いまから宿を移ろうか。今夜は別の宿に泊まって、明日の朝そこから出発しよう」
荷物を手早くまとめ、急遽宿を移った。一階の食堂では宿の主人と顔を合わせた。主人は目を丸くしていたが、男たちが訪ねてきたことについてはなにも言わなかった。やはり、少々の賄賂を受け取ったのだろう。ティセは礼を述べつつも、胸中、舌打ちをした。
日に日に日差しが和らぎ、風が清涼になっていく。晩夏というよりは、もはや初秋だ。落葉樹の葉が少しずつ精彩を失っていく。雨はもう滅多に降らず、道端の雑草も真夏のような生命の力を感じさせない。夏に刈り取りの終わった麦畑は寂しげに地肌を晒し、まもなく訪れる次の蒔きつけを待っている。
秋風を頬にいっぱい感じながら、ティセはナルジャを思い出す。もうすぐ、ナルジャの一等美しい季節がやってくる。金色の稲穂が豊かに波打つひととき、金色の野に村が立っているのかと紛うような秋の日々が。ティセを変えてしまった父の死から、三年が経とうとしている。高い空にぽっかりと浮かぶひときれの雲を仰ぎ、父を想う。
旅心を教えてくれた父の命日を、ティセはナルジャを思い描きながら、異国の地で迎えるのだ。とても不思議な気持ちになった。ともに歩くのは、新しい自分に生まれ変わるための息吹を送ってくれた、リュイという旅の連れ。守りたいと請い願う、初めてできた愛しい妹。ティセは改めて、そして、全霊を込めて、父に感謝の言葉を贈るのだった。
マダレーを出て数日が過ぎた。宿を移り、日の出とともに出発したのが功を奏したのか、いまのところ、フェネを追う男たちは姿を見せていない。
「あいつら、きっとまた追ってくるよね……」
「来るだろう。僕たちの行き先を知っているのだから、捜すのはそれほど難しいことじゃない」
フェネの体力を考慮しつつ、できるかぎり早く移動しようと心がけていた。
昼下がり、小さな集落のはずれで小休憩を取った。ちょうどいい木陰があり、ティセとフェネは並んで腰を下ろし、水筒の水を飲む。道の向こうを流れる小川のほとりに大きなタマリンドの木が立っている。リュイは荷物を置いて、誘われるように行ってしまった。
木漏れ日を浴びて、大木とひとつづきになり時を止める。静寂が訪れる。かすかな笛の音の幻聴が舞い降りる。ティセの心が平らかになっていく。微睡みにも似た心地よさに浸りながら、フェネはそれを初めて見るのだと思い至る。
小さな肩にそっと手をかけると、フェネは大きな瞳をまっすぐこちらへ向けた。繊細さに満ちた静寂の光景を乱さぬよう、ティセは声を潜め、消え入るほどの囁き声でフェネに語り出す。
「…………きれいだろう、あいつ」
フェネはゆっくりと瞬きを返す。
「まだ、リュイが少し怖い?」
今度はなにも返さず、ティセの瞳をじっと見つめている。
「…………確かに、リュイは怖いところがある。俺もいまだに、少し怖いと思うことがあるんだ」
もの静かなリュイがときおり漲らせる、痺れそうに冷えた圧倒的な気迫、そのとき濃さを増す、なにをするか分からないような野性の匂い――――――目の当たりにすれば、心が鳥肌を立てて竦みあがる。普段の穏やかさ、従順さをよく知っているので尚更だった。
フェネの顔を見据えたまま続ける。
「リュイは……そんなにいいひとでも、優しいひとでもないのかもしれない…………でもね、信用はできる。そう――――あいつには、悪意ってものがまるでないんだ、驚いちゃうくらいにさ」
何故だろう、リュイは不思議なほど悪意がない。語りながら、ティセは気がついた。そればかりか、ティセが持っていたような虚栄心、競争心、思春期なら誰もが強く持つはずの自意識…………そんなものすら欠片も感じない。リュイの内側は、その白衣と同じほど白いのだった。
けれど、その白さは、潔白の白ではないように思える。それは、ただの空白の白、沈黙の奥に口を開ける、空洞のような欠落を埋める白――――ティセにはそう感じられた。闇と空白を、リュイは抱いている。
大木に身を預ける姿に、ティセは眼差しを向ける。目元に微笑みを湛え、ゆるやかに先を続ける。フェネに語っているはずが、いつまにか自分に語っている。まるで、自身の気持ちを確認するかのように――――
「はじめのうちは、無視するし冷たいし、生きてる感じしないし、なに考えてるのかまったく分かんなくて、なんだこいつは……って本当に思った。…………でも、いまは全然違う。あいつはとても変わったし、俺の気持ちも前とはまったく違うんだ。いつも、生意気な態度でいるように見えるかもしれないけど、本当は……俺、リュイをものすごく尊敬してるんだ…………心の底からすごいやつだと思ってる……笑っちゃうだろ?」
じっと顔を向けているフェネに照れ笑いをし、もういちどリュイに目を向ける。
「…………あんなに距離を感じてたのに…………もうほとんど感じない。俺、リュイがすごく好きなんだ、大好きなんだ。…………なにか大きな隠しごとを…………それも、たぶんあまりよくないことだろうって思うけど…………その隠しごとが、たとえどんなことであったとしても、それでリュイを好きじゃなくなることなんて、絶対にない気がするよ……」
世のなかの誰もが眉を顰めても、自分自身、受け入れがたく感じても――――……それでも、自分はリュイの味方になるだろう――――ティセは揺るぎなく思うのだ。
フェネの頭を優しく撫でながら、
「だからね……フェネもあいつと仲良くなってくれたら、とっても嬉しいと思うんだ。無理はしなくていいけどね、ゆっくり、カタツムリみたいな速さでいいから、仲良くなってくれたらいいな……」
ふたたび笑いかける。長く静かに語りすぎた。勘の鋭いフェネにも、さすがに伝わらないだろう。まあいいや……ティセは親愛の情をたっぷり込めて、祈り続けるリュイを眺め見る。慕わしげに微笑む黒い瞳を、フェネはひたすら見上げていた。
食堂兼簡易宿の雑魚寝部屋で目を覚ます。きららかな朝日が窓から差し込み、粗末な室内を照らしていた。同宿の親子連れはまなこをぼんやり開けたまま、起きるのがひどく大儀そうに四肢を投げ出している。階下から、早起きの女将が鼻唄を歌いながら調理する音と、パンを揚げる油の匂いが流れてくる。
ティセは起き上がり、室内に張った大きな蚊帳を取り外す。そして、アルミの湯呑みをふたつ手にして、急な段梯子を降りていく。フェネが手ぶらであとを付いてきた。
土間へ立つ女将は、円く伸ばしたパン種を大鍋の油へ次々と投入していた。右手だけで円を描くふうに素早く押し伸ばし、舞うような手つきで投入する。揚げるのはもののいっとき、ふんわり膨らめば、左手の網状杓子で軽やかに掬い上げる。その鮮やかな手並みは手品さながらだ。思わず口笛を吹きたくなる。
「おはよう。おばさん、薬缶のお湯、少しもらってもいいかな?」
女将は少しも手を止めず、
「まあ、早いわね。どうぞお好きなだけ」
湯気のたつ薬缶の湯を、自分の湯呑みとリュイのそれへ注ぐ。可能であれば、リュイは毎朝白湯を飲む。つられて、いつまにかティセも習慣になっていた。
「フェネはいいの?」
束ねた黒髪をぶんぶんさせて、「いらなぁい」とフェネは笑む。取っ手が熱いため、左右の袖越しに湯呑みを持とうと、手を袖のなかへ引っ込めたとき、
「あれっ」
同じことをしたフェネが、リュイの湯呑みをさっと掴んで、段梯子へ向かっていった。
「え……!?」
ティセは慌ててあとを追う。
部屋へ上がると、フェネは毛布を丸めているリュイの真向かいにちょこんと座り、
どうぞ。
言いたげに、左手を添えて湯呑みをまっすぐ差し出した。ティセは目を見開く。
「ほんとかよ……!」
リュイはぴたりと動作を止め、呆気に取られたようにフェネを見つめた。やや間を置いて、瞬きを二度もして、
「……僕に?」
唇をきゅっと結んだまま、フェネはうなずいた。
「……ありがとう」
フェネの小さな手から、ふたまわり大きいリュイの手へ湯呑みが渡る。ティセは感激のあまり、勇気を見せてくれた妹へ、後ろから抱きついた。
「フェネッ! 俺は感動したっ!」
独りごとに似た昨日の語らいが、その意味が、通じたはずはない。けれど、ティセの願うところは確かにフェネに通じていた。なんと鋭く繊細な少女なのだろう。フェネはなにか不思議な力を持っている、ティセはますますその思いを強くするのだった。
フェネを背中から抱きしめたまま、リュイを睨む。
「リュイッ! おまえ、なんで真顔なんだ、こういうときは微笑い返すんだよ! 次は笑顔で受け取れ!」
「……そ……そう?」
「フェネは満点だけど、おまえは不合格だ!」
陽が西へ傾きかけたころ、静かな農村に到着した。ゆるやかな起伏をもつ地形や、農地の間に民家が散在する景色はナルジャとよく似ていた。が、目抜き通りの商店街は比較にならないほど賑やかさを欠いていた。油や調味料、日用品などを扱う小さな店が数軒と、農夫たちの社交場である小汚い酒場が同じく数軒、道の脇にぽつぽつと店を構えているだけだ。
通りがかりの農夫に尋ねたところ、この村にはいま簡易宿さえないという。フェネを狙う男たちが諦めるまでは、できるかぎり野宿を控え、安心して夜を過ごしたいと考えていた。どこかの農家に頼んで泊めてもらうか、あるいは――――
「尖塔が見える。寺院へ行ってみよう」
なだらかな坂の上から遠くを眺めて、リュイは言った。
シータ教寺院へ行けば、雨風を凌げる場所をひと晩、与えてもらえることがある。寺院の格式や規模、僧侶の意向にもよるのだが、無下に断られることはあまりない。それでも、ふたりは寺院の世話にはならずに歩いていた。ふたりとも、シータの神に対して確かな信心を持たないからだ。少なくともティセは、都合よく利用するのはどこか後ろめたいと感じていた。
「寺院か……あんまり気が進まないけど、いまはそのほうがいいよね」
村の規模からすれば、寺院はわりあい大きな建物だった。白タイルの壁と青い丸屋根、内部にある祭壇にあたる部分から尖塔がそびえ立つ。高い位置に設けられた明かり取りの窓枠と、重厚な扉をはめた框の周囲に、見事な唐草模様の浮き彫りが施されている。寺院の裏手には林が茂り、遠く西側に小高い丘が連なっているのが見えた。
年老いた三人の尼僧が迎えてくれた。本堂の脇に併設されている、こぢんまりとした尼僧たちの住まいの居間に過ごすのを許された。
日々必要なもの以外はなにもない、殺風景なほど簡素な居間だ。ささやかな土間にある小さな竈を貸してもらえたので、ティセは簡単な炒め煮を作り、早めの夕食を済ませた。
尼僧は皆、男もののような鼠色の寛衣を纏い、きっちりとまとめ上げた白髪交じりの黒髪を白の薄布で覆っている。なにが起きても揺るがないと思わせる穏やかな笑みを湛え、年若い旅人をとても丁寧に扱ってくれた。ティセは、とりわけ話し好きの尼僧と旅の話を楽しみつつも、確かな信心を持たないことに、少しだけ申し訳なさを感じていた。
そろそろ陽が落ちようというころだ。前庭に出ていた尼僧が居間へ戻ってきて、怪訝そうな顔つきで言った。
「あなたがたにお会いしたいというひとびとが、外においでになっておりますが……」




