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解放者たち  作者: habibinskii
第七章
48/81

6

 昨日より気持ち涼しい風が吹いている。強さの残る日差しが新しい革靴に反射して、ひと足歩くごとにテカリと輝く。まだ馴染まない靴に違和感と照れくささを覚えつつも、ティセはそこはかとなく新しい心持ちになって国境への道を歩いていた。

 国境へ近づけば近づくほど、風景が殺風景になっていくのは、イリアとスリダワルの境でもそうだった。赤茶けた大地、痩せた立ち木以外なにもない。たいていはそうだと、リュイは言う。

 その漠漠とした景色の道先から、国境を越えてきたひとびとが次々と現れる。規模の大きな隊商もいれば、たった数名の商人の一団もいる。すさまじく過積載の荷車を引く牛や馬、または荷運び夫、移住者か帰還者とみられる家族連れ、出稼ぎ労働者の一行、洋装を着こなした実業家の乗った馬車、なかには興行しながら漂流生活を送る流浪の民もいた。

 さまざまな風貌と、さまざまな目的を持ったひとびとが、道の先から現れては過ぎていく。ほんの一瞬すれ違うだけで、もう二度と会いはしないだろうひとびとだ。こうして旅を続けていて、ティセは幾度となくそれを思ってきたが、国境へと続く道はほかの道とは違う特別の意味を持っているようで、そんな感慨をよりいっそう深くさせるのだった。


 昼前の出入国管理所はかなりの混雑だった。なにか問題が生じて審査に手間取っても、その日のうちに出国できるよう、皆、余裕を持って早めに管理所を訪れるのだ。広さはあれど、さほど見栄えのしない木造の建物のなかはもちろん、そのまわりにもたくさんのひとびと――――おもに商人や荷運び夫がいて、審査を待っていた。

 役人が荷物を細かく調べ上げている。商人は早くしろとばかりに、いらだちの篭もる目でそれを眺めている。どこへ行っても役人は少々横柄なものだ。いらだちなど知ったことかと、嫌がらせさながらにのんびりと作業を続けている。辺りには、商人の連れている馬やロバ、売りものの羊たちが眠たげな目をして時をやり過ごしていた。

 ティセは管理所を目の前にして、

「イリアを出たとき見たのとはだいぶ違う……」

 イリアとスリダワルの国境に立つそれは、コンクリートで建てられたもっと大きくて立派なものだったのだ。リュイは薄く笑って、

「豊かなイリアに対する見栄だろう」

「見栄!?」

「タミルカンドに対してはこの建物くらいの気持ちということかもしれない」

「……ひどいな、そういうもんか」

 三人は混み合う建物のなかへ入り、審査を待つ列に並んだ。


 ふと、リュイが辺りをそっと見回した。先日の市場と同じく、鋭さを漂わせる。

「なに? また誰かが見てる感じ?」

「……ん……よく分からないな」

 混み合っているうえ、出入国管理所という場所柄、ひとを監視する目があちこちから送られてきている。リュイが分からないのも無理はなかった。ティセもなにげないふうに辺りを見回してみたが、自分たちに特別注意を向けていると思われる顔は見つけられなかった。

「つけられてるのかな……」

「あるいは」

「タミルカンドに入っても追ってくるかな」

「さあ。とにかく、ひとが多いところでは彼らも無理はできないだろう。マダレーへは少し急ごう」

 ティセは右側にぴたりと寄り添っているフェネの様子を窺った。ここにいるのはほとんど大人の男ばかり、小さな唇をきゅっと閉じて肩をすぼめている。本当はどこかへ隠れてしまいたいのだろう。できるだけ自分の陰になるよう、ティセはフェネを軽く抱きかかえるようにして、その背後に回った。フェネは回されたティセの両手に、温かな左手をそっと押し当てた。

 あくびが出るほど待ったあと、ようやく手続きの順番が回ってきた。ひとりずつ、身分証を提示する。


 リュイ・スレシュ・ハーン

 ティセ・ビハール

 フェネ・ヴィシュカ


 たくさんの出会いと別れを……忘れることなどありえない日々を過ごしたスリダワルの国を、ティセはいま後にする。



 タミルカンドに入国すると、また空気が違ったように感じられた。イリアを出たときと同様、なにかが突如として大変化したわけではない。けれど、あきらかに空気の匂いや色、肌触りが変わっていた。ティセはタミルカンドの空に輝く太陽を見上げ、暫し感激に身を任せた。リュイに言えば、きっと気のせいだと返される。確かに気の持ちようかもしれない、が、ティセにとってはそのわずかな変化は真実なのだった。

「ティセ」

 我に返り、眩しさに侵された目で振り向く。

「ちょうどマダレーへの乗合馬車が出る。あれに乗ってしまおう」

 乗合馬車など普段は利用しないのだが、ひとといるほうが安心であるし、フェネの体力を考えてもそのほうがいい。

 馬車の狭い荷台はひとと荷物ですでにいっぱいだ。小さなフェネを見ると、乗客たちは少しずつ詰めてくれて、フェネだけは座らせてもらえた。ふたりは荷台の縁に足をかけ、上部に差し渡された梁を掴み、なかばぶらさがるような状態で乗車した。

 小気味よい上下の揺れを感じながら、風と日差しを肌に受ける。膝頭をぴたりと合わせて窮屈そうに座るフェネが、「しっかり掴まっててね、落ちたらたいへん!」とティセを心配げに見上げている。ティセは笑みを返す。フェネの隣りに座るのが老婦であったので、ほっとしていた。



 中心街にある煉瓦造りの宿、三階の窓から朝日を拝みつつ、ティセは大きく伸びをした。同じように間口の狭い、奥行きの深い煉瓦の建物が、マダレーの町を埋めつくしている。真下の通りには、頭に篭を載せた流しのパン屋や、銀色の壺を台車で引く牛乳売りなどが行き交って、販促の鐘の音と売り声がティセのいる窓辺まで聞こえてくる。その音とともに、早々と開店した食堂や屋台から、空腹を刺激する香辛料と茶の香りが漂ってくる。

 ごおおおお……と腹が、部屋の隅まで響く大きな音を立てる。剣の手入れを終えたばかりのリュイが、後ろで小さく吹き出した。

「切実に腹が減った……おまえ、腹減らないの? あんなに食うくせに、腹減ったっていちども言ったことないよな」

 リュイは砥石を頭陀袋へしまいながら、可笑しげに、

「そう? 空いているよ。終わったから、食堂へ降りようか」

「よっしゃ、飯、飯! フェネッ、行くよ」

 目くばせをすると、フェネは敷物の上からぴょんと立ち上がり、頭の高いところで束ねた黒髪を大きく揺らしてティセに駆け寄った。


 雑事はカダプールで済ませているため、換金以外この町でしなければならないのは、詳細な旅程を立てることだけだ。もっとも、それがいちばん重要、かつ骨の折れる作業であるのだが。

 シュウへの玄関は二箇所、シュウ中部へ入る国境と、南部へ入るそれがある。どちらを行くほうが容易か、あるいは安全か、情報を集めてよく検討しなければならない。加えて、無理のない範囲でかまわないが、ティセの興味を惹く風物も見られるような旅程になればいい。


 町へ出て、古書市を訪ねた。一階全体を打ち抜きにした広い店内に、一生かけても読み切れないほどの書物が床に直接積まれている。古い紙と埃の匂いが充満していた。地図を扱う一画へ行き、ふたりはそれを物色する。

 記載の範囲や縮図の比率、詳細さ、地図自体の重さなど、合うものを探し出すのはなかなか大変だ。どれが適しているのか、ティセにはよく分からなかったが、リュイはほどなくして適当な地図を選び取った。

「さすが早いな。それ、もうひとつある?」

「ここに」

 同じものを手渡した。

「俺も買う」

「おまえも?」

 怪訝そうにティセを見る。

「そう。俺の地図」

 両手にした地図を、ティセは瞳を強くしてじっと見つめた。ふと思いつき、

「あ! リュイ、おまえがしてくれた約束を疑ってるわけじゃないからな。誤解するなよ。なんていうか……俺の旅だから、俺の地図が欲しいんだ」

 ティセは唇の端を上げてそう告げた。リュイはよく分からないといったふうに、瞬きをひとつした。

「スリダワルの地図はどうするの、売る?」

「いや、売れるような状態じゃない。いちど泥水に浸かったから……」

「泥水?」

「撃たれて倒れたときに」

「そっか……じゃ、俺のだけ」

 ティセは書籍の山の向こうにいる売り子へ声をかける。

「おじさーん、これいくらですか?」

 茶色の寛衣を羽織った壮年の売り子は身を乗り出すようにして、ティセの手にした地図を覗き込む。

「五十ランガだ」

「五十…………じゃあ、ふたつ買うから、七十にして」

 売り子は眉根に皺を寄せ、難しそうな表情を作って見せる。

「駄目だ。まけても九十五だ」

 ティセと売り子は、一瞬睨み合う。リュイはわずかに口角を上げ「任せた」と傍観者に収まった。従順なリュイに任せたら、唯々諾々と言い値を支払ってしまいかねない、ティセは自然に交渉役を担うようになっていた。リュイもいつのまにか、遣り合いが始まれば自身は一歩引き、値切りの手並みを楽しげに眺めるようになっていた。

 ティセは心のなかで腕まくりをして、

「スリダワルの地図がある。これと交換に七十にして」

 リュイとはぐれた際に購入したスリダワルの地図を開いて提示する。売り子はひと呼吸分だけ値踏みして、

「……八十五だ」

「まだ新しいよ。書き込みも一切してない、こんな状態のいいもの滅多ない、よく見てよ!」

 ティセは強気になって、開いた地図を売り子の眼前に「ほらほら」と晒す。やりとりが聞こえなくとも、なにをしているのかは分かるのだろう、フェネはにこにこしながらティセの様子を眺めていた。



 宿の食堂で夕食を取り、そのまま食卓で、二部七十五ランガに収まった地図を見ていた。ティセは町や村の名を、その位置を、タミルカンドの地形を、頭に刻み込むようにじっくりと眺め見る。地図に集中し、いつになくおとなしいティセを、リュイは向かいの席から静かに見つめていた。

「ずいぶん……熱心に見ている」

 声をかけられて、初めて視線に気がついた。顔を上げ、

「うん。……そう、俺の旅だからね」

 にやりと意味深げに笑んだ。ランプの灯りが黒い瞳のなかできらりと輝く。リュイは不可解そうに小首を傾げつつ、どこか眩しげにティセを見ていた。

 やがて、リュイはふいに立ち上がった。

「あ! 分かった! 酒場だろ!?」

「すぐに戻る」

「俺も行き……」

「無理だ。フェネは酒場へは入れてもらえないだろう」

「ううう……」

 さも無念そうに見上げる。リュイは一瞬だけ微笑んで、

「フェネを頼んだ」

 襟もとに巻いた薄布の裾をひるがえして出て行った。その姿がやたら優美に見えて、ティセは悔しさに歯噛みした。

 リュイが出て行ってしまうと、フェネがぴたりと寄り添ってきた。

「ん? どした?」

 にっこりとしてティセを見上げている。リュイが急にいなくなったので寂しくないように、というつもりらしい。優しい子だな、とティセはつくづく思う。この心遣いが、親しみが、少しでもリュイへ向かってくれればいいのだけれど……胸のなかで溜め息をつく。

 僕に言われても……リュイはそう言っていた。おそらく、フェネとの距離が縮まらなくても一向にかまわないのだろう。あまりにも悲しい。

「……なにか良い方法はないもんかなぁ……」


 翌朝、ティセはリュイにこう告げた。

「今日は俺、ひとりで町を歩くよ。いろいろ話を聞きがてら、気の済むまでゆっくりとマダレーを散歩してみたいんだ。タミルカンドで最初の町だしね」

 昨晩考えた荒療治だった。リュイは朝食を食べる手をぴたりと止めて、ひどく真剣な目を向けた。やや間を置いて、

「……フェネを連れて行けばいい」

 どことなく声が強張っているようで、ティセは吹き出しかけた。なんとか笑いを堪え、

「自分で言うのも残念だけど……おまえといてくれたほうが、安心して心ゆくまで散歩ができるんだ」

「…………」

「フェネを頼んだよ」

 硬直しているリュイへ、可能なかぎり品良く微笑んだ。



 赤煉瓦の建物の合間を思うまま、縫うように歩く。エトラのいた淡紅色煉瓦の町のあでやかさとは異なるが、ありきたりな赤茶の色彩はいかにも生活に密着しているようで、親しみを覚えるものだ。

 けれど、この町は高い建物が多く、二階建てを超える建物のないナルジャにいたティセにとっては、馴染みのない景色に映る。はるか頭上、五階の窓を見上げれば、その遠さに圧倒されて足元がふらついた。屋上から通りを見下ろせば、いったいどれほど小さいのだろうか、宿に戻ったら屋上へ出てみようと決めた。

 高層住宅が競り合うように並ぶ町角、合間の細道を行き交うひとびと、荷を背負ったロバ、野良犬、野良猫、放し飼いの山羊や鶏…………。低所得者が暮らしていると思われる一画を通りかかった際、大きな皮なめし場を見つけた。コンクリートで固められた地にいくつもの穴が穿たれ、白濁した水が張られている。処理されたばかりの濡れた皮が水槽の脇に積まれ、奥の物干し台にはたくさんの皮が干されていた。生臭い匂いが満ちるなか、汚れた脚衣を身につけた男たちが、半身を陽にさらし手際よく作業していた。

 入り口付近からそっと見学していたら、古びた衣服を纏った子供たちがわらわらと寄ってきた。ティセをイリア人の旅人と当て込んで、革製品の店へ案内してやると口々にまくしたてる。

「欲しいもの、いまないよ。ほら、靴だってピカピカだろ?」

「けち!」

 やれやれ……ティセは子供たちに手を振って、革靴をテカらせながら足早に立ち去った。


 先ほど、屋台ひしめく広場へ行き着いた。たいへんな人だかりがあったので、その足元をくぐり抜けるようにして進んだら、異国から訪れたらしい興行団が踊りを披露していた。軽業師や蛇遣いもいた。ティセは釘付けになり、しまいまで見入ってしまった。地面に置かれた籠に投げ銭が小山となって溜まっていた。彼らがリュイと似た肌の色をしていたのが、とても深く印象に残った。

 入国してから、古書市の売り子が身につけていたような、寛衣を羽織っているひとびとをよく見かける。ゆったりとして丈の長い、薄い布地の寛衣だ。男は落ち着いた色合いの無地で、女は暖色、裾や首回り、袖口に刺繍を施してある。この地方の伝統衣装なのだろう。既婚の女たちが好む巻き(スカート)の裾にも、精緻な刺繍がしてあった。脚衣は男女とも、いまティセが身につけているのと同じ、足首にかけてやや幅の狭まった形をしている。

 すれ違った女の巻き裳の刺繍に目を引かれて、思わず振り返る。仕立て屋をしている母親の顔が思い浮かぶ。この見事な刺繍を見たら、どんなに喜ぶだろう…………遠ざかっていく女の後ろ姿を見つめ、頭でつぶやいた。


 日が暮れるまで歩き通しても満足することはないと、夢中になって歩き回った。宿の近くにはひときわ大きなシータ教寺院があったので、迷子になっても容易に帰り着けるはずだ。気の向くまま散策をしつつ、いろいろなひとに話を聞いた。荒療治といいつつ、散策や情報収集はそれ以上にしたいのだった。

 昼食は赤煉瓦にもたれて、つぶしたそら豆をくるんだ薄焼きパンをほおばった。適度な塩味がなんとも言えず美味しい。食べながら、宿を出たときのフェネの様子を思い出していた。

 ティセが出て行こうとすると、「行くの?」当然のようにフェネはあとを付いてきた。ティセは首を横に振り、長椅子に座るリュイを指差した。フェネは目を見開いて、「うそ!? 信じられない!」という顔をした。急に脅かされてびくりと固まった小動物みたいだった。リュイはそこはかとなく苦い顔をしていた。

「……リュイのやつ、どうしたかなあ……」

 ティセは思わず、にやにやしてしまう。



 日没と同時に宿へ戻った。ふたりは一階の食堂で、ティセの帰りを待っていた。かまちをまたいだと同時、フェネが長椅子から立ち上がり、駆け寄ってくる。

「ただいま」

 フェネは頬を赤く染めて、キッと睨むようにティセを見上げる。「もう置いていかないで! 私、怒っちゃうんだから!」と、小さな身体全体が言っていた。ティセは残念な予感に包まれる。

 リュイは読書の目をわずかに上げただけで、なにも返さず本に戻った。若干不機嫌のようだ……心で苦笑いつつ、しれっとして向かいに腰を下ろす。

「どうだった?」

 普段どおり、暗く静かにリュイは返す。

「……どうって?」

「……フェネの様子だよ。ふたりで町へ出たんだろ?」

「問題なく僕のあとを付いてきた」

「…………それだけ?」

「そう」

 フェネを見遣れば、いまだ不服そうな顔をして、こちらを睨んでいる。

「昼飯は一緒に食べた?」

「もちろん」

 話によれば、ちらりと目くばせして食堂へ入ったリュイを追って、フェネも席に着いたらしい。定食を頼んだら、当然のようにフェネにも同じものを出された。ふたりは向かい合っていたにも拘わらず、いちども目を合わさず食事をしたという。

「……なんだよ、もう……」

 長い溜め息をつき、盛大に頭を掻いた。


 リュイは先に食事を終えて、汚れた右手を洗い席へ戻った。

「それで、どこか行きたいところを見つけたのか」

 ティセは口をもごもごさせつつ、

「うん。行けたらいいなと思うところが三箇所あるんだよ――――あ、フェネ、それ塩かけたほうがいいよ」

 塩の入った銀色の小皿を食卓の隅から取り、フェネがいま食べようとしていた副菜に、適量振りかけてやる。ふたたびリュイに目を向け、

「あとね、食べてみたいものがやっつあるんだ。とくに、カドゥワって町の名物がめっちゃめちゃ美味そうなんだよ。特製の調味料に漬け込んだ羊の肉を焼いて、乾し飯と揚げたニンニクや唐辛子なんかと――――あ、フェネ、鼻の頭に乳酪(ヨーグルト)ついてるって」

 笑いながら指先で拭ってやると、フェネはてへっと笑んだ。

 つくづくといった口ぶりで、リュイは言う。

「そうしていると、本当の兄妹のようだ……」

「そ?」

 隣りで食事を続けるフェネをひとめ見てから、ティセは最後のひと口を飲み込んだ。

「俺、ひとりっ子だから兄弟ってすごく憧れたなあ。まわり見ても、兄弟いないの俺だけだったし……」

 友人の家へ行けば、必ずその兄弟姉妹がともにいて、賑やかで楽しそうだった。兄弟喧嘩すら、ティセには少しうらやましく思えたものだ。兄弟がいないことについて、幼いころ、母を責めたことがあったのを思い出す。しかたのないことを言う娘に対し、母は悲しげな顔をして俯いてみせただけだった。そのときの母の顔つきを、記憶の底から掬い取る。

 なんと愚かで心ないことを言ったのだろうか、ティセは心の底からそう思った。母が再婚を考えず娘とふたりで生きていく決心をしたのは、貞女を立てるという意味合いよりも、妊娠しにくい体質であるかもしれないことに、引け目を感じていたからではないだろうか。ティセは三年目にして授かった待望の子だった。むろん、それは母ではなく、父に原因があったのかもしれない。けれど、少女っぽさの抜けきらない母には似つかわしくない、あのときのつらそうな暗い表情を思えば、自分に非があると信じていたのだと分かる。

 …………母さん、ごめんなさい…………

 遠く離れてみて、母が初めてよく見えるような気がしている。ティセは不思議な気持ちになるのだった。


 愛しさをたっぷり込めて「妹かぁ……」しみじみフェネを眺め見た。のち、

「リュイ、子供のころ自分の妹の相手をしただろう? なのに、なんでそんなに子供が苦手なんだよ」

「…………母がつねに見ていたから、僕は妹の相手をしたことはそれほどないよ。それに、妹とほかの子供は違うじゃないか」

「そういうもんかなぁ……」

 独り子のティセにはよく分からない感覚だった。

 妹が口の端にのぼるとき、リュイの瞳は必ず感傷を過ぎらせる。言って、その暗緑を深く濃くさせた。ティセと同い歳で、自身とよく似ているという妹は、リュイの心のなかでなにか特別な存在であるようだった。

「妹はセレイっていったよね。どんな子?」

「……どんな……」

 リュイは急に口をつぐんだ。まるで、答える術を持たないことをだしぬけに問われ、束の間思考が止まったかのように、黙してしまった。そして、考えているのか、食卓の上を長らく見つめていた。

 自分の妹にも拘わらず、なにをそれほど考える必要があるのだろうか。リュイの欠落が沈黙の奥に口を開けた。ティセが訝しく思い始めたころになって、ようやく返答した。

「……とても静かな子だった……」

「静か!? 妹も静かなのか! …………つまり、兄妹全員静かなんだ……」

「兄のことは分からないけれど、コイララはそう話していたな」

 翳を増した暗緑の瞳を見ているうちに、ティセは尋ねずにいられない気持ちになった。

「…………リュイ、本当にシュウ北部へ行かなくていいのか?」

 途端、翳を消し去り、低く潜めたような声音になる。

「――――何故?」

「本当は妹にとても会いたいんだろう。いまも北部の町に住んでるはずだって言ってたよね」

 リュイはふっと視線を外した。ティセはわずかな違和感を覚え、はっとする。顔つきに変わりはないものの、その視線の外しかた、口のつぐみかたは、いつものリュイとは違っていた。返答に窮するときの沈黙とは違う、忌ま忌ましさに似たものをかすかに滲ませた沈黙――――――否、沈黙というよりは、息を殺したのだ。


 ……前に、どこかでこんなことが……


 考えるより早く、ティセは思い出していた。ラグラダ滞在中、シューナというひとが兄ではないかと言ったときに見せた反応に、よく似ていた。

 いけないことを言ったのだろうか、ティセは次の言葉を探しあぐねた。が、リュイはすぐにいつもの様子に戻り、穏やかに言う。

「会いたくないわけはないけれど、妹はもうほかの家の子だから、僕が訪ねていっても迷惑に思うかもしれないよ……」

「……そっか……」

 リュイはどこか遠くを見つめるような眼差しになった。その様子を見据えながら、ティセは目を澄まし、リュイが隠している闇を感じ、想像していた。









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