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フェネの母親の眠るあの村を出て以来、毎日降っていた夕刻の雨は、いちどしか降っていない。雨季が急速に終わろうとしている。夏が衰えて、日差しが徐々にやわらかくなっていく。カダプールの遠景を目にした午後も、空には薄雲がかかる程度で、美しい夕焼けを期待させていた。
「見えたっ! あれがカダプールか!」
なだらかな丘の上から、ティセは足を止めて眼下に広がる町を指差した。想像通りの大きな町だ。ひときわ高いシータ教寺院の尖塔が、堂々と大空を衝いている。一歩前に出て、リュイへニヤリと笑む。
「国境が、目の前だ!!」
胸の高鳴りを露わにしたティセの目つきを見て、リュイは呆れ気味に、かつ可笑しげに笑みをこぼす。
「……国境の手前で、おまえを殴ったな」
「…………恥ずかしいことを蒸し返すなよ……」
ぎろりとひと睨みしてから、フェネの肩を抱き寄せる。
「着いちゃったよ……もう、フェネとはお別れだ……俺、すっごい悲しい……」
否応なく増していく昂ぶりに比例して、フェネとの短い旅が終わってしまう悲しみも、歩を進めるごとに募っていった。その切なさを知ってか知らずか、フェネはティセの右肩にすりすりと頬を寄せる。ティセはますます悲しくなる。
「ねえ、リュイ。フェネはもうすぐお別れだって、分かってるのかなぁ……」
「さあ」
「孤児院に送り届けて別れたら、置いてかれたとか、見捨てられたとか、悲しく思うかなぁ……」
ほとんど泣きそうに顔をしかめて訴える。フェネにはいちど筆談を試みた。が、文字を理解しているのか、いまいち判断がつかなかったのだ。リュイはふたたび、
「さあ」
「……さあって……おまえ……ほんと冷めてんなー」
呆れ返って溜め息をついた。リュイは否定するように首を傾けて、
「本当に、僕には分からないんだ。おまえに分からないフェネの気持ちが、僕に分かるはずないだろう」
「そりゃまあ……そうだろうけど……。だいたいさぁ、おまえ、フェネを可愛いと思わないの? こんなに可愛いのにっ!」
ティセはフェネを荷物ごとぎゅうと抱きしめた。
「…………」
「そもそも、おまえは可愛いとかきれいとか思うことあんのか?」
なかば疑いの目で睨む。と、リュイは黙って考え込んでしまった。やがて、覚束ない口調で返した。
「……ないことはない……僕は自分の妹を、たぶんとても可愛いと思っている……」
「……たぶん……?」
行こう、とリュイは話を打ち切り、前を向き直して歩き始めた。ふいと背けたその瞳の色が、ティセの胸に留まる。そう……たとえばこんなふうにだ……――――と、ティセは思う。
妹の話をするとき、リュイはいつでも瞳に感傷を滲ませる。濃い翳をふっと過ぎらせる。たぶん、と言ったその言葉に、ティセはまた、リュイの大きな欠落を垣間見た。
辺りに畑が広がり始めた。土壁の民家が立ち現れ、農夫らとぽつぽつすれ違う。中心街にはまだ少しあるようだ。ある集落の茶屋で、三人は小休憩を取った。小さなフェネがともにいるため、小休憩を頻繁に取るようにしていた。
その茶屋を出て、ふたたび畑の続く道を歩いていると、背後にひとの気配を感じた。振り返れば男がひとり、足早にこちらへ向かってくるのが見えた。先ほどの茶屋にいた客のひとりかもしれない、どこか見覚えがあった。やや薄汚れた伝統衣装を身につけた、どこにでもいる二・三十代のいち農夫に思われる。ただ農夫にしてはめずらしく、腰に剣を下げていた。
男は追いつくと、
「おい、ちょっと……」
低く声をかけてきた。ふたりは立ち止まり、振り向いた。わずかに遅れて、フェネも背後に注意を向ける。途端、フェネはびくりと身を震わせ、道の先へ逃げるように駆け出した。
「フェネッ!?」
とっさにフェネを追い、すぐにその左腕を掴んだ。それでも駆け出そうとするのを、抱きしめて制する。ティセの腕のなか、フェネの顔は強い恐怖を感じているかのように歪んでいた。
「どうしたの? 落ち着いて、フェネ!」
あきらかに様子がおかしい、ティセとリュイは目くばせをした。
男は蛇に似た狡猾そうな細い目をリュイに向けて、尋ねる。
「その子は母親と一緒だったはずだが……」
リュイは対峙するように、男に正面を向ける。
「……先日、亡くなったんです」
男はこめかみをぴくりとさせた。
「亡くなった!?」
「あなたは?」
「…………フェネの叔父だ」
リュイは訝しげに目を細め、声を低く鋭くさせる。
「……叔父?」
「それなら私がフェネを預かって、無事シュウの自宅に送り届けよう」
男は足を踏み出して、
「さあ、フェネ」
右手を差し伸べる男の前に、リュイは一歩踏み出した。そして、自分より若干背の低い男を見下ろすようにして、毅然と告げる。
「あなたはフェネと同じシュウの人間にはとても見えません。立ち去ってもらえませんか」
居丈高な態度に男は勃然と色をなし、リュイをきつく睨んだ。怒気を帯びた男の目と、急速に冷えたリュイの眼差しがまっすぐにかち合う。キシリ、と辺りの空気が緊張する。ティセの腕のなかでは、フェネが震えている。
ひとしきり睨み合った。のち、男は構わないとばかりに、さらに一歩踏み出して、
「さあ、来るんだ、フェネ」
凄味を含んだ声で無理強いする。と、リュイもさらに一歩踏み出し、同時に長剣の柄に手をかけた。男はぎょっと顔を強張らせ、固まった。
「フェネの様子は尋常じゃない」
「…………」
厳冬の夜気に似た気迫を、リュイは見るまに漂わせる。冷たく静かに、厳然として、忠告する。
「僕は剣を抜けば、ためらいなくあなたを斬ります」
ぴくり、男は目元を引きつらせる。
「……な、なに……」
「たとえ、あなたがその剣を抜いたとしても、おそらく、僕にはとても敵いません」
目元を引きつらせたまま、男は射るようにリュイを睨む。
「……試してみますか」
やけに穏やかな、囁くような声音が、かえって男を威圧していた。
ティセはリュイの後ろ姿に漂う冴え冴えとした気迫をありありと見て、フェネを抱きつつ、なかば呆然としてしまう。男は忌々しげにリュイを睨みながらも、完全に臆しているように見えた。
まもなく、男はリュイを睨んだまま小さく舌打ちをして、踵を返した。悔しげに何度もこちらを振り返り、来た道の先に消えて行った。ふたりは男が見えなくなるまで、じっとそちらを注視していた。
気迫を消して、リュイはゆっくりと振り向いた。
「どうやら、フェネはなにか事情があるようだな」
「……うん、そうみたいだね……」
フェネはまだ小刻みに震え、大きな目を潤ませている。
「フェネ、大丈夫、怖いひとはもう行っちゃったよ」
ティセはフェネの左手をぎゅっと握った。そして、リュイへ、
「戻ってこないうちに、早く街なかに入ってしまおうよ」
三人は心持ち足を早めて、畑の続く道を歩いていった。
フェネは不安そうに顔つきを曇らせている。幾度も振り返り、そのたびに目を怯えさせた。いったいどんな事情を、この小さな身体は抱えているのだろう。ティセはますます、フェネと別れがたい気持ちになった。それから、前を行くリュイを、なんとも言い難い思いでもって見つめた。
「……リュイ。おまえ、そんなに自信があるの……?」
リュイは前を見たまま返す。
「脅してみただけだ」
以前にもいちど目の当たりにした、圧倒的な、怖ろしいまでの気迫。リュイはやはり少し怖いと、ティセはつくづく思うのだった。
西の空が赤く染まり始めるころ、カダプールの中心街へ辿り着いた。町の規模は、エトラのいたマドラプールと同程度だ。東西に大きな市が立ち、目抜き通りにはあらゆる商店がひしめいている。その奥に、一歩足を踏み入れれば方向感覚を失うような、路地裏の迷路が広がる。
マドラプールは香り立つように紅く染まる美しい町だったが、カダプールは統一感のない雑多な町だ。建物は壁の色も屋根の色もそれぞれで、絵にはならない無器量な街並みといえる。けれど、ごちゃごちゃとしたその雰囲気が、町の賑やかさをよりいっそう際立てているようだった。
もうひとつ、あきらかに違うのは、カダプールは国境の手前の町であるということだ。道行くひとびとのなかには、異国のひとが多く交じっている。店棚の品々も、地元産のもののほかに、たくさんの輸入品が並べられていた。
ひとびとはロバに荷を載せて、あるいは大きな篭を背負い、しゃきしゃきと通りを歩く。異国のひととすれ違っても、いまさら注目することはない。イリアとスリダワルを繋ぐティアマの町がそうであったように、リュイがそれほど目立たなくなる町だった。
ティセは意味深げに笑んで、尋ねてみる。
「おまえ、都会のほうが落ち着くだろ?」
言いたいことをすぐに察したのだろう、リュイは少し厭そうな顔をして、
「……そう。おまえはこういう町のほうが心が弾むだろう」
的確に返されて、思わず吹き出した。
もう日が暮れるため、孤児院を訪ねるのは明朝にした。三人は中心街からややはずれた場所にある、さほど流行っていそうにない静かな宿に荷物を降ろした。夕食の際に宿の老夫へ尋ねてみると、孤児院は中心街からだいぶ離れた場所に、ひっそり建っているとのことだった。
三人で泊まるには少し広すぎる個室に通された。敷物を敷いただけのなにもない部屋だが、掃除が行き届いており、布団もまだ新しく、心地よく眠れそうだ。フェネが少しでも安心して眠れればいい、ティセは日中のできごとを思い、心から願った。
フェネはいまだ、不安げにうつむいている。水浴びをおえて濡れそぼった黒髪が小さな肩にかかる、その様子がいかにも心細そうに見えた。事情はなにも分からないが、どうにも気になって、フェネの瞳を覗き込む。
「……フェネ」
フェネは少しだけ顔を上げた。ティセの顔を上目遣いで見つめる。それから、ふいと目を下げて逸らした。その黒い瞳は、まるでなにかをためらっているように揺れている、ティセにはそう感じられた。
「…………フェネ、なにか言いたいことがあるみたい」
ランプの前を陣取って読書していたリュイが、目を上げる。
「何故、分かる?」
「だって、なんか迷ってるみたいな目をしてるよ、ほら」
リュイは胡座を組んだまま、少しだけ身を乗り出して、うつむき加減のフェネの目を覗き込んだ。
「……少しも分からない」
「鈍いなぁ……」
ティセはフェネの両腕をがしりと掴んで、ふたたび顔を覗き込む。聞こえないのを知りつつも、はっきりとした声で言う。
「フェネ! なにか言いたいことがあるんだろ。なんでも俺に教えてよ。できるかぎり力になるから!」
そして、「まかせろ」とばかりに、自分の胸元をバンバン叩いてみせた。
フェネは長いことうつむいたままだった。やはり伝わらなかっただろうか――――……ティセはもどかしさに落胆しかけた。が、それを打ち消してくれるかのように、フェネはふいに立ち上がった。
「フェネ?」
フェネは壁際に置いた自分の荷物へ向かった。小振りの頭陀袋に右手を差し込んで、ごそごそとなにかを探し始める。やがて、封筒をひとつ手にして戻った。ティセの前に姿勢を正して座り込み、両手でそうっと、それを差し出す。
ティセは面食らい、封筒の裏表をまじまじと眺める。
「……な、なんだろう……」
「開けてみればいい」
若干皺の寄った封筒は封をされていない。中身を取り出すと、数枚の便箋に綴られた手紙が出てきた。冒頭には、女のものと思われる繊細な筆致で、こう書かれていた。
――――娘、フェネを拾ってくださった方へ――――
「フェネのお母さんの手紙だ!」
咄嗟にリュイのもとへ素っ飛んだ。勢いあまって、軽く体当たりをしたようになった。ちょっと、とリュイは眉をしかめたが、それどころではない。ほらほら、と手にした本の上に手紙を広げてみせる。そのまま、各々、手紙を黙読した。
『不憫な娘フェネを拾ってくださいましたこと、感謝に堪えません。先ごろより体調が思わしくないため、万が一に備えて、この手紙をしたためております。
私と娘はある目的のため、遠方を目指しておりましたが、いまはあきらめて、家路を急いでいるしだいです。すでにお気づきと思いますが、フェネは耳が聞こえません。生まれつきのことではなく、六歳のとき患った病が原因です。現在、フェネは声を発しなくなってしまいましたが、聴覚を失う前に身につけた言葉は覚えているようです。文字はあまり読めません。いくつかの簡単な単語が読める程度です。もしも私になにかあれば、この不憫な娘は路頭に迷い、二度と故郷の地を踏むことはないでしょう。それを思うと、身を引き裂かれそうに感じます。
あなたさまは慈愛に満ちた親切なお方だと信じて疑いません。フェネをシュウ南部の村クマラニにある拙宅へ送り届けていただけないでしょうか。そこには私の両親が住んでいます。甚だ身勝手なのは重々承知のうえ、心よりお願い申し上げます。平身低頭、お願い申し上げます。
じつのところ、フェネは耳が聞こえないだけでなく、もうひとつ大きな問題を抱えています。私たちは、ある男たちから狙われています。私たち親子は、かつてシュウ南部に存在した小さな王国イシュダルの王家の末裔なのです。いまでも城跡に眠る時価数百億の財宝の正当な相続人なのです。その男たちはそれを知り、私たちから城跡の場所を聞き出して、財宝を我がものにせんと、数ヶ月前から執拗に私たちを追っています。過日、首尾良く姿をくらますことに成功しましたが、いつなんどき見つかってしまうか知れません。
その男たちはひとの皮を被った獣のような賊徒です。なにをするか分からないならずものです。不幸にもフェネが彼らのもとに渡ってしまったら、それはむごい目に合うことでしょう。
親切なあなたさま、もしもフェネを送り届けていただけるならば、イシュダルの財宝をすべて受け継いでくださっても構いません。暴虐な彼らに、どうかフェネを渡さないでください。どうか、どうか、フェネをお願い申し上げます』
手紙の最後には、王家の末裔にふさわしい優雅な文字で署名がしてあった。
「………………読んだか?」
「読んだ」
ことのほかあっさり返すリュイとはまるで正反対に、ティセは意識が飛ぶほどの興奮を覚え、ほとんど眩暈がしていた。手紙を持つ手が、小刻みに震え始めた。胸が高鳴り、呼吸が荒くなる。なんとか息を吸いながら、す、す、す……呼吸を整え、
「すっげ――――――――――――っっっ!!」
絶叫、リュイはさもうるさそうに耳を背けた。思いのたけ叫んだあとは、次の言葉が出て来ない。わなわなと身を震わせ、
「……た、た、た……」
リュイは冷ややかにティセを見る。
「……旅は――――浪漫だっ……!」
「言うと思った」
「原始人の壁画より、もっとすごい!」
「…………」
じろっと睨み、
「なんだよ、眉唾物か?」
溜め息交じりにリュイは返した。
「眉唾どころか完全に嘘だ。イシュダル王国なんて、そんな史実はない」
「おまえが知らないだけかもよ」
「考えにくい」
斬り捨てるように即答した。
「……すごい自信だな……」
「僕は自分の国の歴史については相当勉強している。そんな史実はない。ここに書かれていることは、間違いなく伝説やお伽噺の類だ」
断言した。水を差されて、ティセの興奮の炎はにわかに下火になった。少し悔しい。いや、でもさ……と食い下がる。
「たとえ伝説に過ぎないとしても、フェネが財宝の相続人として狙われているのは事実だよ。ある男たちって、昼間のあいつのことだろ」
若干、調子を落として、
「……それは確かに」
姿勢を正して座り込んだまま、ふたりのやりとりを神妙に見守るフェネを振り返る。
「もしものことがあったら、誰かに手紙を見せるように言われていたんだね」
「たぶん……」
「いままで見せなかったのは、迷ってたからかなあ」
見ず知らずのひとに迷惑をかけてしまうのを、この小さな女の子は気に病んでいたのだろうか。そう思うと、愛しさがほとばしるように込み上げて、ティセは胸がいっぱいになった。黒く濡れたフェネの瞳は心許なげに揺れている。それでも私を連れて行ってくれるでしょうか……つつましく問いかける心の声が、その瞳から明瞭に聞こえてくる。
「俺……フェネがお姫さまに見えてきた」
クッと、リュイは失笑した。
「お姫さまにひざまずく騎士になりたい……外国の絵で見るような、あんなの」
リュイは呆れたように微笑いながら、うっとりとフェネを見つめるティセの横顔を、可笑しそうに眺めていた。
やがて、リュイは真顔に戻り、静かに問うた。
「それで、どうするの?」
「――――え……」
「おまえはどうしたい?」
ティセはひどく返答に窮した。胸の内はすでに決まっている。すっかり自分になついたフェネを隣りに歩を進めるごと、別れがたい気持ちが否応なく募っていくばかりであったのだから。謎の王国も、時価数百億の財宝も、ティセの好奇心をこれでもかと刺激した。そのうえ、ならずものに狙われているのだ。異国の孤児院に置いていく――――そんな選択肢は、自分のなかにはもはやなかった。
けれど、それを自ら口に出すなど、ティセにはとうていできるはずがない。フェネを連れて行く、それは畢竟、リュイの負担が増すことにほかならない。なにかあれば足手まといになってしまう自分が、さらに非力な者を連れて行きたいなどと、どうしたら言えるだろうか。ティセはうつむいて、長いこと押し黙っていた。
リュイは怪訝そうに、黙りこくったティセを見つめていた。黙るのはつねにリュイであり、ティセがこんなふうに黙するのは初めてだ。希望や欲求を明確に持ち、なおかつ表せるはずのティセが返事をしない。その胸中を、リュイは少しも推し量れないようだった。
少し驚いたように、
「…………黙っているのは、何故?」
「……おまえは……どうしたいの?」
逆に尋ねると、リュイはさほど間を置かず、
「分からない」
「分かんないって……」
言いかけた言葉を途中で呑んだ。きっとリュイは、自分がどうしたいのか本当に分からないのだろうと、思い至る。自分の気持ちがよく分からないと吐露した、あの日の言葉のままに。
しようがない、深く溜め息をついてから、胸中を打ち明ける。
「連れて行ってやりたいに決まってるじゃないか。でも、俺にはそれが言えないんだよ」
「何故?」
「……おまえが大変になるだけなのが、分かってるからだよ」
ややぶっきらぼうに答えた。意想外だと、リュイは一瞬固まった。のち、納得したのかしないのか、甚だ曖昧に「……そう……」と返した。
薄暗く殺風景な室内に沈黙が流れる。なにも言えないティセと、なにか考えているように敷物の一点を見つめるリュイを、かしこまったままのフェネが不安げに睫毛を震わせて、見守っていた。
だいぶたってから、リュイがようやく口を開いた。
「行き先を変更したいと言った話が、途中になっていた」
ティセは顔を上げた。
「……ああ、そういえばそうだった」
新たな行き先の案はあるのかと問うた、ちょうどそのとき、フェネの母親が運ばれてきたのだった。
「明確な案を立てていたのではないけれど、選択肢のひとつとして、イブリア族が多く住む地域を漠然と考えていた。笛はイブリアの古い信仰と関わりがあるようだから」
「うん、それで?」
「イブリアのひとびとはシュウ国内だけでなく、近隣の国にまたがって住んでいる。多く住んでいる地域はいくつかあるけれど、なかでもいちばん多いのがシュウ南部だ。南部には北部の四倍のイブリアが住んでいるそうだ」
リュイはいちど話を切った。遠くを見るように視線を投げて、改めてティセを見る。
「行き先を変更したいと言った。直後、フェネと出会った。今度はフェネをクマラニへ連れて行けという。イブリアが最も多く住むシュウ南部へだ」
符合させていくような言いかたが、ティセをおおいに刺激した。にわかに鳥肌が立ち、背筋がざわつく。リュイは沈着に考えを述べた。
「笛が導いているのかもしれないと、僕は思う」
束の間、しんと静まりかえった気がした。笛を語るリュイの瞳はあくまで冷静だ。が、ふいにうっすらと口角を上げた。
「そのうえ、おまえはすっかりその気でいる……」
「……う」
リュイは声を改めて、新たな目的地を告げる。
「シュウ南部へ向かおう、フェネを連れて――――」
途端、腹の底から温かいものが湧き上がる。大きな蕾が見るまに開花したような感覚を、胸に覚えた。
「……リュイ……おまえ……」
嬉しさに打ち震えながら、ようやく出た囁き声で、そう返すのが精一杯だった。
リュイはとても穏やかな顔つきをしている。沙羅樹に誓いを立てたあとに見せた、確かなものをそっと潜ませているような微笑みを浮かべている。
「フェネッ!」
急に振り向くと、かしこまったまま、びくりと身を震わせた。ティセは目の前に飛んでいき、にかっと笑ってみせる。フェネは大きな目をさらに見開いた。潤んだ瞳が「ほ、ほんとう……?」と問うている。ティセは大きく首肯した。
「今日から、本当に旅の仲間だ。よろしくね!」
力を込めて右手を差し出す。やや遅れて、フェネもおずおずと右手を差し出した。その頼りなげな手を、ぎゅうっと握り締める。すると、フェネは初めて微笑んだ。鈴蘭の小花がそよ風に揺れたかと思うような、清く慎ましやかな笑みだった。
「……おい! お姫さまが、笑ったぞ!」
リュイは穏やかな顔つきのまま、ゆっくりとうなずいた。




