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翌日も朝から、女将と娘婿は雑事に追われていた。ふたりも早めに朝食を済ませ、できる限り手伝いをした。昨夜のうちに桶屋へ頼んでおいた棺を、娘婿とリュイが受け取りに行く。そのあいだに女将と、手伝いに来たその妹が遺体を清め、ティセは棺に飾る花を摘みに行った。篭いっぱいに花を摘んで戻ると、遺体は真新しい白布に美しくくるまれていた。旅立ちの舟――――棺の到着を、慎み深く待っているように見えた。
まもなく、棺が到着した。なんの装飾もないにわか造りの木の箱だ。入棺して花を飾る。ティセはうっすらと死に化粧を施された白い顔を見つめた。額のまるみと太めの薄い眉が、フェネとよく似ている。いったい、どんなひとだったのだろう……心でつぶやいた。
準備が整い、葬儀の時間を待つだけになった。茶を沸かして、皆でひと息入れる。
「ねえ、あんた。そろそろあの子を呼んできてよ。葬儀の前に朝ご飯食べてもらわなきゃ、倒れちゃうわよ」
女将がティセを促した。やっかいだと口では言うものの、女将は人情味のある優しいひとなのだ。ティセは胸をしみじみさせてロバ車へ向かった。
「おはよう、フェネ」
衣服を脇へ寄せる。昨夜と同じように、フェネは膝を抱えて心許なげにしていた。
「おいで」
右手を差し伸べる。少しだけためらってから、素直に荷台を降りてきた。
食堂へ戻ると、フェネは置かれた棺を見てびくりと身を硬くした。そして、身を翻し、壁際の席と席の間に埋まるようして座り込む。そのまま膝を抱えてうつむいた。衣服に紛れるのと同じように、隠れていたいのだろう。
立ったついでにティセが厠へ行こうとすると、フェネはにわかに顔を上げ、置いていかないでと言いたげに、すがるような目を向けた。ティセはくすりと笑い、
「すぐ戻るって。心配ないよ」
ティセが席を外している間に、フェネの朝食ができた。女将は厨房から、手近にいたリュイへ「ほら」と盆を手渡した。リュイが前に立つと、フェネは目を見開いてあからさまに怯え、大慌てで食卓の下へ潜り込む。あまりに急いだため食卓の足に肩がぶつかり、はずみで卓上のものが倒れた。真鍮の水差しが転がり落ちて、派手な金属音を上げる。その音が、ちょうど戻ったティセの耳に入った。
盆を手にまっすぐ立つリュイと、食卓の下で縮こまるフェネを見て、ティセはつい非難めいた声で尋ねた。
「なになに、どうしたの!?」
リュイは静かに返す。
「……分からない……」
が、リュイの様子を眺めたら、ティセにはなんとなく分かってしまった。
「おまえ……そんな真顔で立って見下ろしたら、怖がるの当たりまえだろう。まるで威圧してるみたいだ。ただでさえ、おまえは怖いんだから……」
「…………」
「ほんっとに子供の扱いかた知らないんだな、貸して」
リュイの手から盆を引ったくると、ティセはしゃがんでフェネと同じ目の高さになった。黒目がちの大きな瞳を潤ませるフェネに、さっぱりと笑む。
「戻ったよ。さ、朝ご飯食べて、みんなを安心させて」
フェネはティセの目をひとしきり見つめたのち、素直に食卓の下から出た。
さあ、と盆を食卓に置き、食事を促す。が、ティセは硝子の湯呑みに注がれた茶をひと目見て、
「……ちょっと待った」
味見をしたのち、大きな声を上げる。
「おばさんっ! 砂糖入ってないよ!」
「入れたわよ、ちゃんと」
「全然足りないよ! とろけるくらい甘くしてやんなきゃ、悲しくて倒れちゃうよ、けちだなぁ!」
剣幕に圧されたように、女将は苦笑した。
「はいはい、分かったわよ、ちょっと待ってなさい」
ティセの隣りへ腰かけたフェネは、うつむき加減で朝食を食べ始めた。もくもく、と小さく口元が動く。蓮華草の花びらに似た唇が愛らしい。その唇は決してものを言わないのに、「そこにいてね」という精一杯の小声が、ティセには確かに聞こえるような気がした。
葬儀を執り行う僧侶がやってきた。洋装の上衣に、伝統衣装である胴着と細身の脚衣という、普段の装いをした老夫だ。ただ、僧侶だけが被る、つばも模様もない鼠色の帽を着用し、小振りの錫杖を手にしている。棺を覗き込み、さも痛ましそうに目を細くした。
「まだ若いのに……残念にのう……」
僧侶は棺の前に白布を敷いて、胡座を組んだ。真鍮の錫杖をひと振り鳴らし、それを棺の上に置く。葬儀が始まった。食堂にいる全員が姿勢を正すと同時に、読経が流れる。
娘をひとり遺し、見ず知らずのひとびとに見送られて旅立つひと――――……死の悲しみとは違う、別の種類の悲哀を感じて、ティセは言いようもなく切ない気持ちで読経を聞いていた。フェネはティセの隣から、ただじっと棺を見つめていた。
読経が終わると、棺は輿に載せられた。前を娘婿が、後ろをリュイが持ち墓地へ運ぶ。ふたたび経を唱える僧侶を先頭に、棺、女将と妹、最後尾にティセと、その手に肩を抱き寄せられたフェネが行く。たった七名の侘びしい葬列が、田舎町の明るく静かな通りを進む。小さな村のこと、女の死はすでにひとびとの知るところだ。通りがかる村びとの誰もが、葬列を目に留めれば立ち止まり、慎み深く黙祷を捧げていた。
そして、真っ青な空の下、ただの草原にしか見えない墓地の片隅に、フェネの母親は埋葬された。ほかの墓同様に、頭と足の部分に蜜蝋を塗った木片が立てられた。それは膝ほどの高さもない、慎ましやかな墓標だ。広い空を仰いでおもむろに目線を戻せば、もうどこへ埋葬されたか、すぐには分からないほどささやかな。大地に紛れ消えゆくように、ひとは死ぬのだ――――父の葬儀の記憶がないティセは、まるで初めてのような心持ちで、埋葬されるのを眺めていた。
フェネは泣かずに、口をぎゅっと閉ざしたまま、ティセの右手をきつく握り続けていた。晩夏、降り注ぐ日差しの下、嘆きの声もすすり泣きも聞こえない静粛な葬儀が終わった。
身も心も疲れ果てたのだろう、フェネは食堂へ戻ると眠そうに目を擦り始めた。ティセはフェネと雑魚寝部屋へ上がり、寝つくまでそばにいてやった。フェネは力なく膝を抱えて眠りについた。持て余すほどの悲しみや不安が、その頼りなげな四肢の自由を奪っているかのようだった。ふっくらとした頬のあどけなさが、まるみのある額のいたいけさが、生え際の髪や後れ毛の細さ、やわらかさが、ティセの目にやるせないほどいたわしく映る。心が痛すぎて、溜め息すら忘れてしまう。
フェネが寝ている間に、少し遅めの昼食を取った。女将と娘婿も、それぞれ勝手な席に着き、同じものを食している。女将がやれやれ声で、娘婿に釘を刺す。
「ああ疲れたねえ、あんた、やっかいごとはもうごめんだよ!」
「好きで持ち帰ってくるわけないさ、俺のせいじゃない、そういう宿命なんだろうよ」
「なにが宿命かね! あんたらもお疲れさんね、いろいろ助かったよ」
労いの言葉に、ティセは笑みで応える。向かいのリュイへ、
「成り行きで、一部始終につき合っちゃったね」
「二年も歩いていたけれど、こんなことは初めてだ」
ところでさ……と、女将は声を真面目にした。
「本当に問題だよ。いったいどうすればいいのよ…………あの子」
言いながら、二階のほうを一瞥した。娘婿が口にものを含んだ声で応える。
「だなぁ。あの子と母親はどこに向かってたんだろうな。ひと言も喋ってくれないから、なんにも分かんねえな」
「ねえ、あんたにもなんにも喋んないのかい?」
いまところ、唯一なつかれているティセへ問うた。
「……うん。なんにも喋らない。まだあの子の声、いちども聞いてないよ」
「困ったねえ……」
「昨日の夜、巡査のとこ行ったろ。そしたらさ、本当にこの辺りの住人じゃないなら、カダプールの孤児院に連れて行けって言われたよ」
ティセは食べる手を止め、娘婿を見向いた。
「孤児院!?」
「カダプールにシータ教がやってる孤児院があるんだよ。ま、どれほどの暮らしができるもんかは知らないけどな。そもそも、孤児なんかいくらでもいるんだから、入れてくれるかも分からんが」
「可哀相だけど、うちでは面倒みられないし、どこへ向かってたんだが知らないけど、あんな小さな女の子がひとりでどこへ行けるってもんでもないでしょう。ほんとに旅人なら、孤児院に連れて行くしかないわねぇ……」
「不憫だなぁ……あんなに可愛い子なのに、苦労するのかなぁ……」
女将と娘婿の言うことに、ティセはまたフェネに対する憐れみを深くした。食事がすっかり止まってしまったのを見て、リュイが言う。
「国籍は違っても、この近くの住人である可能性がないわけじゃない。とにかく、口を開いてもらわないと…………ティセ、なにか策を考えたらいい」
「…………俺が?」
「そう、おまえが」
子供の扱いを完全に委ねたかのように答えた。
昼食後しばらくして、娘婿が雑魚寝部屋の隅にある納戸へものを取りに上がっていった。段梯子の軋む音が止んだのち、わずかな間を置いて、にわかにばたばたと走り回るような音が聞こえるとともに、安普請の食堂全体が地震のように揺れた。
「な、なんだなんだ!」
驚いて立ち上がり、段梯子を見上げた。リュイも読書の目を上げて、階上に注目する。ティセは慌てて梯子を登った。見れば、毛布をきつく抱きしめたフェネが、部屋の隅で小さくなって震えている。そして、娘婿がティセよりも驚いた顔をして、呆気に取られたように立ちつくしていた。
「おじさん! フェネになにしたんだよ!」
娘婿は心外だとばかりに、甲高い声をさらに高くして、
「なんもしねえよ! ただ、寝てる脇を通ろうとしただけさ!」
娘婿の丸い目を、ティセはじっと睨んだ。当惑に揺れていた。どうやら本当にそれだけらしいと納得する。ティセは怯えるフェネの前にしゃがんだ。
「フェネ。なにも怖いことなんかないよ」
潤んだ目が「……ほんとう?」と尋ねている。
「ほんと。おじさんは怖いひとじゃないよ。……リュイもね」
フェネはゆっくりと瞬きを返した。
「まだ眠いだろう、そばにいるからもういちど寝たらいいよ」
強張る肩を優しく叩いて促せば、毛布を抱きしめたまま、言うとおりその場に丸く横たわった。娘婿はやれやれとつぶやきつつ、納戸のものを取り、梯子をそっと降りていった。
フェネが深く寝息を立て始めたので、ティセもようやく階下へ降りた。リュイはふたたび本から目を上げる。
「小さな子のことはよく分からないけれど、あの子……少し怯えすぎじゃないか」
「……うん」
フェネのこの先が思いやられて、ティセはつい伏し目になる。リュイはいちど読書に戻ったが、ふとつぶやくように問う。
「…………僕は、そんなに怖いかな……」
ただでさえ怖い、と今朝口走ったのを気にしていたのだろうか、ティセは思わず吹き出した。
「怖いよ! おまえほど近寄りがたいひとには会ったことない。俺だって、めちゃくちゃ気後れしたもん」
リュイは目を瞠った。
「おまえが!?」
「そうだよ、おかしいか?」
「おかしい…………嘘だ」
「………………」
さも訝しげに、ティセを見ていた。
策を講じろと言われても、優しく話しかけ、頑な唇を緩ませていく地道なやりかたしか、ティセには思いつかない。
「ねえ、フェネ。フェネのおうちはどこにあるの?」
「お母さんとは旅をしていたの? どこへ向かっていたのかな?」
小さなフェネと同じ高さの目線になって尋ねた。フェネは困ったように、わずかに小首を傾げてみせるだけ、決して口を開かない。
けれど、幾度となく話しかけているうちに、不信や怯えから口を開かないのではないように思えてきた。何故ならすでに、フェネは自分になついている、自分の姿を追うようにいつでもこちらを眺めている。どこかへ行こうとすれば、すがるような目をして付いてくる。子供らしい大きな頭と細い身体でぴょこぴょこと、頭の高い位置で結われた豊かな黒髪をブンと揺らして、追ってくる。子兎のようなその姿があまりに可愛くて、ティセはつい目が細くなる。どうして口をきいてくれないのか、ひどく歯痒く思った。
女将には、すぐなつくようになった。ティセが水浴びなどで席を外せば、女将にまとわりついた。娘婿とリュイには近寄らない。フェネの態度ははっきりとしていた。
「俺たち、嫌われてんなぁ」
娘婿がぼやく。リュイは小さな溜め息を返した。
葬儀から三日が過ぎた。娘婿は近辺の町を廻って服を売る傍ら、客にフェネとその母親について尋ねて回った。誰もが、シュウからの移住者など知らないと答えた。なかに、母子を見かけたことがあるという客が数人いた。やはり旅人のようだったと語っていた。
明朝に、ふたりはフェネを連れてカダプールへ向かうことにした。もとより、そこへ向かう予定でいたのだから、もののついでだ。
女将はフェネの小さな肩を抱き寄せて、申し訳なさそうに言う。
「孤児院ってどんなとこかねえ。うちにもう少し余裕があれば、面倒見てやらんこともないんだけど…………そうもいかないよ、ごめんよう」
食堂の窓際の席から、娘婿が哀しげに夕刻の曇天を見上げている。なにやかや言いつつも、やっかいごとなど飛び越えて、フェネの可愛らしさにリュイを除く全員が心を奪われていた。
「さて、今晩はこの子のために、腕によりをかけて晩ご飯を作ろうじゃないか」
女将はそう言ってフェネの頭を愛しげに撫でたのち、厨房へ入っていった。ティセは向かいで読書するリュイへ、
「思いがけず長居しちゃったね」
「早くカダプールへ行かないと、もう読むものがなくなりそうだ」
そのとき、女将が高い棚に保管していた調味料の袋を取ろうとして取り落とした。重さのある袋が、その下の調理台へどさりと落ちる。はずみで、重ねてあったいくつかの真鍮の皿や水差しが床へ散乱、耳をつんざく大きな音が上がった。皆、厨房へはっと目を向けた。
途端、ティセは強い違和感を覚えて、隣りに座るフェネを振り向く。フェネは皆とわずかに遅れて、厨房を向いたのだ。まるで、皆の様子から厨房の異変に気づいたように。
フェネの黒目がちの大きな瞳を、じっと見つめた。瞳と、そして、ことのほか繊細に拵えたような小さな耳と、蓮華草の花びらみたいな瑞々しい唇を。
「……分かった……フェネが……口をきかない理由…………」
今度は、皆がティセに注目する。
苦しいほどの切なさが込み上げる。切なさに声を途切れさせながら、ティセは言った。
「フェネ…………耳が聞こえないんだ……」
女将が目を見開いてフェネを見る。娘婿はやや間を置いて、
「なんてぇこったい……」
嘆いた。
ティセはいたわしさに眉尻を下げて、フェネの顔を見つめた。「なあに?」フェネはきょとんとティセを見上げる。たまらなく、ティセはその細い身体をふわりと包む。と、胸元にフェネの頬がすり寄った。やわらかな頬の感触から、「哀しいの? どうして? 大丈夫、私が慰めてあげる……」聞こえないはずのフェネの声が聞こえる。リュイだけが冷静さを保っていた。
朝、まだ空気が清々しいうちに、カダプールへ向けて出発した。小振りの頭陀袋を背負ったフェネとともに。女将と娘婿が戸口の前に佇んで、名残惜しげに見送ってくれた。どちらともひどく心配そうにフェネを見つめていた。
しんみりとした口ぶりで、女将はふたりへ言った。
「……この子を頼んだよ」
「無事に孤児院に送り届けるよ。おばさんもおじさんも元気でね、本当にどうもありがとう。長々、お世話になりました」
最後までなつかれなかった娘婿は、それでも精一杯フェネの身を案じているのだろう、目に涙を溜めていた。
村はずれの墓地へ寄って、フェネの母親に最後のお別れをした。掘り返された土が新しいため、どの墓標が母のものであるか、いまはまだひと目で分かる。けれど、もうすぐに草に覆われて、墓標は大地へ紛れるだろう。フェネは唇をきつく閉じ、涙を堪えるようにして、母の眠る土の上を長いこと見つめていた。その痛々しい姿を、ふたりはやや離れたところから静かに眺めていた。
順調にいけば、カダプールまでは四日あまり。まっすぐに前を見つめるリュイと、その一歩後ろにティセ、そして、ティセの隣りには音のない世界に住む儚げな少女。小さな旅の一団は様相を変えて、田舎道を進んでいく。




