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その後、食堂兼簡易宿は商いどころでなくなってしまった。
男は女将の娘婿で、国境の手前にある町で仕入れた古着を売り歩く商売をしている。女将が言うには、やっかいごとを持ち込む名人で、いままで幾度となく、こうした面倒を持ち帰ってきたそうだ。
食堂の隅にムシロを敷いて、娘婿とリュイが運び出した遺体をとりあえず安置した。
「いままででいちばんひどいやっかいごとだよ! 死人を持ち帰るなんて!」
呆れ声で女将がぼやくと、娘婿は甲高い声で反論する。
「死人じゃないよ、病人だ! 帰り着いたら死んじまっただけだ!」
「同じことだよ!」
遺された少ない荷物のなかから、身分証が見つかった。旅人なのだろうか、女はシュウ国籍で、記載された発行県名から判断して、南部出身だとリュイは言った。
女将と娘婿は奔走し、事件を村の巡査へ報告した。村長と相談し、遺体を村の墓地の隅に埋葬する許可を得た。シータ教の僧侶を訪ね、明日の日中に葬儀を執り行う依頼をまとめた。雑事がすべて済んだのは、辺りの家々が寝静まったころだった。
薄暗い食堂の長椅子に腰かけた女将は、やせ細った右肩を拳でトントン叩きながら、
「ああ、やれやれ、疲労困憊だよ!」
そして、成り行き上、遺体を見守る番を言いつけられたふたりに目を向け、
「あんたらも災難だったね。へんなことに巻き込んで悪かったわねぇ」
ティセは小さく「……ううん」と返した。突然起こった不幸なできごとに、いまだ消沈していた。落ち込むティセの横で、リュイは冷静な眼差しを保ったまま、ただ黙っていた。
女将は大きな溜め息をつき、
「いちばん大きなやっかいごとが、まぁだ残ってるわ……どうしましょ……」
甚だ困惑しているように、大きく抑揚をつけてそう言った。女の遺した、少女の件だ。
少女はいまなお、ロバ車の荷台に乗っている。誰が呼びかけても、荷台の奥で衣服に隠れるようになったまま、決して降りてこないのだった。まずもって返事をしない。娘婿が腕を掴んで無理に降ろそうとしたら、無言のままひどく暴れたらしい。
ティセも何度か声をかけてはみたが、やはりなにも返さない。膝を抱えて、小動物のように震えていた。ちらりと上げた瞳は、いまにも爆ぜそうなほど怯えきっていた。
娘婿は遺体の横の席で晩酌をしている。嫁――――女将の娘はいま、近隣の町にある工場の寮に入っていて不在だという。毎夜ひとり、ちびちびと晩酌をして寂しさを紛らわせていると、自嘲気味に笑んでいた。ほんのり赤く染まった頬をして、娘婿はぼそぼそと話す。
「八歳くらいかな、あの子。目の前で母親が死んだんだから、そりゃあさぞ動転するだろうよ。異国に取り残されて、不安でいっぱいだろうな……かわいそうに……」
「そりゃそうだけどねぇ……明日の葬儀までに出てきてくれるかしら……」
ティセは長椅子の上で膝を抱えながら、父の逝った日を思い出していた。遺体と対面した瞬間に、自分のすべてが停止したことを。金色に波打つ稲穂しか覚えていない、葬儀の日を。切なさで胸をいっぱいにして、少女の衝撃を想像した。
「……俺の父さん、即死だったんだ…………家に帰ったらもう死んでた。ひとが死ぬの、初めて見たよ……すごい衝撃だった。…………おまえの両親は?」
リュイは食卓の上を見つめたまま、
「……父も母も流行病だったから、隔離されていたんだ。だから、僕も死に目には会っていない」
「そっか……。じゃあ、もうひとつの笛を探せっていう遺言は、病気になる前から聞いてたの?」
「いや、隔離病棟のひとが聞いたのを、人づてに聞いたんだ」
「人づて……そうなんだ……」
溜め息をひとつつき、冷めた茶をひと息に流し込む。抱えた膝をにわかに伸ばし、意を決したふうに立ち上がる。皆が、ティセに注目した。
「よっし! もういっかい行ってくる! 五度目の正直、おばさん、ランプ貸して」
ティセは荷物から紙の包みを取りだし、それを左手に、ランプを右手に、ロバ車へ向かった。
ロバの繋がれていない荷台の幌は、月明かりを反射してほのかに明るく見える。前に立ち、ティセは自然な声音を意識して、吊された衣服の奥へ呼びかけた。
「フェネ! ねえ、お腹空かない?」
暫し待ったが返事はない。ふう、と息を吐き、ティセはランプを持ったまま、右腕で衣服をそっと脇へ寄せ、奥を覗き込む。色とりどりの原色の衣服に紛れる、小さな身体が照らされる。ランプの灯りが怯え上がった瞳にきらめいた。少女――――フェネは、びくりと身を縮ませる。そして、その大きな目でティセをきつく睨んだ。ティセは心のなかで、やれやれ、とつぶやく。
「いつまでそうしてんのかな? みんな心配してるんだよ」
首を傾げて諭しても、フェネは唇をぎゅっと閉じ、ひたすらティセを睨むだけだ。
ティセはランプを荷台の隅に置き、にやりと笑む。
「出てきてくれないなら…………俺が行く」
荷台に右足を乗せ、「よっ」と、衣服のなかへ潜り込んだ。途端、フェネは大慌てで、荷台の隅に張りつくようになる。まるで、幌の布地にでも同化して見えなくなり、「ほ、ほら、私はいないのよ」とでも言いたいかのように。驚いた子兎みたいな慌てぶりに、ティセは吹き出した。構うことなく、荷台の最奥、フェネの隣りに座り込む。
ふたり並んで座ると、もう荷台は窮屈なほどだ。吊された数十枚の衣服の圧迫感も加わって、小さな箱に詰め込まれているように感じた。空気が動かないため、ほんのりと暖かい。投げ出したティセの足元で、ランプがやわらかな灯りを放つ。が、灯りは衣服に遮られ、荷台の最奥は顔の輪郭がおぼろげになるほど暗い。
しばらく、フェネは隅に張りつくようになったまま、顔を向けてくれなかった。頭の高い位置でひとつに束ねた黒髪と、小さな肩だけが、ティセの目に映っていた。
無理やり引きずり出そうとしないのを不思議に思ったのか、やがて、迷うようにゆっくりと、張りつくような姿勢を解いた。恐る恐る、というふうに、ティセを見向く。すると狭いため、ぴたりと寄り添うような距離になる。大きな瞳は、いまだ怯えている。
刺激しないよう、ティセは静かに微笑んだ。
「なんかいいね、ここ! 秘密基地に隠れてる気分だよ」
フェネはなにも返さない。ただ潤んだ瞳で怖々とティセを見上げるだけだ。構わずに続ける。
「初等部のころ、秘密基地を作って仲間たちとよく過ごしたよ。森のなかの穴倉とか、建物の隙間みたいな薄暗いとことかさ、そんなところに隠れて、おやつを食べながら悪さを企てたんだ」
にっと笑んでから、持参した油の滲んだ紙の包みを、フェネの顔の前に差し出す。
「こんなふうに……おやつを食べながらね」
ティセは包みから揚げ菓子を取り出した。
「ほら」
促すが、フェネは受け取らない。微動だにせず、じいっと穴が開くほど揚げ菓子を見つめている。ふたりは揚げ菓子を挟んで、束の間沈黙した。…………いつかのリュイみたいだ、ティセは頭のなかで失笑した。
「…………じゃあ、俺が食べちゃおっかなぁ」
芝居がかったふうに言い、揚げ菓子にぱくりと食らいつく。そして、
「――――美味ぁぁぁぁぁぁい!!」
甘さに破顔してみせた。すると、本当にものが入るのかと心配になるほど小さなフェネの腹が、ぐう、と鳴った。フェネは恥ずかしそうに、ふいと眉尻を下げる。その様子があまりに可愛くて、ティセは大きく笑った。
ふたたび促すと、今度はおずおずとその儚げな指を伸ばして揚げ菓子をつまんだ。少しだけためらってから、ようやく口にする。ティセは揚げ菓子をほおばりながら、フェネが完食してくれるかどうか見守っていた。
もくもく、もくもく、と、決して音など出さないのに、まるで音が聞こえてくるように口元を小さくしきりに動かして、フェネは揚げ菓子を食べる。栗鼠が木の実を囓るのに、どこか似ている。
あと少しというところで、フェネは急に口の動きを止めた。
「ん……? どうした、もうお腹いっぱい?」
目を覗き込んだ、次の瞬間。フェネの瞳から滝のように涙が溢れ出た。ほとばしる涙の音が聞こえてくるような泣き顔に、ティセははっとして真顔になる。
「……フェネ」
右手に揚げ菓子を持ったまま、フェネはティセの膝の上に突っ伏した。そして、少しも声を上げずに息だけを激しくさせて、泣いた。とても……とてつもなく苦しそうに、泣き続けた。
ティセは切なさに裂かれそうになりながら、膝の上のフェネを見つめていた。その細すぎるうなじと、壊れそうな肩が小刻みに喘ぐのを、ただ見つめていた。悲しみに震える少女に、自らの悲しみを重ねて、静かに眺めていた。
ひとしきり泣くと、肩の震えは収まった。鼻をすする音だけが、定期的に上がる。ティセは荷台のなかから、大声でリュイを呼んだ。
ほどなくして、リュイが荷台の前に立った。
「なに?」
衣服に遮られて、下半身しか見えないリュイに告げる。
「おばさんに、いますぐ飯の仕度してって言って!」
「……分かった」
ティセはフェネの背中を優しく撫でた。
「……フェネ。明日、お母さんの葬式をするよ。だから、もう外に出よう」
ややあって、膝の上からゆっくりと顔を上げた。わずかに届くランプの灯りで、ふっくらとした頬全体が涙に濡れているのが見える。あまりにも痛々しくて、ティセは抱きしめずにいられない。そっとやわらかく、その小さな身体をふわりと包み込んだ。
フェネと手を繋いで食堂へ戻ると、なかの三人が目を瞠った。女将は注文どおり、厨房でフェネの夕飯の用意をしている。食欲を刺激する香辛料の香りが漂っていた。
「あらあら、ほんとに出てきたよ」
感心したように唸った。
食事がととのうまで、フェネは白布を掛けた遺体の前にぺたんと座り込み、死に顔を確かめもせず、じいっとしていた。ティセは長椅子に戻り、その後ろ姿を見ていた。
隣で、リュイが囁いた。
「あれほど頑なだったのに……いったい、どんなふうに説得したんだ?」
「おまえと同じ。揚げ菓子で釣ったんだ」
しれっと答える。リュイは瞬きを二・三度して、
「……え?」
「冗談だよ」
ティセはにやりと笑い、紙の包みを差し出した。
「まだあるよ。食べる? 甘いよ」
リュイは納得がいかないようにティセを見つつも、
「ありがとう」
小さく言って、歯に染みるほど甘い菓子をゆっくりと口にした。
夕飯が出来上がった。女将は湯気の上がる馬鈴薯の炒め煮と平パンの載った盆を食卓へ用意したが、フェネは遺体の前から離れようとしない。ティセが盆を目の前に運んでやると、なにも返さずに、遺体の前で静かに食べ始めた。喋るのがなんとなく憚られ、皆、押し黙っていた。唯一顔色を見ることのできる席にいる娘婿が、酒を舐めながら、ときおりフェネの様子をちらちらと窺っていた。
半分と少し食べて、フェネは食事を終えた。すると、ふいと立ち上がり、なにも言わず、誰とも目を合わさず、戸口の外へ駆け出していった。
「フェネ!?」
ティセは慌ててあとを追った。フェネは家屋の脇に回り込む。もとのロバ車の荷台へ脚を上げ、よじ登る。ふたたび、衣服のなかへするりと潜り込んでしまった。
「ああ……」
ティセは肩を落として溜め息をついた。
あきらめて食堂へ戻ると、娘婿が、
「また、服のなかに隠れちまったのかい?」
「うん。あそこで寝たいんだろ。俺もさっき入ったけど、妙な安心感があったよ。きっと心配ないよ」
「明日また出てきてくれるかな……」
「たぶん大丈夫だよ、いちど出てきたんだから。葬式するって言っておいたし」
リュイがつぶやくように言う。
「あの子……少しも口を開かない」
「……うん。ずいぶん怯えてるみたい……」
夜も遅いので、ふたりは客のいない二階の雑魚寝部屋へ上がった。女将と娘婿も、戸口に錠を降ろして母屋へと戻っていった。食堂兼簡易宿は、静けさに沈み込む。
ティセは毛布にくるまり、逃げるように荷台へ戻ったフェネの姿を浮かべていた。小さなフェネが荷台へよじ登る、子供用のゆったりした脚衣が、その折れそうな足のか細さを、逆に強調しているように見えた。ひどく切ない気持ちになった。
泣きはらした赤い目の子兎が、原色の衣服でできた巣穴でひとり眠りにつく――――――ティセは痛々しさでいっぱいになりながら、どうかせめて、安らかな眠りを…………心からそう祈った。




