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解放者たち  作者: habibinskii
第六章
42/81

13

 ラダンへ辿り着いたのは、一昨日の夕刻だった。リュイとはぐれてしまったあの道ではない、別の道から町へ入った。マドラプールほどではないが、思っていたよりは大きな町だ。昨日、一日かけてラダンの診療所や宿を巡った。そして、こういうひとを知らないかと、尋ね回った。誰もが、心当たりがないと答えた。

 今朝は市場を訪れ、行商人に尋ねて回った。ラダンに来ていないのなら、近辺の町や村に運ばれたのかもしれない、それなら町から町を行く行商人に尋ねたら分かるかもしれない、そう考えたのだ。けれど、どの町から来た行商人も、知らないと答えた。


 ティセは市場の茶屋で甘い茶を飲みつつ、捜し疲れた足を癒していた。と、ともに、つぎつぎと湧いてくる失望と戦っていた。目の前に並ぶ野菜の赤や青をぼんやりと見つめ、長い溜め息をつく。

 ……いったい、どこに行っちゃったんだよ、リュイ……

 あれほど目に立つリュイが、誰の目にも映らず消えてしまうなど、考えられなかった。そもそも、「放ってきた」と答えたあの男の言が嘘だったのだろうか……ティセはさまざまな可能性を考える。かくして、根本に立ち返った。リュイは生きていると、千回唱えて信じ込んだ、そこがすでに間違っていたのだろうか――――……。

 ティセは思わず小さな声で、

「うわああぁぁ! まさかまさかまさか……!」

 情けなく呻き、激しく首を振った。はずみで、手にした湯呑みから茶が零れ、新しい脚衣に染みがつく。すると、同じ長椅子にひとり分の間を置いて休んでいた老婦が、

「あらあら、あんた、なにやってんの」

 首にかけていた手ぬぐいを差し出してくれた。

「あ、ありがとう」

 ティセは素直に受け取った。買い込んだ食材の入った篭を足元に、老婦はにっこりと微笑んだ。目尻の皺が深く刻まれる。

「見かけない子だね。どこから来たの?」

「イリアです」

「おや、外国の子だったかい、遠いとこからようこそ」

 スリダワル風の脚衣を身につけたティセは、荷物を背負っていなければ、リュイほどはっきりとは外国人に見えないようだった。

「若いのに独りごとなんか言って、なにか心配ごとでもあんのかい?」

 老婦は微笑んだまま言った。ティセは声を細くして、怖々と尋ねる。

「あの……少し前に……この近くで……銃殺された外国人の少年が見つかった……なんて事件…………ないよね……?」

 老婦は目を丸くした。

「なによ、物騒なこと言うわねぇ。そんな事件知らないわ」

「……ほ、ほんと?」

「そんな事件あったら町中大騒ぎよ」

 さも当然というふうに答えた。ティセは大きく安堵の息をはく。老婦は首を傾げて、溜め息をつくティセを眺めていた。が、茶を飲み干して立ち上がった。

「じゃあね、ラダンはいいとこよ、楽しんでね」

 よっこらせ、と篭を背負い、原色の巻き(スカート)を揺らして雑踏に紛れていった。ティセも茶を飲み干して立ち上がる。

「……目立つから、はぐれてもすぐ見つかるんじゃなかったのかよ……」

 責めるようにぼやき、そう言ったときにリュイが見せた、少し厭そうな顔つきを思い出す。雨が降り始めるまで、まだ間があった。町の西側にもうひとつ、ここより小規模な市場があるという。聞き込みを続けるために、ティセはそこへ向かった。



 ラダンに着いてから、三食取るのを条件に、食堂兼簡易宿の屋根裏部屋にねぐらを構えていた。水浴びを済ませ、さっぱりした身体を投げ出して、屋根裏を見つめながら途方に暮れていた。

 結局、西側の市場でもなんの情報も得られなかった。外国人の少年の死体が見つかったという事件はないことを、重ねて確認できたにすぎない。念のため警察を訪ねてみたが、そんな事件はやはりなく、外国人を保護したという記録もないという。いったい、どこへ運ばれたのか……「はあぁっ……」と、ティセは声に出して溜め息をつく。


 ラダンへ来ればきっと行方が分かる――――そんな望みは砕かれてしまった。望みを頼りに歩いてきたのに、それを打ち砕かれ、胸に穴が空いたように感じていた。その穴に、冷たい風そっくりな心細さが吹きだまり、ティセを弱気にさせていく。リュイがいっそう遠くへ行ってしまった気がした。もう会えないのではないかとすら考える。

 ……もう……会えない……

「うわああぁぁっ!」

 悪い考えを追い払うべく、床の上でじたばたと藻掻いた。ひとしきり暴れ、のち、ばっと勢いよく身を起こす。濡れたままの髪が、頬にぺたりと張りついた。ハッと強く息をはき、心を落ち着かせる。

 とにかく、この近辺のどこかで手当を受けたはずだろう。必ず、誰かが知っているには違いないのだ。ひとに尋ねても分からないなら、自分の足で行って、聞き込みを続けるしかない。マドラプールのほうへ戻ってみようか、ティセはそう考えて、地図を睨み始める。


 エトラの宿から追われて山を越え、ラダンに続く街道へ出て、歩いていた。が、普通に平坦な街道を通ってマドラプールへ向かうのならば、その間に村がみっつある。そこへ行って聞き込みを続けつつ、マドラプールに戻ってみよう。マドラプールは州都であり、ひとの波でごった返す町だ。もしもそこへ運ばれたのだとしたら、ラダンのような町とは違い、喧噪に紛れて目立たず、噂にもならないかもしれない。それなら、行商人たちが皆知らないのもうなずける。

 マドラプールに戻る――――……ティセは甚だ憂鬱になった。リュイの言うとおり、彼らの拠点がどこにいくつあるのかは分からないけれど、エトラの母親が通じているのだから、間違いなくそこにはあるはずだ。

 ふたりを追ったあの男たちはもはや遠くにいる。が、彼らの仲間は確実にそこにいるだろう。ふたたび狙われるようなことがあったら…………考えると、ぞっとした。本音をいえば、戻りたくはなかった。それでも、リュイの行方を知る一縷の望みを求めて、ティセは戻るのだ。地図の上、マドラプールの町の名を見つめながら、右腰に装備した銃にそっと手を触れる。

 ――――――大丈夫……俺は、自分を守るんだ……

 自己暗示をかけて、唇を強く引く。それから、エトラを思い出す。

 もしも会ってしまったら、どんな顔をすればいいだろう。エトラはどんな顔をして、自分を見るだろう。ティセは憂鬱をさらに深めていった。



 翌日、ラダンを出発した。空は晴れ渡り、夏の日差しが、昨夕の雨に湿った道へ照りつけている。道の左右には痩せた木が立ち並ぶ。長閑な田舎道に自分の足音だけを聞きながら、次の集落を目指す。リュイが短剣を求め、右肩の手当を受けた、あの村だ。ちょうど昼頃に辿り着くだろう。


 ティセは行く道をつくづくと眺め渡しながら歩いた。この道のどこかで、リュイと離れてしまったからだ。あのときはほとんど放心していたし、逆方向から歩いていることもあり、リュイがうずくまったのはどのあたりだったのか、よく分からなかった。探すように眺めつつ、頭のなかにはっきりと、どしゃぶりのなかにうずくまるリュイの姿を浮かべていた。

 大粒の雨だった、遠雷が聞こえていた。剣と一体になったリュイの後方で、男たちが上衣を赤く染めて悶えていた。とても怖かった、ティセはいまでもそう思う。何故だろう、遠すぎてよく見えなかったはずなのに、リュイを撃った老夫の顔が、まるで目の前で見たかのように、明瞭に思い出せた。窓辺でにっこりと手招いていた好々爺とは思えない、非情な目つきを、ありありと思い出す。と、頭に銃声がよみがえった。

「――――――……っ!!」

 心臓が大きく跳ねて、思わず足を止める。両手が強張っていた。しばらく、そのまま立ちすくんでいた。

 …………リュイ…………

 ティセは空を仰いだ。

「……いまはこんなに、晴れてるのに……」

 青い空が不思議な気がした。



 ほどなくして、道は左方向へゆるやかに曲がり始めた。そして、木立に隠れるように建つ、古びた民家が目に入る。

「あ……」

 ティセは立ち止まった。忘れもしない。男たちが待ち伏せをしていた、あの廃屋だ。

 遠くから、まじまじと廃屋を見つめる。いまにも朽ち果てそうな、黒々と変色した板壁の小屋。どう見ても廃屋にしか見えない。にも拘わらず、住人が手招きをしているなどと、何故あのときは簡単に思い込んでしまったのだろう、ティセは悔やんでも悔やみきれない。リュイはひと目でその不自然さに気づいたようだった。


 道と廃屋の間に、雑草が生え放題になった小さな前庭がある。なにがなし足音を潜めて、ティセはゆっくりと廃屋に近づいた。少し遠くから、ぽっかりと開いた窓のなかをそうっと覗き込む。室内はしんと静まりきっている。部屋の壁板が数枚剥がれているのが見えた。もう長いことひとの生活のない、静寂だけの住み家なのだと分かる。

 さらに近寄り、戸口の前に立った。扉は外れてなくなっている。右方には、まわりの木々よりひとまわりは太い沙羅樹が立っている。その脇に雨水の溜まった石の甕と、膝ほどの高さの簡素な作業台がそのままになっていた。

 ティセは暫し立ちつくす。ここで短剣を突き付けられ、リュイが抜刀したのだ。斜め頭上に閃いた白銀の光が、まぶたの裏に過ぎる。

 室内は風雨にふきさらされて久しいようで、枯葉や小枝が床の隅に溜まっているのが見えた。耳を澄ませる。ひとの気配は微塵もない。ティセは室内にそろりと足を踏み入れた。床が軋んで、ギイィと音を立てた。


 薄暗い室内は荒れ放題だ。穴の空いた天井、崩れかけた棚、破れた篭や笊などが打ち棄てられ、枯葉に埋もれていた。カビと埃の匂いがする。ただひとつ、壁に沿うように置かれた木造の長椅子だけが、使用に耐えうるものだった。あの男たちが座っていたのだろう。

 奥にもうひとつ部屋がある。床が抜けないか用心しながら、ティセは奥の部屋へと進んだ。

 部屋の仕切りには戸がなかった。奥の部屋はさらに薄暗く、足を踏み入れるとカビの匂いがいっそう濃くなった。天井の隅に大きな蜘蛛が巣くい、壁には古い暦が貼られたままになっている。くしゃくしゃになった原色の布が、床に一枚落ちていた。女が頭に掛ける薄布だ。誰かがここで逢瀬を楽しみ、忘れていったのだろう。すべてのものがくすみきった室内で、不自然な存在感を放っている。


 初等部のころ、仲間たちと廃屋探検をしたことが幾度かあったのを、ティセは思い出していた。とくに記憶に鮮明なのが、隣町ジャールにあった大きな屋敷に忍び込んだときの思い出だ。没落して一家離散した金持ちが住んでいたという。「幽霊がいた!」とカイヤが皆を脅かすと、臆病なところがあるプナクは足が動かなくなってしまった。そのときの様子を頭に浮かべ、ティセはわずかに口角を上げる。そして、カイヤによく似ていたトレブを思い出す。ティセは笑みを消した。

 トレブはどうしただろう。あのまま逃げ出せず、もうどこかへ売られてしまっただろうか……トレブを思うと、切り裂かれた胸の内の傷が、ふたたび開いてしくしくと痛み出す。自分にはどうしようもなかったと分かっていても、助けなかったことに、見捨ててきたことに、ティセは呵責を感じてしまう。

 頭を激しく振って、つらい記憶を追い払う。いまは先のことだけを考えよう、心でつぶやいた。そのとき、戸口のほうから、ギイィと床の軋む音がした。

「――――――っ!!」

 飛び上がるほど驚いて、心臓が縮み上がる。


 …………誰か来た…………


 ティセは全身が強張った。目を見開いた。まさか――――――あの男たちの仲間が……――――――最悪の想像が頭を過ぎる。背筋に冷たいものが走った。

 にわかに動悸が激しくなる。手が小刻みに震え始める。脳裏でなにかが点滅し、肌がざわついた。落ち着きをなくした頭のなかで、ティセはまなじりを裂くように、


 ――――――自分を守れ!


 叫んだ。

 瞬間、壁の一点をきつく睨めつけ、それから、右腰に装備した銃を手に取った。決意とともに震えを収めた手で弾倉を納め、実弾を装填する。撃鉄を起こす。音を立てずに仕切りの陰に身を寄せた。息を殺す。前の部屋の気配を読む。緊迫感に包まれる。

 再度、床の軋む音がする。少しだけ、奥の部屋に近いづいていた。ティセは仕切りの陰から飛び出して、

「…………っ!!」

 両腕を水平に伸ばし、床を踏む者に、銃口を向けた。


 戸口から差し込む明かりで、逆光になっていた。そのひとの顔ははっきりとは見えない。けれど――――――逆光に浮かぶ姿かたちを、ティセはよく知っていた。垂直に落ちてくるひと筋の水に似た立ち姿、水面(みなも)ほど平らかで角のすっきりした涼しげな肩の線、わずかに波打つ長い髪――――――

 束の間、時が止まった。

 間を置いて、ティセは力が抜けたように銃口を下ろす。同じく力を失った声で、消え入るようにつぶやいた。

「…………リュイ……」

 逆光に目が慣れて、ようやく顔が見える。会いたくてたまらなかった、その顔が。なにひとつ変わりのない、落ち着き払った表情をしたリュイが、そこに立っている。


 とても静かに、リュイは尋ねる。

「怪我は?」

 ひどく懐かしい、囁くような喋りかたと声音。途端、はぐれて以来、長らくティセを支配していた緊張の糸が、ぷつり――――……音を立てて切れ、身も心も、ほどけていった。熱い茶へ落とした角砂糖が一瞬でほどけていくような速さで――――……。

 なにも言葉が出なかった。ゆっくりとリュイへ近づいた。リュイはじっと、こちらを見ている。目の前まで来て、ティセはうつむいた。リュイの胸元に頭をぴたりと押し当てて、泣く。声を上げずに、ただ鼻をすすり上げながら、ひたすらに泣いた。まぶたを焼くほど、熱い涙だ。

 大粒の涙は頬を伝わずまっすぐに目から落ち、ぽつ……ぽつ……と小さくも確かな音を立てる。土埃の積もった床の上に、赤裸な水玉模様を作っていく。リュイはなにも言わず、ティセを静かに見下ろしていた。

 泣いているのは何故――――と、リュイはもう尋ねたりしない。そのうち、慰めるかのように、ティセの震える右肩へ、そっと手を置いた。


 しばらく、ふたりはそうしていた。やがて、もういちど問うた。

「怪我はない?」

 うつむいたまま、涙交じりの声で答える。

「……ない。おまえこそ……大丈夫なの……?」

「ん……。まだ完治はしていないけれど、なにも問題ない」

「……よかった……」

 リュイは感心したように、つぶやいた。

「すごいな。占いのとおりだ」

「……占い?」

「尋ねびとは、見失ったところから少しも動かない、占い師にそう言われたんだ」

 ティセは思わず顔を上げる。潤んだ目を見開き、リュイを見る。

「…………おまえ……俺を捜そうと、思ったの……!?」

 首をやや傾けて、リュイは目を細くした。

「……おかしい?」

「…………嬉しい……」

 息だけの声で返す。ティセは打ち震えた。感喜がほとばしり、胸に満ち溢れる。気が遠くなりそうに、嬉しかった。

「……おまえは、僕を捜したの?」

「当たりまえだろっ!」

 つい怒鳴った。すると、リュイは「当たりまえ……」と小さく唱えてから、ふっと微笑を漏らした。

「…………また、怒られた」

 それから目線を落とし、ティセの右手にあるものに注目した。ティセは顔を背けて、

「おまえの言ったこと…………少し分かった」

 リュイは暫し黙っていたが、

「それは、おまえの手に合っている?」

「……たぶん」

「そう、それならいい」

 それ以上は、なにも言わなかった。



 ふたりは、カビ臭い廃屋から外へ出た。真昼へ向かう空はいっそう青々と澄み渡り、廃屋の薄暗さに慣れた目に……ひたすら泣いた目に……じんわり染みるようだった。

 リュイは戸口の右手に立つ沙羅樹を見上げている。ティセはその立ち姿をひとしきり見つめたあと――――――表情を引き締めて、告げる。

「リュイ。…………話があるんだ」

 神妙な顔つきと声を受け、リュイは一瞬訝しげに間を置いた。「なに?」と目で応える。荷物を降ろして沙羅樹の脇の作業台に腰かけると、リュイも同じようにして、隣へ腰かけた。

 横顔の、暗緑の瞳を見つめながら、ティセはゆっくりと口を開く。

「会えたらまっさきに、謝らなきゃと思ってたんだ」

「……謝る?」

 リュイはちらりとティセを見遣った。

「おまえに湯呑みを投げつけた…………怪我をしてるおまえに……投げた瞬間、死ぬほど後悔したんだ……本当にごめ――……」

 謝罪は、驚くほどはっきりとした声で、制される。

「謝らなくていい!」

 リュイは前へ向き直って、そう言った。

「え……」

 思いつめたように前を見たまま、リュイは口を閉ざしていた――――が、やがて、いつもの静かな声音に戻り、

「…………謝らなくていい。たぶん…………僕が、悪かったんだと思う。世間知らずだなんて、よく言えたと思う…………」

 まるで、知らないのは自分だとでも言うかのように、リュイは恥ずかしそうに目を細めた。その様子に、ティセはひどく驚き、横顔をなお深く見据えた。リュイは似つかわしくない――――というよりは、ティセのまだ知らない辿々しい喋りかたで、続けていく。

「僕は……どうものを言えば、ひとの気に障るものなのか……分からないんだ…………ひとの気持ちがよく分からない…………それと同じくらい――――――自分の気持ちが、よく分からない――――……」

 前を見つめながら、告げた。

 こんなふうに、リュイが心のなかを吐露するのは、初めてのことだ。ティセは胸の奥が黙り込むほど驚愕していた。見開いた目で、囚われたようにその横顔を凝視した。

 恥ずかしげに目を細め、心のなかを語るリュイは、ナルジャを出てからともに歩いていたひとではない、別のリュイだった。そのまま、リュイは黙してしまった。なにを言えばいいのか、戸惑っているように見えた。


 謝罪のあとに、しなければならないことがある。初めて見るリュイに動揺しながらも、ティセは声に心を込める。

「まだ、話の続きがある」

 リュイは目で返事をする。

「おまえは俺を捜さないと思ってた。俺のこと、本当に認めてくれたわけじゃないって知ってたから…………それに、俺は完全に足手まといだって、今回のことで痛いほど分かったし…………そうだろ?」

 いったん、言葉を切った。リュイは否定も肯定もせず、ただ前を見ている。ティセはさらに声を真面目にして、

「おまえの本心を知りたい。もしも――――……少しでも迷惑に思ってるなら……――――俺は、ナルジャに帰る」

 張りつめた沈黙が、ふたりの間に流れた。笛の音に似た鳥の鳴き声が、頭上で二度上がる。暖かな微風が流れ、黙するリュイの耳際の髪を揺らしていった。

 しばらくして、リュイはゆっくりと口を開いた。

「ティセ…………おまえはまだ、僕と旅を続けたいの?」

「もちろん。俺はね」

 リュイは前を見ていた目を、おもむろにティセへ向ける。そして――――――

「それなら…………おまえの旅が終わるまで、こんなふうにはぐれてしまうことはもうないと…………僕は、約束をする」

 吸い込まれそうな暗緑の瞳が、ひときわ深さを増して見えた。その返答の仕方に、ティセは感激のあまり、束の間言葉を失った。言いようもない思いが胸に迫りくる。

「………………本当に、それが本心か……」

「紛れもなく……」

 つぶやくように告げて、リュイは頭上を仰いだ。青空に沙羅の葉が揺れている。

「樹に……誓いを立てようか」

「樹に?」

「そう、イブリアの慣習のひとつだ。以前、妹に教わった。僕は……自分にも約束したい。ティセ、つき合ってもらえる……?」

 よく分からなかったが、ティセは二度うなずいた。

「もっと大きな樹のほうが、本当はいいんだけれど……」

 静かに腰を上げた。


 僕の真似をして、とリュイは沙羅樹の根元に両膝をついた。ティセはリュイと向かい合い、同様にする。左腰に装備した短剣を鞘から抜くと、リュイは地面に突き立てた。促されて、ティセは左手でその柄を握る。

「右手を……」

 ふたりは互いの右と左の手のひらを、ぴたりと合わせた。ティセの黄みがかった白い手と、それより少しだけ大きいリュイの浅黒い手が、沙羅樹の木漏れ日の下に重なり合う。そのうえで、リュイは右手をそっと幹に触れた。形の整ったその長い指は、なにか神聖なものに触れるときのような慎み深さを帯びて見えた。

 ティセは大木に祈りを捧げるリュイの姿を思い出す。あの、静寂の光景を――――……。こうして樹の下で手のひらを合わせていると、それを眺めるときと同じ、粛然とした空気に包まれていくように感じた。ティセはすっかり、誓いの場にふさわしい折り目正しい心持ちになった。

「目を閉じて」

 ふたりは目を閉じた。心で約束をくり返すくらいの間を置いた、のち、リュイは粛としながらも揺るぎない声で、唱える。


「誓いの樹が倒れてさえも、誓約は破られない――――」


 暖かな風が先ほどよりも強めに吹いた。頭上の鳥が、高らかに唄う。誓いを聞いていたかのように、それを祝福するかのように、清らかな鳴き声で。


 誓約は破られない――――――


 まぶたを閉じたまま、ティセはその言葉を、心の奥へ刻みつける。刻みつけた心の奥が、静かに、とても静かに、涙を流していた。


 どちらからともなく、ふたりは目を開けた。

 リュイは目元も口元も、ほんのわずかに微笑んでいるように見える。いままで見たなかで、いちばん穏やかな表情をしている。初めて出会ったときのリュイからは、想像もできないやわらかさを、かすかに滲ませている。ティセは胸がつまり、かける言葉が出て来ない。そんな自分が少しだけ悔しかった。

 故に、自分に負けまいと、かなぐるように笑みを引き出す。にわかに、ティセは不敵に笑んだ。尾根の道で、啖呵を切ったあのときそっくりに。

 リュイはその笑みを見て、ふっと吹き出す。なにを思い出しているのか、ティセにも分かった。

「改めて――――……」

 ティセは右手を差し出した。リュイは言葉は返さずに、その右手をぎゅっと握ることで、返事をする。


 どんな鉄槌でも壊せないほど頑丈な鍵が、リュイの内側には確かに掛かっていた。ティセはそれをまざまざと見せつけられた、そう、幾度となく…………。けれど、いま、その頑丈な鍵は、間違いなく外されていた。鍵は外され、扉が開かれ、そして――――――ティセに向かって開かれ始めている。

 扉は大きな音を立てて軋みながら、ぎこちなく開かれていく。まるで、かつていちども開かれたことがなく、蝶つがいがすっかりと錆びついていたかのように。それは、ティセが知る由もないことにも拘わらず、扉の軋む大きな音が、ティセの耳にははっきりと聞こえるように思えた。


 すっと立ち上がり、リュイは言う。

「――――行こう」

 出会ったときと同じ、沙羅樹の下にて、ふたりは本当の意味で、旅の仲間になった。




                                【第六章 了】







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