12
日に三度、少しも狂わない決まった時刻に、部屋の戸が叩かれる。下男が昼食を運んできた。寝台脇の小机に盆を置く、リュイは礼を述べ、下男は目を伏せて返礼する。約二週間、儀式のようにくり返されていた。室内に洎夫藍の香りが漂った。
昨夜と同様、窓辺に椅子を寄せ、読書をしながら昼食を待っていた。長らく沈黙を保っていた下男だが、先日めずらしく声をかけてきて以来、ひとことふたことは言葉を交わすようになっていた。下男はまた、静かに窓辺へ寄り、その顔を覗く。
「今朝はずいぶん長いこと、あの木の下に座っておいででしたね」
「少し、考えなければならないことがあって……」
顔つきを暫し眺めたのち、下男は慎ましく微笑んで、
「気懸かりが晴れたようですね、眼差しがすっきりと澄んでいます」
リュイはわずかに口角を上げて返す。
「晴れたというより……心が決まったので。あなたが気づかせてくれたんです」
はて、と下男は首をゆっくり傾げ、
「なにかお役に立てたのでしたら、思いがけない幸せです」
控えめに応えて、立ち去った。
ザハラが真昼の静寂を楽しむ時刻になるのを見計らい、リュイはその仕事部屋の戸を叩いた。初めて、自らザハラを訪れる。どうぞ、と声がして、リュイが戸を開けると、ザハラは占いの卓についたまま、少し驚いたように目を見開いた。
「あなただったの……。このまえ怖い思いをさせたから、ここへは二度と来ないと思っていたわ」
からかうように笑みを過ぎらせた。リュイは構わずに用件を告げる。
「ザハラ。あなたの占いは、いくらするの?」
さらに意外そうに目を開く。束の間、黙ってリュイを見ていた。その目つきの真剣さを見て取って、ふたたび意地悪く笑む。
「占いなど、信じていないんじゃなかったかしら……」
「…………」
「それとも、藁にもすがりたい思いなのかしら……」
意地の悪い笑みをなお深くする。リュイは短く溜め息をつくが、その言葉は気持ちをぴたりと言い当てていた。
「そう。藁にもすがりたいんだ。占いを頼みたい」
急いたような様子が可笑しいのか、ザハラはクッと笑いを漏らし、
「――――とにかく、入って、そこへ掛けたらいいわ」
先日のように、ザハラの向かいに座った。まっすぐに目を見て、リュイは告げる。
「捜したいひとがいる。居場所を占ってもらいたい」
暫し、ザハラはなにも返さず、リュイの目をじっと眺めていた。沈黙が流れる。開け放たれた広縁の窓から、涼やかな風が吹き込んだ。室内に染みついた香の香りを載せて、リュイの耳際の髪を揺らしていった。
やがて、ザハラはゆっくりと口を開いた。
「意外だわ。藁にもすがるほど捜したい他者が、あなたにいるなんて……誰?」
「……先日まで、一緒に歩いていたひと」
リュイは初めて怪我の理由を話した。それについて、ザハラはいままでなにも尋ねてこなかったのだ。人売りの男たちに追われたと話すと、ザハラは、ああ、と納得したように独りごちた。
「知っている?」
「もちろん。彼らの頭領は、私の顧客のひとりだもの」
「…………組織の拠点はどこにある?」
ザハラは薄く笑んで答える。
「顧客の情報は流せないわ。けれど、あれはたいした組織ではないわ。ライデルの目を盗んで、びくびくしながら仕事をしている連中よ。最近、この辺りはライデルの監視が厳しくなっているから、彼らはもう当分の間はおとなしくしているはずよ」
「そう……」
それから、ザハラはやや身を乗り出すようにして、興味深げにリュイの瞳を覗き込んだ。切れ長の目をきつくして、問いただすように声を低めた。
「他者を持たない私にはよく理解できないわ。そのひとを捜さなければならないような義務があるの? どうしても捜したいほどの価値があるの?」
リュイは右の目元をわずかに震わせた。その問いは、ひどく難しいものだった。黙り込み、胸の内に耳を澄ませる。
気にかける必要はない、そんな義理も義務も自分にはない、確かにそう考えていた。では、いまの自分にそれはあるかと考えれば、やはりない。価値など分かるはずもない、心のなかに足を踏み入れたその存在に、ようやく気がついたばかりなのだから。
長いこと耳を澄ませていた。はっきりとした答えは聞こえてこない。だから、思うままを、リュイは辿々しく口にする。
「……分からない。けれど……義務や価値は関係がなくて…………友人は……」
言いながら、はっとする。いま、生まれて初めて、友という言葉を口にしている。
「……友人は、自分の身を守れないから…………だから、僕が守ろうと思う」
思うまま流れ出た自分の言葉に、リュイは驚き、呆然とする。ザハラはますます興味深そうに、リュイを眺めていた。
おもむろに座り直して、ザハラはやわらかな口調で語る。
「あなたのその深い緑の瞳を見られなくなるのが、少し残念だわ。色こそ違えど、あなたの瞳は私のものと、どことなく印象が似ていると、このまえ鏡を見ていて気づいたの」
ザハラもまた、リュイと同じように感じていた。
「僕も、鏡を見ていてそう思った……」
「目には見えないものたちは、こういう瞳をした者を好むのか…………それとも、特別な加護があるために、こんな瞳になってしまうのかしら……」
一瞬、ザハラは微笑みにもの哀しさを漂わせた。犠牲という言葉を、リュイはふと思い出す。似たものを潜めた瞳に、相哀れむ気持ちになるのだろうか……。
「…………僕は、自分と少し似ているあなたの瞳を見るのが、どちらかといえば、つらいように感じる。たぶん…………僕はそれほど、自分を好きではないから……」
ザハラは笑みを消して、リュイをじっと見た。
「――――あなたは、本当に哀しいひとね」
そして、にわかに占い師の目になった。
「尋ねびとの名を教えなさい」
広縁から、強めの風が流れ込む。壁に下がる織物の端がはためき、小動物の剥製が毛を震わせる。部屋の空気が一掃されたように新鮮になった。
リュイはそのひとの名を口にする。
「ティセ…………ティセ・ビハールだ」
後日、ザハラの占いが示した日時に、リュイは魔女の館を出た。久しぶりに自分の白衣を身につけ、軍靴に似た長靴を履いた。かかとから頭の先までをまっすぐにして、静けさを纏い歩いていく。襟もとに巻いた薄布の内側に、笛を忍ばせて。
その姿に変わるところはなにもない、けれど――――――……静まりかえった冷たい水のおもてには、かすかなさざ波が立ち、初夏の日の木漏れ日のような澄んだ光が、きらきらと揺れている。