表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
解放者たち  作者: habibinskii
第六章
41/81

12

 日に三度、少しも狂わない決まった時刻に、部屋の戸が叩かれる。下男が昼食を運んできた。寝台脇の小机に盆を置く、リュイは礼を述べ、下男は目を伏せて返礼する。約二週間、儀式のようにくり返されていた。室内に洎夫藍(サフラン)の香りが漂った。

 昨夜と同様、窓辺に椅子を寄せ、読書をしながら昼食を待っていた。長らく沈黙を保っていた下男だが、先日めずらしく声をかけてきて以来、ひとことふたことは言葉を交わすようになっていた。下男はまた、静かに窓辺へ寄り、その顔を覗く。

「今朝はずいぶん長いこと、あの木の下に座っておいででしたね」

「少し、考えなければならないことがあって……」

 顔つきを暫し眺めたのち、下男は慎ましく微笑んで、

「気懸かりが晴れたようですね、眼差しがすっきりと澄んでいます」

 リュイはわずかに口角を上げて返す。

「晴れたというより……心が決まったので。あなたが気づかせてくれたんです」

 はて、と下男は首をゆっくり傾げ、

「なにかお役に立てたのでしたら、思いがけない幸せです」

 控えめに応えて、立ち去った。



 ザハラが真昼の静寂を楽しむ時刻になるのを見計らい、リュイはその仕事部屋の戸を叩いた。初めて、自らザハラを訪れる。どうぞ、と声がして、リュイが戸を開けると、ザハラは占いの卓についたまま、少し驚いたように目を見開いた。

「あなただったの……。このまえ怖い思いをさせたから、ここへは二度と来ないと思っていたわ」

 からかうように笑みを過ぎらせた。リュイは構わずに用件を告げる。

「ザハラ。あなたの占いは、いくらするの?」

 さらに意外そうに目を開く。束の間、黙ってリュイを見ていた。その目つきの真剣さを見て取って、ふたたび意地悪く笑む。

「占いなど、信じていないんじゃなかったかしら……」

「…………」

「それとも、藁にもすがりたい思いなのかしら……」

 意地の悪い笑みをなお深くする。リュイは短く溜め息をつくが、その言葉は気持ちをぴたりと言い当てていた。

「そう。藁にもすがりたいんだ。占いを頼みたい」

 急いたような様子が可笑しいのか、ザハラはクッと笑いを漏らし、

「――――とにかく、入って、そこへ掛けたらいいわ」


 先日のように、ザハラの向かいに座った。まっすぐに目を見て、リュイは告げる。

「捜したいひとがいる。居場所を占ってもらいたい」

 暫し、ザハラはなにも返さず、リュイの目をじっと眺めていた。沈黙が流れる。開け放たれた広縁の窓から、涼やかな風が吹き込んだ。室内に染みついた香の香りを載せて、リュイの耳際の髪を揺らしていった。

 やがて、ザハラはゆっくりと口を開いた。

「意外だわ。藁にもすがるほど捜したい他者が、あなたにいるなんて……誰?」

「……先日まで、一緒に歩いていたひと」

 リュイは初めて怪我の理由を話した。それについて、ザハラはいままでなにも尋ねてこなかったのだ。人売りの男たちに追われたと話すと、ザハラは、ああ、と納得したように独りごちた。

「知っている?」

「もちろん。彼らの頭領は、私の顧客のひとりだもの」

「…………組織の拠点はどこにある?」

 ザハラは薄く笑んで答える。

「顧客の情報は流せないわ。けれど、あれはたいした組織ではないわ。ライデルの目を盗んで、びくびくしながら仕事をしている連中よ。最近、この辺りはライデルの監視が厳しくなっているから、彼らはもう当分の間はおとなしくしているはずよ」

「そう……」

 それから、ザハラはやや身を乗り出すようにして、興味深げにリュイの瞳を覗き込んだ。切れ長の目をきつくして、問いただすように声を低めた。

「他者を持たない私にはよく理解できないわ。そのひとを捜さなければならないような義務があるの? どうしても捜したいほどの価値があるの?」

 リュイは右の目元をわずかに震わせた。その問いは、ひどく難しいものだった。黙り込み、胸の内に耳を澄ませる。

 気にかける必要はない、そんな義理も義務も自分にはない、確かにそう考えていた。では、いまの自分にそれはあるかと考えれば、やはりない。価値など分かるはずもない、心のなかに足を踏み入れたその存在に、ようやく気がついたばかりなのだから。

 長いこと耳を澄ませていた。はっきりとした答えは聞こえてこない。だから、思うままを、リュイは辿々しく口にする。

「……分からない。けれど……義務や価値は関係がなくて…………友人は……」

 言いながら、はっとする。いま、生まれて初めて、友という言葉を口にしている。

「……友人は、自分の身を守れないから…………だから、僕が守ろうと思う」

 思うまま流れ出た自分の言葉に、リュイは驚き、呆然とする。ザハラはますます興味深そうに、リュイを眺めていた。

 おもむろに座り直して、ザハラはやわらかな口調で語る。

「あなたのその深い緑の瞳を見られなくなるのが、少し残念だわ。色こそ違えど、あなたの瞳は私のものと、どことなく印象が似ていると、このまえ鏡を見ていて気づいたの」

 ザハラもまた、リュイと同じように感じていた。

「僕も、鏡を見ていてそう思った……」

「目には見えないものたちは、こういう瞳をした者を好むのか…………それとも、特別な加護があるために、こんな瞳になってしまうのかしら……」

 一瞬、ザハラは微笑みにもの哀しさを漂わせた。犠牲という言葉を、リュイはふと思い出す。似たものを潜めた瞳に、相哀れむ気持ちになるのだろうか……。

「…………僕は、自分と少し似ているあなたの瞳を見るのが、どちらかといえば、つらいように感じる。たぶん…………僕はそれほど、自分を好きではないから……」

 ザハラは笑みを消して、リュイをじっと見た。

「――――あなたは、本当に哀しいひとね」

 そして、にわかに占い師の目になった。

「尋ねびとの名を教えなさい」

 広縁から、強めの風が流れ込む。壁に下がる織物の端がはためき、小動物の剥製が毛を震わせる。部屋の空気が一掃されたように新鮮になった。

 リュイはそのひとの名を口にする。

「ティセ…………ティセ・ビハールだ」



 後日、ザハラの占いが示した日時に、リュイは魔女の館を出た。久しぶりに自分の白衣を身につけ、軍靴に似た長靴を履いた。かかとから頭の先までをまっすぐにして、静けさを纏い歩いていく。襟もとに巻いた薄布の内側に、笛を忍ばせて。

 その姿に変わるところはなにもない、けれど――――――……静まりかえった冷たい水のおもてには、かすかなさざ波が立ち、初夏の日の木漏れ日のような澄んだ光が、きらきらと揺れている。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ