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解放者たち  作者: habibinskii
第六章
39/81

10

 空は濃紺に染まり、夜へと急いでいる。樫の大木は影絵となって、刻々と暗さを増す空に溶けていく。魔女の館の庭が闇に沈む。リュイは窓辺に椅子を寄せ、夜が満ちていくさまと、低い空に輝き始めた月を眺めていた。少しずつふくよかになっていく月を、とりわけ意識していた。ときおり、蛍の光がふうっと庭を流れていく。


 蛍の飛び交う野で、ティセと話をした晩を思い返していた。泉に沈んだ強欲爺と、リザイヤの話と、ライデルの幹部と闇市の話をした。ティセはたいそう興味を示し、見開いた目から興奮の塊をぼろぼろ零すようにして、耳を傾けていた。これでもかとばかりに、黒い瞳は輝いた。夜更けなのに、その瞳は焚き火の炎よりも明るく、リュイには見えていた。

 ひとしきり話すと、ティセは唾を飛ばしながらすごいと叫んだ。本当に行儀が悪いと、再三思ってきたことをふたたび思い、少し可笑しくなった。思い出して、リュイはふっと笑みを漏らす。それから、にわかに顔つきを沈ませた。

 おまえがうらやましい――――……ティセはあのとき、そう言った。リュイは耳を疑い、言葉を失っていた。胸の内に湧いて出た墨色をした感情が、言葉をつまらせていた。その感情がなんなのか、リュイはいまでもよく分からない。分かるのは、それはティセに向かうと同時に、自分自身にも向かっていたということだった。自分にないものを当たりまえのように、しかもたくさん持っているティセがそんなことを言うのだから、リュイは愕然としてしまう。

 黄色く輝く月を眺めたまま、長い溜め息をつく。月の形から、ここへ来てもう二週間近くになると、改めて思い至る。

 …………ティセはいま、どこにいるだろう…………

 うまく逃げ出せただろうか、怪我はしていないだろうか……ナルジャへの道が分かるだろうか――――――……リュイははっとして、頭を軽く左右へ振った。けれど、胸の奥のざわめきは消し去れないどころか、厭になるほどはっきりと感じられた。

「……遣り切れない……」

 目を伏せて、息だけの声でつぶやいた。


 コツコツ、と部屋の戸を叩く音がした。下男が夕食を運んできたのだ。戸を開けた下男は、部屋のなかが暗いままなのを見て、小首を傾げた。

「ランプをお点けしましょうか」

 小机の上に盆を置くと、その横のランプに火を灯す。室内がぼんやりと明るく照らされる。下男の顔面のつるりとした張りが、ランプの灯りに強調されて見えた。

「ありがとう」

 そのまましばらく、下男はなにか言いたげに、リュイをじっと見つめていた。リュイが首を傾けると、ゆっくりと窓辺へ寄ってきた。そして、顔を覗き込むように眺めながら、言う。

「お身体以外にも、なにかご心配なされているようですね」

「え……?」

「いつ食事をお持ちしても、お顔に気懸かりの色を浮かべておいでです」

「…………そんなふうに、見えますか……」

 下男は控えめにうなずいた。

「心ここにあらず……といったご様子です」

 リュイは目を見開いて、下男の慎ましやかな顔を見る。返す言葉が出て来なかった。

「なにか気懸かりがおありなら、あのかたに占っていただいたら、少しは気が晴れるのではないでしょうか……」

 どうぞ温かいうちに、と言い残し、下男は静かに立ち去っていった。


 小机の上の盆から湯気が上がっている。煮込み料理の濃厚な匂いが部屋中に漂っていた。しかし、リュイは空腹であったのを、もはやすっかりと忘れてしまっていた。椅子に腰かけたまま、身じろぎもできず呆然と、下男が出て行った部屋の入り口辺りを凝視していた。

 ひとにそうと分かってしまうほど、ティセを心配しているということを、リュイはいまになってようやく意識したのだ。未知のことが自分のなかに起こっている事実に、いま初めて気がついたのだった。ずいぶん鈍いのね、というザハラの言葉どおり、リュイは自分について――――自分の気持ちについて、ひどく鈍かった。


 涙が出るほど心配した――――そう言って、ぼろぼろと泣き続けていたティセを、ふたたび思い出す。あのとき感じた不思議な気持ちを、ありありと胸に再現する。

 涙が出るほど心配されたことが、それほど心に懸けてくれたということが、嬉しかったわけでは決してなかった。ひとに心を懸けてもらえば喜びに繋がり得るということを、リュイはまだ知らないからだ。ただ、自分を心配して涙を流す存在が目の前にいる、それが言いようもなく不思議だった。

 誰かが自分を心配したことがあっただろうか。記憶を探りながら、顔を覆いもせずに泣き続けるティセを見つめていた。自問してみればどこを探しても、リュイにはそんな記憶がないのだった。誰ひとり自分を心に懸けはしない――――――……けれど、いまティセが泣いている。涙が出るほど心配したと、怒ったように言い、目の前で大粒の涙を流している。誰よりも鮮やかな存在感を放つティセが、なおいっそう鮮烈になった瞬間だった。その色彩の強さに、リュイは目が覚めるような思いがしていた。

 同時に、こんなふうに誰かを心配したことが、かつていちどでもあっただろうかと、リュイは自分に問うていた。やはりどこを探しても、記憶はないのだった。誰ひとり、心を懸けたことがない。

 にも拘わらず、いま、リュイはティセを心配していた。胸の奥を遣り切れないほどざわめかせ、顔に表れてしまうまでに心配していた。それを意識し始めれば、ますます不安が募り、気が急いていくようだった。気懸かりに囚われて、なにもできず長いこと椅子に座っていた。どうしたらいいのか、リュイにはまるで分からない。

 気がつけば、煮込み料理から上がる湯気は消え、すっかりと冷めてしまっていた。空腹であったのをようやく思い出しはしたが、心配のあまり、とても喉を通りそうになかった。



 翌朝、日差しが強くなる前に、リュイは樫の大木へと向かった。祈りを捧げるためではない、完全なる迷いびととしてだった。真昼とは異なる、やわらかく澄んだ陽光が庭に満ちていた。鳥のさえずりはいちだんと高い。

 草履を脱ぎ、素足になる。根元に胡座を組み、背筋を伸ばす。両手を膝頭へ当てて、伏し目になる。そして、ナルジャに到着してからのことを、ゆっくりと、ひとつ残らず、思い返す。いつでもよく見えはしない胸の奥に向かい、目を凝らす、耳を澄ます。昨夜気づいたある思いと、折り合いをつけるために――――――……。


 出会ったときは、どこにでもいるただの少年だと思った。…………とんでもない、ティセは非常な洞察力を持った、怖ろしく目のいい少年だった。黒い瞳に宿る強い光は、なにもかも見透かすような鋭さを放っている。リュイはすぐその眼光に気づき、ひそかに戦慄した。ティセは無自覚なのだろうか、なんの思惑もなさそうな屈託のない表情を自分へ向けている。リュイは逆に、それが怖かった。その無頓着な笑みがもの怖ろしかった。ともに歩き始めてからたった数日のうちに、ティセの怖ろしさをたっぷりと知ってしまった。

 当然、許してしまったことを悔やんだ。いつか必ず振り切らなければ…………幾度となく胸中でくり返しながらも、それができずに、こんなところまで来てしまった。振り切るにはあまりにも、存在感がありすぎた。色褪せた視界のなかで、ティセの放つ色彩の濃さは、まるで引力のようだった。振り切るどころか、目を捕らえて離さない。あの引力に似たものの正体はなんだろうか……――――リュイはますます奥底を探り、耳をそばだてる。


 明確な想いや自我を、ティセは包み隠さずに、真正面から自分へ向けてくる。そう――――ティセはその内側に、揺るぎないものを確実に持っている。それもひとつではなく、複数だ。欲求や感情といった自身から湧いてくるものに限らず、たとえば、帰る家や待つひと、よく話しに出てくる亡き父や恩師、友人たち、そして――――ナルジャという絶対的な世界――――そういった揺るぎないものに、ティセは貫かれている。

 それはなんと強いのだろうかと、リュイは思う。揺るぎないものに心を支えられ、ティセはまっすぐに大地へ立つ。目を閉じて、その凛々しい姿を思い描く。


 ――――僕は、ティセという存在に、憧憬(あこがれ)を持っている――――……


 リュイは目を開けた。朝の光にきらめく微風が、いま気づいたばかりの思いを清めるように流れていった。


 ティセは本当はなにもかも知っていて、自分を怯えさせるために、ともにいるのではないかと思うことがある。嘘ばかりの自分の前で、嘘の罪悪を問うてみたり、嘘には必ず罰があると断言すらし、そのうえ、その罰を望むのだ。それを聞いたとき、リュイは刃を突きつけられたように感じ、どこかへ逃げたくなった。怯えさせ、追い詰めるためにティセはいると、痛切に思った。

 けれど、ティセが知っているはずはない。真に無自覚に、自分を追い詰める。だからこそ、リュイはティセが怖いのだった。

 ティセが無自覚に祖国愛とイリア王への敬愛を示したときも、武装を完全に否定したときも、なにかを嗅ぎ取っているのではないかと、気味が悪くなった。ぞっとした。同時に、靄のような感情を覚えた。あれは…………かすかないらだちだったのかもしれない。盲目的な祖国愛の愚かさが、帰属するものの確かさが、リュイの胸の内を曇らせたのだ。そして、武装を完全に否定することは、リュイを完全に否定することと同じだった。ティセは無自覚に自分を全否定する、リュイはあのとき胸の奥が凍りついたように感じていた。


 待つひとも、居場所も確実にあるのに、ティセは外を求めて、未知を求めて、脇目も振らない。行き先のひとつさえ決められない自分には、まるで理解できない。何故、こんなにも違うのだろう――――……リュイはやるせなさに目を細める。

 原始人の壁画を見たときのことを思い出す。ティセは感動に目を潤ませて、こう言った。みんなに見せてあげたい、と。そう思うのが当然であるというほどの自然さで、そっとつぶやいた。リュイは、はっとした。誰かに見せたいなどと、微塵も思っていなかった。思いつきもしなかった。見せたい誰かが、ひとりもいないからだ。――――――誰も、いない。


 何故、こんなにも違うのだろう――――……


 そして、こんなにも違うひとが、何故、自分に打ち向かってくるのだろう。怯んでしまうほど猛々しく、真正面から向かってくるのだろう。リュイは心から奇妙に思う。


 ティセを怖ろしく思う気持ちは、なんら変わらない。その眼光には、いまでも身がすくむ。にも拘わらず、リュイはもう、ティセから逃れようとは思っていない。昨夜、ようやく気がついた。もしやずいぶん前から、心のどこかでそう思っていたのかもしれない。

 なにか事が起これば、ティセは確実に足手まといになる、今回の件ではっきりとした。自分ひとりならたやすく逃げ切れたと、リュイは断言できる。こんな怪我を負うこともなかった。そこまで知りながら、逃れようとはもう思わない。

 目を閉じて、まぶたの裏に朝の日差しを感じながら、心でつぶやく。


 ――――ティセと、歩いていきたい――――……


 いつのまにか、ティセと歩くことに、言葉にできない愉しさを見出している。ティセのなにげない話を聞くことに愉しみを感じている。ともに歩いていきたいと、祈るように願っている。昨夜、突如突き当たった思いに指の先を触れてみると、そこから堰を切ったように本心がほとばしった。その勢いに翻弄されて、頭のなかを掻き乱された。胸の奥がわなないていた。あのときに、ほんの少しだけ似ている――――――……そう思った。

 リュイは自分の気持ちについて、ひどく鈍い。なにを思い、どう感じているのか、いつでもはっきりとは分からなかった。そのうえ、内側に溢れている思いや感情を意識するまでに、長い時間(とき)を必要とした。気づかないまま、それは湧き出し続け、飽和してさえまだ分からず、ついに溢れ零れ落ちるときを迎えて、ようやくそれを知るのだった。だから、気持ちに気づいたときには、もうすでに引き返せないところまで来てしまっている。唐突に自分の本心を知り、その大きさと激しさにとても抗えず、口を閉ざして従うしか道がないのだ。二年ほど前、リュイが旅に出なければならなくなったときが、まさにそうだった。


 ティセと歩いていく――――――それはつまり、嘘をつき続けるということにほかならない。嘘をつき続ける決心をしなければならない、そして、疲れ果てていく覚悟をしなければならない。覚悟するために、リュイは大木の下へ訪れたのだ。

 ティセを振り切るなど、もう手遅れ、自分には到底できないと悟った。ティセはもう、心のなかに入ってきている。あれほど荒々しく足音を立てて自分を追ってきたティセなのに、まったく知らないうちに、心のなかへ入っている。まるで、自分を驚かせないように、きちんと靴を脱ぎ、つま先からそうっと、ゆっくりと体重を移動していくように静かにだ。あの行儀の悪いティセとは思えないようなしおらしさで、そうっと…………普段ティセがしている、眉をしかめたくなるほどぞんざいな物腰を思い浮かべ、リュイはふっと笑みを漏らす。


 心のなかに――――――まだ、誰も入れたことのない、自分でもほとんど見えない、その場所に――――……


 それは、リュイにとって新しい恐怖でもあった。それでも、ともに歩いていきたいという思いは、新たな恐怖をすっかりとくるんでしまっていた。

 胡座を組んだまま、頭上に目を向ける。樫の葉が風に揺れ、心地よくざわめいている。重なり合う葉に濾過されて澄んだ陽光が、大木の下を包んでいる。見上げながら、リュイはまぶたを閉じて、心を構えていく。

 心配するの当たりまえだろ――――……ティセは怒ったように言い、泣きはらし赤くなってしまった目を向けた。少しも恥じることなく、涙の溢れる瞳をまっすぐに向けて、咎めるように自分を見た。いままで見たなかで、もっとも強い瞳だった。リュイは射貫かれて、固まっていた。まぶたの裏に、あの瞳が浮かぶ――――――――と、ふたたび、射貫かれたように感じた。

 ……ティセはどこにいるだろう、逃げられずに、どこかへ売られてしまっただろうか。どこにいようとも、捜し出してみせる、僕は…………――――

 視線を下げて、前方を深々と見つめる。

「…………ティセを取り戻す」


 ともに歩いていくティセを、取り戻す――――――――






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