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もぬけの殻になったまま、ティセは林道を駆け抜けた。走れば走るほど、足は速まるようだった。やがて集落に辿り着いたが、そこも駆け抜けた。足を止めたくなかった。可能なかぎり彼らから逃れたい、無論それも理由ではあった。けれど、ティセを突き動かすものはむしろ、トレブの告白とその怒りだ。走って、走って、身も心も空にして、なにも考えずにいたい――――……胸の痛みに耐えかねて、身体が壊れるまで走ってしまいたかった。
よっつの集落を駆け抜けた。すでに、正午を過ぎていた。いつつめの村はずれに辿り着き、村の名を示す立て札を見たとき、ティセはようやく足を止めた。そして、事切れたように、草の生えた路傍に両膝をつき、俯せに倒れ込んだ。
全身が心臓になったとしか思えない激しい動悸に身を任せ、荒い息を吐いていた。心音も、喘ぐような息遣いもはっきりと聞こえるのに、ティセの内側は何故かしんと静まりかえっていた。同じくらいに辺りも静かだ。小川のせせらぎだけが、遠くに聞こえている。動悸が治まってもなお、なにも考えず内側の静けさに浸り、ただ俯せになっていた。
だいぶたってから、空っぽの頭をもたげ、ティセはのっそりと半身を起こした。汗だくの全身がすっかりと冷えていて、肌寒いほどだった。胸の痛みと疲労がティセの瞳を虚ろにしている。なにもない頭のなかに、初めに浮かべたのは、
…………トレブ…………
男の腕のなかで暴れまくるトレブの姿が、最後に聞いた怒りの叫びが、手に取るばかりに思い出される。
助けてやれなかった…………いや、違う、助けなかったんだ…………
トレブの語った妄想の物語の切なさが、胸の内をさらに深く裂いていく。
「……うっ……」
たまらなく、ティセは涙を流さずに、声だけを漏らして泣いた。胸元を両手で押さえ、肩を震わせて、込み上げる思いに声をつまらせて泣いた。
ひとしきり泣いて、それから、思いを断ち切るように頭を左右へ激しく振った。
「行かなくちゃ……」
唇をキッと引き、立ち上がる。いつつめの村の中心街を目指して、ティセは前だけを見つめて歩き始めた。
なかなか大きな村だった。目抜き通りには商店や食堂が立ち並び、ひとも多く出ていた。
誰もが、なんとなくティセに注目していた。泥だらけの服を着て、空の頭陀袋を片手に握る見慣れない少年……しかも、腿回りだけがゆったりとした脚衣の形状は、この辺りのものとは若干異なっている。少年が遠い処から訪れたひとであるのは、ひとびとの目にあきらかだ。注目されないはずはなかった。
よっつの集落を駆け抜けてきたため、激しく喉が渇いていた。共同井戸に立ち寄り、水を分けてもらう。柄杓に直接口をつけずに、冷たい水を上から落とすようにして喉へ流し込む。渇きを癒すと、そのまま、途方もない気持ちで井戸の脇へしゃがみ込んだ。
ティセはいま、ひどく基本的なことに、息苦しさを覚えるほど威圧されていた。
いったい、ここはスリダワルのどの辺りなのか、まったく分からなかったのだ。自分がどこにいるのか分からない。四夜、そろそろと馬車は走って、どこまでやってきたのだろう。村の名を知ったところで、地図がよく頭に入っていないティセにとっては、なんの手がかりにもならなかった。
異国の、まるで知らない場所に、思いがけずただひとり――――――かつてない、生まれて初めての状況に置かれ、ティセは押し潰されるほどの不安に襲われていた。馴染みある荷物が、方位磁石と頭陀袋以外もうなにもないという心許なさと大きな喪失感…………そんな現実が、不安に拍車をかけていた。こうして黙ってしゃがんでいるだけで、圧倒的な心細さが肌をちりちりと焼いていくようだった。
なかば隠れるように井戸の脇へしゃがみ込んだティセに、ひとびとはチラチラと視線を送っていた。普段なら、話しかけてくるひとが必ずやいるのだが、ひとびとはものめずらしそうに一瞥するだけで、話しかけてはこない。薄汚れた服を纏う、手ぶらに近い余所者の少年は、それほどまでに奇異に映ったのだろう。
ひとびとの視線を、ティセは旅に出てから初めて怖いと感じていた。いままで、ものめずらしげに眺められても、少し気恥ずかしく思ったり、なんとなく緊張したり、あるいは逆に、そこはかとなく得意な気分になったりするだけだった。それがいま、ティセはひとびとの視線を、なにか底知れないもののように怖ろしいと感じていた。奇異の目線が、ティセを萎縮させていた。いま誰かが近寄り、話しかけてきたら、まともな受け答えなどとてもできそうにない…………こんなに怖じ気づいた自分を初めて知った。これが自分か、と自身に問う。
怖ろしさを紛らわせるために、ティセは頭を掻きむしった。
「……情けない……立てよ、ティセ!」
小声で自分を叱咤して、なんとか立ち上がる。心細くて足元がふらついた。空には雲が出始めた。雨が降る前に、とりあえずどこかへ落ち着いて、旅の態勢を立て直さなければならない。
目抜き通りのややはずれに、比較的安そうな宿を見つけた。ティセはその戸口の前まで行って、そして――――躊躇した。
「…………」
脳裏を過ぎったのは、エトラの民宿だった。夜更けに逃げ出さなければならなかったあの夜のことが、かまちをまたぐ足を止める。まさか、ここも…………根拠もなくそう考えるほど疑心暗鬼になっている自分に気づき、愕然とする。ひとりであることが疑心をより大きくさせているのだと、はっきり感じていた。こんなにもまわり中に不信の念を抱くのも、初めてだった。
……それなら、雨をしのげる場所を探して、外で過ごすか…………もうひとつの選択肢が浮かぶ。けれど、なにひとつ知らないこの場所で、ひとり野宿をするのは、ここに泊まるよりもはるかに心許なかった。暫し、戸口に降ろされた緑色の窓掛けの前で立ちすくむ。
「…………怯むな!」
吐き捨てるようにつぶやいて、窓掛けを勢いよくめくり、かまちをまたいだ。
一階の食堂はこぢんまりとしていた。現れたティセを見て、食卓の椅子へ腰かけた女が顔を上げる。三十歳手前くらいだろうか、年相応にやや疲れた肌をしているが、そこここにまだ若さを残した女だ。繕いものの手を止めて、訝しげに問うた。
「……なあに? なんの用?」
眉を寄せてティセを眺める。
「一泊したいんです」
「え? 宿泊?」
女は目を白黒させる。いまのティセを宿泊客だと、とても思えなかったのだろう。さらに訝しげな声で問う。
「…………あなた、旅のひと?」
「はい」
「荷物は?」
「………………えっと、泥棒に遭って……いろいろあって……」
その場しのぎの嘘をついた。人売りの組織から逃げてきたことは、言わないほうが面倒にならないように思えたからだ。
「泥棒!? 警察には行ったの?」
「警察!? …………いや、荷物はもういいんだ、とにかく、一泊したいんだけど……」
ことを大きくしたくなかった。一泊だけして、できる限り早く旅の態勢を整え、リュイを捜しに行きたかった。女はますます顔つきを険しくさせた。あきらかにティセを怪しんでいる。
「…………泥棒に遭ったって……あなた、お金はあるの?」
「お金は大丈夫、ちゃんとある」
「…………」
「……泊めてはもらえない? 駄目ならほかを当たるよ……」
踵を返す。と、急いたようなティセの様子を見て、女は態度を軟化させる。
「ああ、待ちなさい。分かった、いいわよ、一泊ね」
ありがとう、とティセは安堵の溜め息をついた。女――――女将のこの様子なら、人売りの組織とは関係がなさそうだ。
雨が降り始めるまでの束の間、ティセはやれるだけのことをした。中心街へ戻って、さし当たり必要なものを買った。
まずは衣服だ、とにかく着替えなければ、この格好ではどこへ行っても怪しまれてしまう。つぎは地図。自分がどこにいるのか、リュイとはぐれたラダン近郊までどのくらい離れているのか、確かめなければならない。それから、水筒やナイフ、手ぬぐいなど、ないと困る日用品。アルミの小鍋と湯呑みを買ったところで小雨が降り始めた。ティセは大急ぎで宿へ戻った。
水浴びをして、汚れた服を着替え、取った個室でようやく息をつく。寝るためだけの小さな部屋、窓の外はどしゃぶりの雨だ。敷物の上に手足を広げて仰向けになり、いろいろなことがあり過ぎた数日間を、疲れた頭で思い返していた。
そして――――――ティセは猛烈に反省していた。
ひとりになったら、自分がどこにいるのかも分からないほど、リュイに頼りきっていたという事実に気づいてしまったからだ。行きたい場所を好き勝手に挙げるだけで、旅程に関してはほぼ任せきりだった。地図を眺めはしても、それを頭にしっかりと入れてはいなかった。そもそも、ティセは地図を持つことをしなかった。リュイだけが地図を持ち、旅程を組んだのだ。
……こんなんじゃ、駄目だ――――!!
心いっぱいに、ティセは叫ぶ。リュイに頼りきっていた自分を、真っ向から否定する。
地図を持たない? なんて莫迦だ! ここがどこだか分からない? なんて愚かだ! こんなんじゃ駄目だ! これは誰の旅だ、これは――――俺の旅じゃないか…………!!
旅の主導権はリュイにある、それは確かでも、この旅は自分自身のものである。ティセがずうっと持っていた、リュイの旅に付いていく、という意識が間違ったものであったのを、ティセはいま、ようやく悟ったのだ。
頼りきっていたのは、旅程に関してだけではない。
初めてただひとり、まるで知らない土地に立ってみて、ティセは心の底から痛切に感じていた。リュイといることに、どれほど大きな安心感を得ていたかということを――――
未知の大地に立ち大空を仰ぐとき、ティセはだだ広い世界に独りぽつねんと取り残されているような感覚に襲われることがあった。心許なさが胸に溜まり、背筋がひんやりとした。少しだけ怖いと思った。けれど、空に向けた目を元へ戻すと、視界にはリュイがいた。すると、心許なさはすうっと消え去った…………いつだって、そうだった。
ただ黙りがちにそばにいて、まっすぐに前方を見ているだけで、リュイはとてつもない心強さを与えてくれていたのだ。そんなリュイに頼りきり、甘えきり、胡座を掻いていたのだ。自分がいかにリュイに寄りかかっていたか、守られていたかを、しみじみと噛みしめる。ティセは目をきつく閉じて、心のなかで唱えた。
――――そうだ、俺は、リュイに守られている……――――
剣を抜かずとも、リュイはいつでもティセを守っていた。いま、ティセはリュイの大きさを知った。リュイを尊敬している自分を、知った。
そして、リュイがときおり疲れたような目をしていたのは、あるいは、自分が重かったからではないかと思い至り、申し訳なさでいっぱいになった。
翌朝、ティセはとても早くに起床した。まだ夜が明けきらず、東の空がようやく朝の気配を漂わせ始めるくらいの時刻だ。
昨夜、舐め回すように地図を見た。初めてひとりで旅程を立てた。リュイの居場所など、まるで分からない。が、とにかく、はぐれてしまったラダンの町のほうへ向かう。誰かに助けられ手当を受けるなら、ラダンの病院がいちばん近いはずだ。そこへ行って尋ねれば、行方が分かるかもしれない。リュイはとても目立つのだから、きっと、きっと見つかるだろう。そう、自分に言い聞かせた。
買ったばかりの新しい衣服は、釦のついた丸襟の白い上衣と、くすんだ緑色の胴着、腿回りがすっきりとして、足首にかけてやや幅の狭まった薄茶色の脚衣。母親の縫製でない衣服を身につけた経験が、ティセにはほとんどない。身につけながら、どことなく落ち着かないような、それでいて新鮮な気持ちになる。なんだか違う自分になった気がした。
用意していた揚げパンを水で流し込み、ティセは荷物を背負う。買いそろえた新しい道具たちが、父の頭陀袋のなかでごそごそとひしめき、聞いたことのない唄を歌っていた。
食堂へ降りると、女将が竈に火を熾している最中だった。火吹竹を口から離し、驚いたように、
「あら、ずいぶん早いのね」
「おはよう」
「もう行くの?」
「うん、とても急いでるんだ。泊めてくれてありがとう」
女将は小首を傾げつつも、泥棒にあったというティセに労りの言葉をかける。
「そう、道中、充分気をつけてね」
礼を述べて、ティセは往来へ出た。
早朝の空気はいまだ夜の名残をとどめ、冷たく澄んでいる。肌がひやりとし、引き締まる。その冷ややかな空気を大きく吸い込む。新しい風を、胸いっぱいに吸い込む。
目抜き通りを東へ向かう。ちょうど、朝日が道の先に昇り始めた。赤々と燃える太陽をまっすぐに見つめる。黒い瞳に、陽が燃える。
新しい服を身に纏い、新しい道具をそろえたティセが、新しい一歩を踏み出す。リュイに付いていく旅ではない、自分自身の旅をするための、新しい一歩を――――――
当面の目的地は、リュイだ。




