7
リュイとはぐれて、今日で丸四日になる。硬い床で目を覚ましたティセは、決意とともに起き上がった。脱出を決行する決意とともに。絶対に失敗はできない、もしも失敗すれば、彼らは警戒を強め、監視を厳しくするだろう。機会はいちどきりだ。
ティセは決意に目を据わらせ、頭陀袋のなかの荷物をひとつひとつ、無言で取り出す。手ぬぐい、着替え、アルミの小鍋や湯呑み…………檻の隅に、淡々と捨てていく。
ニムルが怪訝顔で問う。
「ティセ、なにやってんだ?」
答える前に、トレブが声を低めて言う。
「出て行くんだな」
幌のなかに緊張感が漂った。ティセは皆を振り返らず、荷物を出し続けながら、
「行くよ」
ひとこと答えた。
脱出のために、決心していた。頭陀袋の中身をすべて置いていくことを。全速力で走り去るためには、荷物が邪魔だ。荷物さえなければ最速で走れる。おそらくきっと、彼らはこの駿足に追いつけない、ティセには自信があった。
ほぼすべての荷物は買い換えが可能だ。旅の資金と身分証は服の内側へ身につけてある。ティセが本当に必要な旅の道具は、父の遺した方位磁石…………そして、これも父の遺品である空の頭陀袋だけだ。
小山となった荷物を、感慨を込めて眺める。ナルジャを出てからの思い出を作ってくれた、愛着溢れるものたちを、慈しむように見つめる。申しわけないような気持ちにもなった。とくに、母の縫製である着替えの服を見ると、胸がきゅうっと締めつけられた。
……母さん、ごめんなさい……
後ろ髪を引かれる思いがする、けれど、絶対に失敗はできないのだ。失敗すれば、母にも会えなくなるかもしれないのだから…………ティセは、いよいよ目を強くする。
ニムルがニヤリと笑った。
「おまえ、すごい目してるぜ」
「うん、自分でも分かる」
ティセはもういちどだけ、一緒に行きたいひとはいないかと尋ねてみたい衝動にかられた。が、ためらいののち、留まった。
決行は朝食のあとだ。食後、しばらくしてから盆や器を下げるために、ふたたび格子戸が開けられる。食事の前だと、脱出の騒動で飯抜きになる可能性がある。皆に迷惑をかけたくない、それに、速く走るためにも食事を取っておいたほうがいい。数日間の観察からすれば、朝食の世話をする男がいちばん小柄で、なおかつ隙がありそうだった。
なんの前触れもなく、戸口付近の幕がめくられた。外の光がなかへ差し込み、皆、まぶしさに目を細める。ティセの観察どおり、朝食はその男が運んできた。
「飯だぞ」
外には木立が見える。建物などは目に入らず、ここがどんな場所であるのかよく分からなかった。男は山積みの平パンの盆と、乾酪の入った器を檻のなかに置き、あくびをしながら去っていった。盆を下げに来るのもあの男であればいい、ティセは強く願う。
意気込みに目を滾らせるティセを前に、少年たちは黙り気味に平パンを囓る。ティセの気迫と緊張が幌のなかに漲っていた。皆、気圧されたように小さくなって座っていた。そのうちに、その緊迫感が妙に可笑しくなってきたのか、ニムルが吹き出した。
「おい、ティセ、そんな怖い顔するなよ、乾酪の味が分かんねえよ……」
ティセも思わず、小さく吹き出す。
「……ごめん」
「ま、がんばれよ、無事仲間に会えるといいな」
「ありがとう」
ニムルはふうっと溜め息をついてから、
「俺もがんばるよ、がんばって働いて、いつか家に戻る」
目をやや遠くして、そう言った。すると間を置いて、トレブがぼそりと、
「……いつか、家に……」
食事が終わり、ほどなくして、男が盆を下げにやってきた。
――――あの男だ……!
決行のときが、やってきた。ふたたび明るくなった檻のなかで、ティセは武者震いをした。
男は錠前を外した。きいっと音を立てて、格子戸が開かれる。
「盆を寄越しな」
隙のある男はほかの男たちのように、盆を戸口の前に置かせてから戸を開くという知恵がない。ティセはそれに気づいていた。
中央に置かれたままの盆と器を、ティセは床を這いながら戸口のほうへ押しやった。そして、顔を上げ、驚いたように目を見開くと、
「――――あっ……!?」
男の背後を指差した。まるで、男の後ろになにかが迫っているふうに。
「んあ?」
男は間の抜けた声を出し、盆を下げる手を止めた。ティセは男の後ろに指を差したまま、さらに目を瞠る。
「…………!!」
そのとき、ティセの後ろでニムルたちが、
「あっ!」
「あああ!」
皆、驚きの表情を作り、口々に「あ、あ、あ」と言いながら、男の背後に注目した。
…………みんな……!!
思いがけない協力を得て、感謝の念が湧き上がる。胸のなかが熱くなる。協力が功を奏し、男は不覚にも全身で振り返った。
……いまだ!!
戸口のそばに置いていた空の頭陀袋を左手で引っ掴み、小さな戸口からひらりと降りた。ティセの気配にすぐ気づき、男はぎょっとして声を上げる。
「あっ、おまえ……」
瞬間、右の拳を硬く握り締め、ティセは二年ぶりの……あの傷害事件以来の……拳打を繰り出す。気迫をぶち込んだ拳の矢、渾身の一撃が唸り、
「――ハ!!」
男のみぞおち深くに落ちる。
「ぅぐっ……」
刹那、時が止まった。男が身を屈めてへたり込んだのと、檻のなかから歓声が上がったのと、ほぼ同時だ。
「かぁっこいいいい――――……!!」
ありがとう……心のなかで返し、ティセは一歩を踏み出した。
が、男は苦悶しながらも、ティセの左手にした頭陀袋の、その口からぶらさがる紐の端を、しっかと掴んだ。ティセは危うくつんのめりそうになる。
「……げ!」
頭陀袋を手離すしかない――――……父さん……――――大きな失意に襲われた、そのとき、思いも寄らないことが起こった。檻のなかから、トレブが勢いよく飛び出した。着地するやいなや、
「うおりゃああああ!」
紐の端を握り締めつつ、片手で腹を押さえて悶える男を、力任せに回し蹴りにした。男は横たわり、完全に伸びた。
「……ト、トレブ……!?」
トレブはティセより先に、一目散というふうに走り出す。
呆気に取られたティセは、思わず檻を振り返る。皆一様に目を見開き、愕然とした表情で走り去るトレブを見つめていた。近くで、別の男の声が上がる。
「なんだ、いまの声は……」
はっとして声のしたほうを見向くと、停車した馬車の少し後ろに、木造の小屋を見た。その戸口から、リュイの行方を尋ねたあの男が顔を出す。目が合った。男は慌てた声で、
「あ! おまえっ……!」
ティセが顔色を変えると、檻のなかからニムルが叫ぶ。
「ティセ、早く行け!」
「みんな、ありがとうっ!」
ティセはトレブのあとを追って、駆け出した。
「上物が逃げたぞ!!」
「なんだとぉっ!?」
「チビもいねえ!」
「追えっ!!」
周りは林だ。痩せた木々に囲まれた、馬車がようやくすれ違える程度の細道を、全速力で駆け抜ける。幸運にも道は平坦だ。昨夕の雨はすでに跡形もなく地に染み込み、ぬかるみも水たまりもない、そのうえ、土埃も上がらない。風も穏やかだ。
荷物のないいま、ティセが最速で走れる条件がすべて揃っていた。最高記録を塗り替えて、飛ぶ鳥よりも速く、ティセは走る。後ろから数人の男が追ってくる。前方には、トレブの姿が小さく見える。
――――どうして? トレブ……俺が決心を揺るがせた……?
トレブはなりふり構わないとでもいうふうに、手足をばらばらに乱すようにして、がむしゃらに走る。ほどなくして、声が届く距離まで追いついた。ティセは走りながら、前を行くトレブに大声で尋ねる。
「トレブッ! おまえ、どうして……!?」
前を向いたまま、トレブは答えた。
「……俺は……おまえとは違うっ……でも、あいつらとも違うっ……!!」
ほとんど泣き叫ぶように、
「俺は、本当にいらない子なんだっ……!!」
「え……」
「……俺は、親にだまされたんだよっ……――――!」
「――――――――……っ!?」
絶叫の告白は矢となって、全速力で走るティセの胸を貫いていった。胸に穿たれた穴から、自分のなかにある一切のものが、ことごとく漏れていく気がした。走る速さで、ティセはもぬけの殻になる。エトラの決心を聞いたときよりも、その母親に売られたのを知ったときよりも、激しく深く、衝撃を受けていた。告白の矢は、ティセの心の芯を撃ち抜いていったのだ。トレブにかけられる言葉など、あるはずもなかった。
自ら決心し、了承のうえであそこにいたニムルたちの手前、本当に見捨てられ、だまされて売られた事実を、トレブはとても言い出せなかったのだ。皆と同じ境遇のふりをしながら、いらない子だと連呼していたのだ。本心では、誰にというわけでなく、事実を絶叫したかったのかもしれない。ただただ、絶叫したかったのかも、しれない――――
まもなく、ティセはトレブを軽く追い抜いた。トレブの走る速さは、みるみる遅くなっていく。ティセとはもうだいぶ離れてしまった。その後ろには、男たちが迫っていた。
……トレブ……
気になって振り返った瞬間、トレブは派手に転倒した。
「トレブッ!」
ティセはつい足を止めた。トレブはあたふたと起き上がるが、そこへ先頭を走ってきた男が追いついてしまう。トレブの小さな身体が、男の両腕に抱かれる。
「離せえええぇぇぇ……!」
「ト、トレブッ……!」
男の腕のなかで、トレブはめちゃくちゃに暴れる。胸を叩き、足を蹴り、顔を引っ掻き、腕に噛みつく。腕から逃れた――――が、また捕まる、再度、手が付けられないほど暴れまくる。その間にも、後方から男たちがティセを目指して迫り来る。
…………トレブ……どうしよう……ああ、トレブ……――――
先を急ぐのをためらうティセに、トレブは怒ったように叫んだ。
「俺に構うなっ! 自分のことは自分でやる! おまえなんか行っちまえ! 行って仲間に会えばいいだろっ! 行っちまえ! 消えちまえ――――――っ!!」
あきらかに、それは怒声だった。鋭い怒りを突き刺され、ティセは顔を強張らせる。そして、トレブに背を向けて、ふたたび全力で駆け出した。
…………トレブ……ごめん……――――
消えちまえ――――――……トレブの叫び声は、悲しみ、憎しみ、失望、孤独感、喪失感…………小柄な身体の奥底から噴き上がるあらゆる思いを、すべて怒りで表しているかのような声だった。その怒りは、ティセにだけでなく、自分をだました親にだけでなく、世のなか全部に対して向けられた、自暴自棄の怒りだ。やけっぱちの、自身を見失った怒りの目が、脳裏に見えた気がした。
ティセはほんのわずかだが、トレブの怒りが分かるように思う。かつて、自身が粗暴になっていたときに感じていた、あの漠然と纏わりつく気味の悪い憤り。あの感情を何百倍にも深く濃くしたものを、トレブはいま、身体中に持て余すほど持っているのだ。
ティセは引き裂かれそうな痛みを胸に感じながら、全速力で林道を駆け抜けた。




