6
魔女の館に過ごし始めて七日はたった。右肩の痛みは取れた。銃創も身体を大きく動かさなければ、もう息を呑むほどの痛みはない。午前中、往診に来た医者が、リュイの回復力の早さに目を丸くしていた。歩いて行くには、まだ少し時間が必要だった。それに、リュイはもう少し、この静寂に包まれた場所に隠れていたかった。
陽の光が溢れる庭へ出て、樫の大木を仰ぎ見る。木々のささめき、鳥のさえずりが耳を撫でる。下男の薪を割る澄んだ音が、拍を取る。目を閉じるとまぶたの裏に木漏れ日が揺れて、模様を描いた。日差しは強く肌を刺すけれど、涼やかな風が熱を冷ましてくれる。静かな夏の心地よさに、リュイはひとしきり身を任せる。
その背中に、ザハラの冷えた声がかかる。
「毎日そこへ立つのね。吊られた魔女の話をしたはずよ。怖くはないの?」
木を仰いだまま返事をする。
「不気味には思うけれど、僕は幽霊を信じていないから……」
「なにをそんなに迷っているのかしら?」
おもむろにザハラを振り返り、ただ小首を傾げる。
「昔から、迷いのある者は木の下へ向かうというじゃない」
返答に窮し、リュイは伏し目になった。
「…………」
ザハラはゆっくりと口角を上げ、
「占ってあげるわよ、行きかたを」
「……僕は、占いも信じていない……」
ククッと小さく声を立てて、ザハラは笑った。
「それを占い師に言うの? あなた、どうかしてるわ」
「…………」
可笑しさによる笑いを、にわかに妖しい微笑に変えて、ザハラは申し出る。
「リュイ、あなたを占いたいわ。同じ、加護を受ける者を、占ってみたいの」
ザハラの仕事部屋へ初めて入った。二階にある広めの部屋、正面には広縁に面した大きな窓、右手には書棚、左手の飾り棚にはいろいろな大きさの水晶玉のほか、占いに使うものなのだろうか、見たことのない道具が並んでいる。その合間に、山羊の頭や猫、兎、狐、蝙蝠、フクロウなど、たくさんの剥製が置かれていた。ひとの頭蓋骨もある。リュイに与えられた部屋と同じく、さまざまな文様の織物が壁にいくつも下がっている。
ザハラは厚い窓掛けを引き、外の光を遮断した。そして、部屋の中央、重厚感のある足の長い机の上の、太い蝋燭に火を灯す。それから、眠くなるような匂いの香を焚く。ザハラの衣服に染みついている春夜の風に似たあの匂いだ。
途端、室内は魔物の住み家のように怪しげな空気に満ち満ちた。いくつもの剥製の硝子の目玉に鈍い光が灯り、禍々しさと生々しさを増す。これから行われる占事を傍聴する物の怪と化して、死んだ鳥獣は部屋の中央を無言で見つめている。
ふたりはその机に向かい合って座った。
「明るくても占いはできるけれど、暗いほうが集中できるの。だから、ライデルなど、大切な顧客の仕事は真夜中にするわ」
蝋燭の灯りに陰影を濃くしたザハラの顔は、美しくも不吉に見える。悪しきものに仕える聖職者か、あるいは本当に呪いをかける魔女のようだった。リュイは小説のなかで読んだ魔女の姿を髣髴させた。
「これを好きなように交ぜてから、切ってみて」
ザハラは数十枚の紙の札をリュイへ手渡した。手のひらにぴたりと収まる大きさの札だ。リュイは机の上にそれを置き、適当にばらけるよう指の腹で交ぜた。それから、ひとつにまとめ、数回切る。その様子を、ザハラは瞬きもせずに見つめていた。
「それを、いつつの束に分けて、ここへ置いて」
言われたとおり札をいつつに分けて、ザハラの前に裏表に置いた。ザハラはそれを暫し眺めてから、目を上げた。また、目尻に冷涼な光を宿している。現実感をみるみる希薄にさせていく。
「いま、とてもよく見えるわ。あなたの加護が……」
「…………」
ザハラは細い指で左端の札を一枚めくり、机の上に開示した。そして、ひと呼吸置いたのち、リュイの目を射るように見ながら、告げた。
「――――あなたを迷わせるもの、からめとるものは、咎」
リュイは目を大きく見開いた。我知らず大声を上げる。
「――――もういい!!」
その声は悲鳴に近い。ザハラは動じない。すぐに隣の束から一枚をめくり、
「あなたの標、あなたを放つものは……」
「ザハラ……!!」
絶叫のように呼び、立ち上がる。弾みで椅子が倒れて、大きな音を立てた。
リュイは顔をすみずみまで凍りつかせた。見開いた目を怯えさせ、激しい動悸に肩を震わせる。背中に冷たい汗が滲む。急に動いたので、銃創に鋭い痛みが走ったが、痛覚を忘れたようになにも感じなかった。立ちすくんだまま、荒い息を吐き始めたリュイに、ザハラは静かに言った。
「怖がらないで。怖れる必要などないわ」
リュイは言葉が出ない。猛烈に動揺していた。占いなど信じていないからこそ許したのだ。ザハラがにわかに怖ろしいものとして、自分の目の前にそそり立ったように思えた。恐怖が内臓を押し上げて、吐き気が込み上げる。リュイは右の拳で口元を押さえた。
見る影もなく取り乱したリュイを見て、ザハラは可哀相なひとを眺める目つきになる。やや優しげな声音で、囁くように、
「リュイ。あなたの背後には大樹が見える」
大樹……リュイは怯え疲れた目でザハラを一瞥した。
「なにもかも包んでしまうような、とても大きな樹よ」
「…………」
「あなたの持っているものにも、同じ気配を感じる」
「…………」
怯えるリュイをあやすかのように、ザハラは首を少し傾け、
「原風景を思い出して」
「……原風景……」
口のなかでつぶやくと、まったく無意識に生家が脳裏に浮かび上がった。みすぼらしい家屋と、それを包み込むように立つ沙羅の大樹が。すると、激しい動揺が嘘のようにすうっと引いていった。
荒い息を収めたのを認め、ザハラは薄く笑む。そして、冷酷な占い師の顔に戻る。
「座りなさい」
何故か自分でも分からなかったが、リュイは素直に従った。また、目の前の占い師には、そうさせる迫力があった。倒れた椅子を元へ戻し、ふたたびザハラと向かい合う。
ザハラは左端から右へと札の束をめくっていく。一枚めくっては黙考、をくり返す。札の表にはひとや獣、月などの自然物が描かれている。適当に交ぜたため、上下が逆さまになっている札もある。右端の一枚をめくってしまうと、左端へ戻った。計十枚の札をめくり終えたのち、今度は左手側にある、拳より若干大きい水晶の玉を見つめ始めた。蝋燭の灯りを受けてきらめく水晶玉の、その最奥を一心に見つめ、ひとしきり黙考していた。リュイは心を無にして、ただそれを眺めていた。
ザハラは目を上げた。ひどく冷静に言う。
「脅かすつもりではないけれど、知っていたほうがいい」
粛然とした声音に、リュイは不安を覚えた。目元をぴくりとさせる。
「目には見えないものを仮に精霊と呼ぶのなら、精霊の加護を受ける者は、その対価を払わなければならない。精霊も神仏も鬼も、源は同じよ。慈悲だけの存在ではない、とてつもなく残酷なものよ。加護を受けるあなたは犠牲を払わなければならない。加護が特別であるほど、大きな犠牲をよ。私も――――大きな犠牲を払っている」
言って、ザハラは目を氷柱のように冷たく尖らせた。母親を語ったときと同様に。
「……犠牲……?」
「そう、犠牲。もう払ったのか、いま払っているのか、これから払うのか……。それとも、生涯払い続けるのか……。もしも、いまあなたがつらいのであれば、それも加護の対価なのかもしれないわ」
リュイは甚だ憂鬱になった。声を沈ませて、
「……そんな加護なら、僕はいらない……」
「逃れられないと言ったはずよ。あなたを見ていると、本当に哀しくなるわ」
ザハラは口の端に憐れみを過ぎらせる。
「占いに戻るわ。あなたが怯えないように、やわらかくいくわね。――――……空にはいま、月が高く昇っている」
「……月?」
出された言葉が意外だったので、思わず聞き返した。
「そう。月はとてもまぶしいので、あるいは太陽に見えるかもしれない。月の光が強いほど、足元にできる影は濃さを増していく。濃い影はぬかるみのようになって足に絡みつき、あなたを苦しませる。まぶしさと足元の影から逃れようとして、たくさんの雲を呼ぶでしょう。けれど、雲がもたらすのは――――……なに?」
リュイはつぶやくように答える。
「……雨」
ザハラは薄く笑む。
「雨。どしゃぶりの、肌を叩く雨…………。これが、あなたの現状」
返答に困り、リュイは黙り込む。ふたりの間に、暫し沈黙が流れる。短く溜め息をついてから、思うままを述べる。
「……抽象的な言い回しは、ひどく苦手なんだ。僕にはよく理解できない…………けれど、あまりよくない状態だということだけは分かった」
ザハラはクッと笑って、
「正直ね。けれど、少し考えれば、きっと分かる」
「――――それなら、僕はどうすれば?」
「受け止めればいいんじゃなくて? 目を突くようなまぶしさも、足元の影も、どしゃぶりの雨も、すべて」
「…………」
「それこそ、あなたの背後に見える大樹のように、日差しも雨風も時の流れも、一切合切を受け止めればいいんじゃなくて?」
なにかを受け止める、そんな心の余裕など到底ないように、リュイには思えた。逆に本当は、心は隙間だらけ、否、出入り口のない空洞のようにも思える。どちらにしても、ザハラの言うようにはできそうにない。
「どれほどつらくとも、導きのとおりに進めばいい。それが、あなたの行きかた」
「導き……?」
笛が頭を過ぎる。
「あなたは強力に導かれているわ。ふたつのものに」
「ふたつ!?」
「そう。というよりは、どんなに抗ってみたところで、あなたは導きの指し示すとおりにしか進めない。それほど強力な導きよ」
蝋燭の焔が、ジジジと音を立てて揺れた。薄暗い室内がゆらりと揺れたみたいに見えた。ザハラは憐れむような笑みを浮かべて、リュイを見る。
「ひどく不自由なのね」
不自由……リュイは胸でつぶやいた。
「そのほうが楽でいい。なにも考えなくて済むのなら、僕は不自由がいい」
ザハラは窓掛けを開けた。外の日差しが、にわかに室内を明るく照らす。リュイはまぶしさに目を細めた。剥製たちの目がただの硝子玉に戻り、物の怪から死んで久しい小動物になった。
宛がわれた部屋へ戻ったリュイは、すぐさま寝台に横たわった。激しく疲れていた。静かな場所に隠れて息をついていたのに、急に見つかり引き摺り出された気分だった。死人のように胸の上に両手を置いて、漆喰の天井を見つめる。
……怖かった……
胸のなかで小さく言った。先ほどのあの瞬間を思い返せば、動悸と吐き気にふたたび襲われそうだった。占いを許したことを後悔していた。精霊の加護があると自ら言うザハラは、本当に現実を超越した目を持っているようだ。
それにしても占いは、リュイにはほとんど分からなかった。月、影、雲、雨……いったいなにを指しているのか見当もつかない。けれど、ザハラの言葉から、なんとなく分かったことがあった。
背後に大樹が見える、と言った。笛にも同じ気配があるという。おそらく、イブリア古来の大木信仰を、ザハラは感じ取っているのだろう。笛は大木信仰に関係がありそうだ。笛が音を出し始めてから、急に祈りの儀式をしてみたくなったのは、そのせいかもしれない、リュイはそう考えた。
そして、ふたつのものに強く導かれているという。ひとつは間違いなく笛だろう。ふたつあるというのなら、やはり笛は一対の笛で、どこかに必ずもうひとつの笛が存在する、ということなのだろうか。
なんだか不思議に思えた。古い信仰に帰依しているという意識が、リュイには微塵もないのだ。そればかりか、イブリアの民のひとりだという自覚さえ、じつのところひどく希薄だった。にも拘わらず、背後に大樹が見えるという、大木に身を預けてみたくなる…………何故? 考えても、まるで分からない。
枕元の笛に手を伸ばし、改めて眺め見る。イブリアの笛、大木信仰に関わる笛…………どれだけ自分から遠いのだろうか、リュイは途方もない気持ちになる。
寝たまま窓に目を向けると、雲が出始めた空のまだ青い部分に、細い月が雲のひとかけのように白く儚く浮かんでいた。
……月……
ふいに思い出す。物語のなかではよく、女が月に喩えられている。けれど、リュイの知るなかで、女は妹しかいない。夢のなかでしか会えない妹だ。それ以外は、いま現在目の前にいる、ザハラだけ…………ザハラは自分のことを言っているのだろうか……。
そんなふうにも考えてみたが、まったく見当が外れているように思えた。そもそも、その解釈自体が間違っているかもしれない。結局、ザハラの占いは、分からないままだ。




