表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
解放者たち  作者: habibinskii
第六章
35/81

6

 魔女の館に過ごし始めて七日はたった。右肩の痛みは取れた。銃創も身体を大きく動かさなければ、もう息を呑むほどの痛みはない。午前中、往診に来た医者が、リュイの回復力の早さに目を丸くしていた。歩いて行くには、まだ少し時間が必要だった。それに、リュイはもう少し、この静寂に包まれた場所に隠れていたかった。


 陽の光が溢れる庭へ出て、樫の大木を仰ぎ見る。木々のささめき、鳥のさえずりが耳を撫でる。下男の薪を割る澄んだ音が、拍を取る。目を閉じるとまぶたの裏に木漏れ日が揺れて、模様を描いた。日差しは強く肌を刺すけれど、涼やかな風が熱を冷ましてくれる。静かな夏の心地よさに、リュイはひとしきり身を任せる。

 その背中に、ザハラの冷えた声がかかる。

「毎日そこへ立つのね。吊られた魔女の話をしたはずよ。怖くはないの?」

 木を仰いだまま返事をする。

「不気味には思うけれど、僕は幽霊を信じていないから……」

「なにをそんなに迷っているのかしら?」

 おもむろにザハラを振り返り、ただ小首を傾げる。

「昔から、迷いのある者は木の下へ向かうというじゃない」

 返答に窮し、リュイは伏し目になった。

「…………」

 ザハラはゆっくりと口角を上げ、

「占ってあげるわよ、行きかたを」

「……僕は、占いも信じていない……」

 ククッと小さく声を立てて、ザハラは笑った。

「それを占い師に言うの? あなた、どうかしてるわ」

「…………」

 可笑しさによる笑いを、にわかに妖しい微笑に変えて、ザハラは申し出る。

「リュイ、あなたを占いたいわ。同じ、加護を受ける者を、占ってみたいの」



 ザハラの仕事部屋へ初めて入った。二階にある広めの部屋、正面には広縁(ベランダ)に面した大きな窓、右手には書棚、左手の飾り棚にはいろいろな大きさの水晶玉のほか、占いに使うものなのだろうか、見たことのない道具が並んでいる。その合間に、山羊の頭や猫、兎、狐、蝙蝠、フクロウなど、たくさんの剥製が置かれていた。ひとの頭蓋骨もある。リュイに与えられた部屋と同じく、さまざまな文様の織物が壁にいくつも下がっている。

 ザハラは厚い窓掛けを引き、外の光を遮断した。そして、部屋の中央、重厚感のある足の長い机の上の、太い蝋燭に火を灯す。それから、眠くなるような匂いの香を焚く。ザハラの衣服に染みついている春夜の風に似たあの匂いだ。

 途端、室内は魔物の住み家のように怪しげな空気に満ち満ちた。いくつもの剥製の硝子の目玉に鈍い光が灯り、禍々しさと生々しさを増す。これから行われる占事を傍聴する物の怪と化して、死んだ鳥獣は部屋の中央を無言で見つめている。


 ふたりはその机に向かい合って座った。

「明るくても占いはできるけれど、暗いほうが集中できるの。だから、ライデルなど、大切な顧客の仕事は真夜中にするわ」

 蝋燭の灯りに陰影を濃くしたザハラの顔は、美しくも不吉に見える。悪しきものに仕える聖職者か、あるいは本当に呪いをかける魔女のようだった。リュイは小説のなかで読んだ魔女の姿を髣髴させた。

「これを好きなように交ぜてから、切ってみて」

 ザハラは数十枚の紙の札をリュイへ手渡した。手のひらにぴたりと収まる大きさの札だ。リュイは机の上にそれを置き、適当にばらけるよう指の腹で交ぜた。それから、ひとつにまとめ、数回切る。その様子を、ザハラは瞬きもせずに見つめていた。

「それを、いつつの束に分けて、ここへ置いて」

 言われたとおり札をいつつに分けて、ザハラの前に裏表に置いた。ザハラはそれを暫し眺めてから、目を上げた。また、目尻に冷涼な光を宿している。現実感をみるみる希薄にさせていく。

「いま、とてもよく見えるわ。あなたの加護が……」

「…………」

 ザハラは細い指で左端の札を一枚めくり、机の上に開示した。そして、ひと呼吸置いたのち、リュイの目を射るように見ながら、告げた。

「――――あなたを迷わせるもの、からめとるものは、咎」

 リュイは目を大きく見開いた。我知らず大声を上げる。

「――――もういい!!」

 その声は悲鳴に近い。ザハラは動じない。すぐに隣の束から一枚をめくり、

「あなたの標、あなたを放つものは……」

「ザハラ……!!」

 絶叫のように呼び、立ち上がる。弾みで椅子が倒れて、大きな音を立てた。

 リュイは顔をすみずみまで凍りつかせた。見開いた目を怯えさせ、激しい動悸に肩を震わせる。背中に冷たい汗が滲む。急に動いたので、銃創に鋭い痛みが走ったが、痛覚を忘れたようになにも感じなかった。立ちすくんだまま、荒い息を吐き始めたリュイに、ザハラは静かに言った。

「怖がらないで。怖れる必要などないわ」

 リュイは言葉が出ない。猛烈に動揺していた。占いなど信じていないからこそ許したのだ。ザハラがにわかに怖ろしいものとして、自分の目の前にそそり立ったように思えた。恐怖が内臓を押し上げて、吐き気が込み上げる。リュイは右の拳で口元を押さえた。

 見る影もなく取り乱したリュイを見て、ザハラは可哀相なひとを眺める目つきになる。やや優しげな声音で、囁くように、

「リュイ。あなたの背後には大樹が見える」

 大樹……リュイは怯え疲れた目でザハラを一瞥した。

「なにもかも包んでしまうような、とても大きな樹よ」

「…………」

「あなたの持っているものにも、同じ気配を感じる」

「…………」

 怯えるリュイをあやすかのように、ザハラは首を少し傾け、

「原風景を思い出して」

「……原風景……」

 口のなかでつぶやくと、まったく無意識に生家が脳裏に浮かび上がった。みすぼらしい家屋と、それを包み込むように立つ沙羅の大樹が。すると、激しい動揺が嘘のようにすうっと引いていった。

 荒い息を収めたのを認め、ザハラは薄く笑む。そして、冷酷な占い師の顔に戻る。

「座りなさい」

 何故か自分でも分からなかったが、リュイは素直に従った。また、目の前の占い師には、そうさせる迫力があった。倒れた椅子を元へ戻し、ふたたびザハラと向かい合う。


 ザハラは左端から右へと札の束をめくっていく。一枚めくっては黙考、をくり返す。札の表にはひとや獣、月などの自然物が描かれている。適当に交ぜたため、上下が逆さまになっている札もある。右端の一枚をめくってしまうと、左端へ戻った。計十枚の札をめくり終えたのち、今度は左手側にある、拳より若干大きい水晶の玉を見つめ始めた。蝋燭の灯りを受けてきらめく水晶玉の、その最奥を一心に見つめ、ひとしきり黙考していた。リュイは心を無にして、ただそれを眺めていた。


 ザハラは目を上げた。ひどく冷静に言う。

「脅かすつもりではないけれど、知っていたほうがいい」

 粛然とした声音に、リュイは不安を覚えた。目元をぴくりとさせる。

「目には見えないものを仮に精霊と呼ぶのなら、精霊の加護を受ける者は、その対価を払わなければならない。精霊も神仏も鬼も、源は同じよ。慈悲だけの存在ではない、とてつもなく残酷なものよ。加護を受けるあなたは犠牲を払わなければならない。加護が特別であるほど、大きな犠牲をよ。私も――――大きな犠牲を払っている」

 言って、ザハラは目を氷柱のように冷たく尖らせた。母親を語ったときと同様に。

「……犠牲……?」

「そう、犠牲。もう払ったのか、いま払っているのか、これから払うのか……。それとも、生涯払い続けるのか……。もしも、いまあなたがつらいのであれば、それも加護の対価なのかもしれないわ」

 リュイは甚だ憂鬱になった。声を沈ませて、

「……そんな加護なら、僕はいらない……」

「逃れられないと言ったはずよ。あなたを見ていると、本当に哀しくなるわ」

 ザハラは口の端に憐れみを過ぎらせる。

「占いに戻るわ。あなたが怯えないように、やわらかくいくわね。――――……空にはいま、月が高く昇っている」

「……月?」

 出された言葉が意外だったので、思わず聞き返した。

「そう。月はとてもまぶしいので、あるいは太陽に見えるかもしれない。月の光が強いほど、足元にできる影は濃さを増していく。濃い影はぬかるみのようになって足に絡みつき、あなたを苦しませる。まぶしさと足元の影から逃れようとして、たくさんの雲を呼ぶでしょう。けれど、雲がもたらすのは――――……なに?」

 リュイはつぶやくように答える。

「……雨」

 ザハラは薄く笑む。

「雨。どしゃぶりの、肌を叩く雨…………。これが、あなたの現状」

 返答に困り、リュイは黙り込む。ふたりの間に、暫し沈黙が流れる。短く溜め息をついてから、思うままを述べる。

「……抽象的な言い回しは、ひどく苦手なんだ。僕にはよく理解できない…………けれど、あまりよくない状態だということだけは分かった」

 ザハラはクッと笑って、

「正直ね。けれど、少し考えれば、きっと分かる」

「――――それなら、僕はどうすれば?」

「受け止めればいいんじゃなくて? 目を突くようなまぶしさも、足元の影も、どしゃぶりの雨も、すべて」

「…………」

「それこそ、あなたの背後に見える大樹のように、日差しも雨風も時の流れも、一切合切を受け止めればいいんじゃなくて?」

 なにかを受け止める、そんな心の余裕など到底ないように、リュイには思えた。逆に本当は、心は隙間だらけ、否、出入り口のない空洞のようにも思える。どちらにしても、ザハラの言うようにはできそうにない。

「どれほどつらくとも、導きのとおりに進めばいい。それが、あなたの行きかた」

「導き……?」

 笛が頭を過ぎる。

「あなたは強力に導かれているわ。ふたつのものに」

「ふたつ!?」

「そう。というよりは、どんなに抗ってみたところで、あなたは導きの指し示すとおりにしか進めない。それほど強力な導きよ」

 蝋燭の焔が、ジジジと音を立てて揺れた。薄暗い室内がゆらりと揺れたみたいに見えた。ザハラは憐れむような笑みを浮かべて、リュイを見る。

「ひどく不自由なのね」

 不自由……リュイは胸でつぶやいた。

「そのほうが楽でいい。なにも考えなくて済むのなら、僕は不自由がいい」

 ザハラは窓掛けを開けた。外の日差しが、にわかに室内を明るく照らす。リュイはまぶしさに目を細めた。剥製たちの目がただの硝子玉に戻り、物の怪から死んで久しい小動物になった。



 宛がわれた部屋へ戻ったリュイは、すぐさま寝台に横たわった。激しく疲れていた。静かな場所に隠れて息をついていたのに、急に見つかり引き摺り出された気分だった。死人のように胸の上に両手を置いて、漆喰の天井を見つめる。

 ……怖かった……

 胸のなかで小さく言った。先ほどのあの瞬間を思い返せば、動悸と吐き気にふたたび襲われそうだった。占いを許したことを後悔していた。精霊の加護があると自ら言うザハラは、本当に現実を超越した目を持っているようだ。


 それにしても占いは、リュイにはほとんど分からなかった。月、影、雲、雨……いったいなにを指しているのか見当もつかない。けれど、ザハラの言葉から、なんとなく分かったことがあった。

 背後に大樹が見える、と言った。笛にも同じ気配があるという。おそらく、イブリア古来の大木信仰を、ザハラは感じ取っているのだろう。笛は大木信仰に関係がありそうだ。笛が音を出し始めてから、急に祈りの儀式をしてみたくなったのは、そのせいかもしれない、リュイはそう考えた。

 そして、ふたつのものに強く導かれているという。ひとつは間違いなく笛だろう。ふたつあるというのなら、やはり笛は一対の笛で、どこかに必ずもうひとつの笛が存在する、ということなのだろうか。

 なんだか不思議に思えた。古い信仰に帰依しているという意識が、リュイには微塵もないのだ。そればかりか、イブリアの民のひとりだという自覚さえ、じつのところひどく希薄だった。にも拘わらず、背後に大樹が見えるという、大木に身を預けてみたくなる…………何故? 考えても、まるで分からない。

 枕元の笛に手を伸ばし、改めて眺め見る。イブリアの笛、大木信仰に関わる笛…………どれだけ自分から遠いのだろうか、リュイは途方もない気持ちになる。


 寝たまま窓に目を向けると、雲が出始めた空のまだ青い部分に、細い月が雲のひとかけのように白く儚く浮かんでいた。

 ……月……

 ふいに思い出す。物語のなかではよく、女が月に喩えられている。けれど、リュイの知るなかで、女は妹しかいない。夢のなかでしか会えない妹だ。それ以外は、いま現在目の前にいる、ザハラだけ…………ザハラは自分のことを言っているのだろうか……。

 そんなふうにも考えてみたが、まったく見当が外れているように思えた。そもそも、その解釈自体が間違っているかもしれない。結局、ザハラの占いは、分からないままだ。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ