5
床に置いた盆の上に平パンが山積みになっている。ティセと五人の少年たちは盆を囲むように座り、つぶして糊状になった豆の惣菜を平パンに包んで昼食を取る。
こうしてほの暗い幌のなかで食事をするたびに、ティセは思い出していた。初等部のころ、森の奥にある、秘密基地と呼んだ穴倉に四人の仲間と潜み、自宅から持ち寄った揚げパンや菓子を食べつつ、次に仕掛けるいたずらについて真剣に話し合った思い出を。幌のなかの薄暗さと狭さが、あの秘密基地のやましげな雰囲気と似ているからだ。おまけに、同年代の少年たちも一緒だ。ティセは四人の仲間の顔を、ひとりずつ頭へ浮かべた。
そして、目の前で平パンにむさぼりつくトレブを見て、つくづくカイヤにそっくりだと思った。色素の薄い茶色の短髪、ほお骨の出かた、そこにぽつぽつとにきび、薄い唇が利発そうに引き締まっているところもよく似ている。棘のあるトレブの口調は、出会ったばかりのころの、ラフィヤカの仇討ちの喧嘩ばかりしていた時代のカイヤを髣髴させた。
少年のひとりが口をもぐもぐさせながら、
「ここの飯、とくに美味しくはないけど、とにかく量だけはいっぱいだな」
隣の少年が返す。
「ほんと、腹一杯」
満足そうに腹をさする。
「まず、飯の心配しなくてすむのがいいよな」
「それだよ! エサをたくさん与えて、気が変わらないようにしてるのかもな」
「おまえ、読みが深いなぁ!」
少年はティセに目を向け、軽い口ぶりで言う。
「おまえには分かんないだろうな」
ティセは「う……」と声を呑んだ。
エトラの家の窮状をわずかでも目にしたティセには、少年たちの家の状況が少しは想像できた。しかし、その想像はあまりに貧しく、気持ちなどとうてい分かるわけがない。うつむいて、黙々と平パンを囓るしかできなかった。
皆、くたびれすぎたみすぼらしい衣服を身につけていた。ティセの服は泥まみれであるものの、その布地は悪いものではなくしっかりとしていて、汚れていてさえ誰よりも体裁がよく見える。また、少年たちは皆、痩せぎすで、ティセよりも小柄であり弱々しげだ。健康的に痩せているティセのその体格の良さは、比べてみれば一目瞭然だった。
けれど、裕福なイリアのひとであるティセに対し、少年たちは敵意や反発心をそれほど持たないようだった。それは、この世の不条理を受け入れて達観したというよりは、むしろ、しかたのないことだと捨て鉢に諦観しているかに感じられた。ティセに声をかける彼らの声音は妙に軽い。ただ、トレブだけが違っていた。
「分かるわけねえよ、ふらふら遊び歩いてる金持ちにはさ。いらない子の気持ちなんか分かるわけがねえ」
ティセを見もせずにトレブは言う。厭味たらしいもの言いにカチンときたけれど、ティセは唇を尖らせるだけだ。トレブの放った棘が、食事中の空気を居心地の悪いものにさせた。軽い口ぶりで「分からないだろうな」と言ったニムルが、呆れたようにトレブへ返す。
「いらない子、いらない子って言うなよ、自虐的だよ、おまえは」
「そうだそうだ! 家族のために売られるんだから、いらなくない、むしろ必要な子じゃないか」
反論されたトレブはむっと押し黙った。ティセを擁護したようなニムルだが、もういちど軽めの口調で言う。
「でも、分かんないよな?」
ニムルはわだかまりのなさそうな笑みを浮かべて、ティセを見る。だから、ティセは素直に答えられる。
「……うん。正直よく分からない。うまく想像できないよ」
「ほら見ろ!」
トレブが勝ち誇った声を上げた。
「いいかげんにしろよ、トレブ」
たしなめて、ニムルはやれやれ顔をティセに向けた。
ティセの眼差しはまっすぐで、その瞳には少年たちの誇りを傷つける憐れみや同情も、自身の幸運に対する後ろめたさも浮かんでいない。ニムルはひとしきりティセの目を見つめ、それを認めたのか、ニッと笑った。
「おまえ、いいな、気に入った」
ティセも同じ笑みを返す。ニムルは最年長で、ティセのひとつ歳上だ。年齢以上の分別があり、ここでは少年たちの兄貴分であるようだった。
トレブは「ふんっ」とつまらなそうに鼻を鳴らし、平パンへがぶりと噛みついた。ティセは心のなかで溜め息をつく。
トレブにはあまり良く思われていないみたいだ。イリアから訪れた旅人だという、ただそのことだけがトレブの不満であるようだった。ティセにはまるで非がないのだから、どうしようもない。それでもティセとしては、カイヤにそっくりなトレブには興味があった。厭味を言われても、それほど悪くは思えなかった。
腹が満ちると皆、ごろごろと寝始めた。馬車は夜間に走るため振動で熟睡できず、一日中、誰もが眠そうにしている。ティセは胡座を組み、鈍色の錠前が下ろされた格子戸のほうを見つめ考えていた。
ここから逃げ出すのは、やはり食事の前後に戸が開くときしかない。用を足したいと告げるときでは駄目だ。捕らえられた自分だ、こちらから行動に出るときは、彼らは警戒しているだろう。あるいは、誰かが用を足すために開けられたときを狙うかだ。ひとを売る市場へ到着したときでは遅すぎる。こうしている間にも、リュイはどんどん遠くなっていく。
ティセは硬い床の上にごろ寝する少年たちを眺め見る。皆に協力は頼めない。逃げ出す計画を口に出しづらい。それを口に出せば、彼らの決心を揺るがすことになりかねない。ティセはそれを懸念していた。
格子戸の向こうを見つめ熟考するティセを、トレブが寝ながらじいっと凝視していた。
ふと思いついて、ティセはニムルへ尋ねた。
「ねえ、みんなこれからどんな仕事するの?」
ティセにはまったく推測が及ばなかった。斜め上を見るような目線でニムルは返す。
「さあな。どこかの工場か大農園にでも軟禁されるんじゃないか」
「鉱山かもな」
隣の少年も話に加わる。と、トレブが急に目を輝かせて、
「鉱山だ……子供ばかりが働いている秘密の鉱山がある……」
トレブの声は、どこか芝居がかっているふうに聞こえた。ティセは訝しげに、
「……秘密の鉱山?」
「そうだ! いつでもどんよりと曇ってる場所に、誰も知らない鉱山がある。そこでは痩せた子供たちばかりが働いて、大人は看守しかいないんだ」
トレブの様子は少しおかしい。目が据わっている。ニムルがニヤニヤして、
「また始まった……」
構わずに続ける。
「子供たちは朝四時に起きて、夜は十二時に眠る。一日中ひたすら石を掘る。食事は三回、ひときれの平パンと、具のないしょっぱい汁物。一年に一度、正月にだけ甘いものが許される」
「え、ちょっとちょっと……」
「子供たちの大半は肺をやられている。みんな、死にたいと顔に書いてある。実際、目が死んでいる。そのなかにひとりだけ、目の生きている「俺」がいる。俺はいつか看守をぶち殺し、邪魔するやつらみんなぶち殺し、この鉱山を出るつもりだ」
話せば話すほど、据わった目が爛々と輝いていく。話す声が抑揚をつけていく。ニムルが呆れ声で、ティセに耳打ちする。
「こいつ、妄想癖があるんだ、もう止まんないぜ」
「妄想癖!?」
「聞く必要ないよ」
見回せば、誰もトレブに注目していない。が、トレブはお構いなしといった調子で、身振り手振りを交えながらひとり続ける。ティセは刮目してトレブの話に耳を傾ける。
「鉱山を出たら、腹いっぱい肉を食らい、甘いものをむさぼりつくし、好きなだけ眠る。すると、夢のなかに敵が現れる。現実の敵だ。敵は俺を見て、いらない子風情がなんだと、薄ら笑いを浮かべている。俺は怒りに震えながら目を覚まし、荒野を駆け抜けて敵を追いつめる。手には鉈、みな殺しだ……」
話すとおり、トレブは鼻のつけ根にたっぷりと皺を寄せ、開けた口の下唇を押し下げて歯ぐきをむき出し、鬼気迫る顔をしてみせた。
「なんだよ、救いがないな……」
「救いはある! 敵は天女を捕らえていた。俺によって天女は解放された。子鹿のような瞳をした、この世のひととは思えない美少女だ。美少女は花びらみたいな唇を震わせて、俺に告げる…………ありがとう勇者さま、あなたをお慕いしています…………」
その目は恍惚としていた。いま、まさにその脳内で、美少女から愛の告白を受けているのだろう。ティセは思わず叫んだ。
「おもしろいっっ……!!」
「え……」
「トレブ! おまえ、おもしろいな! 小説家になれるよ!」
こんな反応は初めてなのだろうか、トレブはティセの感心に、あきらかに戸惑っていた。
「……え、いや……そ、そうかな……」
「なれるなれる、才能あるよ、咄家でもいいな。こんなおもしろいのに、なんでみんな聞いてやらないんだよ」
ニムルが笑いながら、
「トレブよかったな、妄想を聞いてくれる唯一の客ができて」
「くだらないよ、トレブもおかしいけど、ティセもどうかしてるよな」
「どっちも変人だ」
皆、可笑しそうに笑っている。
「変じゃないよ、聞かないおまえらが変だ。トレブ、いつでも聞くぞ」
トレブは困ったように目を泳がせる。刺刺しく接していた手前、ばつが悪そうだ。が、やがてぽそりと言う。
「……イリア人のくせに、案外悪くないな、おまえ」
夜更け、揺れ続ける硬い床へ横たわり、ティセは深く考え込んでいた。少年たちとすっかり打ち解けて、彼らの置かれていた状況を知った。彼らの話は、ティセの胸の内に重く沈積し、厚い層を成していた。
誰も学校へ行っていない、読み書きもほとんどできないそうだ。彼らの親兄弟も同様らしい。トレブには小説家になれると言ったが、トレブもまた文盲だった。皆、家では食べるものがなにもない日も稀にはあったという。
イリアの話を聞きたがった。ティセは話しづらさを覚えながらも、問われるままに答えた。彼らは感心したように声を上げたが、その目はやはりあきらめの色を帯びていた。少年たちの目の色が、ティセをどうしようもなく切なくさせる。
リュイに言われたとおり、自分はなんという世間知らずなのかと、ティセはいま痛感していた。少し前、リュイに手厳しく追及されたことが、いまになってティセに迫る。
ナルジャをど田舎だと嘲るティセに、リュイは言った。ナルジャは充分過ぎるほど裕福で、大都会にほど近い都邑のひとつだ、と。旅費の心配もなくイリスへ出稼ぎに行ける恵まれた村なのだ、と。本当に、そのとおりなのだった。
もうひとつ、ティセは強く実感していた。こうして、同年代と砕けた会話を交わし合う楽しさ、喜びを。ここにいる少年たちと話をしていると、四人の仲間たちと過ごした時間がよみがえる。とくに、カイヤにそっくりなトレブの顔がそれを思わせた。
ナルジャを出る前のティセは同級生を避け、誰とも話したくない、皆、自分を退屈にさせる顔だ、などと空うそぶいていた。大好きな仲間たちから故意に遠ざかり、自分に向けてくれる厚い友情を踏みにじっていたのだ。どうしもなく莫迦だったのだと、痛切に思う。同年代との団欒の心地よさを否定していた自分が、信じられない気持ちだ。友人たちと送る穏やかな日常を憎んだ自分は、なんと浅はかだったことか。そして、その心地よさ、楽しさは、リュイとは決して味わえないものなのだった。
「お気楽だなぁ」というトレブの厭味が、頭のなかを何度も過ぎる。
旅など、しょせんは道楽に過ぎない。ティセはその事実に突き当たり、胸の内を呆然とさせていた。お気楽、まさにトレブの言うとおりだ。自分も、自分に旅心を植えつけた父も、真実、ただの道楽者なのだ。
そこに行き着くと、ティセは思わざるをえない。
では、リュイは――――……?
リュイの長旅は、果たして道楽なのだろうか……――――
たとえ両親の遺言を守れなくても、生活するにはなにも困らない。リュイの旅は道楽で、リュイもまた道楽者なのか。
何故だろう、ティセははっきり「違う」と感じる。「違う」と断言すらできる。
リュイは歩いていても、少しも、それこそ睫毛の一本ほども楽しそうではない。道の先を冷静に見つめつつも、どこか苦しそうに黙している。静けさに閉じ籠もり、暗さを引き摺りながら歩いているように見える。
道の先を見つめるリュイの横顔を思い浮かべる。どことなく翳のある眼差しを、粛とした喋りかたに漂う翳を、穏やかな微笑みのあとに見せる翳を、ティセは思い出す。
吸い込まれそうな暗緑の瞳の奥には、冷たく濡れた闇を感じる。返答につまり黙り込むとき、その沈黙の向こうにぽっかりと口を開けるリュイの欠けた部分が、冷たく濡れた闇に通じている気がする。
笛を語る際の醒めた眼差し、現実離れした話の内容とその眼差しの大きな隔たり、意外なほど笛に愛着を示さないリュイ……。コイララの話を聞いているときの、他人事のような態度。ラグラダ滞在中、リュイに抱いた大きな疑念を、リュイを知りたいと強く思ったあの晩を、ティセはまざまざと思い出す。
リュイの行方を尋ねた、あの男の放った言葉が頭を過ぎる。
――――……あいつはいったい、何者だ……――――
まっすぐに前方を見つめるリュイの目は、未知のものを追い求める目ではない。笛の答えを待ち望む目ではない。その目は、決して手の届かないなにかを遠くに見て絶望するような、切なさを孕んでいる。
いままで、リュイに対して抱いてきたさまざまな疑念が、この夜、ひとつに結ばれた。
――――――リュイは、なにかを隠してる。
とても大きななにかを、俺に隠してる――――……
それはおそらく、ティセの隠しごととはまるで違う種類の、闇をともなうなにかだ。




