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解放者たち  作者: habibinskii
第六章
33/81

4

 庭の隅にある樫の大木が、窓辺から見えていた。連日の夕立に洗われた葉が、降り注ぐ夏の日差しを浴びて輝いている。傷に響かぬようゆっくりと歩いて、リュイは初めて庭へ出た。

 井戸と数株の薔薇の木のほかにはなにもない庭だ。大木とは逆側の隅のほうで、下男が手押し車に割った薪を乗せている。年齢のよく分からない、日差しのなかに滲んで消えてしまいそうに存在感の薄い小男だ。会釈をすると、やや間を置いて、こくんとうなずくように礼を返した。のち、手押し車を押して、裏口のほうへ去って行った。


 大木の前に立ち、見上げる。木漏れ日が、白衣の上や顔面に淡い模様を描いては揺れる。夢のなかで仰ぐのとは違い、葉の隙間から覗く空は青い。けれど、リュイの目に映る空はいつもどこか褪せていて、歓びをもたらさない。青空はただ青いだけ、まぶしいだけだった。

 根元に片膝をつき、合掌、そして大木に自身を捧げる。

 これが祈りの儀式であるのか、本当のところリュイにはよく分からない。請い願うことが自分のなかに明確ではないからだ。ただ、大木とひとつづきになるこの無心の時間が、どんなときよりも落ち着いた。眠りよりも深い静けさと安らぎを、リュイに与えてくれた。


 心ゆくまで大木に身を預けたのち、まぶたを開き、額を幹から離す。静かに立ち上がり、もういちど木の上を見上げた。

 両親のしていた祈りの儀式など、思い出しもしなかった。にも拘わらず、笛が音を出し始めた途端、急に思い出した。幾度か見たに過ぎないそのおぼろげな記憶が、にわかに輪郭を濃くさせてよみがえったのだ。すると、自分でもしてみたくなった。なにか抗えないものにいざなわれているように、祈りの儀式に惹きつけられた。

 それに気づかせてくれたのは、ティセだった。ティセのなにげないひとことがなければ、おそらく気づかないままであったろうと、リュイは思う。

 ……ティセ……

 強めの風が吹く。寛衣の裾から覗く素足に、風はひんやりと流れていった。頭上の葉が耳に心地よくささめいた。木漏れ日が揺れてまぶしい、リュイは目を細める。


 ――――――このまま、ティセと離れよう……――――


 振り切れずぐずぐずと来てしまったけれど、ティセと決別するちょうどいい機会が訪れた、リュイはそう考えていた。もの恐ろしいティセから逃れる、またとないきっかけだと。

 だいいち、ティセとともに村へ帰るなど、できるはずもないことだった。それなのに、優柔にもこんなところまで歩いてきてしまった、もう潮時だ。もういちど、頭のなかでつぶやく。


 ――――ティセと離れよう……――――


 夕風に似たものが、胸の奥に小さく吹いた気がした。見上げたまま、漠然と考える。


 ……これから、僕はどこへ行こうか……


 寒気がするほどの途方のなさに襲われる。それを考えれば、リュイは悄然と立ちつくすしかない。伸ばした手の先が暗闇に閉ざされて、自分以外なにも見えない場所に立っているかに思える。そこで屏息しながら途方に暮れる。憂鬱から、苦痛から逃れたい、けれどどうにもならない。ティセはもう、行き先を決めてはくれないのだから…………。



 ひとの気配を感じて、リュイは門のほうを振り向いた。ほどなく、垣根の向こうの木立のなかから若い男がひとり現れた。片手に包みを携えている。男は庭へ立つリュイを見て、血相を変えた。小走りにこちらへやってくる。門前に立つと、なにか慌てたように、

「き、きみ!」

 リュイは門へ寄った。

「なにかご用ですか」

「あ……ああ、届けものに来たんだが……きみ、この家の者じゃないだろう、ここでなにをしてるんだい?」

「少し怪我をしていて、世話になっています。僕でよければ預かります」

 鉄製の門を半分だけ開く。男はリュイをまじまじと眺めてから、気を揉んでいるような調子で言った。

「悪いことは言わない、早く出て行ったほうがいい、いますぐにでも!」

 男の様子は尋常ではなかった。怯えたような目が真剣だった。

「……何故?」

「ここは魔女の館だぞ! 呪いをかけられる前に早く出て行くんだ! 分かったかい!?」

「魔女?」

 突如、男は凍りついたようになって家のほうを見た。振り返れば、家の戸口の前にザハラが立っていた。男はヒッと小さく叫び、届けものの包みを押しつけるみたいにしてリュイへ手渡す。と同時に、木立のなかへ走り去っていった。

 魔女…………リュイは男の姿が見えなくなるまで、木立のなかを眺めていた。


 家に戻ると、戸口の前に佇んだザハラは薄ら笑いを浮かべていた。その笑みかたは不吉な黒の衣装とあいまって、男が言うようにザハラを魔女じみて見せていた。

 包みを受け取り、

「私には魔女だという噂があるそうよ。占いが大変良く当たるから、魔物の力を借りているに違いないって」

「…………」

「実際、私には目に見えないものの加護があるのだから、言い得て妙だわ」

 返答に困り、リュイは地面に目を落とす。

「…………僕にはよく分からない。そういうものについて、あまり知識がないから……」

 ザハラは構わずに続ける。

「魔女だという噂の女に占いを依頼するのは、やましいことをしているひとびとに決まっている。私は犯罪の片棒を担いでいるといえるのかもしれないわ。だから、いちどの占いに大金を要求しているの。私の占いが元で不幸になったひとも大勢いるでしょうね。誰かに恨まれていてもおかしくないわ。だから、ますますこれが手放せない」

 言いながら、ザハラは(スカート)のなかに隠し持つ拳銃に、服の上から触れた。

「短剣を抱いて眠るあなたなら、気持ちが分かるんじゃなくて?」

 見透かすように言った。リュイは目線を落としたまま、顔を強張らせる。ザハラは押し黙ったリュイを興味深げに眺めていた。それから、樫の大木のあるほうを見向き、

「私の母も占い師で、やはり魔女と呼ばれていたの。私を産んでから腕が落ちていく一方だったそう。私が占いの腕を上げるたびに、自分の加護が娘に移ったのだと喚いて、私を憎々しげに眺めていたわ。加護を横取りする泥棒だと罵ったこともあった、莫迦げた被害妄想だわ」

 ザハラの横顔を見遣ると、大木へ向けた目は氷柱のように冷たく尖っていた。

「そして、とうとう占いができなくなって、ある朝…………あの木……いましがたあなたが身を預けていたあの木に吊られて死んでいたわ。三年前だったかしら」

 リュイはひやりとしたものを胸に感じながら、樫の木に目を向けた。風に葉を揺らす大木が、急に妖しいもののように見えてくる。

 ザハラはこちらを振り向くと、目つきをわずかにやわらかくして、

「あれは祈り? ひどく静かで美しい光景だった。あなたはとてもきれいだわ、哀しくなるほどね……」

 意味深長な微笑を過ぎらせて、ザハラは室内へ戻っていった。



 女の住む家にはいくつかの鏡があるものだ。いつ女を映してもいいように、すべての鏡は磨かれている。宛がわれた部屋の隅に大きな鏡台が設えられているのを、リュイは今更ながら気に留めた。ほかの家具同様、動植物を題材にした優美な装飾が施されている。久しく使われていないのだろう、台の上には櫛の一本も置かれていない。この部屋は、自死したザハラの母親のものだったのだと気がついた。死んだ魔女の寝台に自分は寝ていたのだと、少し気味が悪くなる。


 鏡台の前に立つ。普段、鏡を覗くことはあまりない、リュイは久しぶりに自分の姿を見た。ひとを哀しくさせるような姿だろうかと、問いかける気持ちで眺める。

 いつ自分を見ても、顔つきがどことなく暗いように思えた。ふさいだ心持ちで眺めるからだろうか、だから哀しくさせるのだろうか。

 おまえは陰気だと、ティセに言われたのを思い出す。単刀直入にものを言う、そのうえ、いつも的確だ。「陰気」をやたら強調して言っていた。

 リュイはひとり、息だけでふっと笑った。

 ティセはいつでも初夏の日差しに似た雰囲気を纏っている。大きな黒い瞳がまぶしいほど輝いている。自分の暗い顔つきとは正反対だ。リュイはつねにそれを感じていたので、エトラの家に着いてから、ティセが急に表情を暗くしたことにすぐ気がついた。

 ティセは逃げ出せただろうか、無事でいるだろうか。怪我をしていないだろうか…………初夏の日差しには、雲が差したままだろうか……――――

 鏡に映った自分の目がはっと見開いたのを、リュイは見た。つい先ほど、ティセと離れようと念を入れたばかりなのに、もうティセのことを考えている。横向き加減にうつむき、溜め息をひとつつく。そして、もういちど鏡を見た。

 ……この目……

 誰かに似ているような気がしていたザハラの瞳の印象は、自分と似ているのだと知った。冷たく濡れた闇を溶かし込んでいるような、ザハラの瞳。その顔つきはやはり、自分と同じようにどこか暗い。

 けれど――――――リュイは思う。

 ザハラと自分は根本が違っている。人間不信のザハラは他者を信じられず、受け入れない。自分が信じられないのは、他者ではなく、自分だ。リュイがなによりも分からないのは、自分自身なのだ。





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