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その夜更け、深い眠りのなかにいたティセは、リュイに起こされて目が覚めた。なに……と開きかけた唇に、リュイは人差し指を押し当てて、声を出すなと無言で命じた。ひどく張りつめた表情をしている。先日、真夜中の絶叫を聞いたときと同じように。それを見て、ティセは異変を察知する。
ティセの耳元に顔を近づけて、息だけの声で言う。
「様子がおかしい。音を立てずに荷物をまとめろ」
え……? 思わず言いかけたティセに、リュイは再度人差し指で喋るなと命じる。
どう様子がおかしいのか、ティセにはまったく分からなかったが、リュイはあまりに真剣だった。不審に思いつつも静かに起き上がり、薄闇のなか、言うとおり音を立てずに荷物をまとめる。リュイは毎晩胸にしている短剣を、左腰、長剣の横に装備する。
土間のほうからエトラの母親らしき声が、かすかに聞こえた。言葉の意味までは取れない潜めた声だ。続いて、男の声がした。エトラの父親のものではありえない、正気を保っている声音だ。こんな時間にひとが来ている……ティセは急に不気味になった。
リュイは窓辺に立ち、外を窺う。それからティセを振り返り、指だけで「出ろ」と告げた。ティセが戸惑いの表情を浮かべると、口の動きだけで「早く」。射貫くような眼光の鋭さが、ことの深刻さを物語っている。就寝前に室内へ引き上げていた靴を履く。
へそより若干高い位置にある窓枠に手をかけて上り、ティセは窓を越えた。やにわ、ひやりとした夜の空気に包まれる。間を置かず、リュイからふたりの荷物を受け取る。続いてリュイも外へ出た。ちょうどそのとき、出てきた部屋のなかから男の声が上がった。
「いないぞ!」
「まさか!? さっきまで寝てたの見たわ」
エトラの母親の声だ。リュイはティセに目配せをし、とても静かに、足音を立てずに駆け出した。ティセも慌てて駆け出した。けれど、ティセの足音は静まりかえった夜の庭に大きく響いてしまう。
「外にいるぞ!」
もういちど部屋から声が上がった。
庭を出ると、中心街へ続く坂下のほうに五・六人の男の影が見えた。ふたりの姿を遠くにして、男たちはあきらかに反応を示す。手にしたランプの灯りが過剰に揺れていた。リュイは煩わしげに目元をぴくりとさせて、山へと続くなだらかな坂道を行った。
ティセは走りながら問う。
「いったいなにが起こってるの!?」
リュイは鋭い眼差しを前方へ向けたまま、
「エトラの母親に売られたようだ」
「――――――――……っ!!」
衝撃は稲光となってティセのなかを駆け抜けた。まさか…………という言葉さえ失った。
リュイの言葉が頭のなかで木霊する。エトラが知らないはずはない。夕映えの前、末の妹が口にしたあどけない質問は、これが初めてではないという証明だ。エトラの母と、そしてエトラの顔が、頭のなかに大きく映し出される。大きく、大きく引き伸ばされて、ティセの心を苦しいほど圧迫し、押し拉いでいく。走りながら、心がわめき叫ぶ。
信じられない、信じられない、どうしてこんなことを――――……!!
けれど、男たちがふたりを追って来ている。間違いなく、現実なのだ。
信じられない――――……信じたくない…………!!
完全にたばかられた。エトラに寄せた関心、好意、示した誠意…………ティセの真心を、エトラは母とともに完膚無きまで欺き、切り裂いたのだ。
どうして――――……エトラ!!
ゆるやかな坂の上、雲間に輝く下弦の月へ向かい、ティセの心がむせび泣いていた。
ほどなく、道は狭くなり本格的な山道となった。木々が密集してひどく暗いうえ、足場も悪い。加えて、荷を背負っている。ティセの息はすでに荒く、遅れがちになっていた。
「もう少し速く走れないか」
言われても、これが限界の速度だ。そもそも、ティセの俊足はどちらかといえば短距離向きで、抜きんでた持久力があるわけではなかった。リュイは少しも息を乱さず走り続ける。本当はもっと速く走れるのだろう。備えた体力が、ふたりはあまりに違いすぎていた。
追ってくる数個の灯りが、黒々とした木々の間に見え隠れしている。確実に少しずつ距離を詰めている。追いつかれるのは時間の問題――――もうまもなくだ。
やがて、道の左側の視界が開けた。右側は木々に覆われた斜面が壁のように立ち、左側はさらに急な斜面――――ほぼ断崖といっていい――――眼下に闇がぽっかりと口を開けている。
道の先が大きく右に折れているのが見えた。リュイは走りながら、断崖の闇を見つめた。のち、雲間に浮かぶ月を見上げる。そして、短剣を鞘から抜いた。速度を若干落としティセの右隣りへ並ぶ。道を曲がり切ったその直後、
「ティセ、息を止めろ」
「え?」
「いますぐ!」
告げるのと同時、リュイはティセの腰と荷物の間に左腕を差し込むと、すさまじい力でティセを奪い取るように掻き抱き、そのまま――――断崖の闇へと跳んだ。
「――――――――…………!!」
落下。すかさず、固く握り締めた短剣を、断崖の岩の間に深々と突き立てる。一体となったふたり、とくにリュイの右半身が反動で壁に強く叩きつけられる。が、持ちこたえた。ふたりは岩壁に留まった。内臓が押し潰されるほどの激しい圧迫感と痛みが、ティセの身体を襲う。
「…………っ!!」
言われなくとも息など止まった。意識も吹き飛んだ。背骨がきしむくらいきつく抱きかかえられてはいたが、それでもティセはリュイの背中の荷物を必死の思いで掴み続ける。
月が厚い雲に隠れて、視界が闇に沈む。リュイはそれを計算していたのだ。
頭上から男たちの声が聞こえる。
「どこに行った? 斜面を登って隠れたか?」
「くそ、こう暗くちゃ探しようがないぞ」
ティセは緊迫感に支配されながらも、男たちの声に耳をそばだてる。
「しかたねえ、明日の朝にするか。どうせ、あっちもろくに動けんだろう」
「見ただろ、ふたりとも上物だ、高く売れるぜ」
「あの女にはもう払っちまったしなぁ、逃がすわけにいかねえぞ」
男たちの声と足音は徐々に遠くなっていった。その気配が完全に消えるまで、ふたりはじっと固まっていた。
「……リュイ、大丈夫……?」
リュイは押し堪えた声で、言葉少なに答える。
「……ん……もう少し、月が出るまで……」
足元の闇は、底知れぬ静寂をたたえて横たわっている。冷気に似た静けさがふたりを包んでいた。
ティセは左耳にかかるほど近いリュイの息遣いと、少しだけ高い体温、まるで自分のもののように生々しいその鼓動、わずかに上下する胸筋の動きをはっきりと感じながら、なかば呆然と考えていた。
ふたり分の体重とその荷物の重量、そこにかかる重力を、リュイは右腕だけで持ちこたえ支えている。ティセは驚愕のあまり瞠目していた。腰に食い込む左腕の力強さに圧倒されていた。リュイという少年はこんなことができるのだという事実に、戦いていた。いったい、リュイは何者なのだろうか…………頭のなかで問わずにはいられない。
まもなく雲が切れ、月が現れた。岩壁と、下方の木々が月明かりにすうっと照らし出される。岩壁は完全に垂直に切り立っているわけではないが、怖々と下に目を向けてみれば、吸い込まれそうな恐ろしさに総毛だった。
「ティセ、荷物を捨てて。下へ降りよう」
「下に?」
「荷を背負って登るの、無理だろう?」
「……うん」
言ったものの、リュイの背の荷物を掴んだ手が、怖くて離せない。
「大丈夫、支えているから」
ティセは意を決して両手を離し、背中の荷物をどうにか捨てた。荷物はざざざと音を立てて滑落していった。
「そこに足がかりがある。移動できるか」
「や……やってみる」
ティセが壁に張りつきやすいように、リュイは身体をよじる。そして、抱きかかえた力を少しずつ抜いていく。ティセはリュイにしがみつく力を徐々に緩めながら、足場になる岩の出っ張りへ掛けた左足に体重を移していった。ずいぶんと時間がかかったが、ようやくひとりで壁に張りついた。
「はあぁぁぁ」
大きく溜め息をつく。リュイも疲れ切ったように、深く長い溜め息をついた。次の瞬間、リュイを支えている短剣を突き刺した岩壁の、その部分が――――崩れた。
一瞬にして、目の前からリュイの姿が消えた。声も上げずに、リュイは闇に吸い込まれていった。先ほど投げた荷物よりも大きな滑落音が、ティセの耳に響く。
心臓が凍りつく。頭のなかが真っ白になる。壁に張りついた全身が、指の先まで硬直した。のち、わななく唇から、
「……リュイ……」
血の気の引く音が聞こえる。怒濤のような不安と動揺に襲われ、怖気だつ。
「リュイイイィ――――――!!」




