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解放者たち  作者: habibinskii
第五章
27/81

6

 その夜更け、深い眠りのなかにいたティセは、リュイに起こされて目が覚めた。なに……と開きかけた唇に、リュイは人差し指を押し当てて、声を出すなと無言で命じた。ひどく張りつめた表情をしている。先日、真夜中の絶叫を聞いたときと同じように。それを見て、ティセは異変を察知する。

 ティセの耳元に顔を近づけて、息だけの声で言う。

「様子がおかしい。音を立てずに荷物をまとめろ」

 え……? 思わず言いかけたティセに、リュイは再度人差し指で喋るなと命じる。

 どう様子がおかしいのか、ティセにはまったく分からなかったが、リュイはあまりに真剣だった。不審に思いつつも静かに起き上がり、薄闇のなか、言うとおり音を立てずに荷物をまとめる。リュイは毎晩胸にしている短剣を、左腰、長剣の横に装備する。

 土間のほうからエトラの母親らしき声が、かすかに聞こえた。言葉の意味までは取れない潜めた声だ。続いて、男の声がした。エトラの父親のものではありえない、正気を保っている声音だ。こんな時間にひとが来ている……ティセは急に不気味になった。

 リュイは窓辺に立ち、外を窺う。それからティセを振り返り、指だけで「出ろ」と告げた。ティセが戸惑いの表情を浮かべると、口の動きだけで「早く」。射貫くような眼光の鋭さが、ことの深刻さを物語っている。就寝前に室内へ引き上げていた靴を履く。

 へそより若干高い位置にある窓枠に手をかけて上り、ティセは窓を越えた。やにわ、ひやりとした夜の空気に包まれる。間を置かず、リュイからふたりの荷物を受け取る。続いてリュイも外へ出た。ちょうどそのとき、出てきた部屋のなかから男の声が上がった。

「いないぞ!」

「まさか!? さっきまで寝てたの見たわ」

 エトラの母親の声だ。リュイはティセに目配せをし、とても静かに、足音を立てずに駆け出した。ティセも慌てて駆け出した。けれど、ティセの足音は静まりかえった夜の庭に大きく響いてしまう。

「外にいるぞ!」

 もういちど部屋から声が上がった。

 庭を出ると、中心街へ続く坂下のほうに五・六人の男の影が見えた。ふたりの姿を遠くにして、男たちはあきらかに反応を示す。手にしたランプの灯りが過剰に揺れていた。リュイは煩わしげに目元をぴくりとさせて、山へと続くなだらかな坂道を行った。

 ティセは走りながら問う。

「いったいなにが起こってるの!?」

 リュイは鋭い眼差しを前方へ向けたまま、

「エトラの母親に売られたようだ」

「――――――――……っ!!」

 衝撃は稲光となってティセのなかを駆け抜けた。まさか…………という言葉さえ失った。

 リュイの言葉が頭のなかで木霊する。エトラが知らないはずはない。夕映えの前、末の妹が口にしたあどけない質問は、これが初めてではないという証明だ。エトラの母と、そしてエトラの顔が、頭のなかに大きく映し出される。大きく、大きく引き伸ばされて、ティセの心を苦しいほど圧迫し、押し拉いでいく。走りながら、心がわめき叫ぶ。


 信じられない、信じられない、どうしてこんなことを――――……!!


 けれど、男たちがふたりを追って来ている。間違いなく、現実なのだ。


 信じられない――――……信じたくない…………!!


 完全にたばかられた。エトラに寄せた関心、好意、示した誠意…………ティセの真心を、エトラは母とともに完膚無きまで欺き、切り裂いたのだ。


 どうして――――……エトラ!!


 ゆるやかな坂の上、雲間に輝く下弦の月へ向かい、ティセの心がむせび泣いていた。

 ほどなく、道は狭くなり本格的な山道となった。木々が密集してひどく暗いうえ、足場も悪い。加えて、荷を背負っている。ティセの息はすでに荒く、遅れがちになっていた。

「もう少し速く走れないか」

 言われても、これが限界の速度だ。そもそも、ティセの俊足はどちらかといえば短距離向きで、抜きんでた持久力があるわけではなかった。リュイは少しも息を乱さず走り続ける。本当はもっと速く走れるのだろう。備えた体力が、ふたりはあまりに違いすぎていた。

 追ってくる数個の灯りが、黒々とした木々の間に見え隠れしている。確実に少しずつ距離を詰めている。追いつかれるのは時間の問題――――もうまもなくだ。

 やがて、道の左側の視界が開けた。右側は木々に覆われた斜面が壁のように立ち、左側はさらに急な斜面――――ほぼ断崖といっていい――――眼下に闇がぽっかりと口を開けている。

 道の先が大きく右に折れているのが見えた。リュイは走りながら、断崖の闇を見つめた。のち、雲間に浮かぶ月を見上げる。そして、短剣を鞘から抜いた。速度を若干落としティセの右隣りへ並ぶ。道を曲がり切ったその直後、

「ティセ、息を止めろ」

「え?」

「いますぐ!」

 告げるのと同時、リュイはティセの腰と荷物の間に左腕を差し込むと、すさまじい力でティセを奪い取るように掻き(いだ)き、そのまま――――断崖の闇へと跳んだ。

「――――――――…………!!」

 落下。すかさず、固く握り締めた短剣を、断崖の岩の間に深々と突き立てる。一体となったふたり、とくにリュイの右半身が反動で壁に強く叩きつけられる。が、持ちこたえた。ふたりは岩壁に留まった。内臓が押し潰されるほどの激しい圧迫感と痛みが、ティセの身体を襲う。

「…………っ!!」

 言われなくとも息など止まった。意識も吹き飛んだ。背骨がきしむくらいきつく抱きかかえられてはいたが、それでもティセはリュイの背中の荷物を必死の思いで掴み続ける。

 月が厚い雲に隠れて、視界が闇に沈む。リュイはそれを計算していたのだ。

 頭上から男たちの声が聞こえる。

「どこに行った? 斜面を登って隠れたか?」

「くそ、こう暗くちゃ探しようがないぞ」

 ティセは緊迫感に支配されながらも、男たちの声に耳をそばだてる。

「しかたねえ、明日の朝にするか。どうせ、あっちもろくに動けんだろう」

「見ただろ、ふたりとも上物だ、高く売れるぜ」

「あの女にはもう払っちまったしなぁ、逃がすわけにいかねえぞ」

 男たちの声と足音は徐々に遠くなっていった。その気配が完全に消えるまで、ふたりはじっと固まっていた。


「……リュイ、大丈夫……?」

 リュイは押し堪えた声で、言葉少なに答える。

「……ん……もう少し、月が出るまで……」

 足元の闇は、底知れぬ静寂をたたえて横たわっている。冷気に似た静けさがふたりを包んでいた。

 ティセは左耳にかかるほど近いリュイの息遣いと、少しだけ高い体温、まるで自分のもののように生々しいその鼓動、わずかに上下する胸筋の動きをはっきりと感じながら、なかば呆然と考えていた。

 ふたり分の体重とその荷物の重量、そこにかかる重力を、リュイは右腕だけで持ちこたえ支えている。ティセは驚愕のあまり瞠目していた。腰に食い込む左腕の力強さに圧倒されていた。リュイという少年はこんなことができるのだという事実に、戦いていた。いったい、リュイは何者なのだろうか…………頭のなかで問わずにはいられない。


 まもなく雲が切れ、月が現れた。岩壁と、下方の木々が月明かりにすうっと照らし出される。岩壁は完全に垂直に切り立っているわけではないが、怖々と下に目を向けてみれば、吸い込まれそうな恐ろしさに総毛だった。

「ティセ、荷物を捨てて。下へ降りよう」

「下に?」

「荷を背負って登るの、無理だろう?」

「……うん」

 言ったものの、リュイの背の荷物を掴んだ手が、怖くて離せない。

「大丈夫、支えているから」

 ティセは意を決して両手を離し、背中の荷物をどうにか捨てた。荷物はざざざと音を立てて滑落していった。

「そこに足がかりがある。移動できるか」

「や……やってみる」

 ティセが壁に張りつきやすいように、リュイは身体をよじる。そして、抱きかかえた力を少しずつ抜いていく。ティセはリュイにしがみつく力を徐々に緩めながら、足場になる岩の出っ張りへ掛けた左足に体重を移していった。ずいぶんと時間がかかったが、ようやくひとりで壁に張りついた。

「はあぁぁぁ」

 大きく溜め息をつく。リュイも疲れ切ったように、深く長い溜め息をついた。次の瞬間、リュイを支えている短剣を突き刺した岩壁の、その部分が――――崩れた。

 一瞬にして、目の前からリュイの姿が消えた。声も上げずに、リュイは闇に吸い込まれていった。先ほど投げた荷物よりも大きな滑落音が、ティセの耳に響く。

 心臓が凍りつく。頭のなかが真っ白になる。壁に張りついた全身が、指の先まで硬直した。のち、わななく唇から、

「……リュイ……」

 血の気の引く音が聞こえる。怒濤のような不安と動揺に襲われ、怖気だつ。

「リュイイイィ――――――!!」




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