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解放者たち  作者: habibinskii
第五章
26/81

5

 翌日の午前中、ふたりは庭先でエトラの弟妹たちに勉強を教えていた。朝食後、客間にやってきた弟妹たちのひとりが、リュイから本を取り上げて眺め始めたのが発端だった。

「あ! ちょっと、それ破かないでくれよ」

 柄にもなく慌てたリュイがとても可笑しくて、ティセは思いきり吹き出した。すると、客間の騒ぎを横目にしたエトラが言ったのだ。

「あんたたち、どうせ暇なんでしょ。この子たちに勉強でも教えてやってよ」


 薄紫の花が満開のジャガランダの下に大きなムシロを敷いた。その上に人形みたいに行儀良く並んだ六人の弟妹たちへ、まずは数字を教えた。下の三人はまだ幼すぎて、まったく理解できない。兄や姉のすることを真似て楽しんでいるだけだ。予想通り、すぐに飽きてしまったので、ティセは下三人の遊び相手になり、上三人の勉強はリュイへ任せた。リュイはひどく困ったような顔をしつつも、しかたなく臨時講師を演じていた。

「なな、引く、よんはぁ……よん!」

「……違うよ。よく考えて。石をななつ並べてみたらいい」

 藁で作った球を子供たちと投げ合いながら、ティセはリュイを眺めていた。ジャガランダの下、子供たちを前にして、背筋をぴんと伸ばし胡座を組むその姿は、本人の困惑とは裏腹に驚くほど(さま)になっている。学校の教壇にまっすぐ立つリュイの姿を想像してみれば、思わずにやりとしたくなるくらい似合っていた。

 教師然としたその姿から、ティセは連想する。

 長旅のためか、本ばかり読んでいるせいか、リュイは同世代の友人たちと比べると、ずっと物知りのようだ。昨日したような会話を同級生たちがしているのを、耳にしたことはない。知識だけでなく、なにかものを深く考えているのだと、昨日知った。

 一方で、リュイは同世代が普通知っていて当然のものごとを、まるきり知らないことがある。たとえば、原始人の壁画について想像していたときのように。ティセはそのたびに唖然としてしまう。

 リュイは物知りである反面、なにかが、どこかが、大きく欠けている、ティセはそんな気がしていた。それがなにかはまだよく分からず、うまく説明はできない。けれど、話をしていて、リュイが応えにつまり黙り込むたびに、そう感じた。沈黙の奥に、欠けた部分がぽっかりと口を開けているのが、ティセには見える気がするのだ。


 それにしても昨日、リュイは何故あんなにも冷ややかに、かつ饒舌に、追及してきたのだろうか。ティセはいまも少しばかり胸がもやもやとわだかまる。やり込められた悔しさも、少しはあった。

 その仕返しというわけでもないが、ティセは若干からかいを込めて、リュイへ言う。

「よお、先生。なかなか似合ってるぞ」

 リュイは疲れたような目を向けて、囁いた。

「ティセ、頼むから代わってくれないか」

「成績良かったんだろ、先生役、うってつけじゃないか」

「それは関係がないだろう」

「代わってやってもいいけどさ。そしたら、おまえが下三人の遊び相手をするんだよ」

 溜め息を深くついて、授業へ戻った。下の三人とは意思の疎通すらできないからだ。リュイは本当に子供が苦手なのだ。ティセはクッと笑いを漏らす。

 しかし、考えてみれば、リュイにはひとつ歳下の妹がいる。子供のころ、その面倒を見なかったはずはない。にも拘わらず、独り子のティセのほうが、よほど子供の扱いがうまかった。



 エトラが市場から戻ってきた。豆や雑穀で一杯にした篭を背負ったまま、授業の様子を覗き込む。

「どう? サガルは勉強の才能ありそう?」

 リュイは困り果てたように、

「……飲み込みは早いほうだと思う。けれど…………少しも落ち着いてくれない」

 サガルはじっと座っていることができず、急に立ち上がってはそわそわと辺りをうろつき、満足してまた戻る、をくり返していた。そのたびに授業は中断した。エトラは呆れたように眉間をしわめ、弟の頭をぺしりとはたいた。サガルはぺろりと舌を出す。

「しょうがないわねぇ、しっかりしてよ跡取りなんだから」

 小言を言ったのち、エトラはムシロの側の地面に書かれた文字を眺めた。サガルが得意げに声を上げる。

「ありがとう、って書いてあるんだよ!」

 エトラも文字が読めないことを、ティセはそのとき初めて知った。

「もしも時間があるなら、エトラにも読み書き教えてあげるよ」

 軽い気持ちで申し出ると、

「ほっといてよ!! そんな暇じゃないのよ、あたし!」

 エトラは声を荒らげて、予期せぬ怒りを露わにした。ティセは横っ面をぴしゃりと叩かれた気がして、瞬間、真顔になる。鼻のつけ根に皺を寄せ、エトラはティセを憎々しげに睨みつけた。ひとしきり怒りの目を向けたあと、唇を震わせたまま、ぷいっと家屋のほうへ歩いていった。

 ティセはその後ろ姿を見つめて立ちすくんだ。読み書きができないことに、エトラは少なからず劣等感を抱いていると気づいた。ティセはいま、不用意な発言でそれを刺激してしまったのだ。女が勉強してなにになるのか…………言いつつも、エトラは学校に憧れを持っているのだろう。ティセは自分の思慮の足りなさを激しく嫌悪した。胸のなかが後悔でいっぱいになる。最低だよ、俺…………頭でつぶやき、がっくりと項垂れる。

 リュイはエトラの複雑な思いも憤りも、まったく理解しなかったように、

「エトラがいま怒ったのは何故?」

 ティセはうつむいたまま、

「……なんでもないよ……俺が悪かったんだ……」

 ここへ来てから、本当に気が滅入ってばかりだと、深い溜め息を漏らした。



 エトラに謝罪すべきかどうか、ティセはとても迷った。下手な謝罪は、かえってエトラの怒りを招くかもしれない。また、自尊心を傷つけてしまいかねない。

 けれど、いま謝らなければ二度とその機会は訪れない。この町を出てしまえば、もう会うことはないだろう。ティセは自分の気持ちを優先する身勝手をあえて選んだ。

 昼食後、エトラは庭の洗い場にしゃがみ込み、食器や鍋を洗い始めた。ティセは背後からそっと近寄って、黙々と皿を擦るエトラの横にしゃがんだ。そして、なにも言わずに手伝い始める。エトラは見向きもせずに、

「あんた、お客さんなんだから、そんなことしなくていいわよ」

 声にはまだいくぶん角があった。少しばかりたじろいだが、

「……あの……さっきは、ごめんね……」

 エトラはひと呼吸置いてから、

「蒸し返さないでよ、繊細さに欠けるわねぇ!」

「…………」

 繊細さなどと、エトラは本当に子供らしくないことを言う。どう謝れば許してもらえるだろうか、ティセは藁で食器を擦りながら考える。しばらくの間、食器を擦るシュシュシュという音だけが二重奏となって、洗い場に流れていた。

 やがて、エトラはぽつりと言った。

「気にしなくていいわよ、もう」

 ティセはほっと胸を撫で下ろす。それきり、エトラは黙っていた。が、そのうち、洗いものの手元をじっと見つめたまま、急に声を落として、

「あのさ」

「なに?」

「……あんまり、あたしに優しくしないでくれる?」

「……えっと、それ、どういう意味……?」

「言葉どおりの意味よ」

 昨日、ティセから誉められたあとにしたように、エトラは居心地の悪そうな顔をする。優しくされることにも慣れていないのだろうかと、ティセは切なくなった。エトラはひたすら洗いものを続けるだけで、もうなにも言わない。



 エトラは所用のため、もういちど町へ降りていった。リュイは引き続き授業を命じられ、表情を曇らせながらも従順に臨時講師を演じている。ティセは下の三人と遊びつつ、憐れなリュイの様子を横目で見て笑っていた。

 サガルはどうしても落ち着かない。午前中よりもさらにそわそわとして、一向に授業は進まないようだった。なけなしの集中力を午前中に使い果たしてしまったのだろう。やにわに立ち上がると庭を一周駆けめぐり、胡座を組むリュイへ背後から近づいた。そして、その腰に下がる長剣の柄に手をかけ、鞘から抜き出そうとした。リュイは慌てた声で、

「駄目だよ! 危ないだろう!」

 叱られても、サガルはめげる様子がない。ニヒッと笑ったあと、庭の隅のほうから棒っ切れを持ち出してきた。リュイに立ち向かい、味噌っ歯を猿のようにむき出して威嚇する。

「先生! 勝負だ!!」

 と、棒っ切れを振り下ろした。

 リュイは胡座を組んだまま、その一撃を器用に除けた。のち、体重などないかのような身軽さでさっと立ち上がり、

「何故そんなに落ち着かないんだ!」

「うるさい! 勝負だっ!!」

 サガルの頭のなかはもうチャンバラでいっぱいなのだった。「勝負だっ!」と雄叫びを上げては、リュイへ向かって次々と斬りかかっていく。

「落ち着いてくれ」

 そうくり返しながら、リュイは少しも無駄のないわずかな動きだけで、棒っ切れの攻撃を除け続ける。ささやかで滑らかな身のこなしは、あたかも風にそよぐ柳の枝か、さもなくば、掴もうとしてもするりと身を翻してしまう小川の魚を思わせた。サガルが次にどう動くか、前もってすべて知っているかのような滑らかさだ。すっと流れくる微風さながらの動きは力んだところがなく、耳際にかかる黒髪と、襟もとに巻いた薄布の裾がふわりと揺れるだけだった。ティセはその様子に見惚れてしまった。

「……鮮やかだなぁ……」

 が、眺めているうちに、ティセはどうにも尻の辺りがむずむずしてきた。ついに我慢できず、リュイの背後へそっと回り、

「加勢するっ! サガル、やっちまえ!!」

 羽交い締めにした。リュイは背中に貼りついたティセを振り向き、

「ティセッ! なにをするんだっ!?」

 棒っ切れを頭上に構え、雄叫びを上げながらサガルはリュイへ迫り来る。

 一撃必至!

 と、思われたがリュイは数枚上手だった。右足を頭の上まで振り上げ、迫り来る棒っ切れを遠くへ蹴り飛ばし、さらにその足を振り下ろす反動を利用して、ティセを背中の上から投げ飛ばす。こんどは微風に似た動きかたとは正反対の、疾風(はやて)のごとき鋭い動作だった。

「うわあああぁっ!!」

 一瞬の浮遊感、ティセはどうにか受身を取ったが、地面に落ちればそれなりに痛い。

「――――つぅぅぅ……やったなあっ!?」

 腰をさすりつつ振り返ると、リュイは意外そうに目を開き、

「よく受身を取れたな……」

 変なところに感心していた。

 飽き足らないサガルは、棒っ切れを拾って戻る。まだまだ、と息込んで構え、リュイを見上げる。リュイは溜め息をつき、

「付き合っていられない……」

 言い捨てて、部屋へ戻ろうとする。

「すかしやがって……」

 ティセはリュイの背中に指を差し、まるでエトラのように子供たちへ号令をかける。

「追撃!!」

 六人の弟妹がはしゃぎ声を上げて、その背中を追う。リュイは後ろ姿をびくりと震わせた。


 結局、授業はそれまでになり、陽が西へ傾きかけ、エトラが戻るまで走り回っていた。いつの間にやら、誰が誰を追っているのか分からなくなり、全員が全員から逃げ出すという状態に陥った。困り果て怯えたような顔をするリュイが可笑しくて、ティセは始終ニヤニヤしていた。昨日からのわだかまりがようやく消えたように思えた。そして、子供たちのおかげで、ふたりきりでいては決して見られないリュイを見られたことに満足していた。リュイはどこかにうまく隠れたようで、途中から姿が見えなくなってしまったが。



 風が涼しくなった庭先で、エトラが用意した麦焦がしを皆で食べた。授業と子守の報酬のつもりなのか、麦焦がしはほどほどに砂糖が入れられていたうえに、茶も出がらしではなかった。

 空はめずらしく晴れている。昨日までのこの時刻には、すでに雨が降っていた。このままであれば、ティアマの町で聞いた、夕陽に染まるマドラプールの美しさを拝めるかもしれない。ティセの胸は期待で高まった。

 リュイはいつまにか庭へ姿を現し、なにもなかったように澄ました顔をして、ティセの横で本を読んでいる。

「戦線離脱か、卑怯もの。どこに隠れてた?」

「…………僕を巻き込まないでくれないか。疲れているんだ」

「疲れてる!? 勉強教えたのが?」

 本からわずかに顔を上げ、前方にあるジャガランダの根元を眺めるような目線になって、リュイは答えた。

「……それだけじゃなくて」

「…………年寄りみたいなこと言うなよ、おまえ」

 夕風が冷たいのか、末の妹がティセにぴったりと寄り添ってきた。ティセはその小さな肩を抱く。離れ気味の両目がエトラとそっくりだが、あどけない口元と、そこから出てくる頼りなげな声は姉とは正反対で、とても可愛らしい。

「ねえ、お兄ちゃん。ちゃんとさよなら言って行く?」

「ん? 出発のときのこと? 当たりまえだろ、お世話になったらちゃんと挨拶しないといけないって決まってるんだよ」

「そっかあ!」

 末の妹はやわらかな頬をティセの脇に押し当てて笑った。


 ほどなくして、望むべくもないと思っていた夕映えが訪れた。この時季に、奇跡的な幸運に恵まれた。空と、眼下に横たわるマドラプール中心街に、ティセは釘づけになる。

 黄金色に染まる空、いくつも棚引く雲の下辺が、燃えるように(あか)く輝き、錦を織りなす。淡紅色煉瓦の町は、ひとときその色を変えた。色褪せ始めた薔薇に似た、落ち着いたその色が、赤みの強い桃色に変わる。生きものの肉のような瑞々しさを帯びた、匂い立つほど優美な桃色だ。町がしっとりと濡れながらあえかに輝き、甘い芳香を放っているかに見えた。煉瓦工場の煙突から細く流れる八筋の煙も、絵筆でなぞったようにほの紅く染まっている。

 黄金色と雲の(あか)、なまめく桃色が、それぞれを侵すことなく折り合い調和し、ティセの眼前に広がる大きな映写幕に映し出されていた。世界という名の映写幕だ。そのなかに、鳥の群れの影絵が遠くゆっくりと流れていく。

 心を鷲掴みにされて、放心したまま見入っていた。五感はすべて視覚に取られてしまったのか、音も聞こえず夕風の冷たさすら忘れていた。陶然としながら、ティセは想像する。


 この世界には美しいものが、きっとたくさん隠されている。ならば、それを求めて歩いていきたい、まっすぐに歩む自分の姿を、頭に思い描いて歩いていきたい……。


「きれいだねえ……」

 隣りにいるリュイへうっとりと語りかけた、途端――――――ティセは現実に引き戻された。リュイはいつものように本を読んでいて、夕映えなど見てはいなかった。

 ティセは表情を失った。胸の奥がわななき、さっと冷たくなる。それから熱いものがぐっと込み上げて、喉がつまったように感じた。リュイは声をかけられて初めて夕映えに気づいたようだ。そのうえ曖昧に同意しただけで、すぐ本へ戻ってしまう。ティセはたまらず、無言で前に向き直した。けれどもう、目の前の素晴らしい情景は、同じ色には感じられない。にわかに色褪せてしまっていた。

 同行者と感動を分かち合いたいと思うのは、自分だけなのだ――――そう気づかされて、ティセはひどく心を痛めていた。期待するほうがいけないのだろうか、図々しいのだろうか…………問うたら、目に涙が滲んだ。


 リュイとの距離は、依然としてこんなにも遠いのだ――――


 思い知らされ、打ちひしがれた。とてつもなく哀しくなった。夜の冷気を帯びた風が、身体のなかを吹き抜けていったようだった。

 ここへ来てから滅入ることばかり続いている、けれど、いまの衝撃がティセにとってはもっとも手痛く、なによりも深かった。






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