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解放者たち  作者: habibinskii
第五章
24/81

3

 まだ薄暗いうちに、ティセは目が覚めた。土間から竈を焚く音がする。覗いてみると、エトラが生あくびをしながら、真鍮の円柱型弁当箱に昨夜の炒め煮の残りをつめていた。開け放たれた戸口から、夜の名残を含むひんやりとした空気が流れ、竈の煙をあおいでいる。

「なによ、ずいぶん早起きね。もっと寝てたら? 朝ごはんまだよ」

 こんなに早起きされたら迷惑だと言いたげな口調だ。

「べつに急がなくてもいいよ」

 エトラは竈にかけていた薬缶を取り上げる。湯呑みに茶を注いで、無言でティセに差し出した。ありがとう、と受けた茶はほとんど香りがしない。

「ねえ、エトラ。夜中に叫び声がしたの、聞いた?」

 弁当箱のふたを閉める手を、エトラは一瞬止めた。が、すぐに金具をカチリと留めて、ぶっきらぼうに返す。

「知らないわ。なにがあっても目が覚めないくらいクタクタになって寝てんだから」

「……そっか」

 奥の家族部屋から身支度をととのえたエトラの母親が出てきた。原色の巻き(スカート)が薄暗がりに揺れているけれど、色褪せくすんでいるために、闇に埋没しそうなほどぼんやりと目に映る。

 母親はティセに会釈をすると、弁当箱を胸に抱えて、いそいそと戸口から出て行った。

「毎朝こんなに早く家を出るの?」

「そうよ。お陽さまと一緒に出て、暗くなってから帰るのよ」

 さあさ、とエトラはにわかに勢いづいて、寝ている弟妹たちを起こしにいった。

「ほら起きた起きた! 早くお水汲んできて! お客がいるんだからたくさん汲んできてよ」

 ティセは土間へ立ったまま、エトラの母親を思っていた。エトラの歳から推せば、母親はティセの母とそれほど歳が違わないはずだ。にも拘わらず、ずいぶん老けて見える。皺の多い目尻には、同じだけくっきりと疲労が刻まれている。顔の色も悪い。いまだ娘らしさを残す若々しいティセの母親とはまるで違う。昨日から胸に溜まっているもやもやとした思いが、さらに質量と色合いを増して、ティセを切なくさせていくようだった。



 朝のうちに、ふたりは中心街へ出かけた。街が活気づくのは、やはり午前中だ。昨日到着した時刻の何倍もの人出で、煉瓦敷きの舗装が見えないほどだった。うっかりすれば、リュイとはぐれてしまいそうになる。けれど、心配は無用だ。ティセはリュイの横顔をちらりと見上げ、

「おまえは目立つから、はぐれてもすぐに見つけられるな」

 にやりと笑ったら、リュイは少し厭そうな顔をした。

 市場へ趣き、なかにある茶屋で塩と牛乳の入った茶を飲みながら、町のひとに話を聞いた。塗装をしていない簡素な木の長椅子に腰かけた荷運び夫が、シュウへ向かう道の治安についてよく教えてくれた。

 近年、荷を狙う山賊があとを断たなかったが、少しまえ一斉に検挙されすこぶる治安がよくなったと、嬉しそうに語った。荷運び夫は白髪交じりの無精髭を指の腹でさすりながら、感心したようにリュイへ言う。

(あん)ちゃん、若えのにずいぶんしっかりしてんな。無事、親戚の家に辿り着けるといいな」

 旅の理由を尋ねられると、リュイはいつでもひどく適当な返答をしていた。荷運び夫にはシュウに住む親戚の家へ行くと話した。笛について、誰かに尋ねることもない。もちろん、笛の不思議を簡単に信じるひとはいないだろう。しかし、誰にもなにも尋ねずに、果たして笛の真実に辿り着けるのだろうか。笛が導くと信じているのだとしても、心許なくはならないのだろうか、ティセは思わずにいられない。

 それについて、いちどリュイへ言った。リュイはいやに淡々とした口調でこう返した。

「笛について尋ねて、もしも怪しく思われたら必要な情報が手に入らない。話すだけ不利益になる」

 一理ある。が、ティセにはなんとなく納得がいかなかった。それ以上は主張せず引き下がったのは、リュイが自分を旅の仲間だと本心から認めているのか、いまだ確かな自信を持てなかったからだった。

 荷運び夫はふいに思い出したように、「おお」と独りごちてから、声の調子を落として、

「そうそう。ちょっと気になる話があるぞ」

 リュイは荷運び夫の目を覗き、

「気になる話?」

「ここ数年、子供や若いのが突然消えちまうことが多いんだ。誘拐ってのか? だけどよ、金の要求はねえんだ、本当にただ消えちまうだけなんだ。子供や若いのを捕まえてどこかへ売り飛ばす悪党がいるんじゃねえかってな、みんな噂してんのさ」

 心の底から嫌悪するふうに「鬼畜生みてえな話だろ」と吐き捨てた。そして、茶をひといきに流し込むと腰を上げ、

「ま、兄ちゃんはしっかりしてるから大丈夫だろうよ。友達を守ってやんな」

 言い残し、仕事へ戻っていった。

 守ってやるべき友達って俺のことかよ……完全に子供扱いされ、ティセは不本意ながらも少しは肯定しつつ、内心いじけてしまった。リュイは湯呑みを唇に当てたまま、つぶやいた。

「ティアマの宿で聞いた神隠しのことか……」



 宿へ戻り、噂について尋ねてみた。エトラは庭先で末の妹の髪を洗ってやりながら、

「その噂を知らないひとはいないわよ。でも、誰もそれを見たひとはいないし、ほんとかどうか怪しいもんよ。みんな騒いでるけど、この町で消えちゃった子ってひとりかふたりくらいよ。お山の向こうの町では何人も消えたって聞いたけど。詳しく知りたいなら、お山の向こうへ行ってみたら?」

 大きく前屈みになった妹の後頭部から、手桶の水でザバリと泡を流す。妹はいやいやをするふうに頭を振った。

「ちょっと! 動くと耳に水入るってば!」

 小さな尻をぺしりと叩く、妹は「きゃきゃきゃ」と笑って、さらに動く。

「動くなって言ってんでしょ、洗ってやんないわよ!」

 エトラの尖った声が晴れた空へ響いた、そのとき――――逆さまにした桶に腰かけて地図を眺めていたリュイが、突然弾かれたように顔を上げ、後ろを振り返った。つられて、ティセも振り返る。

 家屋に隣接した家畜小屋の脇に、壮年の男がひとり佇んで、こちらを見ていた。

 ひょろりとやせ細り、掻きむしったように乱れた頭髪をした男、落ちくぼんだ目をギョロリとむき出して、じっとこちらを正視している。頭蓋骨の形が浮き出るほど頬の痩けたその顔に、表情は少しもない。そればかりか、男は確たる自我も意識もなさそうな様相だ。見開かれた両目は虚無を湛えている。ひと目で分かる、あきらかに男は現実を失っている。いきなりそこへ湧いて出たように、不気味な違和感を放ちながら立ちつくしていた。化け物じみた怖ろしさを覚え、ティセは背筋を寒くした。

 やおら、男は顔を歪ませる。目元を、口元を不自然に引きつらせ、悪鬼のごとき相貌となり、そして――――――唐突に絶叫した。夜更けに聞いた、あの声だ。

 エトラは舌打ちとほぼ同時に、

「サガル!!」

 上の弟の名を叫んだ。庭先にしゃがみ込んでいた弟が、電光石火で立ち上がる。男に駆け寄り、その骨張った腕を力任せに引っ張って、家の裏へ消えていった。

 庭には、どう手を付けたらいいのか戸惑うほどのぎこちなさが満ちていた。ティセは、そしてリュイも、いま男が立っていた場所を呆然と眺めていた。姿を消したあとも、そこには不吉さがありありと残されていた。

 まだ場の空気を読むことのできない末の妹が、無邪気な声で言ってしまう。

「お父ちゃん、病気なの」

 途端、エトラにきつく睨みつけられ、妹は怯えた目になり口を結ぶ。あまりの遣り切れなさに、全員が凍てついたように押し黙った。

 この家に父親の姿が見えないのは、もちろん気づいていた。エトラも弟妹たちも、父親のことをいちども話題にしないので、出稼ぎで不在なのではなく、亡くなったか出て行ったかして久しいのだろうと、ティセは考えていた。リュイもそうだろう。けれど、父親はいたのだ。

 ある日突然、もしくは徐々に、気が狂れてしまうことがある。ナルジャにもいた、隣町ジャールでも見かけたことがある。原因ははっきりとしない。天罰だと怖れるひともいれば、呪いを掛けられたと憤るひともいる。寄生虫が脳髄に達したのだと、訳知り顔でいうひともいた。

 はっきりしているのは、そうなってしまったらもう二度と正気には戻らないということだけだ。それでも家族は医者を呼び続け、呪術医にすがり、祠に供物を捧げ、シータ教寺院へ通いつめて神さまに祈る。そうして少しずつ資産を減らし、心もまた磨り減らし、いつしかあきらめる。そのひとを家に閉じ込めて、決して外には出さず、もう口にすら出さない。

 父親はいる、この家の秘密、言うなれば暗部として……ごくつぶしと成り果てて。この家の貧しさの原因を知り、ティセはもやもやとしていた胸の奥を、鋭利な刃物でばっさりと裂かれたように感じた。たまらない痛みが、胸中を駆け抜けた。

 エトラは眉根に皺を寄せ、いらだちを露わにして、桶の水を地面にぶちまけた。唸るような低い声で「行くよ」と言い捨てて、屋内へ戻っていく。庭にしゃがんでいた弟妹たちが慌てて立ち上がり、エトラの背中を追っていった。

 切なさに耐えかねて、ティセはリュイにそっと目を向ける。リュイもやるせなさそうに目を細め、みすぼらしい家屋を見つめていた。

 やがて、空が暗くなり、沈んだ心をさらに滅入らせる、どしゃぶりの雨が降り始めた。


 夕食は昨晩と同じ献立だった。エトラはやはり食事に参加しない。弟妹たちが賑やかに食べている間、またも姿を消していた。母親の帰宅を待っているだけでなく、家の裏にあるだろう隠された部屋で、父親に夕食を食べさせているのだと、すぐに気がついた。馬鈴薯とオクラの炒め煮は昨晩と変わらない美味しさであるのに、ティセは味わう心の余裕を失っていた。



 翌朝、リュイはひとり、ふたたび中心街へ出かけて行った。ティセは宿に残り、弟妹たちの相手をしている。今日は宿に残るとリュイへ言ったのは、エトラの働きぶりを一日、そうっと眺めてみたかったからだ。

 エトラの仕事は膨大にあった。掃除、洗濯、飯炊き、父親の介護、まだなにも満足にできない小さな弟妹の世話、買いもの、家庭菜園の管理、山羊の乳搾り、繕いもの……主婦と同じく息をつく暇もない。

 上の弟のサガルは八歳で、エトラの良い助手だ。表情は豊かだが口数は少なく、エトラの指示に無言で従っている。けれど、まだまだ子供であるうえ、ひどく落ち着きに欠けていて、指示と同じくらい小言を受けていた。ひとりで完璧にこなせるのは、山羊を追うのと、家畜小屋の掃除だけのようだ。

 サガルの下の弟妹たちは年子で、末の妹は三歳だ。皆、本当によくエトラを手伝っている。そんな弟妹たちに号令をかけるのも、エトラの仕事のひとつなのだった。

 ティセはふと気がついた。この七人兄弟のうちエトラを含む上の三人は、イリアの学制に照らし合わせれば、間違いなく就学年齢に達している。が、誰も学校へは通っていないようだ。この国にはリュイの故郷と同じように、義務教育はないのだろうか。



 午後、弟妹たちは山羊を追いながら水汲みに出て行った。エトラは陽がさんさんと降り注ぐ明るい庭の木陰に腰を下ろし、弟の上着を繕い始めた。ティセは少し離れたところへ腰かけ、その様子を眺めている。

 久しぶりに針と糸を目にしたティセは、当然のように母を思い出していた。母の顔と、いまや懐かしくさえ思う足踏みミシンの軽快な音が、脳裏に幾度も浮かぶ。

 母さん……いま、なにしてるかな……

 感傷に浸りつつ眺めていると、エトラは急に「ふうっ」と大きく溜め息をついて、ティセをギロリと睨んだ。

「ねえ。朝からなんなのよ、ひとのことジロジロ見て! ……まさか、あたしに惚れたんじゃないでしょうね!?」

 ティセはがっくりと肩を落とす。

「……ばーか。ガキがなに言ってんだよ」

「じゃあなんなのよ。やりにくくってしょうがないわ」

 エトラは欠けた前歯で糸を切ると、すぐさま次の綻びに手を付ける。小枝のような指で糸を縒り、一瞬で糸の端に玉を作る。そして、小気味よい速さで針を走らせていく。

 ティセは腰を上げ、エトラの隣りへ座り直した。ここからは町が見渡せる。家の横を通るなだらかな下り坂の続く先に、マドラプールの中心街が紅くほのかに灯るように横たわる。そのすぐ東側には煉瓦工場、八本の太い煙突が、意志を持つ生きもののごとく堂々と大地から生えている。煙突の先からは灰色の煙が、晴れ渡った空へ雲を流すみたいにたなびいていた。


 ひとしきり景色に目を向けて、心持ちを真摯にさせたのち、エトラへ言った。

「本当によく働くなぁって、心から感心してるんだよ。すごいよ、おまえ」

 誉められることに慣れていないのか、エトラはふんっと鼻で返し、居心地が悪そうにそのつけ根に皺を寄せただけだった。ただひたすらに、針を持つ手を動かしている。

 ティセは頭のなかで、自分の言葉を反芻する。

 ――――ガキが、なに言ってんだよ――――

 自問自答する、いったいどちらがガキなのだろうか、と。

 エトラと同じ歳のころ、自分はなにをしていただろうか。毎日遊び回っていただけだ。そしてまもなく父を失い、その日から自分を喪失した。仕事に明け暮れる母を気遣うどころか、構ってくれなくなったことを恨むような気持ちさえ持っていた。母との隔たりや、自身との葛藤で鬱屈をため込んで粗暴になり、ついには傷害事件を起こして、自業自得、ますます深く沈み込み、いじけていただけだ。

 ナルジャを出る前、その仕事がはかどるよう、どれだけ母を手伝っていただろうかと、にがい気持ちで考える。おそらく、エトラの働きぶりの十分の一にも届かない。ふて腐れ、困らせてばかりいた。なにもしないくせに、我ばかり、権利ばかりを主張していた。母の愛と過保護に甘え切っていることに気づきもせず、それが当たりまえのような顔をしながら「ここにいるかぎり、俺は終わったも同然だ」などと、うそぶいていたのではないだろうか。

 飯炊きも掃除も繕いものも、エトラより手際よくできるものが自分にあるとは、ティセには思えなかった。エトラはあの歳で、すでに自分よりも大人なのだ、市場で荷運び夫に子供扱いされたのは至極当然なのだ、ティセは心が青ざめるほど恥ずかしくなった。


 エトラが繕いものの手を止めた。顔を上げ、ティセと同じように眼下の街へ目を向ける。大人顔負けの強い瞳を遠くして、なにも言わずにしばらく眺めていた。やがて、ゆっくりと語り始めた。子供にふさわしくない、懐かしさを胸に溜めた込んだような、もの哀しさを帯びた語りかただった。

「あそこに煉瓦工場あるでしょ。ここでは特別にいい材料が採れるのよ。他の国でも売られてるくらい有名なの。ひとがいっぱい働いててね…………父さんもあそこで働いてた」

 ティセはどきりとした。昨日裂かれた胸の奥が、ふたたび疼き始める。

「煉瓦職人なんかじゃないわよ、取引の仕事に就いて毎日難しい駆け引きをしてたんだから。あたし、毎日父さんにお弁当を届けに行ってた。工場の敷地に入って、間近で煙突を見上げるとすごいのよ。八本の煙突がぐーんと伸びて、大きなお空をがっしりと支えてるように見えんの」

 その光景を思い浮かべているのだろう、エトラはきつい眼差しをうっとりとやわらげる。濃い睫毛に縁取られた黒い瞳がきらきらと輝く。エトラの言葉つきから、ティセはなんとなく想像できた。

 ティセがそうであったように、エトラもまた、ここマドラプールだけが世界に違いない。八本の煙突が、その世界の大空を力強く支えている、煙突が世界を支えている。その煉瓦工場で働いていた父親。泥にまみれる職人ではなく、商談に辣腕を振るっていたという父親を、エトラは心から誇らしく思っていたのだろう。


 エトラはやわらげた眼差しを、もういちどきつくする。冷たい夕風が吹いたみたいに、厳しさを漂わせた。

「末の妹が生まれてすぐよ、父さんがおかしくなっちゃったの。気がついたらもう言葉が通じなくなってた。なにやっても治んなくてさ、借金も少しだけど作っちゃって。七人も子供いるのに、母さん本当にまいってた」

 もともとは中心街に住んでいたとエトラは言った。高額の家賃はまもなく払いきれなくなり、正気をなくした父親をひと目に晒したくないこともあって、いまの家に移ったそうだ。

「それからは、あたしがおさんどんで、母さんが外で働いてんの。染めものの町工場なんだけど、朝から晩まで毎日働いたって、お給金なんかほとんどないようなもんよ……泣けてきちゃう」

 鼻で溜め息をついて、エトラはうつむいた。ティセはどう返したらいいのか、見当もつかなかった。そっか……ぽつりと言ったあとは、黙ることしかできない。

「上の弟のサガルだけは学校に通わせたいんだけどね……いまのままじゃ無理ね」

 エトラらしくない、あきらめを含んだ寂しげな声だった。ティセはその声の繊細さを壊さぬように、そうっと尋ねる。

「エトラも……ほんとは学校に行きたいの?」

 一転、エトラはもとの声音と口ぶりに戻って、

「女が勉強なんかして何になんのよ」

「……この国では初等部は義務じゃないの?」

「は? イリアじゃ義務なわけ?」

「初等部はね。中等部は違うけど。でも……俺の村の子たちは、たいていみんな中等部までは行くんだ」

 エトラは目を丸くしてティセを見た。そして、驚きというよりは呆れたような声で、

「はー! お幸せな国だわね、さすが金持ちの国は違うわ!」

 厭味を込めて返したのち、中断していた針仕事に取りかかった。やはり、なんと返したらいいものかまるで分からず、ティセは繕いものの手元を見つめるばかりだ。エトラは手を動かしながらも、妙に凛々しい口ぶりになって、こう続ける。

「でもね、あと二年もしたら、きっと学校に通わせてやれるわ。跡取りには勉強してもらわないとね」

「二年後? なにかあてがあるの?」

「二年待って、今度はあたしが外で働くの」

「へえ、どんな仕事?」

「女の仕事」

 ティセには意味が分からなかった。きょとんとしていると、エトラは針を持つ手を止めた。ティセをちらりと睨み、声を低めて、

「鈍いわねぇ……二年待つって言ってんじゃない」

 二年待つ……とつぶやきかけて、ティセははっと口をつぐんだ。同時に、顔が硬直したのが自分でもはっきりと分かった。二年待つ――――――それは、エトラの身体が女のものになるまで待つ、という意味だ。エトラは、春を売る決意をしているのだ。

 驚愕のあまり、ティセは放心していた。心に激震が走り、言葉を忘れた。これほど深く、誰かの言葉に衝撃を受けたことはない。平然と繕いものを続けるエトラの横顔を、瞬きすら忘れて凝視していた。

 そのうちに、なにか聞き間違ったのではないか、意味を取り違えたのではないか…………エトラはその行為を正しく理解していないのではないか、ティセは胸中で不審を打ちまくる。

 顔を強張らせて黙り込むティセに、エトラは棘のある声音で攻撃的に問う。

「なによ。汚いとでも思ってんの?」

 ティセは唇をわななかすようにして、ようやく声を出す。

「……ね、エトラ……それ、意味分かって言ってるの?」

「当たりまえでしょ! 莫迦にしないでよ!」

 きつく睨まれて、ふたたび口をつぐむ。

 もう、なにも言えなかった。激しい衝撃にさらされて、ティセの内側ではさまざまな感情が砂塵のように舞い上がり、渦を巻いていた。そのなかにはエトラが言うように、汚らしいと思う気持ちも、少しばかりだが確実にあった。ティセは初めてその感情を意識し、そして、意識した目でエトラを見たら、身悶えたいほど切なくなった。

 エトラは軽い調子になって、

「あんたがそんな顔する必要ないでしょうが」

「だ……だって……」

「言っとくけど、あんたのお相手はしないからね。いくら積まれたってやあよ!」

 そんな軽口すら切なすぎて、ティセはひとことも返せなかった。エトラはひたすらに針を動かし続ける。手を止めてものを考えるのは無駄なことだと言うかのように。

 ほどなく、水桶を手にした弟妹たちが、その重さに身体を斜めにさせながら、山羊と一緒に戻ってきた。途中で一緒になったのだろう、少し後ろにリュイの姿が見えた。





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