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赤茶けた大地は歩を進めるごとに、少しずつ命を取り戻すかのように青さを増していった。緑に覆われた山々が、道の先遠くに見えたとき、ティセはそこはかとなく、それでいて確かな安心感を胸に覚えた。滴るようなイリアの緑ほどではないが、生命の色がティセの目に鮮やかだった。埃っぽい空気が湿り気を帯び、呼吸が楽になった気さえした。
大気が潤ったのは木々のせいだけではない。ときおりの夕立は、三日前から毎日降るようになった。昨日は、親指と人差し指が作る輪ほどの大きさの雹が急に降り出して、ふたりを慌てさせた。土煙を派手に上げて大地へ激突するさまは、さながら天からの銃撃だ。
日中は決まって快晴、夕方にほんのいっときの激しい雷雨、イリアではこれが典型的な雨季の前触れだ。本格的な雨季に入れば雷雨は去って、代わりにさめざめと泣くように、ときに慟哭するように、弱く激しく降り続く。イリアには「太陽を思慕する女神が泣く季節」という雨季を表す言葉がある。もちろん、イリアの雨季のことであり、スリダワルでの雨季は降りかたが違うのかもしれない。本格的な雨季が目前に迫っている、ティセの知らない雨の季節がもうすぐやってくる。
淡紅色煉瓦の町マドラプールは、前方に見えていた山々の麓にあった。緑の山を背景に、色褪せ始めた薔薇の色に染まる町が横たわる。その上品な色合いは艶めかしい女性を思わせ、町は遠目に香り立つかに見えた。
町のはずれには土がむき出しの平野が広がる。そこには八本の太い煙突が立ち並び、大空を突くかのごとくそびえている。町の特産物である淡紅色煉瓦を焼く工場だ。しっとりと薔薇色に香る町と、すぐ横に広がる荒涼とした工場の対比が、相容れない印象を与えていた。
予定通り、雲行きが怪しくなる前に辿り着き、ふたりは適当な宿を探しつつ目抜き通りを歩いている。州都であるマドラプールは、スリダワルでも指折りの都市だ。しかし、先頃滞在したティアマの町とは違い、イリアにほど近い要衝ではないために、ひとを急き立てるような慌ただしさや、浮き立つほどの華やかさは欠いている。代わりに、庶民の暮らしをぎゅうぎゅうに詰め込んだ、心休まる賑やかさがあった。
たとえば、とティセは大通りを歩きながら想像する。ナルジャなら、牛車でのんびりと未舗装の道を行く。ここマドラプールなら、ロバに荷を積んで軽快に歩くのが似合う。ティアマなら一張羅を着て、澄ました顔で乗合馬車に乗るのがいい。
イリアの首都イリスはどうだろう。そこには、路面電車が走っている。化粧を施した婦人と洋装の紳士が当然の顔をして、あるいはお上りさんが緊張した面持ちで、路面電車に次々と乗り込んでいく。どこまでも舗装された大通りを、ひとびとは素知らぬ顔で闊歩する。それがイリスだ。
最近では、長距離の汽車を走らせる工事をしているという。汽車がどんなものなのか、ティセはよく知らない。汽車の話は、過日イリスを訪れたばかりのリュイから聞いたのだ。
淡紅色の煉瓦でできた建物が町を埋めている。目抜き通りの舗装も同じ煉瓦だ。東側にそびえるシータ教寺院の尖塔も、ほの紅い薔薇色だった。ティセはお伽の国にでも迷い込んだみたいな、不思議な気持ちになっていた。
「きれいだなぁ。夕陽に染まったら最高にきれいだって、ティアマで聞いたよ」
感激を漏らすと、新しい町に到着して眼差しを厳しくしたリュイは、いやに素っ気なく返した。
「この時季に夕陽は望むべくもないだろう」
愛想はないが言うとおり、決まって夕立があるのだ。天が決めることなのだからどうしようもない、ティセは落胆の溜め息をついた。
夕立がくる前に用事を済まさねばと、目抜き通りは大変な人出だった。両側にひしめく商店や露店はどこも繁盛しているようだ。頭に薄布を掛けた女たちがお喋りに興じながら、ビンロウの種を噛む男たちがときおり朱い唾を吐きながら、熱心に品定めをしている。
品物はどれも日々の暮らしに密着したものばかりで、ティアマの市のように遠方から運ばれてきた産物や、輸入品などめずらしいものは数少ない。近辺で穫れた農産物、近隣の町工場で作った生活用品、町の女たちが織った布、いましがた台所でできたばかりの総菜や菓子……そういった品々が所狭しと並んでいた。
皮を剥がされた真っ赤な山羊肉が、店頭にいくつもぶら下がる精肉店の前に差しかかったときだ。横の小道から、大きな篭を背負った少女がひとり飛び出してきて、ふたりの前に立ちはだかった。通せんぼをしているつもりなのか、がりがりに痩せた両腕を若干広げて胸を張っている。まだ初等部を修める前だと思われる年齢にも拘わらず、すでに一人前の人格と風格を備えていそうな、強い瞳をした少女だ。
外国人だとひと目で分かるはずのふたりに向かい、少女は臆した様子を微塵も見せずに、顎を上げまっすぐ話しかける。子供に似つかわしくない凄味の漂う声音だった。
「あんたたち、安い宿探してんでしょ?」
気後れや物怖じはおろか、礼儀も知らない不遜な態度に、ティセは面食らってしまった。一瞬唖然としたが、少女の態度は、ティセがもとより持っていた負けん気の欠片をちくりと刺激した。リュイの一歩前へ出て、少女と同じくらい胸を張り、
「そうだよ。めちゃくちゃ安くて、居心地よくて、女将さんが料理上手な宿、おまえ知ってるか?」
多少注文をつけて、張り合うように告げた。
こうしてふたりで歩いていて、なんとはなしに決まってきたことがある。相手が大人の男ならリュイが受け答える、女や子供ならティセが対応する。相談したわけではないが、気づけばいつのまにかそうなっていた。
それはつまり、ティセが行き先を決めているようでも、旅の主導権はあくまでリュイにあるということにほかならない。リュイの旅に付いていく、というティセの意識の表れでもある。たんに女子供が苦手であるために、リュイはそうしているのかもしれないが、ティセはそう考えていた。
ティセの宣戦布告はあっさりと無視された。少女はにわかに勢いづき、ちりちりの黒髪を振り乱しながら、大袈裟な身振り手振りで激流のごとく喋り始める。
「知ってるわよ、知ってる! あんたたちの心、がっちり掴んで二度と離さないような、そんなうってつけの素晴らしい宿を知ってるわ! 部屋は上等、敷物は極上、舌がとろけるような手料理であんたたちを虜にすること間違いなし! 建物は紅色煉瓦のしっとりした雰囲気で、前庭にはジャガランダの花がいまが盛りと咲き乱れ、そりゃあもう桃源郷に似た美しさよ。優しい女将さんと麗しい娘さん、愛くるしい子供たちが温かぁくお迎えしてよ? ご希望ならこの町の名所を……」
「分かった分かった分かった、もういいよ!」
甲高い声でまくしたてられ、ティセは慌てて制止する。興を削がれたとばかりに、少女は薄い唇を尖らせてティセを睨む。が、すぐさま満面の笑みになり、
「おふたりさまご案内いたしまぁす、さあどうぞこちらへ!」
たったいま飛び出してきた横道へ誘うように、右腕を広げてみせた。
「まだ泊まるとは言ってないよ。いくらなのさ?」
満面の笑みを崩さずに、
「おひとりさま、十アンナでございます」
「はあっ!? そりゃ暴利だろ! どこの高級旅館だよ!」
少女は鼻のつけ根に思い切り皺を寄せ、小さな顎を突き出して挑発するように言い放つ。
「けち!」
「はあああぁっ!?」
その顔つきはあまりにも憎たらしい。ティセの闘争心に火花が散った。
「ふざけんな、このガキがぁっ!!」
すると、少女は芝居がかった商売口調と笑顔にくるりと戻り、
「大変失礼いたしましたぁ。では、少々お値引きいたしまして、おひとりさま八アンナではいかがでしょうか」
たわいなく子供に躱されたティセを見て、眼差しを厳しくさせていたはずのリュイが、ふっと小さく吹き出した。
「おまえ、笑うな!」
ティセは舌打ちをし、あきらめて怒りを消火する。
「あのな、さっき尋ねた宿が四アンナだったんだ。だから、それ以下でないと絶対に、泊まらない」
泊まらない、をはっきり際立てて口にする。少女はあからさまに興味を失ったような表情を浮かべた。いかにもだるそうに頭を掻きながら、フンと鼻で笑う。
「ほんとにお金ないのね、しけてんの」
ティセはなんだかがっかりしてしまった。
「分かったら、じゃあな」
通せんぼを突き進もうとすると、少女はティセの腕をがしりと掴み、耳をつんざく大声で、
「分かったわよ! 三アンナ! これでいいでしょっ!?」
やけくそみたいな口ぶりだった。
ふたりは少女に連れられて、横道の奥へと歩いて行った。ひとがようやくすれ違えるほどの細道でも、その左右には小さな商店や食堂、町工場などがひしめくように続いている。心なしか、町の持つ生活の匂いが濃さを増したようだった。横道はほかの横道と絡み合い交差し、目抜き通りの裏はまるで迷路だ。少し歩いただけで、ティセは方向感覚を失ってしまった。
リュイを振り返り、小声で言う。
「あんな小さな子を客引きに使ってるなんて、どんな宿だろうな」
「十歳くらいだろう。立派な働き手じゃないか」
リュイは当然だという言葉つきで静かに返した。そうだった……ティセはリュイの生いたちを思い出し、自分は甘ちゃんだろうかと、胸でつぶやいた。
前を行く少女の背負う篭は、背中よりも大きい。それを馬鈴薯と玉葱でいっぱいにして、前傾姿勢でもりもりと歩いて行く。鮮やかな黄緑色の上衣は継ぎはぎだらけのうえ、いくつも染みがつき、その長い裾も、脚衣の裾も、ところどころほつれている。子供なのに、生活臭を強く漂わせていた。
やがて中心街を抜け、煉瓦の舗装が終わり、まわりの家屋がまばらになっても、少女は一向に足を止めない。山のほうへと向かい続ける。宿はずいぶんとはずれにあるらしい。両側に畑が広がるなだらかな坂道を上がり、ふと振り返ると、マドラプール中心街が茎を切り落とした一輪の薔薇を置いたように、眼下へ横たわっていた。ティセは少し心配になってきた。
「おい、どこまで歩くんだよ」
少女は足を止めて振り向き、おもむろに右手を差し出す。
「なに?」
黒々とした睫毛に縁取られた離れ気味の両目で、ティセをまっすぐ見上げ、
「三アンナ。宿は前金よ」
「まだ見てもいないのに! ちゃっかりしてんなぁ」
「見たって見なくたって同じよ。どうせ気に入るんだから」
まったく……と、ティセはリュイの顔をちらりと確認する。とくに表情はない、任せるという意味だ。
「……しょうがねえなー」
しぶしぶと宿代を納める。少女はか細い指で、ふたりの手からひったくるように貨幣を掴み取るやいなや、前掛けの折り返しにすばやく押し込んだ。それから、ふたたび右手を差し出した。
「……な、なんだよ?」
声を低めて問うと、やはり正面からティセを見上げ、
「あたしへの礼金はないのかしら?」
「…………おまえ……」
ティセと少女は押し黙ったまま睨み合う。緊迫の糸で繋がったふたりの目の間で、火花が散る。払うつもりなど毛頭ないのを解したのか、そのうち少女はにやりと笑い、
「ま、いいわ。そっちのきれいなのに免じて、おまけしてあげるわ」
リュイに向かってひどく不器用に片目をつむってみせた。思わぬ挙動に、ティセは咄嗟にリュイを見遣る。不思議なものに出くわしたように目を見開いていたので、ティセは思い切り吹き出した。
ほどなく、少女のいう宿へ辿り着いた。宿の裏手はもう山で、絶壁がそそり立っている。山際の一軒家、隣家はいま歩いてきた坂の下に、親指の先ほど小さく見えた。
建物は確かに淡紅色煉瓦の落ち着いた佇まいではあった。が、外壁はそこここ崩れ欠けたまま、窓にかかる布は破れ、庭に放置された桶や笊、箒なども壊れかけている。垣根のツツジの上に広げられた洗濯物はどれも色褪せ黒ずみ、そろそろ雑巾にしたほうがいいと思われるほどくたびれている。どうにもうらぶれた雰囲気の一軒家だった。こぢんまりとした建物の部屋数は、せいぜいみっつか多くてもよっつだろう。庭を見ても建物を見ても、宿の看板はどこにも見当たらない。
ティセは呆然と敷地内を眺めながら、
「……これは、つまり……」
そのとき、開け放たれた戸口から、子供たちが歓声を上げて次々と飛び出してきた。
「姉ちゃん、おかえりー!」
そして、痩せた少女に群がりしがみつく。
「なんだ! 宿ってようするに、おまえんちか!」
少女は弟妹たちを従えたままティセを振り返り、唇の片側で笑んだ。
「そ。正式な届け出をしてないから看板は出せないけど、うちは民宿やってんの。さ、みんな、久しぶりのお客さんよ。ごあいさつは?」
促された弟妹、総勢六名が、ふたりへ向かい口々に「いらっしゃいませ」と唱える。
「……おい。麗しい娘さん……ってもしかして……」
「いま、あんたの目の前にいる美少女のことに決まってんじゃない!」
少女はにっこりと笑う。離れ気味の両目の下でソバカスが跳ね、欠けた前歯がちらりと見えた。
外観からの予想を裏切らず、部屋のなかは侘びしさが漂っていた。壁の漆喰はところどころ剥げかけ、敷物は擦り切れすぎて用を為さない。戸棚などの家財道具はほとんどなく、出された茶はかろうじて色が付いているだけの出がらしで、砂糖はひとつまみしか入っていない。前宣伝とはだいぶ違う。庭に立つジャガランダの木は、言うとおり薄紫の花が満開だが、ジャガランダなどめずらしくもない、どこにでも生えている。
雨が降ればどうしても宿へ泊まる日が多くなり、旅費がかさむ。無賃で泊めてくれる親切なひとびとも少なくないので、そういう幸運に巡り会えればいちばんいい。三アンナは許容範囲ではあるが、だまされた気持ちはやはり否めない。
それでも、この貧しさに満ちた家庭を目の当たりにしたあとで、宿泊を止めるとは、ティセにはとても言えなかった。自分のお人好し加減が腹立たしくて、味のしない茶を口にしながら、唇を曲げていた。
リュイは口角をわずかに上げて、滅多にしない笑みを含んだ声で言う。
「あの子にうまくだまされたな」
「まったく! しっかりし過ぎたガキだよな!」
「……けれど」
と、小さくつぶやいてから、リュイはふっと息だけで笑った。
「なんだよ?」
「あの子とおまえは少し似ている」
「……どっ……どこがっ!? 俺あんなかよ!」
「ナルジャでおまえと会ったとき、おまえもあんなふうに胸を張って偉そうだったじゃないか」
「――――――……っ!」
……いや、その、と口籠もりつつ、ティセは赤くなってうつむいた。
少女の名はエトラといった。ふたりを部屋へ通して茶を出すと、ただちに弟妹たちへ号令をかけ、さまざまな家事に就かせた。そして、重たい篭を背負ってきたばかりだというのに少しも休まず、自身も家事に取りかかった。庭にしゃがみ込み、雑穀をふるいにかけてゴミを取り除く。それを石臼で挽き、粉にする。にわかに立ち上がると、ツツジの上の洗濯物をすばやく回収、すると、計算していたように雨が降り始めた。
それから、土間にしつらえた竈の前で、夕飯の支度を始めた。煤で真っ黒になった鍋を床へ置き、その前にしゃがみ黙々と馬鈴薯の皮をむく。手のひらの上で適当な大きさに切り分け、それをポイポイと鍋へ放っていく。慣れた手つきは小気味よく、笊いっぱいの馬鈴薯があっという間に鍋へ収まった。
ティセは土間に面した客間から、エトラの様子を眺めていた。脇目も振らず働きまわる小さな背中を見ていたら、エトラに対する不愉快な気持ちは消え失せ、すっかりと感心してしまっていた。
「ねえ、エトラはいくつなの?」
エトラは手を止めずに返す。
「十一よ」
「よく手伝うな。女将さんは?」
「母さんは外で働いてんの。民宿は全部あたしに任されてんの。事実上の女将さんなわけ」「へええ! すごいな、おまえ」
竈の脇をちらりと見て、エトラは声を尖らせる。
「ちょっと! 燃料持ってきておいてって言ったでしょうが!」
途端、奥の部屋からいちばん上の弟が慌てて飛び出した。どしゃぶりのなか、隣接する物置兼家畜小屋へ一目散に駆けていく。エトラの権力は絶大のようだ。
やがて、弟は牛糞を固めて乾かした燃料を、濡れないよう衣服の下に入れて持ってきた。自身はぐしょ濡れになっている。ティセは調理に忙しいエトラに代わり、弟の頭を手ぬぐいで拭ってやった。弟は味噌っ歯をむき出しにしてニカッと笑う。ふと見ると、いましがた弟が出てきた家族部屋から、弟妹たちが顔だけを出して、興味津々といった目でティセを見つめていた。
エトラの作った夕食は、馬鈴薯とオクラの炒め煮、生姜とニンジンと唐辛子の漬け物、主食はシコクビエの練りものだった。支度がととのうまで弟妹の相手をしていたティセは、皆で食べようと提案した。皆、ティセにすぐなついたし、リュイとふたりで食事をするのは味気ない。もはや模様が分からない敷物の上に、盆がずらりと並んだ。
弟妹たちはいつもと違う夕食の風景にはしゃぎ気味だ。ふたりを――――とくにリュイを、好奇心丸出しの目でチラチラと窺いつつ食事をする。リュイはもちろん視線など無視だ。挨拶した以外は、子供たちとは口をきかない。
炒め煮をひとくち食べて、ティセは思わず叫んだ。
「う、美味いっっ! すっごく美味い!!」
エトラは部屋の入り口に立ったまま、若干顎を上げ、ふんっと小生意気に笑う。
「あらそ。そりゃよかったわ」
「ほんとすごいな、おまえ。食堂開けるよ」
にしても、エトラだけは食事に参加しない。
「エトラは食べないの?」
エトラは伏し目になり横を向いた。
「母さんが帰ったら食べるわ」
そう言って、そのあとしばらく姿を見せなかった。
舌がとろけるような料理、というふれ込みだけは真実だった。肉が入っているのでもなく、ありふれた食材しか用いていないのに、調味料の配合や火の通し加減が絶妙で格段の美味しさだった。夢中になって食べてしまった。けれど、満たされたあと、ティセの胸の内にはもやもやとした思いが芽生えていた。
白米でもなく、平パンでもなく、雑穀の練りものを主食にしているというのは、つまりそれだけこの家は貧しいということを示唆している。以前、リュイが蛇に噛まれたとき世話になった、イリアの片田舎の農家を思い出す。 あの家でも夕食に雑穀の練りものを食べていた。エトラの家とは比較にもならないが、あの家もどことなく貧しさを漂わせていた。
ティセはあのとき、初めて食べる練りものがめずらしくて、そればかり口にしていた。のどかな笑みを浮かべるあの老婆が、とっておきの白米をわざわざ炊いてくれたにも拘わらずだ。いま思い返せば、厚意を無にしてしまった気がして、心が苦しくなる。老婆のひなびた微笑と、手を付けなかった白米の盆が交互に目に浮かび、悔恨が胸に溜まっていく。もちろん、残った白米はご馳走として、家族揃って大事に食べただろう。が、そう考えてみたところで、気持ちは晴れなかった。
空いた盆を前にして、部屋のなかをそっと見回した。剥げかけ煤けた漆喰の壁、破れた窓とボロ切れのような窓掛け、色鮮やかなものがひとつもない室内。敷物の上に並ぶ、縁の欠けた硝子の湯呑みは人数に足りない。この家はうすら寒さを感じさせた。
しかし、幼い弟妹たちの声は無邪気で明るく、屈託がない。それは反対に、何故かティセをどうしようもなくもの哀しくさせた。沈鬱として、湯呑みの欠けた部分をじっと見つめていた。その様子をリュイが静かに眺めていたが、物思いに沈んだティセは気づかなかった。
雨が上がり、日も暮れて、朧月が輝きだしたころ、エトラの母親が帰宅した。かまちをまたぐ母親へ近寄り、エトラは「お客さんよ」と耳打ちをする。娘と同じほど痩せた身体に疲労を漂わせた母親は、薄暗い土間に立ち止まり客間へ目を向けた。疲れ果てているのか、翳りのある表情でふたりを見遣る。
「こんにちは」
ティセの挨拶を受けても、底冷えしてくるような暗い目をしたまま無言だ。見ているほうが切迫してしまうほど、母親の立ち姿には憔悴と悲哀と嘆きが黒々と滲み出ていた。絶望からできた闇がひとの形を取っているようにも見える。ティセは少し怖くなり、息を呑んだ。
やがて、ようやく母親は顔つきを和らげ、目尻に幾筋もの皺を寄せて、
「いらっしゃい。どうぞごゆっくり」
低く掠れた声で返し、微笑んだ。
寝静まり、夜の動物たちの声だけが遠く聞こえる時刻のことだった。なんの前触れもなく、間近ですさまじい叫び声が上がった。ティセは目を覚まし、思わず跳ね起きてしまった。
「な……なに!? いまの……」
すでにリュイは立て膝になり、抱いていた短剣の柄を握り締め、部屋の入り口のほうを睨んでいた。虫の吐息も聞き逃さないような集中力を全身に滲ませて、薄暗がりの奥を凝視している。ここまで張りつめたリュイの表情を、ティセは初めて見た。室内を満たす薄闇がキシリと音を立て、結晶していた。
もういちど声は上がった。リュイの右の目元がわずかに引きつる。ティセはどきりと身を縮ませる。男の声だ。なにかに対する悲鳴というよりは、情動に突き動かされて声を上げずにいられないといった、腹の底から絞り出た咆哮だった。すぐそば、まるで裏庭から上がったように間近だ。
ひとしきり薄闇を見つめたのち、リュイはおもむろに緊張を解いた。
「敵意のない声だ、問題ないだろう」
ティセはふうっと安堵の息を漏らす。
「びっくりした……。酔っぱらいかな……」
それきり叫び声は上がらず、夜はふたたび静寂に包まれた。