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解放者たち  作者: habibinskii
第四章
21/81

6

 午後、スリンとコイララは仕上げた毛糸などを届けるために、籐の篭を背負い出かけて行った。ティセは買って出た昼食後の洗いものを片付けてから、居間へ戻った。そして、壁画に描かれていた黒いひと型の正体についての議論を持ちかけ、リュイの読書の邪魔をした。リュイは「分からない」とひとこと述べたきり、あとは無言で聞き役に徹してしまった。

 どうやら、リュイは非現実的な生きものの知識や想像力に、著しく欠けているらしい。たとえば、妖怪・宇宙人・幽霊・精霊・河童・雪男……そんな言葉をティセが発しても、それがどんなものを指すのか、よく分かっていないようだった。

「妖怪と雪男は、どう違うの?」

 真顔で尋ねられて、ティセは溜め息をついた。

「……知らねえよ、そんなこと。でも、妖怪っていえば妖怪なんだよ!」

 言って、自分でも要領を得ない返答だと思った。なんだか急に白けてしまう。

「そういう話って小さいころ、親とか親戚とか、近所の爺さん婆さんなんかがいくらでも聞かせてくれなかった? ほんとに知らないの?」

「…………よく覚えていない」

 抑揚なく、つぶやくように返した。楽しい想像に付き合ってもらえず、少しがっかりしてしまった。分からないひとを相手に議論はできない、ティセは諦めた。

 リュイは親指を挟んでいた読みかけの本をふたたび開き、読書へ戻る。瞬きと本をめくるわずかな指の動き以外のすべてを止めて、波紋ひとつない水のおもてのように静止する。まっすぐに伸びた背筋が、その静止を張りつめたものにする。本を読むリュイの姿はいつでもこうだ。


 眺めているうちに、昨日のコイララの言葉を思い出す。昨夜、月明かりを浴びながら考えていたことが頭を過ぎる。暫し、リュイを見つめていた。

 だしぬけに、ティセは声を低めて問い質す。

「――――雪男は知らなくても、これは知ってるんじゃないのか」

 リュイはおもむろに本から目を上げる。

「おまえの兄貴がどこに行ったのか、本当は知ってるんじゃないの?」

 まっすぐに目を見て、静かに尋ねた。リュイは眉間をぴくりとさせる。かすかに眉を寄せ、無言でティセを見返した。瞳の冷たさが増していた。ティセは挑むような目になって、先を続ける。

「シューナってひとが兄貴だって、リュイ、気づいてただろう」

 射るような視線を、リュイはそのままの表情で受けていた。なにも返さずティセを見たまま、束の間黙していた。長く真顔を向けられると、妙な迫力を感じてしまう。……気圧されない! ――――ティセは心のなかで自分に告げた。

 やがて、リュイは落ち着き払った声音で、逆に問うた。

「そう思うのは、何故?」

 あまりにも落ち着いていた。が、ティセは怯まず、思っていたことを率直に答える。

「俺が気づく前に、名前も歳も国籍も聞いてたじゃないか。あのとき、おまえは当然可能性に気づいただろう? それに、俺が気づいたときも、おまえはそれほど驚いてはいなかった」

 そう、驚いてはいなかった……けれど、緊張はしていた――――……何故?

 また沈黙が流れる。ふた呼吸ほど間が空いて、リュイはふいに視線を外した。そして、長めの溜め息をついた。

「ティセ……シュウに住むイブリア族は百万人を軽く越している。それに、シューナという名も父の名も、ひどくありふれた名前だ。たとえ継ぎ名と姓を聞いたとしても、兄だと確信できないほどありふれた名前なんだ。だから、上の名や歳や国籍だけで、僕はそこまで考えない。おまえにどう見えたのか分からないけれど、僕は充分驚いたし、ここに兄がいたことも知らなかったのに、ましてや行方を知るはずがないだろう」

 淡々とリュイは答えた。ティセは黒い瞳を強くしたまま、伏し目になったリュイの長い睫毛を見つめ続けていた。

「……本当か?」

「嘘をつく必要がどこかにある? 兄の行方なら僕も知りたいくらいだ」

「リュイ。俺を見て」

 ほんの一瞬、リュイは睫毛をかすかに震わせた。それから、ゆっくりとティセに顔を向ける。ふたりの目線がまっすぐにつながった。

 ティセはリュイの瞳を捉える。ひとしきり見据える。その暗緑の瞳に別の色が差してはいないかと目を澄ます。――――――ほどなく、納得した。

「信じるよ」

 告げると、リュイはまたふっとを横を向いた。

 一転、ティセは溌剌とした口調になって、次の言葉を続ける。これも、昨夜考えたことだった。

「よし。じゃあ、旅の行き先が決まったな」

 突かれたように、リュイは再度ティセを見た。ティセは口の片端を上げて、揚々と言い切った。

「シュウに行こう。シュウの、おまえの村に」

 リュイは顔を向けたまま、止まっていた。読書をしているときとはどこか違う時の止めかただった。思考や意識を含むすべてが途絶えたような静止――――否、停止だった。理解を超えたものと遭遇して声を失った、そんな、唇に力のない黙しかたをした。

「……な、なんだよ、聞こえなかった?」

 ほとんど息だけの消え入りそうな声で、

「……何故?」

 わずかに動いたその口元は、強張っていた。

「なんでって、いま自分でも言ったじゃないか。兄貴の行方を知りたいって。笛を探すなら兄貴の行方を追うしかないだろ。笛は持ってなかったみたいだけど、間違いなくおまえより笛のこと知ってるだろう」

「……村へ帰ったと思うのか」

「そう考えるのが妥当だろ。コイララだって、シュウに帰ったのかもしれないって言ってたじゃん」

 リュイは視線を落とし、敷物の上に置かれた硝子の湯呑みを見つめながら言った。

「村は、もうない」

「ない!? なんで!!」

「廃村になったと、シュウ南部を歩いているころに聞いた。過疎が進んでいたから」

 そんな寒村で生まれ育ったのかと、ティセは驚いた。それでも、リュイの故郷へ向かうことを、強く提案した。

「兄貴は廃村を知らずに戻った可能性もあるよ。近くまで行けば、もしかしたら行方が分かるかもしれない。たとえ分かんなくてもいいじゃないか。笛はイブリアの笛なんだろ、シュウに戻ってイブリアのひとに聞くのが一番だ、そうだろう?」

 まじろぎもせずに、リュイは硝子の湯呑みを見つめていた。どうすべきか考えているのか、長いことそうしていた。のち、視線をそのままに、つぶやくように答えた。

「そうかもしれない。それが、最善だろう」

 そして、少しだけまぶたを伏せた。



 夕方近くになって帰宅したスリンとコイララに、明朝ここを出発して、リュイの兄を捜すためシュウへ向かうと告げた。ふたりは大急ぎで晩餐の用意をしてくれた。ふたりの共同作品、鶏肉のたっぷり入った炊き込み飯は、隠し味の乳酪(ヨーグルト)小豆蔲(カルダモン)が絶妙に融けあって、最高に美味だった。目が潤むいきおいでその味わいに感動するティセ、その隣りで、リュイはいつにも増して無味乾燥に、味気ない様子で食していた。

「……ねえ、もしかして口に合わなかったかしら?」

 ついにコイララに言わせてしまい、ティセは思わずその二の腕をはたいてしまった。


 気兼ねなく何日でも泊まっていって……スリン夫妻はそう言っていたけれど、とくに引き留められはしなかった。シューナとよく似たリュイがコイララの前にいることを、好ましくない事態だと誰もが分かっているからだ。

 その晩も夜更けまでスリンの家にいたコイララは、帰り間際、微笑いながらリュイへ、

「本当はもう少しあなたを見ていたいけど、あなたは迷惑でしょうし、それになんだか悔しいから、我慢するわ」

 最後の部分を茶目っ気たっぷりに言った。

「もし、兄に会えたとしたら、なにか伝えることはありますか」

 コイララは顎に人差し指を当て、上目遣いになって考える。

「そうねえ……もうすぐ忘れてやるから、そっちはそっちで勝手に幸せにね、とでも伝えておいて」

 忘れてやるから、の声音には軽く憎しみを込めつつも、出て行った恋人の幸福を願った。それから、照れたように急に頬を染め、スリンへ語る。

「なんだかんだ言って、やっぱりいまはウズバが必要なの。あのひとといたときみたいにドキドキしたこといちどもないけど、ウズバが私の空気みたい。……ねえ、これって、ずるいのかなぁ?」

 困ったような、迷ったような、母の助けを求める少女のように、コイララはスリンに伺いを立てる。スリンは満更でもなさそうに、しかし呆れ声で、

「なんでこんな我が儘な女がいいのかしらねぇ。ウズバもシューナも見る目がないわ!」

 その横で主人が吹き出す。ニヤニヤしながら、

「式の続きは、来年の春までに滞りなく済みそうだな」



 翌日、ふたりはラグラダの村を出発した。とりあえず当初の予定通り、ティセが希望した淡紅色煉瓦の町マドラプールへ向かう。マドラプールは比較的大きな地方都市であり、そこへ滞在すれば、シュウに向かうための情報を集めるのにも適していた。

 スリン夫妻が村はずれまでともに来て、手を振り見送ってくれた。コイララは来なかった。昨夜のあれが別れの言葉だったのだろう。

 正直に言えば、ティセにはコイララの気持ちもウズバのそれも、よく理解できなかった。そんなに好きならば何故捜しに行かないのか、自分を捨てたひとの幸せを願えるものなのか、別のひとを想う相手を何故そこまで愛せるのか……そんな疑問が頭へ浮かんでしまう。

 ティセはまだ、恋をしたことがいちどもない。恋心に苦しむ女の気持ちも、当然ながら男の気持ちも、分かるはずがなかった。いつの日か、自分にも恋をする日が訪れるのだろうか、頭のなかで独りごちる。自分には関係のない、ありえないほど遠いはなしのような気がした。

 前を行くリュイの背に語りかける。

「ねえ、リュイ」

「なに?」

「おまえ、女の子好きになったことある?」

「ない」

 前を見たまま即答した。……だろうな、とティセはつぶやいた。



 道沿いに続く豆畑を過ぎ、赤茶けた荒れ地貫く一本道を行く。あの洞窟のある丘もすでに通り過ぎた。はるか北東、わずかに頂きを覗かせる神々の山脈からさらに遠ざかり、北西に構える未知の山々のほうへと歩を進める。果たして次の町では、神の住まう山を、故郷の片鱗を、見ることができるだろうか。

 ラグラダで掴んだもうひとつの笛への糸口、それはあまりに心細く頼りない糸口ではある。けれど、もしもシューナに会えたなら、それですべてが解決するかもしれないほど確かな糸口だ。コイララという証人を得て、ティセは不思議な笛を信じ始めていた。コイララやスリンが聴いたという、遠い空から聴こえてくるような重奏をこの耳で聴いてみたい。笛の真実へ辿り着く瞬間に立ち会いたい。笛を知りたい。それは言わずもがな、リュイを知りたいということでもある。


「でもさー」

 唐突に、ティセは非難めいた口ぶりでリュイへ話しかけた。先日から、どうしてもこれを口に出したかったのだ。

「おまえの兄貴、ちょっとひどくないか。どんな理由があったのか知らないけど、なにも言わずに出て行くなんてさ。コイララがあまりにも可哀相だよ」

 リュイを責めても仕方がないけれど、ほかに言える相手がいないのでリュイに言う。誰もがそう思うはずだと、ティセは疑いもしなかった。が、リュイは少し驚いたふうに、ティセを振り返った。

「おまえ、女みたいなことを言うんだな」

「――――――……っ!!」

 心臓が口から飛び出しそうなほど驚いた。ティセは次の言葉が出て来ない。立ちすくみ、目を見開き、顔の筋肉を硬直させて、振り返ったリュイの視線をただ受けていた。心に大汗を掻きながら……。

 いまの発言が真実を突いていたことに、リュイはまるで気づかないようだ。あからさまな動揺を、たんに自分の反論に驚いていると受け取ったらしい。リュイは静かに見解を述べる。

「自分の兄だから擁護するわけじゃないし、コイララは気の毒だったとは思う。けれど、彼女に言えない、言わないほうがいいような事情があったんだろうと、僕は思った。言えない事情を抱えて去らなければならなかったのだとしたら、兄も同じくらいつらかったかもしれない」

 見解の違いにはっとした。それは、ティセが考えつきもしない見方だった。確かに、ティセは残された女側の主観――――コイララの気持ちしか想像していなかったのだ。

「……いや、でも……言わないほうがいい事情なんて、あるかなぁ……」

 そんな事情を、ティセはひとつも思いつけない。リュイは間を置かずに返す。

「たとえば、争いのある場所へ行かなければならないとき」

「……あ……争いいぃっ!?」

 ティセはあんぐりと口を開ける。なにやら現実味に欠ける事情に思えた。リュイは前へ向き直りながら、

「たとえば、だ」

 囁くようないつもの声音で言った。

 ふたりの行く、埃っぽい赤茶けた道の奥に、また小さな集落が見えてきた。





                                  〈第四章 了〉





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